緊迫の17日間

山内昌之、細谷雄一編「日本近現代史講座」第8章「南進と対米開戦」(森山優)によれば、ドイツは1941622日にソ連への攻撃を開始したが、その情報は65日に同盟国日本にもたらされた。

ドイツは不可侵条約を破棄して戦争に入ったのだが、当時ヨーロッパではその可能性についてマスメディアもいろいろ報道をしていた。しかし、軍事強国ドイツといえどもすでに始まっていたイギリスとの戦争と同時にソ連と戦うことはないだろうというのが大方の見方だった。しかしその見立ては間違った。

日本に対する事前情報は誰から誰にもたらされたのか。そして受け取った日本政府はどのようにこの情報を取り扱ったのか、あるいは活用したのか。もし漏れたら世界の秩序が一変する第一級の情報である。当時も国際諜報活動が活発な時代だったから17日間秘匿は厳重を極めたはずだ。しかし、秘匿するだけで使わなかったら情報の価値がない。

この疑問は公開された情報を調べれば明らかになるかも知れないが、今私にその力は残されていない。

 

ところで、吉村昭「深海の使者」によれば、昭和162月、日本からドイツに陸海軍軍事視察団が続々と入国した。陸軍側は山下奉文中将、海軍側は野村直邦中将を団長として陸海軍技術権威者40数名によって構成された大視察だった。彼らはそこで驚くべき兵器技術(例えば電波探信儀・レーダー)を目の当たりにした。

(中略)

6月に入って)陸軍側の視察団は独ソ開戦切迫の気配が濃くソ連との国境が閉ざされることをおそれ、団長山下以下団員は予定を早めてシベリア鉄道で帰国の途についた。19名の海軍側視察団は同コースをたどろうとしたが、622日ドイツ軍がソ連領内に侵入を開始してその望みを絶たれた。

かれらはやむなく、イタリアの双発機に便乗、ブラジルに赴いて二班に分かれて帰国した。

 

「深海の使者」から推測すると、65日にもたらされた情報は、なんらかのかたちで陸軍の山下奉文中将には伝えられたに違いない(吉村昭がこのことを明記していないのは執筆当時(昭和48年)まだ情報が公開されていなかったからだと思う)。山下はその後に起こった太平洋戦争でもシンガポールを陥落させた将軍であるなど陸軍のいわば中心的役割を果たしていた超重要人物であった。ドイツは山下がベルリンに滞在していることを知ってそのために日本に事前に機密情報を教えたと言えないこともないのではないか。海軍は蚊帳の外だった。

 

 

昭和の大戦争時代、軍は兵器を強化するために軍需産業に対して高品質で安く大量に生産する体制を確立することを要望していた。このため軍需物資を作る工場に監督将校を常駐させるなどをしていた。

ある民間会社ではこのような軍の要望に応えて、航空機用のアルミニウム製品(航空機用板材、プロペラやエンジンの鍛造品)の大量生産技術を導入するためにドイツに技術者を派遣することになった。

私の父はアルミニウムの鍛造の技術者で、当時航空機の金属プロペラの開発に取り組んでいた。

彼は社命でドイツに4ヶ月の出張を命じられた。目的はアルミニウム鍛造技術の取得と3000トンクラスの大型鍛造機械の購入である。

昭和16520日栃木県の工場発、29日日本統治下の満州国大連発、62日満州里でシベリア鉄道へ、65日シベリア鉄道クラスノヤルスク駅(一人で息子の誕生日を祝う)、68日モスクワ駅、610日ベルリン着。

ドイツが日本に対して622日ソ連に向けて開戦宣言をすることを65日に通報してきたことは全く知らない。

つまり、それを知った陸軍技術視察団が一斉に引き上げたかあるいは引き上げようとしているその時期のベルリンへ何も知らされていない民間技術者はのこのこと入っていったのだ。そして入国12日後に独ソ戦が勃発し、シベリア鉄道が閉鎖されて帰国できなくなった。

民間技術者は軍の要望により渡独したのであるが、もちろん軍の命令ではなくあくまで企業の判断ではある。しかしその後も彼らは「在独日本帝国大使館付陸軍武官事務所」の管轄下に入って、知り得た知識を会社とともに軍にも報告している。そのような民間会社の人間に危機管理のための情報は全く与えられていなかった。それが官民の関係の実態であった。

会社社長は開戦を知ってうろたえる技術者に、踏みとどまって落ち着いて初期の目標を果たすようにという訓令を打った。

帰国不能の間、空爆による住居環境や食糧事情の悪化もあり父は結核を発病して、遂に帰国できなかった。

 

 

黒き森からアゲハチョウ東へ

 

(2020年3月)

 

 

 

 












中国古典語は難しい

今「論語」を原文で読んでいる。気が向けば一日23章読む。20篇のうち14編まで来たから512章中350章ぐらいは読んできたことになる。

ところが、一向に中国語古典語を読む力が向上しない。相変わらず語句の注釈を読み、現代中国語を読み日本語注釈を読まないと分からない。350文も読んだのに何度原文を読み返してみても、何を言っているのか分からないときもある。

話によると、中国語の古文は日本語の古文ほどは現代文から解離していないそうだ。でも現代の中国人は古文を読んでもさっぱり分からない人が多数である。私の中国人の先生も、大学で文学を専攻(明以降の文学が専門)した人だが論語は原文を読んだだけでは分からないという。

何がそうさせるのか。青木五郎の「現代中国語で読む古典」のなかの説明によると、古典読解上の注意点として次のようのことが挙げられている。

 

1.    語義に違いがある。「座」に「犯」という意味は現代語にはない。

2.    品種の転用がある。動詞の「射」は古典語では「弓術」という名詞にも使われる。

3.    語順が違う。現代文では文の基本構造は、動詞・目的語の順だが、古典語では目的語・動詞の順の場合も多い。

4.    文の成分の省略。古典語では簡潔な表現を尊ぶためしばしば文の成分が省略される。主語が省略されたり同じ言葉の反復は省略される。

5.    古典語の特有な文型がある。

6.    虚詞の用法が多い。否定の副詞として、不、弗、否、未、亡、非、微、勿、无、罔などがあるがそれぞれ微妙な使い分けがあるらしい。

 

私が付け加えるとしたら、古典語は語彙が少ないから同じ語彙でも現代文当てはめると違う意味を持つことがあるというのも難しくしている要素だ。中国語の学者の青木五郎先生は、中国の大学で「史記」の講義を受けたときに、「史記」の原文を聞いてもほとんどノートにとれなかったとのこと。

私にとってわずかな慰めだが、やはり言葉は難しいということであろうか。

 

紙魚眠る論語の難きところにて

(2018年7月)

 

  












19世紀と日本の文明

朝日カルチャーセンターへ「19世紀の日本と文明」(苅部直)を聞きに行く。ちょうど「「維新革命」への道」(新潮選書)を読み終わったばかりだったので、著者のまとめを聞くつもりで。

「「維新革命」への道」は明治維新から文明開化が始まったものではない。すでに江戸後期に日本近代化はその萌芽を迎えていたのだ、という論で、荻生徂徠、本居宣長、賴山陽、福沢諭吉などの思想家たちの考えを述べてゆく、という本である。

なぜ彼らは明治の外的刺激を待たずに文明開化の必要性を説き始めたのであろうか。

徂徠は先王(堯舜)による制度を原型とし、当世に見合った制度を作り統治に利用すべきことを説いた。

本居宣長は「古」より「今」の物の方が勝れている、と言っていた。また中国を理想化する漢学者の誤りを知るには、オランダ人は便利だと言った。

徳川時代農村においては米の増産を図り多くの商品作物の開発が進み、商品流通のネットワークが形成された。また民間の学問所が設立された。太宰春台は金銀・銭が流通する現実に鑑み、地域の特産品を地方に売ることによって財政を再建せよと説いた。

賴山陽の歴史書は、道徳理論にとらわれずときの[勢]に立ち向かった人物たちの心理と人格を生き生きと書き、政策の得失を論じ、読者に統治の夢を託した。

著者は総括していないが私なりに総括すれば、人間の持つ平等意識(世襲制への疑問、門閥への厭い)、生活向上意欲、学問所による知識、中国漢書から知り得た西洋事情、長崎のオランダ人などから知り得た西洋事情などが人びとに浸透してくるにしたがって、徳川中期から時勢は不可逆的に進んでいった、ということではないか。

西洋事情については、物事が公議により決して行くこと、学校、病院、幼院などが揃っていると知り、人びとは欧米の文明に強く憧れた。

しかし、福沢諭吉は単に西洋を文明の進んだ国として考えず、文明には、智恵と共に徳が必要と唱えた。

 

講師は東大法学部教授で専門は日本政治思想史。すなわち丸山真男の後継であろう。私は丸山真男の講義を聞いたことはないが、国際政治史の岡義武の名講義には聞き惚れた。苅部直の講義も流れるような調子で、カルチャーセンターには珍しい、大学の講義を聞くような雰囲気があった。

 

ところで、俳人長谷川櫂は「日本の近代は明治維新からはじまったといわれますが本当は江戸徳川家斉の大御所時代(17871841)にはじまっていたと考えなくてはなりません。というのは近代化というのは大衆化の時代のことだからです。近代大衆社会の求めにいち早く応えたのが家斉と同じ時代を生きた一茶でした。近代俳句は明治の正岡子規からはじまったといわれますが、それよりも半世紀以上も早い一茶の時代からはじまっていました(「古志」から抜粋)。」と述べている。彼は明治維新とは経済や文化の近代化に遅れて訪れた政治体制の近代化に過ぎないと言っている。そして、苅部は政治も体制という形は別としてその萌芽は江戸中期にあったと言っている。

(2018年7月)

 



















私のゴルフ人生総括

ゴルフフクラブを廃棄したので、ゴルフのデータにもケリを付けるつもりで、今までのゴルフのデータを集計分析した。

ゴルフを始めたのは29歳だったが38才頃に回数も増えスコアも100を切れるようになってから、記録をつけることは記録を良くすることと思ってつけ始めた。59歳で会社の代表についてからはそこに全精神を傾けていてゴルフの記録を分析して残すなどという気になれなかったが、スコアカードはそこそこ残っている。そして71歳でゴルフ生活から引退した。

41年間のゴルフ人生でデータは38歳から71歳までの34年間しか残っていないが、これにより総括する。まずはプレイしたゴルフ場から。

[プレイしたゴルフ場]

訪れたゴルフ場は国内外173カ所。国内では関東が圧倒的に多いが北海道も6カ所、九州も沖縄を含めて5カ所ある。これは仕事柄全国にあるお得意先と一緒にゴルフをする機会が多かったからである。海外では、アメリカ、タイ、マレーシア、イランで6カ所プレイした。

ホームコースは、青梅カントリークラブ、よみうりゴルフ倶楽部、平塚富士見カントリークラブ、彦根カントリークラブ、大相模カントリークラブ、富士御殿場ゴルフクラブ。

回数が多かったのは、よみうりゴルフ倶楽部、平塚富士見カントリークラブ、大相模カントリークラブ。高校の友人とのプレイは地元の筑波東急ゴルフクラブ、取手国際カントリークラブなどが多く、大学の友人とは相模カントリークラブ、湘南カントリークラブなどが多かった。妻と良く行ったゴルフ場は、軽井沢浅間ゴルフコース、水上高原ゴルフコース、小海エリックスカントリークラブ、霞ヶ浦国際ゴルフコースなど。海外では革命以前のイランのパーレビ国王関係のゴルフ場でプレイした。

