エッセイ
今年は、野球はベイスターズ、サッカーはジェフを応援している者にとっては、悪夢のような一年だった。もっとも、ジェフの方は最悪とはならなかったが。
何しろ開幕から両チームとも怒濤の連敗である。
3月8日に開幕したJリーグでは、ジェフは5月6日までの2ヶ月に、2分け9敗で勝ち試合が一試合もない。18チーム中ただひとつほかのチームから大きく引き離された。もともと昨年のレギュラーから、羽生、水本、水野、山岸、佐藤といった主力選手が抜けたので大いに危ぶまれたのだが、予想以上に勝てなかった。
ジェフは、前身のアマチュアの日本リーグ時代から通算して二部に降格をしたことのない唯一のチームだが、もともと何年かに一度好調な年はあるがそれが続かず、中位から下位に甘んじるチームだった。ユースを育てるのがうまいチームだが、育てていい選手にしてもチームに留められずほかのチームに引き抜かれるチームでもあった。しかし、そのなかでも今年はいよいよだめだなとほとんどのファンが思うぐらいにチームの勢いがなくなってしまった。
横浜ベイスターズの方はどうか。3月28日からの開幕対阪神戦に3連敗してから、5連敗、6連敗もあって、3,4月が6勝18敗1引き分け、5月が7勝17敗で、これも5位のチームに大きく引き離された。
ベイスターズの経営がマルハからTBSに移ったときに、これで少しは資金力が潤沢になったり宣伝が上手になったりしてチームが強くなるかなと思ったのは、完全に間違いだった。お金はなさそうだったが球団創始者一族である経営者のチーム愛が感じられたマルハ時代のほうが、応援のしがいがあった。
大矢監督の態度も煮え切らなかった。途中で辞表を出したらしいが慰留されてとどまってしまった。とうていとどまることが許されない成績なのだが。この人が二度目の監督に指名されたときに「また横浜かと思いました」と発言した記事を読んだ記憶がある。手元にその証拠がないが、本当にこのような言葉を発したとしたら、その瞬間からその人は周囲の支持を失い、成功することがあり得なくなる。
さて、野球とサッカーは、毎週水曜日と土曜日に試合が重なる。今年重なった21日の成績を見ると、ベイスターズとジェフの両チームが勝った日は、なんとたった1日である。両方のチームが負けた日が8日、あとの12日は、どちらかのチームが勝ったか引き分けた日となる。
同じデータを、両方のチームが弱かった1994年にとったことがある(このエッセイの「今年の期待」参照)。このときは重なった29日のなかで両方のチームが勝った日が4日、両方とも負けた日が14日だった。今年は14年前よりも輪をかけて勝てない年だった。
弱いチームのファンにはなりたくないが、私は両方のチームともに、20歳前後からの何十年来のファンである。こればかりはにわかに変えられない。チームは交代のできる経営者のものでも、やがては去る選手のものでもなく、ファンのものであると私は固く信じている。
野球の方は、最下位になってもその下に落ちないぬるま湯リーグだが、Jリーグの方は二部降格がある。今年の最終戦は17位のジェフが勝って、15位、16位チームのどちらかが負けないと二部との入れ替え戦にも進めず自動降格になる、という瀬戸際の日となった。
その日はもちろん経過を聞いてはいられない心境だったが、ネットの速報では、後半28分までジェフは0対2でリードされていた。ところが、終わってみれば4対2で逆転勝ちとなり、15位、16位チームがともに負けたため、入れ替え戦にさえならずにその日のうちに残留が確定した。
おそらく、勝つ・負ける・引き分けるの確率を3分の1とすれば、三チームにこのような勝ち・負け・負けの事態が起こるのは、27回のうち1回しか起こらない奇跡のようなことだと思う。
0対2から4対2で勝つのもいわば奇跡のようなものだ。技術を超越したような試合になってしまった、と今シーズンチームを引っ張った巻が言ったが、追い込まれて、最後の力が引き出されたのだろう。このようなつらい日は二度とあって欲しくないが、この日はジェフの、いや人間のすごさを見せつけられた一日だった。
(2008年12月)
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8月22日に行われた芥川賞・直木賞の贈呈式に、芥川賞を獲った楊逸さんから招待されて出席した。混雑すると思われたので,式の始まる前に楊さんに挨拶をするつもりで早めに出かけたが、そのような進め方ではなかった。
定刻6時になって、受賞者や選考委員が一斉に会場に入ってくる。すぐに選考委員から選考経過が報告される。会場は後で聞いたところによると1000人は集まったそうだ。
芥川賞は池澤夏樹氏が報告をした。私は作家というのは大勢の前で話をするのはあまり得意ではないのではと思っていたが、直木賞の選考経過を報告した林真理子氏もそうだが、とても話が上手だった。話す内容が充実しているのはもとよりのことである。
池澤氏は、前回の芥川賞候補作品とはまったく違った作品が出てきたので驚いた。中国から日本に運んでくれたのが、今の日本にない“熱い”日本語の小説だったとはありがたい。日本文化は多要素でできているが、文化に純血はないとしみじみ感じた、と話した。
楊さんは、「緊張と喜びが交じって、のどのところで混雑してしまった」と話して会場を笑わせた後、「明日からまた、孤独に戻って文筆職人業に専念したい」と話した。楊さんは表情がにこやかで声も明るく、あたりにほのぼのとした気を発していた。そのためか、贈呈式とそれにつづく懇親会はとても和やかな雰囲気だった。
私は挨拶のためにできた列に並んだ。列に並んでいた人は出版関係や報道関係の人が多かったようだ。楊さんが出版業界に迎えられて活躍されることを心から願い、私は一言二言お祝いの話をして引き下がった。最近作の「金魚生活」(文学界9月号)が、文学界新人賞受賞作「ワンちゃん」、芥川賞受賞作「時が滲む朝」を越えるような作品ではないかという私の感想は、既に楊さんにお伝えしてある。
楊さんは子供の時に両親が下放され厳しい環境で育った。日本に来てからも皿洗いなどいろいろな仕事をした。しかし、彼女は受賞のことばで「人生にさせられたすべての苦労に感謝する。そして私を温かく包んでくれた日本――この小さな島国の大きさに心を込めて感謝する」と言っている(「文藝春秋」2008年9月号)。
前回の芥川賞の選考では、一部の選考委員から、外国人が日本語で書いた小説という話題作りからこのような作品を候補作品にしてくれては困る、というような話があったが、それではそのときにあげられた他の候補作品はと言えば、個人の内面に終始し、物語のない「私小説」的なものが多かった。政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」が、常に優れているとはとうてい思えないが、個人の悩みばかり読まされては閉口してしまう。
芥川賞・直木賞の贈呈式の会場には、親族席がしつらえられていた。一族の誇りといえる賞なのであろう。演壇の付近には、すらっとした、お洒落な格好をした若い人たちが2,30人ぐらいいた。近づいてみると中国語が、日本語のように静かに話されている。中国本土で出会う中国人とはひと味違った中国人が日本にいる。楊さんの作品は、中国語の味わいをもった力強い日本語を使って(喩えれば、青竜刀を使うように[上野徹氏談])、日本と中国の間を生きる人間を描いている。楊さんの作品の種は尽きないと実感した。
(2008年8月)
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我々ツアー一行がロシアのサンクト・ペテルブルグの駐車場にいたときだった。一人の日本人の男が日本語の話せる現地ガイドに近づいてきて、オートバイでフィンランドのヘルシンキに行くにはどう行ったらいいのか教えてくれと言った。
見ると、250ccぐらいのオートバイに、荷物を満載している。シベリアを3週間掛けて横断してきたが、この2,3日は寒くて大変だったと話をした。年齢は40才後半ぐらいで、顔は赤銅色になっている。ガイドのセルゲイは彼の差し出す地図を広げて、丁寧に道を教えていた。