プレイしたなかで、特に私の印象に残るゴルフ場ベスト5は、美しさと風格から言って、函館の大沼国際カントリークラブ、日光カントリークラブ、レイクウッドゴルフクラブ、名神八日市カントリークラブ、フェニックスカントリークラブ。

 

[ゴルフスコアカード]

38才から71歳までの34年間でプレイした回数は759回(年間平均22.3回)。平均ストロークは888。ベストスコアは766回。ハーフベストでは364回。ホールインはないが、イーグルが5回。年間平均のベストは85.054歳の時だった。このときは1年間52回プレイしている。アマチュアの場合は年齢如何よりも回数が多いときの方が良いスコアが出る。

スコアでもっとも印象深いのは、57歳の時のよみうりゴルフ倶楽部会場記念杯での優勝スコア。雨天のバックティ、ノータッチで79だった。上がってからしばらくはゴルフの内容に不満が残ったが、やがて表彰式で優勝カップが渡され、コンペに参加した競技者、倶楽部支配人、所属プロ、キャディマスター室、フロント、果ては食堂の従業員にまでお祝いの言葉をかけられ、天にも昇るよな気持ちになったことを覚えている(「エッセイ」目次最初の「会場記念杯に優勝して」をご覧下さい)。

ハンディキャップはオフィシャルが12。クラブハンディキャップはよみうりゴルフ倶楽部の9

教本ではサム・スニード「ナチュラル・ゴルフレッスン」、ベン・ホーガン「モダンゴルフ」、ジャック・ニクラウス、ニック・ファルドの本などを何度も読んだ。往年の名プレイヤー陳清波の個人レッスンを受けたこともある。技術論の切り抜きスクラップブックもある。

 ゴルフクラブも毎年のように新しいものを買った。自分でシャフトの長さやライ角度を調整したりした。         

 現役時代会社の仕事以外では一番打ち込んだのがゴルフだったと思う。会社を退職してゴルフに打ち込めることを楽しみにしていたが、いざ退職してみたらあまりやりたいと思わなくなってしまった。スコアは伸びないどころか悪くなるし、仲間とやるにしても予定に縛られるのが窮屈だし、一人で行くには腕が落ちているし腰痛がでるのも怖い。妻とやるのは楽しいがそれまでの張り詰めたゴルフとは違う。

一緒にプレイした人はスコアカードで名前を見ると懐かしい。大勢のコンペで会った人のなかには名前を見てもどなただったか思い出せない人もいるが。一番一緒に良く行ったゴルフ仲間は鬼籍に入ってしまった。この人はゴルフの腕前はそこそこであったが相手が誰であれ同伴競技者をリスペクトしてプレイする人だった。

ゴルフの道具を処分するのは簡単だが、スコアカードの束を処分するのは思い出を捨て去るようで簡単ではなさそうだ。

今でも時々ゴルフの夢を見るが決まって空振りをする夢である。1963年初めてコースに出た小山カントリークラブ一番のスタートで、私は何組かのゴルファーの見ている前で3回か4回連続して空振りをしたのだった。

20186月)

 

 

 





















[ある友の死]

俳句の知り合いが亡くなった。

私が2006年、今の俳句結社に入ったのを聞きつけた高校時代の友人が、その結社には自分の大学時代の友人がすでに入っている。結社の主宰者長谷川櫂命のような男で仲間から冷やかされている男だが、良い奴だから紹介しようと紹介されたのが、亡くなった男である。

結社の句会でよく隣り合わせになって話をした。主として自分は一人吟行をして俳句を作っている、読んだ本ではこれこれが面白かったなどの話題だった。

彼に紹介された本は沢山あるが、なかでは「蕉門名家句選(岩波文庫上下)」が印象的だ。驚くべきことに彼はその中の句を諳んじて聞かせてくれたりした。

句会で主宰に採られることは誰でも嬉しいことだが、彼は嬉しさを隠さなかった。決して多弁ではなかったが素直に喜びを表現することで、句会の雰囲気を明るくした。

やがて結社の主宰が交代した。長谷川櫂命の彼は落胆したが、しばらくして新しい主宰に採られるにはどうしたら良いかを研究するようになった。やっぱり新主宰の句を手で書き写すような努力をしないとだめかなあ、などと言ったりした。このことで、彼の句はさらに新しい天地に飛び出したような気がする。

彼は自分の俳句の特徴を、物語俳句だからダメだと言っていた。自分は、仏教、日本の古典、杜甫李白などを勉強しているのでどうしてもそれが俳句に出てしまう。この臭みを無くすために一人吟行を重ねているのだと。しかし、いつか句会の席題で「鱸」がでたとき伊勢湾の清盛の舟に鱸がのっこんできた様子を「清盛は仇なれども鱸舟」と鮮やかに詠んで長谷川からこの作者ならではという評価を受け、満面喜んでいたことが忘れられない。

晩年は闘病で入退院を繰り返すようになったが、退院するとその足で吟行に出たり句会に出たりしてみなを驚かせた。晩年は俳句に賭けていた人だった。入院生活で読んで一番こころ安らかになるのは虚子の句だと言っていた。近作に

 

一茶忌や我も未来が恐ろしき

 

というのがある。一茶の「花の陰寝まじ未来が恐ろしき」を踏まえた句だと思うが、病魔と戦いながらもまだまだ現世で楽しく俳句を作りたかったのであろう。しかしいまはかの世で独特の大きな声で名乗りを上げて俳句を楽しんでいると信じたい。

(2018年3月)

 













大岡昇平

「歴史小説集成」(大岡昇平)を読んだ。

内容は、「将門記」「渡辺崋山」「天誅記」「姉公路暗殺」「吉村虎太郎」「高杉晋作」「竜馬殺し」ほか3篇である。発刊は2017年1月と新しいが、新しく編纂されただけで作られた小説は古い。

私は今まで好きだった作家は誰かと聞かれれば、あるときは大岡昇平だったと、躊躇なく答えることが出来る。

「俘虜記」「武蔵野夫人」「野火」「花影」「将門記」「レイテ戦記」「堺港攘夷始末」など、どれをとっても心をときめかせて読んだものだった。晩年雑誌「文学界」に連載された「成城だより」はそれを思うとこのホームページの「日限り日記」が書けなくなるような、この作家の頭が「知の宝庫」であることを示す日記だった。

さて久しぶりに大岡を読んだのは、最近何を読んでも感激しなくなったので、小説を読む楽しさを取り戻したかったからである。

解説者によると大岡の歴史・小説の特徴は、「敗軍の兵卒」を主たる主人公にしていることだそうだ。しかし、私の感じは次のような小説の最後にある文章にあると思う。

「(吉村虎太郎は)五条で行動を起こしてしまってからは、一筋の道からも外れることは出来なかった。そして生まれたままの百姓として死んだように、私には思われる。」

「(高杉晋作は)自己の行動から利益を収めようという気は全然なかった。しかし慶応年間の長州は、慎重な陰謀によって倒幕を実現し、それまでの投資を回収する段階にいたっていた。高杉の任務は終ったといっていいので、その死むしろは時機を得た感じである。死は奇妙に、丁度いいときにやって来るものである。」

「(坂本竜馬は)十分慎重に行動していたつもりだったのだが、陰謀家にはやはり安住の地はなかった。いてもいなくても構わぬようになった時、ほんとうに殺されてしまったのである。」

人の死ぬときの死に様や死に時は、その人にふさわしい形であり時期に現れる、ということを大岡は見極めたのではないか。

ところで小説を読む楽しさを取り戻せたか。やはり問題は小説にあるのではなく、自分にあるらしいといことは分かりました、まだ断定はしたくないが。

(2017年7月)

 









築紫野の若武者を追悼する

 

Kとは大学寮で一緒だった。彼は空手部に属していて、入寮当初から広い廊下の真ん中を風を切って歩いていた。風貌も恰幅も良く、人懐っこさと素朴さを持っていた。

長じて仕事でロンドンに行ったときに銀行のロンドン支店長だった彼を訪ねたことがある。少し洗練され自信が加わったようだったが、寮にいた頃とあまり変わらなかった。バンカーに多い冷たい澄ました雰囲気は全くなかった。そのとき、お土産にカフスボタンをいただいたが、そのカフスボタンは今でも私が好きで一番多く使っているカフスボタンである。

クラスメートの俳句会には遅れて入ってきた。初めは成績が悪かったが、先生について研鑽し、持ち前の負けん気と馬力で短時間に先行する我々に追い付き追い越した。

彼の俳句の特徴は、一つには郷里の九州の風景を読んだ大きな叙景詩、もう一つには故郷への思いを詠み込んだきめ細かな叙情詩にあったと思う。とくに母上と妹さんを思いやる句には胸を打つものがあった。

彼はパソコンで字を打つことが苦手だったので、当番幹事になったとき句会の記録が手書きだったし時間もかかった。そこで私はいつからか彼に代わってパソコンで記録の整理をしてあげた。私は前にいただいたカフスボタンのお礼代わりだと言ったが、彼は聞き入れてくれずいつも美味しいお菓子を送ってくれた。それならばこの次からは郷里のお菓子にしてくれと言うつもりだったのだが。

彼は人の長たる性格からか、相手のことを褒めるのが上手だった。そして、自分のことよりも相手のことを心配する男だった。去年の年賀状には「貴殿の句にはいつも敬服。句会で貴殿のご指導を受けるのが楽しみです。年内復帰を目指します」と書いて俳句で停滞している私を持ち上げてくれた。今年の年賀状には、自分が大病であるにもかかわらず小さな手術をした私を気遣って「手術成功のよし良かったですね」と書いてくれた。

いつもまでも九州の若武者の雰囲気持った心の温かいいい男だった。

 

築紫野に春は来たれり君も来よ

(2017年3月)










自閉症児健常児混合教育

武蔵野東学園理事長寺田欣司氏の講演を聞いた。武蔵野東学園は昭和39年に故北原キヨ氏が幼稚園を作ったことを皮切りに、今では小学校、中学校、高等専修学校、教育センターを有する学園である。特徴は、自閉症的傾向を持つ生徒と、普通の生徒との「混合教育」である。

創立者の北原キヨ先生は、小学校を卒業して会社員になるが、彼女の才能を惜しんだ小学校の先生が小学校に給仕として勤めさせ、全国最年少で教員資格を採らせた。その後上京して教員を続けるなかで、多くの親から自閉症児の教育について相談を受け、ついに自分で「混合教育」を思いつき学校を設立した。

自閉症的傾向のある生徒の特徴は、多くの目的を与えられるとパニック状態になるが何か一点に打ち込むとものすごい才能を発揮すること、粘り強く取り組み手抜きなどはしないこと、大人とのコミュニケーションは下手だが同年齢の人とはうまくやれることなど。自閉的傾向の捉え方にもよるがアスペルガー症候群を含めると、300人から500人に一人はいるかも知れない。ニュートン、マイクロソフトのビル・ゲイツはじめ、飛び抜けて優れた才能を発揮する人は沢山いる。

混合教育の良い点は、自閉症的傾向のある子供を社会に適合させたいという親の心に添った教育であること、健常児が社会にはいろいろな人がいるということを知り、また自閉症児の優れた才能の影響を受けること。事実この学園の健常者の優秀高校への進学率は高い。この教育方法は世界的に高く評価されている。

以上が寺田氏の講演の概要だが、実は私は小学校2年生と3年生のときに16歳17歳の北原(旧姓永長)先生がクラスの担任になった。子供心に、厳しくやさしいお姉さんのような先生だが、隣のクラスの斎藤先生のように胸の大きな先生の方が良いななどと思った記憶がある。当時の通信簿が残っているが、16.7歳の人の字とは思えないきちんとした内容と字で生徒の評価が書かれている。

先生が武蔵野東小学校を作った昭和52年頃、私は会社の部長になりたてだったが先生からお誘いを受けて学園を訪問したことがある。

先生は、自分が全力を挙げて作ったこの新しい考えに基づく学園を、自分の親類縁者には継がせない。この学園の先生など志を同じにする人に継がせたいと熱い言葉で語っていた。私は先生から発破を掛けられたような気持ちで帰ってきた。

北原先生没後28年、学園が立派に運営さえていることを、先生のためにうれしく思った。なお先生の字で書いてある私の通信簿は、ラミネート加工され武蔵野東学園の資料室に展示されるという思わざる光栄に浴すことになった。

(2017年2月)

 

 

 




Aさんのご逝去をお悔やみ申し上げます。

私が初めてAさんの名前を知ったのは、入社した初めての冬日光スケートリンクの観覧席だった。その日我が社のチームと王子製紙チームのアイスホッケーの試合が行われた。「Fチーム第三フォワード」という場内アナウンスがある。とたんに私のなかまから「あっちゃーん」という大声援が湧き上がった。

Aさんは育ちが中国(満州)の東大アイスホッケー部出。我がチームでも、第一フォワードは全日本クラスだから無理としても、ばりばりの第三フォワードだった。当時は本社の文書課に転勤していたが、しばらくは工場の経理総務で働いていてファンが多かった。

次に会ったのは小山工場総務課である。Aさんは総務係長として赴任され私の上司となった。結婚式にも出ていただいたが「新郎は容貌カイイで・・・」と言われてしまった。新婦の前で「容貌怪異」はないでしょうとあとで抗議すると「いや容姿が立派、容貌魁偉」と言ったのだとのこと。

小山では社宅も近かった。やんちゃなお子様が三人おられて、野原を転げ回って遊んでいた。当時小山には野良犬がいて近所で怖がられていたが、Aさんの子どもたちはすぐ野良犬と仲良くなってしまう。その仲良くなった野良犬を子どもたちに気づかれないように処理することに、奥様は腐心されていた。ご家族五人がとても、温かいご家族だった。

次の出会いは横浜工場総務課長の引継。Aさんは所技でもあったバレーボール部にも属していて上手だったから、所内大会にも活躍していたようで、女性にも人気のある課長だった。

次の引継は本社総務部長。Aさんは広報課長をから総務部長になったので、沢山のマスコミの方を識っていた。私はその人脈を引き継いだが、Aさんの人脈に共通しているのは、決して日の当たる場所ばかりを歩いた人ではないが人間として魅力のある人だという点である。ご自分でも俺がやった俺がやったと自分の業績を喧伝する人ではない。ある人は「あっちゃんは、後になればなるほど味が出て来る人」と言ったが、そのような人だったと思う。

そのようなAさんがどうして出来たかと言えば、中学・高校時代の「自立」にあるのではないか。Aさんに書いていただいたところによると、1927年中国(満州)安東市(今の丹東市)生、教師である父の転勤に伴い鞍山、長春に住む。長春の小学校、中学校に学び父の指示に従って単身東京の府立六中に転校、静岡高校内定。戦災に会って中国に戻り、旅順高校に入り引き上げて東京高校に入り東大を出る。時代に翻弄されながらも学舎をもとめて着実に行動するAさん。

またAさんで忘れてはならないのは、奥様だ。学校でお作法を教えておられたが、Aさんに負けず悠揚としていつもにこにことされておられた。奥様はご健在だが、A様ご夫妻は私にとっては忘れられない方である。もう一度最後のお礼を申し上げたかった。

 

冬欅倒るるがごと逝かれけり

 

(2016年12月)










2015年私の俳句

2003年に俳句を始めて今年で13年目になる。

ところで私は2006年俳句結社「古志」に入会して、現在に至っている。古志には二つの投句欄があって、一つは大谷弘士主宰の選を受ける5句投句欄と、もう一つは長谷川櫂前主宰の選を受ける3句投句欄である。それぞれに毎月秀句10句が選ばれる。

私は過去、このいずれかの10句に入ったのは合わせて片手で足りるくらいしかないが、今年は3句投句欄ベスト10句に4度入選した。しかもそのうち一度は、第一位だった。

共に見し全ての虹は眼裏に

日頃の成績が、5句欄、3句欄共に悪い私にとっては、文字通り驚天動地の出来事であった。これを良い励みとしてもっと頑張ろうという気持ちもあるが、このようなことはこれで最後だろうなという気持ちも多い。

長谷川櫂氏は本業の俳句作りでも精力的で、年に一、二冊の句集を出される。そのほかにも、俳句界のなかに留まらず、むしろ外での活動が目覚ましい。聞くところによると所属しておられる東海大学文学部では、谷崎潤一郎の随筆集「陰翳礼賛」を講じたあと、「日本国憲法」を講じているとのこと。

その彼が、俳句を基にして少し傘を広げた活動に、「季語と歳時記の会」「横浜公開選句・選歌会」「かなぶん(神奈川近代文学館)連句会」などがある。今年私は、その傘の下で少し遊んでみた。

「季語と歳時記の会」は季語と歳時記の世界を探求し、普及させるためのNPO法人。「インターネット歳時記の運営」「山桜百万本植樹計画」と学際的な「歳時記学」の構築を中心に事業展開している。

ここは俳句会の開催も行うが、今年は東海大学教養学部准教授で植物生態学がご専門の藤吉正明氏の「花はなぜ開くか」という講演が行われ、つづいて句会があった。その句会で私の

芋虫のキャベツ二枚で足る一世

が講師に特選で選ばれた。講師によれば、紋白蝶の芋虫はキャベツ二枚で足りるのだそうで、作句しながら二枚では少ないかなと危惧した私を安心させてくれた。この句会で長谷川櫂に選ばれたのは“ 戦争法や非戦の法や芋煮会”だった。今年は国内の政治では「集団的自衛権関連法」で国論が大きく別れた。国際的には、大きな自然災害が多発したが、なんといってもヨーロッパの難民が大きな問題だった。人類は、これら課題を長い間解決出来ないまま今日に至っている。“洪水も難民もあり創世記”。

「横浜公開選句・選歌会」の選者は俳人長谷川櫂、星野高士、歌人馬場あき子、小池光の各氏。星野高士と聞いて私はあらかじめ、何度も行ったことのある鎌倉寿福寺にある虚子の墓を訪ね直して、

  虚子の墓より黒揚羽荒荒し

を作って提出した。選句・選歌会は10月だったから黒揚羽は季節外れだが、それ以外に思い浮かばなかった。果たして、星野氏の入選をいただいたが、馬場あき子氏が特選に採ってくださった。

それだからと言うわけではないが、当日の選者のなかでは馬場あき子氏の評が一番胸に入った。

「歌では、それまでの言葉がどんなに良くても、最後の七が常套文句になれば、全ての努力は崩壊する」「歌は口語でも良いが、その中にどこかに古典とか、批判精神を窺わせるものがなければ成功しない」などなど。

お話の内容もさることながら、きっぱりとした話し方に感銘させられた。小池光氏もややぶっきらぼうでありながら、本質をついたお話が多かった。思うに、歌は俳句よりも長いから、評論も、なんとなくいい、とか、この一語が良い、では済まされず、論理的な評価が求められるのであろう。そこが、初めて歌人に接する私にとって、新鮮だったのだと思う。

帰ってから本屋に行って、馬場あき子「歌よみの眼」、小池光「うたの動物記」、栗木京子「現代女性秀歌」、小高賢「現代の歌人140」など歌人の著書を求め読んでみた。みなそれぞれに俳句作家にないものの見方があって面白かった。俳句から見ると歌は実に長くいろいろなことが言えそうだ。かといって自分をさらけ出さずには済まない歌の世界には到底入っていけないと思うが。

「かなぶん連句会」については、すでに「初めての歌仙」に書いた。半歌仙公開募集12句のうち2句採用されて有頂天になったことはそこに書いたとおりだが、友人から、あれは本当の歌仙ではないよ、とたしなめられた。

 

 

(2015年自選10句)

 

雪折れやばきばき風の又三郎

列なして波乗るごとき目刺かな

どの種もさつと出て来る種物屋

虚子の墓から黒揚羽荒荒し

裏山の暮れかねてゐる帰郷かな

洪水も難民もあり創世記

蛤の殻にはるかな海の景

共に見し全ての虹は(まな)(うら)

輓曳(ばんえい)競馬より愚劣なるもの知らず
     
   姉12月9日逝去

 降る雪や姉の謦咳(けいがい)消え去らず

(2015年12月)

 













 

 

 

 

初めての歌仙

 

はじめて連句会なるものに出て、思いがけない成績を上げた。松尾芭蕉の言によれば、連句は「文台引き下ろせば即ち反古」である。やっている最中が楽しいのであって、終わってみれば反古に等しい。それも参加者が楽しいのであって、局外者が記録を見て面白いとは思わないであろう。しかし、私としては、この興奮をどうしても残しておきたい、ということから、当日の様子を自分の句を中心に綴ってみた。なにとぞお許し下さい。

当日の選者は、歌人の小島ゆかり、作家の辻原登(神奈川近代文学館館長でもある)、俳人の長谷川櫂である。それぞれの分野でいま一番輝いている人だと思うが、私が一目見たいと思っていたのは辻原登だった。現代の日本の作家の中で、「許されざる者」、「闇の奥」、「韃靼の馬」など国を超えた大きな物語を書ける唯一の作家として、作品を愛読しているからである。

会場の神奈川近代文学館は、「港の見える丘公園」の奥にある。定刻一時半に行ってみると、定員200人の会場が三分の一ぐらいまで埋まっていた。

司会の長谷川から、これから半歌仙18句を巻く。すでに選者3名によって6句作られているので、まずその句意を三人からお話ししましょう、と言うことで、小島、辻原、長谷川からそれぞれの句について説明があった。ついで「参加者は後の12句を作る。提出してもらったものから、選者が討議して一句を選び次々に繫いで行く。歌仙には細かな決めごとがあるが、ここでは私が言うことのみが決めごとです。7句目は雑の句。6句目の句から、なるべく離れて作って下さい。3分間のうちに所定の用紙に書いて出してください。それではスタート」と言われて、あっという間に歌仙は始まった。

6番目の句は長谷川の「さても哀しき妖怪の図」である(下表参照)。その日は町中でハロウィンの姿が多く見かけられたので

「ハロウィン一家で回す天球儀」

を出したが、ハロウインの句が多かったらしく、司会者の選ぶ予選6句にも入らなかった。予選を通った句の中から小島、辻原、長谷川が合議して選んだのが「右左上ル下ルは京の町」。これに付ける8句目の七七を、

「宙を飛ぶのは鞍馬の天狗」

と三次元に広げて出したところ、これは予選を通って、スクリーンに映し出された6句に入った。司会者は、鞍馬山は京都なのでこれも面白いとは言ってくれたが、選ばれたのは「憂国者たちは自転車に乗る」だった。左右上下の平面の中で、京の町にふさわしい憂国者を自転車に乗せた機知に感嘆した。採られた句の作者は名乗るのだが、名乗った「むつみ」さんは東海大学文芸創造学科教授、この歌仙の会の主催者で、申し訳ありません、と笑わせる。後で調べてみると山城教授は文芸批評家であり、ドストエフスキーに関する著書もおありだという、なるほど。