日本からシベリアを横断するには、富山県の伏木港からフェリーに乗って、ウラジオストックに着き、そこからスタートするらしい。インターネットにはさまざまな体験記が載っている。中には自転車で横断する人もいるが、途中でシベリア鉄道に便乗する人もいる。ウラジオストック・モスクワ間は、シベリア鉄道でも7日かかる。かつてシベリア鉄道によるユーラシア大陸横断を夢見ていた私には、彼の健康がうらやましかった。
ガイドのセルゲイは、道を教えるにはもってこいの人だった。彼はサンクト・ペテルブルグの大学の日本語学科で5年間日本語を学び、卒業論文のテーマは「今昔物語」をロシア語に訳すことだったが、勤めようとしたロシア東洋研究所の給料があまりに安かったため、ガイドの試験を受けて8年前にガイドになった。結婚したがハンディキャップを持った子供が生まれたので、福祉政策の進んでいるフィンランドに移り住んでいるとのことだった。ガイドの仕事があるときに、5時間かけてペテルブルグの母親の家に来て、そこを中心に仕事をする。ロシア人の妻はフィンランドのグリーンヴィザを得て、フィンランドで仕事をしているとのことだった。
共産党政権時代の常に監視されているような時代に比べれば住みやすいが、物価が高く生活は大変だ。一般の人の月給は日本円換算で20万円から30万円ぐらい。石油産出国にもかかわらずガソリンが値上がりしてハイオクで1リットル150円。モスクワやサンクト・ペテルブルグは、オイルマネーの影響で建築やインフラの修繕の仕事がさかんで失業率は低いが、地方は仕事が少ないとのことだった。
ところで、オートバイに乗ってきた男は、バスに乗った我々を笑顔で見送ったあと、しきりにポケットを探り、捜し物をしていた。まさかシベリアを無事に横断してきて、サンクト・ペテルブルグでスリに遭ったのではあるまいと思うが。
やがてバスは大きな聖イサク寺院の角を曲がり、彼の姿は見えなくなった。
(2008年8月)
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海外ツアーに参加して、3度盗難事件に出会っている。
1度目は2000年10月に中国に行ったとき。添乗員がくどいぐらいにスリに注意するように注意していた万里の長城で、一行の女性がカバンをカミソリで切られ、財布を奪われた。なぜそこに財布があることが分かったのか不思議だが注意しても防ぎようのない出来事だった。
2度目は2004年8月デンマークのコペンハーゲンで。賑やかな港の風景を見て、バスまで戻る100メートルぐらいの間に、一行の最後尾にいた女性がハンドバッグから現金を掏られた。女性はバスに戻ってからハンドバッグのジッパーが自分の閉め方と違うのに気がついて、中を改めたところ財布はあったが、財布から現金だけが抜き取られていた。現金は日本円10万円と高額だったが、犯人を捜そうにも時間が3分以上は経っていたし、港は喧騒を極めていた。
その女性夫婦はバスで私たちの前の座席に座っていたのだが、掏られたことを聞いたご主人の第一声は
「きみ、怪我がなくてよかったね」というものだった。私は密かに自分ならどう言ったかを思って、この思いやり溢れる言葉を胸に刻み込んだ。
三番目は今度のロシア旅行である。サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館を見て、一行22名が添乗員と現地のガイドに引率されてバスに戻る途中だった。バスの停めてあるところまでの200メートルぐらいの間を、パンフレットを売る3人組が執拗についてきた。どうやら私と私の前を歩く男性に的を絞ったらしく、二人につきまとった。両側から胸をパンフレットで押す。「ノー」「触るな」と大声で警告すると、分かったと言っていったんは離れるのだが、またつきまとう。バスは運転手側と後部側に二つの入り口が開いていて、運転手側には日本の女性添乗員が、後部側には現地の男性ガイドがついて客を乗せていた。
そして、私の前を行く男性が後部側の入り口のステップに足を載せ、手でバスの柱を掴むために腕を上げた瞬間だった。三人組が両脇から彼を襲った。一人が背広の襟口を締め上げ、二人が両脇を挟んだ。彼らはすぐに離れた。私にはとうてい彼らを引き離す余裕はなかった。席に戻った男性はやられたと叫んだ。添乗員が追いかける先を三人組が脱兎のように逃げて人混みに消えた。
男性は、現地通貨をわずかながら持っていてそれを背広の内ポケットに入れておいたそうで、被害は僅少だった。道中胸をパンフレットで触れていたのは、財布のあるなしを探っていたのであろう。
しかし、売り子が一瞬にして強盗に変わる様を目撃すると、たとえ貴重品をお腹に巻き付けていても、倒され強奪されないとは限らないと思った。それくらい強引で乱暴だった。現地のガイドは警備員としてはまったく役に立たなかった。
このときバスの停車場に向かって移動していたのは、我々一行だけだった。ハイエナの待ち構える場所にインパラが近づいていったようなものだった。しかし、彼らがハイエナなのかどうかは一見しただけでは分かり難いのだ。
海外での盗難事件については、事情を知っている外務省の人がやられたとか、警視庁の職員が海外視察中にやられたとか、おもしろおかしい話はよく聞く。しかし、エルミタージュ美術館の近くは一番危険だと言われているにもかかわらず、現地の警察の目が行き届いているとは思われなかった。自助努力は当然だが暴力的な行為には太刀打ちできない。やはり多発する国は治安を維持するという理念が足りないのではないか。
(2008年8月)
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6月13日に恒例の高校のクラス会が小石川後楽園の涵徳亭で行われた。この庭園は寛永年間(1624〜1643年)水戸徳川氏の初祖徳川頼房によって作られた大名庭だが、我々の高等学校は土浦一高なのでまんざら縁がないわけでもない。いつもここでこの時期にやるのだが、梅雨の季節であるため、2年前に“梅雨入りの今年も濡れしクラス会”と詠んだほどだ。
今年は梅雨の中休みで、初夏を思わせる薄い日差しのある一日だった。私は1時間ほど前に着くように家を出て、庭園の奥にある菖蒲田を見に行った。1000平方メートルに660株の花菖蒲があるそうで、ちょうど見頃の一日だった。花菖蒲には江戸種、伊勢種、肥後種の三種類があるそうで、いわば江戸種の典型が咲いているというわけだった。
菖蒲田の周りでは、写真を撮る人、写生をする人に交じって、句帳を手に俳句を作る人も数は多くないが見かけられた。その中の四人ほどが、我々のクラス仲間だった。
そこで、当日作った一句を、この随筆のために投句してもらった。
小石川後楽園菖蒲田にて
花菖蒲満ちる古園の下午にゐて 悠
蒼天にたけくらべるや花菖蒲 晴彦
花しょうぶ昔を伝へ咲きにけり 泰
花菖蒲江戸の絵柄を付けて咲き 正太郎
当日は東京近辺に住む23人が集まったが、ゲストとして今年の正月に亡くなった同級生の奥様が出席された。主人は家で外の話はほとんどしなかったが、このクラス会のことはいつも楽しそうに話をしていた。自分もどのような方が集まっておられるのか知りたいと思って、仏壇の**さん(ご主人の名前)に背を押されるようにして出席した、と穏やかな口調でご挨拶をされた。私には、奥様の気持ちがよく理解できるような気がした。ご主人は自衛隊の空将だった。
亡き将の奥様とをり菖蒲園 正太郎
空将の笑顔映して菖蒲池 正太郎
ところで、泰は投句に添えて、高校一年の時新しく着任された社会科のE先生が黒板に書かれたという句を、不正確かも知れないがという断りつきで、知らせてきた。
別離傷心そのまま五月雨となり
E先生は誰とどのような別れをして新任地に着任したのであろうか。その気持ちを新任地で黒板に書くときの先生の鬱屈した思いが伝わるような気がした。先生の気持ちを60年近く経った今に伝える俳句の力もすごいものだが、それも先生と少年泰の感性が響き合ったからであろう。
(2008年6月)
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最近始まった週間「日本の歳時記」上の大岡信氏の「四季の想い」によれば
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
の「万緑」の語は、宋の宰相詩人王安石がザクロの花を詠じた詩句「万緑叢中紅一点」から得たのだという。この語はこの一句だけで、現代の俳句の季語の仲間に入ったと大岡氏は言っている(「四季の想い」7)。
ところで、杜甫は春の雨を詠って次のような五言律詩を書いた。
春夜喜雨
好雨知時節 好雨時節を知り
当春乃発生 春に当たってすなわち発生す
随風潜入夜 風に従って密かに夜に入り
潤物細無声 物を潤して細かに声なし
野径雲倶黒 野径雲ともに黒く
江船火独明 江船の火独り明らかなり
暁看紅湿処 暁に看る紅潤うところ
花重錦官城 花重し錦官城
この花重しの花は何の花であろうか。中国発行の詩の解説書では春の花としか書いてない。学生向けの漢詩集に描いてある花は、どうやら牡丹のようだ。中国の国花は牡丹だから、花というと牡丹になるのかも知れない。
私はこの情景を素晴らしいと思った。詩の中に喜ぶという字はないがこの時期の慈雨を喜んでいる様が、全体に満ちあふれている。特に、「花重し」と詠んだのは、雨を含んで色を増し重くなった満開の花を愛で慈しむ気持ちがよく出ていると思った。しかし、日本で使う場合は、この花はどうしても桜であって欲しい。そこで
花重し煙雨の中の天守閣(正太郎歳時記2006年・小田原城址)
花重し半夜の雨の播磨坂(〃2007年・東京小石川)
という俳句を作った(俳句では「花」というと桜をいう)。
俳句の用語(季語、関連季語など)には、花盛り、花白し、花満つるなどはあるが、俳句用語事典にも「花重し」という言葉は載っていない。私が初めて使用したものと思っていたが、ヤフーで検索をすると、ネット上にはいくつか「花重し」の句が載っている。もっとも、馬酔木の花であったり、泰山木の花であったり、牡丹の花であったりして、桜花重しと詠んだ句は少ないようだ。
私としては、花重しを使った桜の名句が生まれ、花重しを俳句の中で早いうちに使ったのが私であると、密かに自己満足するときがくることを望んでいる。もとより、俳人の端くれとして、名句を作るのが私であってもいいのではあるが。
(2008年5月)
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今年の「文学界新人賞」受賞は、中国人の楊逸が日本語で書いた「ワンちゃん」だった。「ワンちゃん」はその後、芥川賞の候補作になったが落選した。楊逸は、普段は中国語の先生をしており、私の以前勤めていた会社の何人かが中国に赴任する前に彼女の授業を受けた関係で、今回楊さんを招いて激励会が設けられ、私も参加した。
話は、どういうきっかけで日本語で小説を書くようになったのかとか「文学界新人賞」に応募したいきさつなや、モデルのあるなしなどに及んだ。私は、「文学界」で読んだときに私のホームページに載せた「ワンちゃん」の読後感を、コピーして楊さんに渡した。
私の読後感は非常に短い文章なのだが、楊さんは繰り返し読んでいるらしくなかなか頭を上げなかった。やがて頭を上げると、私に向かってニコッと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
私の文章は三人の中国の女流作家につい書いたものなのだが、楊逸の「ワンちゃん」の部分は次のようなものである。
「最後は今年の「文学界」新人賞受賞作「ワンちゃん」である。
作者の楊逸(ヤン・イー)は1964年生まれ、ハルピン市出身。1987年留学生として来日。お茶の水大学を出て現在中国語教師。受賞作は日本語で書かれたもの。
主人公の「ワンちゃん」は、とんでもない中国人の旦那と離婚して日本に来て、日本のぐうたらな男と結婚した中国人。ワンちゃんは日本の嫁の来てのない男性と、生活苦の中にいる中国人の女性とをお見合いで結びつけることを商売にしている。日本の男の中に、頼りがいのありそうな八百屋の男性がいて心が乱れたりする。(中略)
日本語と中国語とでは同じ漢字を使いながら、すべてを表意文字の漢字で表現する中国文学と、漢字仮名交じり文で表現する日本文学とでは、一言で言えば、「荒々しい」と「繊細」という差がある。この中国人が日本語で書いた小説には、日本人では書けない迫力と乱暴さがある。著者は、おそらく日本語が拙いからではなく自分独自の文体として、繊細な日本語を荒々しく使うことによって、真実(リアリティ)を描きとることに成功した。
漢字を通じての日中の文化・文学の相互作用を探る、というのが、私の中国語を学ぶ理由である。このような小説を読むと、両国には大きな価値観の違いはあるが、感性ではかなり共感しあえるものがあることが分かる。」(「ようこそ正太郎館へ」日本語エッセイ「中国女流作家」より)
会が終わりとなる頃、楊さんに今後の作品発表予定を聞いたところ、とりあえず随筆ではあるが「新潮」と「群像」の3月号に載るという。そこで発売日に早速読んでみた。
「新潮」の随筆の題は刺激的で、「明治天皇を食べようか」というものである。これは著者が日本の友人に「ジンギスカンを食べよう」といわれたときの驚きを、日本語に引き直して言ったものである。その随筆で彼女は、日本語と中国語の比較を論じているのだが、その中の一説を引用してみよう。
「日本語は実に面白い。こういった固有名詞の省略ばかりでなく、語順が自由で、表現が概括的で大雑把ささえ感じられる。真面目で繊細な職人気質の日本人の性格から、全く考えにくい面がある。一方の中国語は、中国人の大雑把な性格とは正反対で、表現が細かく、語順がちょっとずれると別の意味になってしまう。」
すなわち、私が上の文章で、中国語=大雑把(荒々しく力強い)、日本語=繊細と言っているのに対して、楊逸は正反対のことを言っているのだ。楊さんが私の読後感を読んで、ニコッと笑っただけだったのは、このためだったろう。
これは来日20年、日本語の文章と格闘してきた楊さんの意見であるだけに説得力があるが、一方私も短い5年間の勉強に過ぎないが、自分の考えが正しいと思っている。
ところで、今回の楊さんと私の意見の違いを読んで思ったのは、「母語」についてである。子供の言語の発達を観察すると、4,5才になると急速に言語能力が伸びてくる。形容詞、副詞、接続詞はもちろん、受身文、重文や複文(「もし私が勝ったら、これを頂戴」)も、簡単に使いこなす。時制(過去、現在、未来)は少し難儀するようだが、それもすぐに乗り越える。これは4,5才までに周りに溢れている言語の光を浴びて、単語や文体が体内に蓄積していたに違いないとさえ思えるほどだ。このような「母語」からすると、理屈で覚える外国語はなんとも身に付き難い。楊さんは日本語には省略が多いと嘆いているが、我々には、中国語が語句を省略したり主語が述語(時制がない)の前に位置したり後ろに位置したりするのが難物なのだ。また、思考は言葉(通常は母語)を通じてなされるのだから、ある言葉を話す集団(通常は国民)の特徴とそこで使われる言語の特徴とは、相通ずるものがあると思う。
さて、この日中言語比較は、古くから研究がなされ、沢山の本が出版されているし、今も毎月のように研究論文が出されている分野である。しかし、手に入るものはいずれも漢文、中文、漢字の日本語に対する影響を研究する日本人の書いたものだ。私の身近には中国人の日中のバイリンガルも多いので、別の視点で、検討を深めていきたいと思う。
(2008年2月)
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幽明の親族の声や桜の夜 北島正太郎 作
戦死した弟の遺骨を兄が引き取りに行った。
「弟は、真白に散った桜の花びらのように多数の戦友とともに並んでいた。僕は弟が何処にいるのだろうと一生懸命捜し回った。ここだ、ここだ、と僕を呼んでいたであろうが、弟には声が出なかったのだ。右も左も真っ白な戦友の中に混じって弟も四角な木箱の中に入って白い布の中に包まれていた」
兄とは私の父である。父も昭和の戦争の犠牲になって、妻子、両親を残して死亡した。
桜の夜には、彼岸此岸の親族を呼ぶ声がする。
(2008年1月「炎環」20周年記念号 命の一句 より)
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エッセイは例外なく自慢話である、と井上ひさしが言ったそうだが、「振り返る」という題では、なおのこと自慢の度合いが強くなるだろう。数字は偽らないという錦の御旗を戴いて、限られた分野での今年の結果を数字で総括する。
1.