つぎは冬の句ですよ、というので句帳に書き留めていた言葉を手がかりに、

「膃肭獣(オットセイ)と書けばいかにも温温し」

を出した。結果は予選を通ってスクリーンに映し出され、小島、辻原両選者からも、面白いなあ、いかにも、氷の上に乗っていて寒くても暖かそうな様子をしているのが目に浮かぶなあ、と言ってもらえてこれで決まりそうになった。そのとき場内から「温温し」は春の季語ではないですか、というクレームが入った。司会者が調べたところそうだということが分かって、スクリーンから姿を消すことになった。残念だなあ、と選者が言ってくれた。「・・・・冬温し」ならよかったのかも知れないが、あのオットセイの姿は、「温温し」といった繰返語とかオノマトペで表現したかったので、やむを得ないことではある。ちなみにこの「膃肭獣」とい言葉は「蝋虎膃肭獣猟獲取締法」という法律で使われている。このことを最近歌人の小池光「うたの動物記」で知って、おもしろなあと思ってこの言葉を句帳に書き留めておいたのだ(蝋虎はラッコ)。

次は恋の句で私が出したのは、
「警察犬に禁断の恋」(決まったのは「豊後水道つれて逃げてよ」)、次の雑または恋の句は「文学館理事長室から黒き影」、(決まったのは「晴天にドクロの旗のひるがへり」)、つぎの秋の句は「マストの上に赤トンボ二匹」(決まったのは「油田の荒地コスモスの咲く」)、次の秋の句は「輪廻転生アブドラの孫秋草へ」(決まったのは「月白や爆撃の音今日もして」)と、4句連続予選に残れずに敗退してしまった。しかし、反省している暇もなく、次の句を作らねばならない。第十四句目は秋の句、そこで、

「コクリコ坂を落ちる橡の実」

を出したところこれで決まった。説明を求められたので、アラブまで行った主人公を連れ戻す、しかも、現実の場所ではなくて、架空の場所に。爆撃の音で木の実を降らせる。コクリコ坂はジブリ映画に出て来る架空の坂で、今日文学館に来る道すがら、この丘公園に「コクリコ坂」で使われた赤色の旗がはためいているのを見て、連句会で使いたいと思った。架空の物語の「安全航行祈願旗」を実際に建てるなどなかなか洒落た考えだと思ったので、と説明した。

つぎは雑で、

「裏門のYの木太し文学館」これは辻原登の最近作「Yの木」から作ったものだが没。決まったのは「見わたせばはるか遠くに雲の群れ」(東海大学学生作)。第十六句目は春の句で私の作、

「腹の立つこと投げよ春野へ」

で決定。これは前日新宿花園神社に「腹の立つことはすべて納めてください」と掲示があったのを使ったもので、いわば花園神社の御利益。十七句、春・花は「プードルの警察犬や花吹雪」は没(決定は「借りてきた本にはさまる花のしをり」)。そして最後折端「花から生れよ輝く未来」は没。決定は「黒赤青とランドセル行く」で、この最後の句も、主催者の東海大学文芸創造学科山城教授作だった。

私が12句のうち二句も採用されたのは、ビギナーズラックというほかない。もっと周りを見ることに慣れればこのような離れた句は詠めなかったと思う。3分間のいわば瞬間勝負は、老人にはつらいものがあるが、老人なりに言葉巧みに立ち回ることも出来そうだ。

選者は単に句を選ぶだけではなく、もう少し離したほうがいいなあ、とか感想を言う。選びながらも、こういう考えは好きだなあとか、この歌仙はこういう方向に行けば良いなあ、とかの希望も言う。短い言葉を通じて長谷川、辻原、小島の詩に対する考えも窺い知ることが出来る。これもとても貴重な体験だった。

芭蕉は「発句は門人の中、余に劣らぬ句をする人多し、俳諧においては老翁が骨髄」と言ったそうだ。発句とは歌仙の中のはじめの一句のこと。芭蕉が自分が骨髄と言ったのは、発句以外の俳諧36句中の句のことを言ったのか、俳諧の捌き手としての自分を言ったのか、私としては分からないが(長谷川櫂の「芭蕉の風雅」によれば捌き手としての芭蕉)、出来上がったこの半歌仙「失はれた手袋の巻」を見ると、個々の句を選んでいると思っていた長谷川櫂(あるいは辻原登、小島ゆかり)好みの歌仙に、いつのまにか仕上がっているような気がする。個々を競いながら全体を楽しむ。これも歌仙の面白いところなのかも知れない。

 さて当日、私は持参した辻原登の本に著者のサインをいただき、釣瓶落としの夕暮れのなか、ライトアップされている「コクリコ坂の旗」を見ながら家路に就いた。

 

 

半歌仙 失はれた手袋の巻(平成27年10月25日)

落ちてゐる片手袋や昼の月       ゆかり(冬・月)

闇汁の具を買ひに出て不明         登(冬)

まぼろしの創作ノート現れて        櫂(雑)

野薔薇の丘でなびくスカート      ゆかり(夏)

ひんやりと匂ひただよふ細き首       登(雑)

さても哀しき妖怪の絵図          櫂(雑)

右左上ル下ルは京の町          千枝(雑)

憂国者たちは自転車に乗る       むつみ(雑)

木枯やピザまん二つ売れ残り      三智子(冬)

豊後水道連れて逃げてよ         明笛(雑・恋)

晴天にドクロの旗のひるがへり       茂(雑・恋)

油田の荒地コスモスの咲く         信(秋)

月白や爆撃の音今日もして        忠子(秋・月)

コクリコ坂を落ちる橡の実        正和(秋)

見渡せばはるか遠くに雲の群れ      祥平(雑)

腹の立つこと投げよ春野へ        正和(春)

借りてきた本にはさまる花のしをり    信弥(春・花)

黒赤青とランドセル行く        むつみ(春)

 

 

(2015年10月)

 























 

プロ野球監督の真剣勝負とは

 

拝啓横浜DeNAベイスターズ球団殿

月刊誌「文藝春秋」の8月号「この人の月間日記」は、横浜DeNAベイスターズ監督の中畑清氏の今年の5月から6月にかけての日記です。私は長年のベイスターズファンであることから、興味を持って読みました。内容は副タイトルの「監督4年目、真剣勝負の日々」にあるとおり、中畑監督の熱い思いが溢れていて好感が持てました。しかし、ただ一カ所どうしても引っかかるところがあります。

原文を引用してみます。

 

68日(月) 明日からの楽天三連戦に備えて仙台に移動。高校からの一年先輩で安積商業高校から初めて駒大野球部に入った古川政和さんと、駒大で4年年下の菊田善信が待っていてくれた。駒大OBで今年から楽天のバッテリーコーチを務めている田口昌徳、その関係でデーブこと楽天の大久保博元監督も加わってにぎやかな食事会となった」。そのあとデーブと私の関係が「デーブ」「師匠」と呼び合うなかであることなどが述べられています。

 

本人がおおっぴらに書いていることですし、相手の楽天の監督も何の抵抗もなく出席しているのですから、これはプロ野球界では何でもない普通の出来事であるに違いません。いやむしろ、前の晩に対戦相手と酒を飲むような太っ腹やいろいろな人脈をもっていることを誇っているようにも感じられます。でもこれって少し変ではないでしょうか。

例えばベイスターズの翌日の登板予定投手が、試合の前日、大学の先輩である相手チームの4番バッターと楽しく飲んでいても、球団は別にかまわないのでしょうか。ファンの心理としては、試合前日の監督は、真剣に相手チームの分析をして翌日の試合に備える、ということであってほしいし、登板投手は相手のバッターの研究に励んでいて欲しい。実際はホテルで一人で寝ころんでいてもかまいませんが、当の対戦相手と飲んで談笑するような姿は、たとえ監督や登板投手でないとしても見たくありません。これでは日本のプロ野球リーグは、所詮はよく知った仲間内の、お遊びだと感じられても仕方がないのではないでしょうか。ひょっとして、あそこであのリリーフ投手が登板し、ホームランを打たれたのは前の晩情報交換があったためではないかと思えば、熱心に応援するのがばかばかしくなります。

競輪や競馬は賭けの世界だからプロ野球とは違いますが,このようなことは到底許されません。プロ野球の監督や選手は、酒の世界と勝負の世界は分けていますよと言うかも知れませんが、それはあまりにも単純な考えでありすぎます。プロ野球でもかつて,黒い野球賭博疑惑があって、永久追放になった選手がいましたし、球団も人気がなくなり身売りする羽目になりました。賭のない相撲界でも裏の相撲賭博が摘発されて力士が追放され、相撲人気が急落しました。いまは翌日の取り組み相手と飲むなどというのは禁じられているはずです。

真剣勝負ということで、対戦する者同士がたとえ孤独でつらくても、心も形も真剣勝負にふさわしい状態におくからこそ、スポーツが一日何万人も集めて興行として成り立つのだと思います。前日対戦相手と飲むというようなことを許していれば、やがて、蟻の一穴から堤防が崩れるというようなことが起こらないとも限りません。実業界でも,明日大切な競争入札があるという前日に、競争会社の責任者同士が酒を飲む、などということはありえないと思います。

試合の前日に相手チーム関係者とお酒を飲むのは止めて下さい。対戦するチーム関係者とのお酒はシーズンオフに飲んで下さい。真剣勝負には心構えばかりでなく、身を律する形も必要なはずです。良くお考えいただければ幸いです。

さて、69日からの対楽天三連戦では、ベイスターズは三連敗しました。8日の飲み会の影響はないと信じたいですが、真剣勝負への気構え不足だったとすれば影響ありと言えると思います。

末筆ながら今年のベイスターズの巻き返しを心から願っております。

敬具
(2015年8月)

















先祖伝来の土地を売る

 

平成25年1月、私と姉、弟は茨城県つくば市にある土地、三人合計で約2,500坪とその上にある家を売却した。この土地は、私の曾祖父(天保14年(1843)生)が明治28年2月に宅地・畑約1,000坪を取得したことに始まる。その後祖父が明治42年2月に隣接地約1,500坪を取得した。また明治41年12月に祖父が家を新築した。祖父は大正年代に山林、田、宅地約6,900坪を買い増しし、最大時で9,400坪の地主になったが、晩年買い増した土地を手放して、残ったのは上記の約2,500坪の土地に30坪の木造の家が建っている不動産であった。なぜ手放したかというと、祖父が老年になり管理することが難しくなった上に、太平洋戦争敗戦後の農地改革により小作農制(農地の賃貸し)が禁止されたためだと思う。この残った不動産が118年間に、曾祖父、祖父、父、私達と4代にわたって引き継がれたのである。

この家屋敷には、曾祖父母が住んだあと、東京に住んでいて昭和20年3月の東京大空襲で家を焼失した祖父が移り住んだ。そして私の父が昭和20年9月に死亡したため、私たち家族も移住して祖父母とともにこの土地に住むことになった。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラに故郷タラがあったように、私たち家族にはいざというときに「沼崎」(土地の地区名)があったのである。

近くに筑波学園都市が生まれ、土地開発が進み住宅地も広がったが、当該地は、都市計画外の指定を受けていて、開発はおろか住まない限りは自分の家さえ建てられない。近所に聞いてみても、固定資産税や都市計画税が安いから都市計画地域への変更は望んでいないとのことだったから、値上がりは期待出来ない。一方不在のままこの広い土地を持ち続けるには、草刈り代、屋敷林の伐採、家の修理などに年間相当な管理費がかかる。私の次の世代、すなわち子どもや甥姪に引き継いでほしいと思ったが、誰も手を上げる者がいなかった。引き継ぐ者がいないばかりか、私の元気なうちに処分してくれという要望まで受けてしまった。

私たち姉弟は高等学校を卒業するとこの土地を離れたが、母は平成9年に死亡するまで、断続的ではあるがここに住んでいた。平成9年以降現在までは、空き家のまま私が土地建物を管理していたのである。つまり、私の子どもや甥姪は、母が健在な間は休みに田舎と称してここで暮らしたことはあっても生活をしたことがない。彼らが利用出来ないこの土地建物を所有し管理する気にはとうていなれないのも致し方ないことである。