自費出版文化賞入選
2005年に自費出版した拙著「ベルリンからの手紙 第二次大戦、大空襲下の一技術者」が、第10回日本自費出版文化賞(日本グラフィックサービス工業会主催、NPO法人 日本自費出版ネットワーク主管)に入選した。
総応募数915作品(地域文化・個人誌・文芸A,B・研究評論・グラフィックの6部門の合計、内拙著が属した個人誌部門では232作品)、入選58作品(内個人誌部門で12作品)に入選した。賞はこの上に、部門賞(6部門各1作品づつ)、大賞1作品とあるのだが、そこには進めなかった。
なお、この本に関係する会社の若い技術者(130名)に対して、2回講演会を行った。昭和10年代の技術者の話をしたのだが、これは聴衆の祖父の時代に当たる。
2.
中国語
2003年4月に勉強を始め、2004年6月に日本中国語検定協会3級(大学第二外国語で2年修了程度といわれる)に合格した。しかし、その後は、自宅で過去の問題を解いてみても、合格ラインの70点にほど遠く、2級は今年も受験するにさえ至らなかった。最大の問題点は、試験時間の2時間集中力が維持できないことであり、身につけている単語(熟語)が足りないことである。あと1000単語(熟語)増や必要がある。
講読では魯迅の「阿Q正伝」、鉄凝の「大浴女」を原文で読んだ。しかし、理解度は、50%程度であったろう。
新しく知り合った中国人3名と中国語で政治、経営、文学などについて懇談した。これも言いたいこと、聞きたいことの50%以下での会話だった。それでも中国人と、村上春樹の作品論や、中国人が日本語で書いた小説の話を中国語でする、などというのは、結構スリリングなことであり面白かった。
なお、ホームページ上の「中国語のエッセイ(日本語つき)」に新しく付け加えた作品は、2006年の38作品に対して2007年も38作品であり、同数である。今年は中国語と日本語の関係、古代中国語と現代中国語の関係について書いたものが多かった。中国在住の中国人大学教授から、時々読んでいるが日本人から見た中国・中国人観が自然かつ恬淡と書いてあり面白い、という意見を戴いた。
3.
俳句
俳句結社(排他的結束と序列を重んずる集団で、家元制度あるいはマフィアに似ているともいわれる)に入っている者は、同人(主宰が指名する。但し会費は一般会員の倍)を目指すと言われており、私もそうである。一応俳句が出来るというお墨付きをもらいたいためである(このように家元制度に酷似している)。そのためには、月々の投句に対する主宰の評価で、一般会員の中で高い位置にいなければならないが、今年は入っている二つの結社ともに、一般投句者の中位とか5句投句で採用1〜3句とかで、とうてい近々同人になるという展望はもてなかった。自分でも納得できる俳句を詠むことができなかったので、結果は当然である。
俳句結社には、花鳥諷詠を重んじるホトトギス系から、人間探求派までいろいろな系統がある。自分がどのような俳句(客観写生か、叙情詩か、心情探求か、面白い句かなど)を詠みたいかで、それに合った師、結社を求めることが大切だと言われている。俳句を始めて5年近くなるが、今年も自分がどのような俳句を読みたいのか分からずに、いろいろ試して得るところが少なく終わった。
また、ホームページ上の自分の歳時記(正太郎歳時記)には、句会で主宰がいい句だと選んでくれた句や、句会で高得点を取った句などから自分で選んで追加しているが、追加した数は、2003年(私が俳句を始めた年)6句、2004年28句、2005年31句,2006年の93句に対して、2007年は85句である。
4.