家の周りは寺、山林、農地、宅地であるが、農業従事者には土地を増やしたいと思う者はいなかった。結果として我が土地を購入したのは、地元の保育園の経営者であった。保育園の親子のために果樹園にしたいという夢を持っておられた。私たちの、近隣に迷惑を掛けない方にお譲りするという考えに沿っていたのでこの方にお譲りすることとし、私たち一族は118年にわたるこの土地の所有者の立場を下りた。

日本には土地本位制の神話があって、土地を持っていれば必ず儲かると言われていたが、それは都会の一部のことで、私たちはむしろ保有することの損失の方が大きかった。もっとも、我が一族も太平洋戦争後の食糧難時代をこの土地を山林雑種地から畑に開墾して乗り切ってきたのだから、土地本位制が機能していたと言えないこともない。今後我が一族にはいざというときに頼るべき土地はなくなったわけである。しかしながら、基本的には土地はそこに住む人たちが利用するためにいわば天から借りたもので、利用しない場合は天に返すのが筋であるということを、平成9年からの管理を通じてつくづくと感じた次第だった。

家屋敷を売却したその日、我々姉弟は曾祖父が生まれ幼年期までを過ごした場所を訪ねた。そこは「沼崎」から北へ7キロほどの筑波山の麓に近いところで、その日は霞がかかっているような穏やかな日だった。そこには沼崎の家に隣接してある寺と同じ宗派の寺があって、曾祖父の出と思われる家はその寺に近くにあった。おそらく曾祖父はこの縁で沼崎にある寺に修行に出さされたのであろう。曾祖父の父母、祖父母までは明らかだが、それより前の祖については、祖父が伝聞を集めて書き残した書物の中に物語のように残っているだけである。

 

   姉弟で探る父祖の地春霞

(2014年1月)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラス会句会

 

俳句を始めたのは仕事を退いてからである。2004年正月、大学のクラス会で、俳句を始めたよ、と報告したところ、一人が、俺は前からやっている、何人か集めて句会をやろう、と言い出した。かくして3ヶ月後、60歳台後半のほとんどが初心者の6人で、第1回のクラス会句会が開かれた。

句会は春夏秋冬の年4回、場所は言い出した者の事務所、司会は持ち回り、ということで始まった。やがてメンバーは10人に。男ばかりのクラス会の常連出席者20人のうち、半数が俳句会のメンバーということになる。

俳句の出来は別として、初めから批評の方はうるさかった。気心の知れた仲間なので遠慮がないが、厳しく反論もされる。句会の傍ら、分担して「切れ」について発表したり、参考になる本を紹介しあったりしている。俳句結社に入っているのは当初は一人だけだったが、今では半数以上が結社に入ったり、新聞に投句したりしている。一方、俳句の約束ごとにとらわれないで、自由奔放に作った句を出し続ける者もいる。

 午後5時に始めて8時終了、それから酒を飲んで話をする。この5月で発足10年になったが、辞めた者はいない。




 

(巻頭の人自選十句)

岩田帯そつとゆるめて七日粥

春節を躍りし龍の蛻かな

玉藻なす女神の髪の若布刈る

子がこども産みしその日の鯉のぼり

手を振つて夏雲へ往き還らざり

父の忌に近き母の忌秋の声

染まりけり深山の萩の花ずりに

現れて昔を探す返り花

長き笛負けるほかなきラガー等に

しばらくはこの冬蠅と一つ部屋

(「古志」2013年6月号「巻頭の人」欄) 

 

 

 

 

 

 今月の巻頭句

「古志」20135月号

 

しろがねの眉整へて小豆粥     北島正和

 

 

「小正月、邪気を祓うために食されるのが小豆粥。古くは小正月までが幕の内だった。松明へむかって、ぴりっとあらたまる感じが一句にある。うつくしく整えられた長老の眉のさまもめでたい。」

(大谷弘至 「古志」主宰)

 

 

[自解]

この句は、20131月の古志東京句会で、席題に「小豆粥」が出された時に出来たものである。席題はこの他に「寒晴」「福寿草」で、3句を30分以内に作るというものだった。

当日のノートを見ると、「小豆粥」のところには、しろがねの眉「垂れ下がる」「重くなる」「整へて」などと書かれている。

私は元々お粥が大好きで、家でわざわざ作るほどのことでもないが、旅先の朝食でお粥が選べる場合は大体お粥を食べている。一番印象に残っているのは中国を旅行した時に朝ビュッフェ形式で出されるお粥だ。種類も多いし、お腹に落ちるまでの質感がいい。中国らしく食材の種類が豊富で色彩も豊かなさまざまな料理の中で、お粥を食べている自分に、東洋人としての自負さえ感じられる。

お粥の席題が出て、まず最近とみに白くなった眉毛を湯気に濡らして嬉しそうに食べている自分が想像できた。しかし、「小豆粥」を歳時記で調べてみると、正月15日に、神に供え、祝い、食べる。これを食べると一年中邪気を払い、疫気を除くことが出来る、とある。そこで候補のなかから「眉整へて」を選ぶことにした。


(註)
「古志」の投句者は約5百名。同人、会員が一人5句投句し、主宰によってそれぞれ5句、4句、3句、2句、1句が選ばれ掲載される。5月号では5句選ばれた者は8名である。5句選ばれた者の句の中から巻頭句が選ばれる。私の巻頭句以外の句は、

  氷砂糖舐めて寒九をやりすごす
  姉弟で探る父祖の地春霞
  字の名は道祖神なり梅の花
  春一番橋のたもとの鰹節屋

(2013年4月)

 

 

 

 

謝辞

 

本日は我々卒業60周年生を同窓会総会にご招待いただき、誠に有り難うございました。土浦一高校長先生を初めご関係の皆様に厚く御礼申し上げます。

さて、我々が在学いたしました昭和254月から283月にかけて日本はどのような状況だったでしょうか。我が国は昭和の長い戦争によって多くの人命を失いました。我々の同級生の中にも戦争で肉親を失った方が何人もおられます。昭和208月に歴史的な敗戦を喫して以降、日本経済は長い低迷状態に陥りました。昭和25年に発生した朝鮮戦争により需要が回復して企業は活況を取り戻しましたが、我々の家の家計はまだまだ苦しい状況が続いていました。

土浦一高『進修百年』の年表を見ると、昭和25年には次のような記述があります。

・本校初めて女子学生入学(6名) ・能力別学級編成始まる(註、昭和45年に終了)

・図書館開館  ・土浦一高応援歌誕生

当時の先生方の座談会を読むと、本校は土浦という交通機関が集まり人口が集中している恵まれた環境にありながら、おっとりとした雰囲気があって、大学進学で他校に見劣りしている。この状況を何とか打破したいと思い、授業を充実させ学年テストの回数を多くした、というようなことが熱く語られています。

このような中に我々は入っていったのです。高等学校に入って我々は何を感じ、どのような行動をしたでしょうか。U君は生物の授業の開始に当たって先生が次のように話した言葉が忘れられないと言います。“ Metabolism is the essential of Life 生命の本質は代謝 である。”彼は、これこそ「真理」だと感じ、その内容をより詳しく知りたいと思いましたM君は、担任の先生が教室に入って来るなり黒板に書いた「別離傷心そのまま五月雨となり」という句が気になりました。別れるというのはどういうことなのか。この先生はどのような人なのだろうかと。YK君たちは、高校一年の時に自分たちの考えや作品を自由に発表できる同人誌を出そうと計画しました。その計画を担任の先生に相談したところ「勉強に専念しては」と言われたのですが、彼らはやり遂げ在学中に第一号を発行しました。O君が野球部のキャプテンとして朝礼の台上で、昨日の敗戦を悔し涙を流しながら、しかし相手チームに敬意を払いながら報告し終えた姿を忘れることが出来ません。

 当時の若者の間でよく読まれていた本は、夏目漱石、太宰治やトルストイの小説、桑原武夫『文学入門』、戦没学生の手記である『きけわだつみのこえ』、笠信太郎の『ものの見方について』などです。我々の仲間でも同じでした。また、映画『青い山脈』、『また逢う日まで』や外国映画『靴磨き』などにも多くの仲間が惹きつけられました。われわれはまさにその時、何が真理なのか、愛とは何なのか、人間は何ものなのか、を探り始めようとしていたのです。

当時の土浦一高には、先生方の中に、重厚な旧制土浦中学の雰囲気を身につけた先生方と、新しい時代の教育を受けた若い先生方の間にかもし出される緊張感がありました。また学生側にも土浦市の中学と、石岡市、筑波線沿線、阿見市などの中学の卒業生の間に生まれる緊張感がありました。それはどちらもお互いを尊敬し、切磋琢磨し、より高いところに導くエネルギーでもあったのです。このような環境のもとで、知識を習得し、真理を学び、フェアー精神を養い、生涯の友人を作ることが出来たことを、あらためて幸せに思います。

 現在我が土浦一高は、関係者のご努力で、公立高等学校では全国的に見て素晴らしい進学成績を誇る学校になっています。60数年前の先生方のご努力もその土台の一つになっていると思います。しかし、近隣に国際研究学園都市つくば市ができ、学校の競争環境も厳しさを増しています。このなかで母校がさらに発展することを望み、応援を続けて参りたいと思います。

終わりに、同窓会総会へのご招待は卒業60周年をもって最後となります。本日元気にこの総会に参加出来たことを皆様とともに喜び、今後も元気で活躍出来るようお互いの健闘を約束して、ご招待いただいたことへのお礼の言葉といたします。

(2013年4月14日)

 

 

 

 

父の見舞客

 

私の父は昭和16(1941)会社の同僚と三人で技術研究のため4ヶ月の予定で渡独した。到着直後に独ソ戦争が始まり、やがて太平洋戦争も勃発し、三人は帰国できなくなった。その後そのうちの二人はビザを得て1943年に帰国することが出来たが、父にはビザが下りず、やがて肺結核になった。

父は1943年暮にドイツ南部サンクト・ブラジエンにあるドイツ陸空軍傷痍軍人療養所に入院し、1945年に転院先のスイスのサナトリウムで死亡した。

サンクト・ブラジエンには日本の家族からの手紙は届いていた。時々日本の新聞を(ベルリンから)送ってくれるのは、同盟通信社の江尻進ベルリン支局長、神戸から単身でベルリンに来ていた松野繁子、在独日本人会の滝田次郎などのようで、このほかにも米や醤油や肉の佃煮なども送ってくれていた。

以上は私が「ベルリンからの手紙(第二次大戦、大空襲下の一技術者)」( 2009年)に書いた内容の一部である。もとになった資料は父の手紙、大堀聰氏「戦時日欧横断記「(インターネット)などだが、それ以外にはサンクト・ブラジエンの父に関する情報は全くと言っていいぐらいになかった。

このたび大堀氏から、新しい資料(「人生翔び歩る記」和久田弘一著、私家版 昭和61年)が見つかったという連絡を受けた。さっそくご子息の和久田健司氏にお願いをして一冊譲り受けた。それによると、和久田弘一様は1944年の秋ベルリンから二十キロの荷物を担いでサンクト・ブラジエンの父を見舞ってくれたとのことである。北大同窓の二人は病室で北大寮歌「都ぞ弥生」を歌ったとある。

以下は和久田弘一氏の書かれた父に関する文の全文である。

 

第八話 異境に病む同窓の友を見舞う(和久田弘一著「人生翔び歩る記」より)

 

ドイツの敗色が目増しに濃くなってきた1944年の秋のある日、私が日本人のよく集るベルリンの料理屋に行くと、一人の日本人が私の傍に来て「君は北大の卒業生のようだが、君と同じ学部の出身で古河電気工業からドイツに派遣されている北島正元という男がいま胸を患い、シュワルツワルトの南、スイス国境に近いセントブラシェンのサナトリウムに入院している。そこは国境地帯のため、我々では簡単に行けない。君は海軍武官室に勤務している関係で旅行許可が入手し易いと思う。どうか私に代って同窓の誼みで北島君のところへ見舞いに行ってくれぬか、今誰かが訪ねてやらぬと日本人に会うこともなく他界する可能性が強い。このままでは余りにも気の毒だ。大変ご苦労だが君に見舞いの代行をお願いしたい」と懇願されました。承諾してくれれば米、味噌、コンデンスミルク、ウイスキー等見舞いの品を集めるということです。

普通ならお断りする処ですが、強っての頼みと同じ大学のしかも工学部の先輩であるということで、ナイン(駄目)とも言えず行くことに決めました。

シュワルツワルト地方はベルリンとは違い、地味豊かな風景の美しいところと聞いております。鉄道旅行案内所で調べるとベルリンから汽車で十三時間の距離にあり、目的地セントブランシェンは終点チチーゼから十五キロのところにあり、交通は徒歩にたよるしかないとのこと。そこで自転車を持って行こうと思い、アンハルター駅(ベルリン)の手荷物係に自転車の托送手続きを頼みましたところ、私の発音が悪いためかチチーゼと言ったら女の子がクスクス笑うではありませんか。どうもチチーゼという言葉がドイツではエッチなことを意味するらしいです。

係の女性曰く「自転車を送ってもいつ着くかわからない、途中、失くなっても貴任はとれません」とのご託宣、折角戦時下スウェーデンから苦労して持ってきた虎の子の自転車を失くしてはと思い、托送を断念しました。

ベルリンを午後二時出発、途中、乗り替えをして次の日午後三時頃チチーゼに到着しました。

北島さんへの見舞い品はリュックに詰めて約二十キロ、学生時代、山で鍛えた私にはその重さはさして苦痛ではないと痩我慢はしたものの、あとで崇るとは思いませんでした。

チチーゼ駅はチチーゼ湖畔にあり、人里寂しい田舎の駅でした。そこから湖水に沿って田舎道をトボトボと歩き、やっとの思いで日没前にセントブラジェンの目指すサナトリウムに辿りつきました。

サナトリウムはミッション系の経営とみえて、カトリックの尼さんが世話をしておりました。北島さんの病室に案内されましたが、私には北島さんとは面識かおりません。

北島さんは北大昭和四年卒。私は昭和九年卒、同じ学部でも一緒になる機会はありませんでした。会って30分も立ち話をしてみると共通の友人、先生の名前が出てきて忽ち十年の知己の様に話が弾み、きりがなく程々にせぬと北島さんの病状に障ると思い、無理に話を打切り、北大の寮歌「都ぞ弥生」を歌って寝むことにしました。

サナトリウムの夜のしじまに響く歌声は、北島さんのことを思い、万感胸に迫り、ともすれば途切れがちになるのをこらえて歌い続けました。

歌い終り、それぞれの寝室に引き上げました。私はベッドに入っても昼間の重い荷物を我慢して担いで強行軍した崇りか、肩は鉄板の如く堅く凝り、歯は痛くなる始末、寝つかれない、マッサージかおるわけでなく、仕方なく自己療法、アスピリンをウイスキーでガブ飲みしてウイスキーの瓶で肩叩きをしていると酔いがまわりはじめ、漸く眠りにつくことが出来ました。翌朝、目醒めたときはどうやらもとの体調に戻っておりました。

帰りは道を変え、朝一番のバスでスイス国境にあるワルドフート駅に行き、そこからボーデン湖畔にあるコンスタンツに出て一泊してベルリンに戻ることにしました。

翌朝、北鳥さんはバス停のところまで見送りに来てくれましたが、これが北島さんとの最後の別れとなってしまいました。

戦争が終ったら日本で再会しようと堅く握手をして別れましたが、北島さんはその約束を果すこともなくこのサナトリウムで近親縁者に看取られることもなく一人さびしく昇天されたそうです。

北島さんの気持ちはどんなことであったでしょうか。見舞った最後の日本人の一人として私の胸中にこみあげてくるものがありました。

(2013年1月)
















私の好きな季語 「焚火」

 

昭和二十年小学校五年生の時に父を失った私と家族は、父方の祖父の住む今のつくば市に住まいを移した。

その家は、四方が空いていて天井も高く、夏は過ごしやすかったが冬は寒かった。私は五歳下の弟と冬に庭でよく焚火をした。敷地の中には栗の木、柿の木、樫の木、枇杷の木、竹林などがあったが、枯れ枝は竈や風呂の薪にしたはずだから、焚火は落葉を燃やしていたにちがいない。

 焚くほどは風がもてくる落葉かな    良寛

落葉焚き落葉足す人ゐてうれし   加田 怜

隣は住職のいないお寺であったため、夕方人のいなくなるのが早かった。火が消えれば全くの闇になる。私たちは父を失った悲しさを燃やしていたように思う。

とっぷりと後ろ暮れゐし焚火かな  松本たかし

焚火かなし消えんとすれば育てられ 高浜虚子

 

ところで、中国の詩文は様々な形で日本の詩歌に影響を与えたが、「焚火」に関しては白居易の「仙游寺に寄題す」という詩が強い影響を与えたと言われている。

(前略)

林間に酒を暖めて紅葉を焼き

石上に詩を記して緑苔を掃う

嘆き悲しむ旧遊また到るなきを

菊花の時節君が帰るを羨む

この、紅葉を焼いて酒を暖める、という詩心に多くの日本人が啓発されたらしく、沢山の類想の歌が詠まれている。平家物語にも「・・林間暖酒焼紅葉、といふ詩の心をばさればそれらには誰が教へけるぞや優しうも仕つたるものかな・・」とある。

当時、私と弟はせいぜい藷を焼くぐらいであったが。

私たち一家はその後家屋敷を残してつくば市を離れたが、母は晩年一人自立して生活することを好み、この家に戻ってそこで亡くなった。

最近つくばの家に弟と行くときは、まず焚火をしてから家の片付けや冬支度などを始めることにしている。物を燃やすことによって、辺りを清め、活気づかせるような気がするからである。

しかし、母が亡くなって十五年になるというのに、私たちはまだ母の思い出の品を整理し了わることが出来ないでいる。

その中に母の遺品も夕焚火     北島正和

(「古志」2012年12月号)





 

 

 

 

 

 

 

父の忌母の忌

墓誌に刻んだ俳句

 

私の父は1941年技術研究のため社命で渡独したが、独ソ戦争、太平洋戦争勃発のため帰国できなくなった。やがて病気になり1945年スイスで39歳で死亡した。

父は筆まめであったから家族によく手紙を出した。彼は、「ドイツは女性が極めて濃い化粧をしていて綺麗に装っている、日本でも女性はもっと美意識を満足させてよいのではないか」などと書いたが、母の返事には、ジャガイモが何貫目取れたとか、白いよい大根ができたとか、カボチャは別名トウナスというとかしか書いてないので落胆したりした。それでも父は英国空軍やソ連空軍によるベルリン空爆下で、母を思い家族を思ってせっせと手紙を書いた。

父が死んだ時母は34歳で子供が三人いた。母は自分の苦労はあまり言わずに、いつも父が外国で一人ぼっちで死んでいったことを、本当に可哀想に、と言っていた。そして自分が死んだ後は、墓地の墓室で父の隣に置いてくれ、とっちめたいことがいろいろあるのだから、と言っていた。母は1997年に86歳で亡くなったが、枕元に父の書いた随筆が載っている会社の社内報が置いてあった。

父が死んだのが9月、母が死んだのが10月である。私はこの父母のことを俳句に詠んでみようと思い、大学の同級生でやっている句会で、3年前に、“秋めきて父母の忌日の足早に”を出したが一票しか入らなかった。「秋が来て何ごとも足早になるのだろうなあ」という評があっただけだった。

ところで私の属している俳句結社では、主宰選のほかにお一人の自選同人の方が選ぶ題詠欄がある。201210月号の題詠欄の題が「秋の声」であると発表された時、自然に“父の忌に近き母の忌秋の声”という句が頭に浮かんだ。このように自然に句が浮かぶことは今までなかったことだった。「秋の声」という季語に、私の頭の中にあったものが引っ張り出されて出来たと言える。ただ提出する時に、我が家の実態とは別に一般論として、男が女を慕う形のほうが良いかなと思い、母の忌に近き父の忌、と順序を変えて提出した。

10月号ではこの句が題詠欄の第一位に選ばれた。選者の評は次のようなものだった。

「母上が亡くなった後、その忌日近くに父上も亡くなったのでしょうか。その逆だとしても、子供にこう言われるくらい父上はお母上を慕っていらしたのでしょう。物音がさやかに聞こえる頃、そんなご両親のことをしみじみ偲ぶ作者の思いがよく表現されています。すっきりした句の姿も秋にふさわしい」

 このように正確に丁寧に作者の思いを読んでいただけるものだろうか。私はこの評に感激して、しばらくその号を枕元に置いておいた。

 私はその頃、我が家の墓に埋葬している者の名を刻んだ墓誌を作ることを計画していた。我が家の墓は元々はノモンハン事変で28歳で戦死した叔父、すなわち父の弟の墓で、祖父が建てたものである。父は渡独した時に、万一のことがあれば弟の墓の墓室に入れて欲しい、墓石はそのままにして傍らに墓誌を作ってそこに自分の名前を刻んでもらえばいい、と書き残して行った。渡独した時にすでにヨーロッパでは第二次大戦が始まっており悲壮な思いで出立したのである。今この墓の墓室には、叔父、父、祖父、祖母、母の遺骨が安置してある。

 私の弟はどうせ墓誌を作るならば裏側に何か書いたらどうか、と言ってきた。そこでいくつか文章やら俳句を作って姉と弟に見せたのだが、良いと言ってくれない。建設費は長子である私が負担するとはいえ、一家の墓なのだから、姉弟の了承が得られないと書くことは出来ない。まあ、何も書かなくていいか、と思ってすでに石屋に発注したのだが、この句を得たので、父の忌に近き母の忌と、我が家の実態に戻してこれでどうかと姉弟に聞いてみた。

「すばらしい、ぴったりだ。父、母の気持ちと我々の気持ちが読み込まれていてうれしいよ」と言うのが彼らの評価だった。

このようにして、この句が作者である私の名前を付けて我が家の墓誌に刻まれることになった。

俳句というのはあまり役に立つものではないと思っている。しかし、姉弟も喜んでくれているし、我々の後の世代もお墓参りの時に見てくれる。そして、選者が評してくださったような鑑賞をしてくれれば、父や母も喜ぶことだろう。この句が生まれ、取り上げていただけたことを、本当に嬉しく思う。

 

 

父の忌に近き母の忌秋の声

(2012年11月)






 

 


 

 祖父の住んだ町

 

この6月に平泉に行くことになったときに、宿泊は一関にしようと決めた。一関はかつて私の祖父が住んだ町である。そして市の教育委員会に電話をして、明治時代の岩手県一関中学校は現在何になっているのかを聞いた。答えは岩手県立一関第一高等学校、建屋は建て替えられているが場所は変わっていないという返事だった。

祖父の書いた履歴書に依れば、祖父は明治34年から37年まで一関中学校に奉職した。念の為一関第一高校に電話をして職員の名簿が残っているかを聞いたところ、学校には残っていないがOB会の機関誌があり、恩師の名簿の中に博物担当として祖父の名前が記載されているとのことだった。