ホームページ
2006年1月に開設した自分のホームページ「ようこそ正太郎館へ」の中味は、昨年と変わらず「エッセイ」「中国語のエッセイ(日本語つき)」「俳句」「ファイミリーギャラリー」である。
「ようこそ正太郎館へ」へのアクセス数は8100で、昨年のアクセス回数5300を引くと、今年の純増は2800である。昨年はホームページを公開したばかりだったので読んでいただけそうな人を積極的に開拓したが、今年はその努力が足りなかったし、ホームページの体裁や内容の改革が足りなかったかもしれない。
ところで、ヤフーで「中国語のエッセイ」を検索すると、私の「ようこそ正太郎館へ」は100ページ(999件)のなかの1ページ目の、しかもトップの位置に出てくる。グーグルでは40ページ(393件)のなかの1ページの7番目である(いずれも2007年12月20現在、12月30日現在ではグーグルは2ページ目に落ちている。)。
検索ページの中で上位に位置することは、至難のことだと言われている。現代の激しい情報提供競争社会の中で、「ようこそ正太郎館へ」が検索サイトのこのような高い位置を維持していることは、今年の奇跡であるのかもしれない。
今年一年お読みいただいたことに心から御礼申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。
(2007年12月)
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去年から今年に掛けて、何冊かの中国の女流小説家の小説を読んだ。そのうちから三冊について、主として書かれた背景を見てみたい。書かれた背景が、本の内容を規定する典型的な例のように思われるからである。一冊は原文がフランス語で書かれたものの日本語訳、一冊は中国語で書かれたもの、一冊は日本語で書かれたものである。
はじめは山颯(シャン・サ)の「女帝 我が名は則天武后」(2003年)。著者は1972年、北京生まれ。天安門事件(1989年)後の1990年、中国にとどまる限り書きたい作品を出版することは出来ないと悟って、17才で渡仏。何の後ろ盾もないままに、才能だけを武器にして運命を切り開いた則天武后のように、渡仏後わずか10年にして、フランス語でベストセラーを生み出す作家に成長した著者。二人の間には相通ずるところがあるように思われると、この本を原文のフランス語から日本語に訳した吉田良子は、訳者あとがきに書いている。
二冊目は鉄凝(ティエ・ニン)の「大浴女」(2001年)。著者は1957年、北京生まれ。1975年に高校を卒業、文化大革命(1966年―1976年)中に志願して農村へ。同年処女作を発表。現在、中国作家協会主席(「青年文摘」などより)。
小説の主人公の伊小跳は、文革の始まった年に小学校に入学。やがて両親は地方に下放され、二人の妹と家を守る。下の妹小茎は事故死するが、事故死を自分が防げたのに防がなかったのは、小茎が母と愛人との間に出来た子であることを知っていて嫌っていたためだという思いが、小跳の半生に重くのしかかる。母の愛人は病院の医師で、母は下放された農村から脱出するために必要な偽の診断書を書いてもらうために、この医者と愛人関係となった。
次女の小帆は、アメリカに留学し、移住する。小跳は出版の仕事に就きたいという望みを叶えるために、身を売って生活をしている美人の親友に頼んで実力者にコネをつけてもらう。やがて小跳は出版社の副社長となる。
このように、文化大革命から天安門事件・改革開放という激動の時代にかけて、中国の女性たちが、自分の力で運命を切り開いていく物語である。
前半の文化大革命のところまでは、時代背景とそこで生きる女性の息遣いが聞こえる気がしたが、後半は、男女の愛憎小説に流れたのではないかという印象を持った。あるいは、天安門事件あたりの時代背景が、活写できないという事情があるのだろうか。
「則天武后」もそうだが、現代でも中国の女性が、知性を武器にすることもさることながら、性を手段にして目的を達成していくのに半信半疑ながら驚いた。知り合いの中国人に聞いた限りでは、必ずしも小説の上だけではないようなのだが。
この「大浴女」はフランス、イギリス、日本でも翻訳され、多くの読者を獲得した。
私が中国語の原文で現代小説を読んだのは、魯迅の「阿Q正伝」に次いで二冊目であり、私にとっても記念すべき本である。
最後は今年の「文学界」新人賞受賞作「ワンちゃん」である。
作者の楊逸(ヤン・イー)は1964年生まれ、ハルピン市出身。1987年留学生として来日。お茶の水大学を出て現在中国語教師。受賞作は日本語で書かれたもの。
主人公の「ワンちゃん」は、とんでもない中国人の旦那と離婚して日本に来て、日本のぐうたらな男と結婚した中国人。ワンちゃんは日本の嫁の来てのない男性と、生活苦の中にいる中国人の女性とをお見合いで結びつけることを商売にしている。日本の男の中に、頼りがいのありそうな八百屋の男性がいて心が乱れたりする。
辻原登、島田雅彦氏の講評から引用する。
「これは、間違いなく、漢語と日本語の差異の往還から生み出されたものだ。ここには、たしかに漢語が近代文学と格闘して得たものと、日本語が近代文学と格闘して得たものとの、一つの融合の証がある」「ワンちゃんは「女の一生」在日中国人バージョンである。描かれているのは日中田舎比較であり、風俗対比である」
日本語と中国語とでは同じ漢字を使いながら、すべてを表意文字の漢字で表現する中国文学と、漢字仮名交じり文で表現する日本文学とでは、一言で言えば、「荒々しい」と「繊細」という差がある。この中国人が日本語で書いた小説には、日本人では書けない迫力と乱暴さがある。著者は、おそらく日本語が拙いからではなく自分独自の文体として、繊細な日本語を荒々しく使うことによって、真実(リアリティ)を描きとることに成功した。
漢字を通じての日中の文化・文学の相互作用を探る、というのが、私が中国語を学ぶ理由である。このような小説を読むと、両国には大きな価値観の違いはあるが、感性ではかなり共感しあえるものがあることが分かる。
(2007年12月)
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桜の季節になると、我が家の昭和戦争を振り返ることが多い。いくつかの記録を取り出してみる。(文中の( )は、筆者の補足)
[連隊葬に際して――「北島正毅君追悼録」中の、兄正元の追悼文より]
弟は応召して○○の○○連隊に入った。
弟は(ノモンハン戦争で戦死し)遺骨となって○○連隊に帰ってきた。
昭和14年11月24日雨の都ノ城市の摂護寺で僕は2半振りで弟に会った。真っ白に散った桜の花びらのように多数の戦友とともに列んでいた。
僕は弟が何処にいるのだろうと一生懸命探し回った。ここだ、ここだと僕を呼んでいたであろうが、弟には声が出なかったのだ。右も左も真っ白な戦友の中に混じって弟も四角な木箱の中に入って白い布の中に包まれていた。その中に兄として覚えている弟の顔を急いで思い描いて見たが、弟の顔は中中描けなかった。僕は全く頭が下がってしまった。そして始めてそうっと手を出して弟の入っている木箱に触れた。
僕の隣の人もそのまた隣の人も皆同じように、実に荘厳な最敬礼をして静かに手を出して触れていた。
満堂が寂として一声もない静かな静かな面会日であった。
[正元の発病――北島正和「ベルリンからの手紙――第二次大戦、大空襲下の一技術者」より]
1943年12月15日、(ドイツで技術習得中の)正元は遙か離れた病院に向けて出発した。日本の陸軍事務所が自動車を差し向けてくれ、また八田医学博士が付き添ってくれていた。
ベルリンで列車に乗り込んで陸軍が用意してくれた寝台車に横になる。車輪の響きが何時までも聞こえた。
16日、スイス国境バーゼルまで30分手前のフライブルクで下車する。この夏の一人旅にこの近くのコースを選んで風景を絶賛したところであるが、今は医者に付き添われてふらふらとプラットホームを換えている。芭蕉が旅に病み病中を押して出発するときの元気な文章を口ずさみながら、別の列車に乗り換えた。
遙なる行末をかかへて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす(松尾芭蕉「奥の細道」)。
正元は芭蕉の元気が懐かしかった。彼にはとても路を縦横に踏む元気はなかった。
[正元の義弟(妻の弟)の死――北島正和「ベルリンからの手紙――第二次大戦、大空襲下の一技術者」より]
1944年6月、東京洗足の堀田正昭・小雪夫妻に悲報が入った。長男正慶25才が、5月30日に戦死したという知らせである。小雪は長くこの報が間違いであることを願っていたが、やがて正慶の最後を見た航空隊の部下が堀田家を訪れて、堀田中尉の最後を詳しく話してくれた。
彼は一式陸攻(葉巻型の海軍の代表的爆撃機)約10機の隊長として、セレベス島の東南部にあったケンダリ海軍航空基地を飛び立って、ニューギニア東部のホーランジャ米軍基地に停泊していた船団を攻撃に行き、地上砲火を受けて機体が炎上すると、敵船団めがけて体当たりをして行った。
遺体は帰らなかったがすべては覆らない事実となった。
[正元の死――同上]
(日本の敗戦による)平和の到来は正元にも新たな希望を与えたはずだ。なんとしても帰りたい。帰って家族に会いたい。友人に会いたい。会社で仕事がしたい。
同僚のうち自分だけが帰れないことになり、同僚を見送った直後に発病して病院に入ってからのこの2年間のたった一人の戦いは、彼の心にも身体にも少し苛酷すぎた。しかし、あと一頑張りだと彼は思ったことであろう。
しかし、1945年(昭和20)9月18日、正元は突然肺から喀血して、午前11時遂に息を引き取った。39才であった。
遺族への証拠として棺桶に入った写真が撮られ、また、マッチ箱大の小箱に数片の遺骨が取り分けられた。大戦後の混乱した状況のために、遺骨はすぐには日本に送ることはできなかったので、1965年までの20年の保管期間で現地の遺骨保管所に預けられた。
小箱の遺骨は、棺桶に入った遺体の写真、スイスの山々を背にした元気な頃のスライド用カラー写真、預金通帳とともに小さく堅く包装され、遺族に渡すためにスイス公使加瀬俊一が預かった。死亡後の手続きは、ベルンの日本公使館員か公使館付陸軍武官室員が行ったものと思われる。
日記、家族からの手紙や衣服類などの遺品は、とうてい持ち帰ることはできなかった。
[祖父――北島正和「押し葉と電脳植物図鑑との間」「ベルリンからの手紙」より]
日露戦争のころ祖父(正太郎)にはまだ子供がいなかった。やがて明治の末期に岡山で生まれた二人の息子すなわち私の父(正元)と叔父(正毅)は、昭和の初めから始まった大戦争時代を遂に生きて通り抜けることはできず、ノモンハン事件と第二次大戦により、ともに外国で親に先立って死亡した。
1945年4月13日、東京市淀橋区(現新宿区)十二社にある正太郎の住居が空襲により全焼し、正太郎は茨城県筑波郡旭村(現つくば市)沼崎にある、彼が自分の父親のために手に入れた家・土地に避難した。「沼崎」こそは、一族に不測の事態が生じたときに受け入れてもらえる土地なのだった。やがてそこに遺された正元の妻子を迎え、正太郎は家長として家を支え孫の教育に当たった。
1960年(昭和35)6月4日、嫁衣の手厚い看護を受けながら正太郎は83歳で他界した。
(2007年4月)
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1月5日、私の今年の仕事始めは、中国人を東京に案内することだった。
その中国人Aさんは、中国南部の有名な大学の歴史学科(専攻は明・清朝)の教授。40才台女性、現在3ヵ月の短期滞在で日本のある地方の大学で研究をしている。期間が切れて1月下旬には帰国するので、正月休みの2週間を利用して日本の首都圏を見学する。
彼女は私の中国語の先生の親しい学友だったため、首都圏では先生の家に滞在する。先生は私に言った「日本語を話せない中国人を案内するのは、中国語の勉強になりますよ。私の生徒の中で希望者は多いが、もし希望すればあなたに一日割り当ててもいい。その場合は、あなたは日本の文化面を案内してあげてね」。聞く力、話す力共に大いに不安だが、このように言われては引くに引けない。
私は、東京大学構内、国立博物館、江戸東京博物館、国会図書館、神保町の本屋街のうちの3つぐらいを見学することを提案した。国立博物館と本屋街は他の人が案内することになったため、私は東京大学構内、国立科学博物館の「大英博物館 ミイラと古代エジプト展」(これは彼女のたっての希望)、江戸東京博物館を案内することになり、5日の朝、東京郊外の私鉄駅で初対面の挨拶をした。
案内することが決まってから、内山書店や東方書店に行って中国語の東京のガイドブックを探したが、少ないというかほとんどなく、「搭地鉄玩東京」(王常怡)があるぐらいだ。しかし、他の国の人を案内するのとは違って、インターネットで日本語の説明をダウンロードすれば、漢字の読める中国人は概要をつかみ取ってくれる。簡潔に記した日本の資料は、簡潔にするために沢山の漢字が使われているから、例えば東大の組織機構の説明などは、インターネットからの日本語の資料で十分だった。
漢字の日本への伝来は、3世紀に百済から王仁が来日したことに始まるとされている。それ以降、漢字は、漢文と和漢入り交じり文で日本の生活や文化の中に浸透してきた。文字以外に学問、宗教、思想、文化についても、遣隋使、遣唐使などをつうじて日本は中国の教えを受けてきた。この関係は中国の清代末期、日本の明治維新まで続いた。
Aさんという若い中国人でもある時期の日本の美術や建築、組織や機構などを見ると、自国のかつての文化を目の当たりにするような思いにとらわれるらしく、何度かうなずき微笑まれた。一日本人である私も、若い中国人のこの反響を見て、あらためてこの1500年に亘る両国の関係に思いを馳せることが出来た。このような二国の深い歴史上の関係は、EUが共同体となって一体化された現在、世界に例を見ない関係だと思う。
同時に、現在の日本と中国の平均的な人の生活較差を見て、Aさんは中国の影響を離れて近代日本の出発点となった明治維新に、強い関心を持ったようであった。なぜ明治維新が行われたか、その結果はどのようであったかなどについてである。Aさんと現在の中国の問題点を話したが、急速な経済発展の中で、都市と農村との較差、富裕層と貧困層との較差がますます開いていくことなどを率直に話しておられた。我々は日中戦争、歴史観などについての話はしなかったが、話そうと思えば、ある程度率直、冷静に意見交換が出来ると思った。
私は今までもいくつかの国の人を連れて東京案内をしたことがある。しかし、今回の中国の知識人を案内したとき以上の楽しい思いをしたことはなかった。我々の祖先の交流を偲ぶこともできたし、漢詩と俳句の違いを話すことも出来たし、諳んじている漢詩を一緒に唱することも出来た。日本人と中国人との歴史的建造物の保存に対する考え方の違いや、博物館に対する政策の違いなど国民性について話すことも出来た。
確かに世情言われているように、東南アジアにおける日中の覇権競争はあろう。日本が油断すれば、政治的に脅威となりうる国であろう。しかし、その様な脅威の面ばかりではなく、日中関係がよくなる要素も沢山ある。今後相互に訪問する人が増えるに従って、双方はそれぞれにいいところを認め合い、両国の関係は今よりも穏やかなものになって行くと思う。それは1500年に亘って、両国民が築いてきた関係があるからである。そして、両国の若い人には、固定観念にとらわれずに、いいものはいいと認める柔軟性がある。
ところで、Aさんに私のホームページ「ようこそ正太郎館へ」を紹介したところ、早速そのなかの「中国語のエッセイ(日本語付き)」の一部を読んでいただいた。私としては読者に中国在住の中国人を意識してはいない。日本人としての見方が強く出ていると自覚していたが、Aさんは「自分の考えを率直に表現していて面白い。これから帰国しても折に触れて読み続ける。そして意見をメールする」と言ってくれた。これからどのような反響があるのか、嬉しいような、恐いような思いがある。
(2007年1月)
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2006年1月1日にホームページ「ようこそ正太郎館へ」を作成してネット上に掲載してから、今日でちょうど1年が経過した。