学校の話では、一関第一高校では平成11年(1999年)に百周年記念誌を作ったということなのでそれの頒布をお願いした。

送られてきた百年誌に依れば、一関中学校の設立は明治31年であり、設立時期は日本の他の中学校に比べて早いほうではない。初代の校長渡邉譲は東大理学部卒、松江尋常中学校、茨城尋常中学校、福井尋常中学校を経て一関中学校の校長となった(尋常中学校と中学校との違いは学制の変更により名称が変更したのみ)。彼は先に設立されていた岩手県盛岡尋常中学校に劣らぬ学校にしたいという情熱から、つぎつぎに優秀な教授陣を招いた。そのなかに茨城尋常中学校より高崎吉之助(体育)、北島正太郎(博物)がいた。
 ちなみに盛岡(尋常)中学校と言えば、石川啄木が入学したのが明治31年、宮沢賢治が入学したのが明治42年であるから、祖父はこの時代の中学教育者だったと言える。

百年誌の中には少し気になる記述がある。

「明治36613日、大規模な(生徒による)ストライキが始まる。渡邉校長は英才第一主義をとり、生徒たちを厳しく教育し、容赦なく落第させていったことに生徒たちは日頃から不満を抱いていた。そんなときに職員同士が対立したのである。この職員間の対立とそれから派生した教授法への不満が引き金となった。(中略)生徒たちは渡邉校長、秋山(数学)、酒井(英語)の排斥を画策する。もっともこれは言い分で、背景には渡邉校長の豪奢な生活ぶりへの妬みと、茨城出身の教授陣に対する地方的な反感があったと思われる。当時ストライキの都度「茨城征伐」という語が用いられていたと古老は記憶している」

祖父は明治10年生まれ、明治28年茨城県尋常師範学校を卒業し、直ちに茨城県菅間尋常高等小学校の訓導、30年に同校の校長、32年に茨城県師範学校訓導、助教諭を経て教諭になっていた。そして34年に一関中学校教諭となったのである。すなわち茨城出身であるから一関中学校の生徒の排斥対象となっていた教授陣の一人であった可能性がある。

祖父の履歴書によれば、招かれた当時彼は茨城師範の教諭であったので、百年誌の記述とは学校が違う。話によると師範学校の教諭から中学校の教諭になるのはよほど成績が良くないと出来ないことだったそうだが、祖父は師範学校、中学校、高等女学校の教員免許を取得していたし、積極的に外部の講習会に出席していたから、渡邉茨城尋常中学校長と知り合い、認められていた可能性は十分にある。ちなみに祖父が年ごとの試験検定により取得した教員免許状の科目は、植物科、鉱物科、動物生理科、教育科、法制及び経済科である。

百年誌には「茨城出身の教授に対する地方的反感」があったと書かれているが、地方的反感がどこから来たものなのか、判然としない。

当時は中学校教育の黎明期で、新設中学校はよい指導者を得ようと努力していた。大学卒の教諭も少なくなかった。祖父は渡邉校長にスカウトされたらしいが、年齢も24歳と若く、師範学校卒の師範学校教諭上がりということで、生徒にブランド指向があるとすれば、合わなかったかも知れない。あるいは水戸藩の教育の流れを汲むと自負していたであろう茨城出身の先生方に、生徒を刺激する何かの問題があったのかも知れない。

そこで当時の新聞を一通り当たってみることにした。

当時の新聞で今残っているものは岩手日報である。ところが日報はストライキが行われた明治36613日の紙面が残っていない(明治3110月から明治368月まで欠号)。369月以降について調べてみたが、渡邉校長の日々の動向の記事はあっても、ストライキに関する記事は見あたらなかった。

結局今となっては、百年誌に言う「茨城出身の教授に対する地方的反感」も分からなければ、それと祖父の関係も分からないと言うべきである。

 校長の渡邉譲は、明治36年のストライキの責任をとらされて明治38年に退職した。明治36年から38年の間に一関中学から転出した教諭は渡邉を含めて10名である。それが全てストライキに関係したものであったかどうかは分からないが、その中に祖父も含まれている。祖父は3年間一関に住み、明治375月岡山県師範学校教諭として転出し、大正2年茨城県立商業学校に転出するまで8年間岡山に住んだ。

 

今年の6月一関第一高等学校の校門をくぐって無人の校庭で石を拾っていると、駐車場にいた若い男性に誰何された。伺ってみると先生だと言うことだった。私たちは校庭に立ったまましばらく話をした。

 

私: 先日御校の事務長さんから百年誌を送っていただいた者です。近日中に訪問をして小石を拾わせていただきたいと電話で申し上げました。今日は人もおられないようだったので特にお断りしませんでした。無断で入って申し訳ありません。
 実は私の祖父が明治
34年から37年まで御校の前身一関中学校に奉職したのです。平泉に来たついでに、祖父の墓前に献げるために小石を二三個戴きに上がりました。祖父は明治10年生まれですから赴任時24歳、翌明治35年に茨城から嫁を迎え、一関で新婚生活をおくりました。

祖父母は昭和の大戦争で二人しかいない息子を共に失いました。あまりの悲しみのためか晩年の祖母は笑いが少なく、ふさぎ込み勝ちでした。

しかし、その祖母も特に一関の生活を生涯懐かしがっておりました。新婚生活を送った場所が市内のどこであったか、記録がなくて分かりませんが、先ほど一関の町を見、磐井川の河畔を歩いて、祖母にも楽しい新婚生活があったことを実感することが出来ました。

御校ご出身者のなかに浅利三朗氏(平泉町出身、旧内務省官吏、香川県知事、栃木県知事、衆議院議員)がおられますが、浅利氏は祖父の一関中学の教え子でした。浅利夫妻のご紹介で私の父母は結婚したようなので、私も一関と繋がりがあると言えるかも知れません。

御校の校門には、スポーツで活躍したクラブへの応援の垂れ幕が沢山掛かっています。文武両道に優れているのですね。このような学校の創設期に祖父が関係したことを誇りに思います。

 

先生:お祖父様のような方のご努力があって今日の学校があると思います。いいお話を有り難うございました。学校名の入った場所で写真をお撮りしましょう。また駅まで少し距離がありますから、自分の車でお送りしましょう、私も帰宅するところですから。
(写真は明治34年6月15日陸中西磐井郡一関町にて撮影)





           俳号は祖父の名を継ぐ冬銀河

(2012年8月)

 

 

 

 

 

言挙げ(ことあげ)

 

新宿の朝日カルチャーセンターに行く時にはいくつか楽しみがある。そのうちの一つがブックファーストに寄ることで、ここはどこの本屋よりも本が沢山置いてある。昨日はここで「蕉門名家句選」と辻原登の「家族写真」を買ってきた。辻原といえば「許されざる者」「闇の奥」「韃靼の馬」など日本には珍しい物語作家だと思っているが、「家族写真」は短編集である。

初めにある「家族写真」では、家族六人が長女の就職を記念して家族写真を撮るのだが、写真屋に促されてそれぞれ「わたしは、しあわせ」と言って笑顔の写真を撮る。やがてすぐにお父さんは交通事故で死んでしまう。長女は自分が小旅行中に、ありったけの力を込めて男に言った言葉が父を死にいたらしめたと思っている、あの男が悪魔だったのかも知れない、という筋書きである。

作者の解説に依れば、実際に起こったある殺人事件の被害者の女性が、惨禍に遭う前日、友達との電話の中で、いまわたしはしあわせ、と言ったという週刊誌の取材記事がこの短篇の下地になっているとのことだった。辻原は、日本語には「言挙げ」という考えがある。言葉には「霊力」「呪力」があると書いている。

ところで私の中国語の女性の先生は、この前自転車の乗っていて縁石に乗り上げて転倒して頬をすりむいてしまった。頬は二センチ角ぐらいにべろっと剥けてしまって外科で縫い合わせたほどだった。雨の日にipodなどを聞いていたからですよと言うと、その先生は首を振ってまじめな顔をしてこう言った。

実は自分はお産のとき以来、病院に行ったことがない。そのことをこの前友達に言ってしまったのだ。今回このような怪我をしたのは、きっとその報いに違いない。

つまり中国にも「言挙げ」という考えがあるということだ。

実際の生活で言挙げ=言葉に出して特に言い立てることは、しかし、避けがたいことだ。そんなときはどうしたらいいのだろう。私の母の家には、拳で柱や机といった木の材質のものをこつことつと34度叩くと、口に出してしまった言わずもがなのことや、考えてしまった無用な心配事を取り消すことが出来るという言い伝えがある(大正時代に同居していたチェコ人の女性が残していった習慣ではないかと思われるが)。

そこで中国語の先生に教えてあげたところ、「それって、迷信でしょう?」と冷たく一蹴されてしまった。

(2012年3月)

 














2011年を振り返り、2012年を展望する

 

あらたまの年計りつつ寝正月

今年どうしようかなと考えながらベッドで怠けている自分を笑って作ったのだが、俳句の先生から、この人は年の計画を立てないと気が済まない人のようだ、寝正月とは本来もっと怠け者の正月のことだから句としてすこしちぐはぐだ、と言われてしまった。私の中途半端な性格を見透かされてしまったというわけだ。

去年は何と言っても3.11災害である。日本のことは別として、我が家でもつくば市にある家の内壁が崩落し、柱も一部ではあるが傾いた。この家は明治4112月に登記されているから、築後少なくとも104年経っている。家にとってこの100年間で最大の地震だったのではないか。

 つくば市の「東日本大震災で被災された方に対する支援」は細かく規定されているが、私の家の場合被害の割合が2%以上20%未満なので見舞金は1万円である。しかし、これはいろいろなところで行われているいわゆる「ばらまき」なのではないか。

 1951年連合国48カ国と結んだ平和条約で、日本は戦争被害国の賠償に使用するため、個人資産を含めた在外資産を全て放棄することが決められた。個人資産を放棄させられたことについて、被害者から数多くの訴訟が提起されたが、最高裁判所は「一種の戦争損害として不可避的なやむを得ないものとして、国民が等しく受忍すべきもの」として国への補償請求を認めなかった。

 あれから66年経ったいま、自然災害や個人の不運に対して国が補償金や見舞金を出すという制度が出来たことは、それだけ世の中が進歩したことを示すものだと思う。しかし、不公平を恐れるあまり余りに配慮が行き届きすぎるのもどうか。本当に困っておられる方に集中的に援助するものとして、そのほかの方には受忍していただくべきべきものがあっていい。

天災は完全には予防することは出来ない。いわんや日本のような立地条件にあってはなおのことである。いかに被害を少なくするかということと、被災した方にいかに救援を迅速的確に行うかである。

原子力発電については、今回の事故による大勢の被災者の現状を見ると、とうてい今後も開発を続けるべきだとは言えない雰囲気にある。原子力発電は長期的には中止するか現状程度でという意見はあっても、今後も拡大すべきだという意見は極めて少数であるし、政治的に言えば選挙の争点にすらならないだろう。しかし、わたしは密かに、今までは余りに軽い気持ちで進めてきた、今回の事故を教訓にして地道に研究を重ねて行くべきではないか、と思っている。

さて、自分の趣味のことについて。俳句は年初から結社の新しい主宰の主催する句会に出ることにした。これによって月に4,5回の句会に出ることになり、句作に追われた。

去年一年の結果は、結社誌の成績(毎月主宰に採られた句の数)で見る限り、一進一退ではあるがよくなっているかのように思われる。しかし、自分の歳時記(ホームページ「ようこそ正太郎館へ」中の「正太郎歳時記」に今までの句を掲載)をみると、俳句を始めた頃の新鮮な感動を持った句が年々消えている。つまり先生や一般の方に理解していただける句は出来ても、分からないがなにか新しいものがある、という句が出来なくなった。これは極めて大きな問題である。