この間、アクセスしていただいた数は、5,300アクセスである。これは同じ人が一月に2回アクセスしていただいたとして、200人の方がホームページを見ていただいた計算になる。ホームページを訪問していただいた方に、厚く御礼申し上げる。
エッセイは掲載する前にほかのメディアで発表したものがあったし、ホームギャラリー、すなわち家族の描いた絵なども掲載するまでにすでに出来上がっていたものもあった。つまり、少しストックがあったのでそれを順次掲載することで、ホームページの生命である更新も、1週間から10日の間隔で行うことが出来た。しかし、ストックも尽きてくると、新しく生産しなければならない。元々ホームページ作成の目的は、発表する場を作り自分の創作意欲をかき立てることだったので、発表するネタに苦しむのはおかしなことだが、しかし、現実はそのようになってしまった。
「中国語のエッセイ(日本語付き)」は、毎週授業の宿題があるからこれをいい内容のものにすれば出来上がる。「俳句」は月に4回ぐらいいろいろな句会に出ているから、これも計算は出来る。「ホームギャラリー」の方は、妻や娘が絵の勉強をしているので細々とではあるが供給が保たれる。一番の難物は「エッセイ」である。材料はあるが、会社生活から離れた自分の考えは、いろいろな人から批判され鍛えられたものではないから、果たして読者の心に訴えるものでありうるかどうか、そこに自信が持てなくて生産が滞った。
「エッセイ」「中国語のエッセイ」「俳句(正太郎歳時記)」「ホームギャラリー」のどれが好評かは、読む人によって異なる。グーグルやヤフーの検索サイトで検索すると、私の「正太郎館」は第一ページにあることもあるし、「中国語のエッセイ」も一ページか二ページ目にあることが多い。一つだけはっきりしていることは、俳句すなわち「正太郎歳時記」は、高校や大学の俳句仲間からはさまざまな感想をもらっているが、俳句結社の先輩方からはほとんど講評をいただいていないということだ。私のような、俳句を始めて日が浅く出来もよくない者が、自分の句集を作って月々新しい句を付け加えているというホームページの仕組みは、先輩方にはまだ馴染みの薄い仕組みなのかも知れない。高浜虚子はかつて、弟子が句集を出そうとしたときに「今迄の俳句界の習慣が、新体詩や和歌や其他の多くの文学とは違って、生前にそう軽々しく句集というものを出さぬ事になって居る」と反対したことがあった(「魅了する詩型」(小川軽舟)師弟関係 より)が、先輩方も私に「ホームページという安易な方法で、そう軽々しく句集というものは出さないことになっている」と、諭されているのかも知れない。
ところで、紙による発表方法と、ネットによる発表方法とはどのように違うだろうか。私は2005年1月に、父と昭和10年代のアルミニウム加工技術について書いた「ベルリンからの手紙」という本を1000部自費出版した。これに対しては400人以上の方から読後の感想をいただいた。また、会社のOBや現役の方から講演会で話をするよう要請も受けた。要するに当時のことを記録に残したということで、関係者から評価をいただいた。
ネットによる発表はどうだろうか。
先ず発表する側としては、間違ったら修正すればいいという気楽な気持ちで原稿を作り、ネットに掲載するし、いやになれば取り消したりもする。本の場合は綿密に推敲をし、校正を行う。本の装幀を考えるのは、ホームページのデザインを決めるよりは、ずっと時間を使う。中味も装幀も一度決めたら変えられないからだ。本を作るのには200万円ぐらい金がかかるが、ネット上の発表では全く金はかからない。
読む側はどうか。通行人が掲示板の掲示を見るような気軽な気持ちで見るということになる。私のホームページのアクセスは5300だが、感想のメールをいただいた方は、私を知っている数人の方だけである。しかし、中国語のエッセイ(日本語付き)は、新編を掲載するたびに熱心に読んで下さる人がいるし、俳句は、もしホームページがなければ紙くずと共に捨て去られる句が、整理保管されて、近作報告となって友人に届けられる。
本とネットは、対立する概念ではなく、異なる伝達手段であるには違いない。私の中では、とりあえずネットに貯めておいて、機会があればそこから拾い上げて本にしたいという気持ちはあるが、しかし、よしんば本に出来ないと分かっていても、ホームページを今止めることは考えられない。手軽に自分を表現する手段として、これに代わるものは今のところない。
更にいえば、ホームページでは、デジタル技術を使ってホームページでなくては出来ない、変化に富んだ背景、動く画面、素早く参照できるリンクなど、新しいメディアに相応しい形式に取り組んでいくべきかも知れない。今の私のホームページは、形式としては本や雑誌の延長上にある。
今年一年、さらに面白いホームページになるよう努力いたしますので、なにとぞご愛読下さるようお願いいたします。
(2007年1月)
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1941年に、技術導入のために4ヵ月の予定で渡独した私の父は、到着後12日後に勃発した独ソ戦争や、その年の12月に始まった太平洋戦争のために帰国することが出来なくなり、ベルリンで鬱屈した毎日を送っていた。
そのときの様子を、私は「ベルリンからの日記―第二次大戦、大空襲下の一技術者」というタイトルで本にまとめて、2005年に自費出版した。その結果、いろいろな方から読後の感想を頂いた。特に、当時ドイツにおられた方のご遺族から、様々な情報をお寄せ頂いた。
その中に、一枚のCDを送って下さった方がおられた。その方のお手紙によると、私が本のなかで父の日記を紹介して「1942年4月19日はヒットラーの誕生日前日なので、ラジオでフルトヴェングラー指揮によるベートーヴェン第9交響曲の演奏があった」と書いたのを読んで、はっと思い当たることがあったとのことだった。
その方によると、個人でこの時の実況を録音した12インチ78回転の7枚のレコード(14面)が偶然オーストリアの古物市場で発見されて、2004年にCD化されたとのことで、そのCDを送って下さったのである。
フルトヴェングラーが指揮をしたベートーヴェンの第9交響曲でCDになっているのは、生涯で11種類がある。特に演奏が優れているものは、戦時中にベルリンで演奏したコンサート(1942年3月22日)のライブと、戦後、戦火で中断していたバイロイト音楽祭の復活記念コンサート(1951年7月29日)のライヴだと言われている。
送って頂いたCDは、原盤が最近発見されたものなので11種には含まれていない。当時の、しかも個人が行った録音であるから雑音が多いが、それでも演奏会場の拍手が始まると、緊張感が伝わってくる。特にソロの4人と合唱団は、恐ろしいまでの迫力と緊張感に溢れていて、歌手の鼓動さえ聞こえるように感じられた。
CDの最後には、放送局のアナウンサーによる締めの言葉が録音されている。
「今夕はヒットラー総統の誕生日前夜で、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)にとってお祝いのときである。宣伝相ゲッペルス博士の演説のあと、フルトヴェングラー指揮のベルリンフィルハーモニーによる第9の演奏を行った。このイベントは、ドイツ放送、ルクセンブルグ放送など30局を通じて、アフリカ、南・中・北米、南・東アジア、オーストラリアに伝えられる」。
フルトヴェングラーは、戦後、ナチへの協力疑惑をかけられたが、裁判の結果は無罪となった。CDの解説書には、彼は生来、このようなお祝いの場で演奏することを嫌っていたが、当日は強制的に演奏させられた、と書かれている。
そのころのドイツは、前年の電撃的ソ連侵攻に失敗し、また英国軍による対独空爆が激化していた。しかし、大陸ではなお一進一退の攻防を展開していた。太平洋戦争では、日本軍がこの年の2月にシンガポールを占領した。3月に東京に初めて空襲警報が発令されたとはいえ、戦争の転機となるミッドウエー海戦まではまだ2ヵ月を残していた。要するに、第二次大戦は五分五分の攻防戦を展開していた。
動きの取れない状況ではあったが、父はまだ日本、ドイツそして自分の将来に明るい希望を持っていたに違いない。父はこの日の演奏を満足して聴いたのではないか。父はしかし、遂に生きて日本に帰国することが出来なかった。あれから64年経った今、父が聞いたものと同じ実況録音を聴くとき、父になりかわったような、張りつめた気持ちで聴いている自分がいることに驚かされる。
(2006年3月)
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今日本に住んでいて、日本人のことをよく知っている中国人に日本の俳句を見せても、何を言っているのかよく分からないし、なぜこれがいい俳句なのか分からないと言われてしまうことが多い。
たしかに、日本語で「見えるか」と言う質問は、中国語では「見て読めるか」という質問になるように、中国語は、曖昧を許さず具体的にはっきりさせるという特徴がある。俳句のように、はっきりと断定することを避けて、余韻を残して読者の読み方に任せるというようなことは、理解できないのかも知れない。
また、幼稚園の時から「春眠暁を覚えず 処々に啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落ちること知る多少ぞ」(孟浩然 春暁)というような有名な詩を暗記させられている彼らは、漢詩の最短型である五言絶句(五字四行)以上の表現に慣れてしまっていて、俳句の十七音では到底何を言っているのか分からないのかも知れない。
一方、日本人にとっては中国の詩はよく理解できるものであったため、昔から愛好者が多かった。日本人による初めての漢詩集「懐風藻」は751年、「古今和歌集」よりも150年前にできている。当時一般人の作る詩歌は漢詩だったのだ。時代が下がって江戸時代の松尾芭蕉の句集を見ても、日本の古典と並んで、中国の古典や詩を踏まえて作られたものも多い。「奥の細道」の平泉のところには次の記述がある。
「泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て、時のうつるまで泪を流し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡」
この、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」は、もとより唐の詩人杜甫の「春望」の一節である。
「春望」は五言律詩(五字八行)の詩だが、上の節につづいて
「時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」
という節がある。
これは芭蕉が奥の細道に旅立つときに詠んだ、
行春や鳥啼き魚の目は泪
に影響を与えていると見る方が自然であろう。
また、季語の中にも、中国の言葉がそのまま使われているものもかなりある(鞦韆(シュウセン)ブランコのこと、昔中国の官女たちが春これで遊んだので、春の季語)。
このように、漢詩や中国の言葉は、俳句にも大きな影響を与えている。
ところで、杜甫は沢山の素晴らしい漢詩を残したが、その中の「秋興」という詩(七言律詩)は、彼が慶州にいたときに読んだもので「山峡に秋の粛気が満ち溢れ、菊の花が咲いている、自分はいつ故郷に帰れるのだろうか、自分の乗ってきた舟は岸に繋がれたままだ」という秋に感じて作った詩である。
高浜虚子の「虚子俳話」によれば、杜甫のこの七字八行詩の最後の一行、
「白帝城高急暮砧」(白帝城高くして暮砧(チン)急なり−白帝城は高く聳えており、日暮れに里人の砧(きぬた)を打つ音がいそがしく高く響く)
という一行は、砧という季題も入っているし、一幅の絵になっており、これだけで立派な俳句になっているとのことで、虚子は昔からこの詩の句を口に唱えるたびに、いい俳句だなと思っているとのことだった。
私はこれを読んで、なるほどと理解した。そして、両国人の心に通じるものがあることを、あらためて認識した。しかしまた、漢字七文字で俳句になるのか、という驚きを禁じ得なかった。
今HAIKUは世界各地でその国の言葉でつくられるようになった。中国には、2005年に日本の俳人の働きかけで漢字で俳句を作る漢字俳句学会ができた、というような報道があるし、これとは別に俳句を普及させるために、中国語訳に取り組んでいる方もおられる。
その一人、岩城浩幸氏の「日中俳句往来」から例を挙げてみよう。
「古池や蛙飛びこむ水のおと」(芭蕉)の中国語訳は、たとえば
「池塘、青蛙入水、水音響」
「古老池水浜、小蛙児跳進水里、発出的声音」
となるのだそうだ。二番目の方は、五、七、五文字になっている。
私の知っている中国人は、この俳句と中国語訳を見て、両方ともよく分からないと唸るばかりであったが、私には一番目の「池塘、青蛙・・・・」の方は、なかなかよく原文の感じを出しているように思える。原文の俳句と中国語訳の違いは、日本古来の「わび」「さび」の感じがでているかどうかと、切れ字となる「や」「かな」「けり」といった助詞、助動詞の効果がどうかということであろう。
ところで、明治に入って発句が俳句として独立してからは、正岡子規や夏目漱石などは漢詩も俳句も両方作って楽しんでいる。しかし、今の我々には、漢詩を作るなどということは、なかなか出来ることではなくなってしまった。せめて、漢詩、短歌、俳句のそれぞれのいいところを、じっくりと味わえるようになりたいものだ。
(2006年2月)
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前回「たのしみは・・・」で始まる橘曙覧の52首の短歌集「独楽吟」のことを書いたが、今回は14,000の幸福について、である。
実は平成12年3月の日経新聞に、作家の稲葉真弓氏が「一万四千の幸福」という題で随筆を書いている。アメリカの作家のバーバラ・アン・キプファという人が、ふと目にした小さな幸福な事柄を20年に亘って書き留めたという紹介であった。面白そうだと思い買い求めようとしたが、果たせなかった。今回ふと思いついてインターネットgoogleで14,000happinessと入れて検索してみたら、たちまち、Barbara Ann Kipferの 次の著作が現れた。
1.14,000 things to be happy about
2.the wish list
3.4001の願い(向井千秋・向井万起夫共訳)
そして、インターネットで注文すると1週間でamazonから本が届いた。この6年間の情報網の進歩にあらためて感服した。
2は1の、自分を幸福にしてくれた14,000の事柄を整理した上で、さらに今後幸せにしてくれそうな事柄を加えて、約6,000項目の願いをチェックリストにしたものであり、3は2のなかから、日本人に理解されやすいものを選んで訳したものであるから、正確にはこの三つは一連の著作である。
さてこの本の内容であるが、著者の14,000 things to be happy aboutと、the wish listの前書きから抜き出してみよう。
「幸せは、日常の小さな出来事に気が付いたり、楽しんだりすることから生まれてくるということを知って欲しい。
願いを抱くというのは、素晴らしいことだ。実現不可能なことを夢見たり、現実離れしたことを考えたり、空想に耽ったり、野心を持ったり、それは全て私たちを前へ前へと押し動かし、何かをするように私たちを駆り立ててくれる。また、自分は何者なのか、自分は何者になれるのかということを教えてくれる。この本に並べられた全ての項目が「生きているうちに、私は・・・・したい」という文章で成り立っている。ささやかで容易に実現できる目標もあれば、雄大で空想的な願いもある。この本が、あなた自身の願いリストを作るための手伝いとなることを望む」(向井訳から抜粋)
具体的なリストを見るために、「4001の願い」の表紙に書いてあるものをコピーしてみる。
□ ・・・・・・・・・
□ 知りたくないことは知らないままでいる。
□ ファーストキスをした人ともう一度キスする。
□ ・・・・・・・・