西村和子氏は「俳句は1000句作った時が入門から卒業できる目安」と言っている(「俳句11月号」)。私は現在「正太郎歳時記」に掲載している句が、私なりに選別掲載をしているが、730句である。さしあたり1000句を目指して継続するなかで、自分らしさを追求して行くしかないであろう。

 去年の自選五句は次の通りである。

 

   少年の橇安達太良の雪煙

   けふもまた強き余震や花木五倍子(はなきぶし)

   灼熱の形にやけてオートバイ

   葦の葉にしばし息づく恋蛍

   手を振って夏雲へ往き還らざり

 

 次に中国語。一昨年までは中国語検定試験の受験勉強に追われたが、去年はそれから開放されたのでその分を中国文講読に当てることにした。通っている学校に要望して講読クラスを作ってもらったが、私の都合のいい曜日には生徒が集まらなかったので、結果として私一人のクラスとしてスタートした。

 よい点は自分の読みたい本を自分の希望する方法で読めるということ、悪い点は一人であるため逃げ隠れすることが出来ず、予習に時間が取られ過ぎるということである。

 読んだ本は順に、「三国志演義(少年版)」、「上海宝貝」(衛慧)、「水滸伝(少年版)」、「豊乳肥臀」(莫言)、「故郷」(魯迅)、「蛙」(莫言)、「祝福」(魯迅)の7冊(編)である。一昨年までが「大浴女」(鉄凝)、「兄弟」(余華)の2冊だったから、去年は集中して読んだと言える。

 感想は、古典は底抜けに面白く、魯迅は人間性の探究という点では類のない作家だということだ。ちなみに魯迅は現在日本の学校教育では教科書に採用されているが、中国では今年から教科書から消えたそうだ。その理由について是非聞きたいものだ。莫言は一貫して辛亥革命以降政体の変遷により被害を受けた家族を、ユーモアを籠めて書いている。場面を面白く書くことにこだわりすぎる嫌いはあるが、ストーリーの面白さでは傑出していると思う。それは、書きたい、書かねばならない事柄を沢山抱えているからだと思う。また、莫言の小説を読むと、古典(三国演義など)の影響が連綿として現代文学に伝わっていることを感じる。

 「許されざる者」「韃靼の馬」を書いて沢山の賞をもらった辻原登が、日本の小説は、物語の規模が小さくて面白くない、自分は大きな面白い物語を書いていきたいという趣旨のことを言っていたが、中国の小説を読むと、小説技術的なことは別として、物語の面白さでは日本を圧倒していると思う。

 ところで中国文と日本文の違いはたくさんあるが、字数を取り上げてみると「大浴女」は中国文27万字353ページ、日本文(翻訳)457ページ。「蛙」は中国文22万字340ページ、日本文(翻訳名「蛙鳴」)469ページである。中国語には送り仮名がなく、また助詞、接続詞が少ないためだが、ページ数で70%に(原稿用紙の字数でいうともっと)圧縮されている。それゆえに外国人にとって中国文は一字一句をゆるがせにすることなく読む抜く集中力が求められる。

 最後は昨年7月から始めた万葉集。これはとても趣味とまでは行かないが、ある句会で、「染まりけり深山の萩の花ずりに」という句を出したところ先生から、作者はおそらく万葉集などの古代韻文の素地があるのではないか、と言われたことに端を発する。実は、「みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れ染めにし我ならなくに」(伊勢物語)が心にあったことは確かだったのだが、これを刺激として勉強し直そうというのが始まりなのである。

3回の万葉集の講義に顔を出すようになったのだが、続けている理由はおそらく講師のせいである。講師は品田悦一東大教授だが、先生によると高校生のときにすでに日本文学を研究しようと決めたそうだ。万葉集を講義する時の先生の熱気に接すると、自分の高校生の時と重なってくる。私の場合とても能力がないし、失敗した時は食べていけないとう思いから、早々に文学専攻希望から退散したのだった。私は懐かしいものに出会ったように先生の話を聞いている。

というように、去年は全てにおいてスケジュールを追加した年だった。その結果本来私でなくては出来ない後世に残す家族の細々としたことは、全て持ち越しとなってしまった。

今年はさしあたり去年持ち越したことをやらなければいけないだろう。しかし、生きている内にやらねばならないということは、やってしまえば後は消えるのみとなるのか。それも口惜しい話ではある。

(2012月)

 

 

 

 

 

 

 

被災地訪問

所属している俳句結社で、3月の東日本大震災に対する募金と、激励の句を募ることになった。今までテレビや新聞などのメディアを通じて、沢山の情報を知っている。しかし、本当に自分が現地に行って知った情報ではない。これを機会に少しでも現地に近づいて、この千年に一度という今回の津波の跡を目に焼き付けておこうと思い立った。

三陸海岸に近づく鉄道は、すべてまだ分断されている。本当は、知合いのいた気仙沼を訪問したいのだが、到底日帰りでは行けない。そこで、仙石線でなるべく石巻に近づいてみようと計画を立てた。

7時に家を出て新幹線を乗り継いで仙台に10時に着く。そこから仙石線で松島海岸まで行って、代行バスに乗り換えようとして、現地に着いてからバスの時間を調べた。代行バスは松島海岸から石巻の手前の矢本まで運行している。駅員の人に聞くと、矢本から仙石線に乗り継いで石巻に行くのはとても時間がかかるので、代行バスで途中の野蒜駅あたりまで行ってはどうかとのことだった。しかし1時間間隔なので、折り返しの時間如何では往復大変な時間がかかってしまうことが分かった。

そこで奮発をしてタクシーで被害の大きかった地域を見て回ることにした。結局野蒜の駅まで行き、住宅地、学校、海岸、仮設住宅などを見た。JRの人の話では、鉄道の再建は何時になるか分からない。町が再建されることが決まってから、鉄道が再建されることになるということだった。

今緊急に行われているのは、道路の再建だった。幹線の道路の補修は進んでいるが、少しでもはずれると舗装のない仮の道路である。しかし、着実に工事が行われているので嬉しかった。

震災後5ヶ月経っているので、後片付けもかなり進んでいるが、壊れた住宅がそのまま建っているところも多い。新築間もない立派な家が、土台をえぐられ傾いている。外装が立派に残っているものは、建て主のことを考えてかえって悲しい気分にさせられた。

今までの集落は、海に近い。緊急避難所に指定されていたという学校も海に近い。ここに津波が押し寄せてきたのですよという校庭を運転手から聞いて、津波対策としては役に立たなかったのだろうと思った。しかし、高台の平地というのはないに等しい。いま仮設住宅の建っているところも狭い。タクシーの運転手は奥さんの実家が被災したと言うことで、被災者の苦しみの話も聞くことができた。

どのように復興するのがいいのかを決めるのも簡単ではない。損害は受けたが復興の方法が明らかな町は、すでに復興需要が起こっていて、かえって活性化している。しかし、集落が全滅し、鉄道道路も寸断されてしまった地域に、再建の方針が確立され、復興の槌音が聞こえるのはまだまだ先のことであることがわかった。しかし、やはり決めるのは現地の人、現地の市町村、県であるべきで、地方の行政の活性化こそが一番望まれるのではないかと思った。

帰りは塩竃で、2メートル以上浸水したという寿司屋で話を聞き、美味しい寿司を食べた。今まではよそで取れたネタに頼っていたが、ようやく地元の魚が使えるようになった。特に松島湾のアナゴが今は美味しいとのことだった。二百二十段ある表参道を登って塩竃神社に詣で復興の早からんことを祈り、「うまくゆくお守り」を求めて帰った(写真は仙石線野蒜駅、線路跡に秋の花が咲いていた)。

(2011年8月)

 

 

 






 

災害救済(氷川清話から)

 

吉村昭の「三陸海岸大津波」には、明治29年の大津波、昭和8年の津波、チリ地震津波(昭和35年)の三つの災害が書かれている。いずれも彼が生存者から話を聞き出したり、また、現地に埋もれていた記録を発掘したりして書かれている。

それによれば、死亡者数は、明治29年の大津波が26,360名、昭和8年の津波が2,995名、昭和35年のチリ地震津波が105名である。死者の数や流失家屋の数から見ても、今回の平成23年の東日本大震災に匹敵するのは明治29年の地震津波であるので、吉村の本によってもう少しこの津波の状況について書いてみよう。

発生したのは6月15日、厚い梅雨雲がたれこめ、ひどく蒸し暑い日だった。午後7時23分地震発生、20分後には海水が海岸線から徐々に引きはじめた。やがて沖合でドーンドーンという音がし始めた。8時20分頃、海面には飛沫を上げながら突き進んでくる水の峰があった。家屋は、たたきつけられて圧壊した。津波の高さは平均10メートルとも15メートルとも言われているが、生存者によると50メートルはあったということである。

さて、大津波の来襲した翌6月16日、災害発生の電報がようやく東京内務省に届き、直ちに本格的救援活動が行われた。天皇による侍従の慰問使派遣、天皇による慰問金の贈呈、政界・官界からの視察員の派遣、多数の軍医の派遣や治安維持のための憲兵隊の派遣なども行った。工兵隊員多数による死体の処置、海軍の軍艦による死体の捜索も行われた。日本赤十字社では医師、看護婦を急派するほか、仮病院を設置して治療に当たった。

食料の窮乏が日増しに深刻になっていった。県庁が貯蔵米を放出したが、とても足りるものではなかった。衣類の欠乏も被災地にとっては深刻な問題であった(以上 吉村昭「三陸海岸大津波」(文春文庫)から抜粋)。

 

さて、この明治29年の大津波災害の救済状況を、東京で観察している人がいた。それは勝海舟である。

海舟(1823~99、すなわち明治元年は45歳。)は幕末、明治の政治家。日本の近代海軍の創始者。戊辰戦争のときは旧幕府側を代表して新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸を無血開城に導いた。明治時代は参議兼海軍卿、枢密顧問官など。

彼の談話を記した「氷川清話」は、いろいろな版があるが、ここでは「講談社学術文庫」版で、彼の明治29年(海舟73歳)の大津波に対する談話を見てみよう。

 

「政治今昔談ー難民の救済

天災とは言いながら、東北の津波は酷いではないか。政府の役人は、どんなことをして手当をしているか、平生やかましく言い立てているくせに、何事も出来ていないのを俺は実に歯がゆく思うよ。

昔、徳川のやり口と今の政府のやり口とではまるで違うよ。今では騒ぎばかりいらくって、ぐずぐずしているうちには、死ななくてもよい怪我人も死ぬし、饑渇者もみんな死んでしまうよ。つまり、やり口が手ぬるいからのことだ。

徳川時代にはちゃんと手が揃っているからいざというこのような場合になると、すぐにお代官が被害地に駆けつけて村々の役人を集め、村番を使って手当をするのだ。

まず相応な場所を選んで小屋掛けをするのだ。ここで大炊き出しをして、誰でも空腹でたまらない者にはどんどん惜しげもなく喰わせるのだ。そうするとこのようなときには、少しぐらい身体の痛む者も、みんな元気がついてくるものだよ。

炊き出しの米はちゃんと天災時の用意がしてあって、どこに行ってもお蔵米がかこってある。それだからいざ天災という時でも、苦労せずに窮民を救うことが出来るのだ。

それから怪我人は、やはり急場の間に合わせにいくらでも大小屋を建て、みんな一緒に入れておくのよ。そうして村々のお医者はここに集まって、夜の目も眠らずに急場の療治をするのだ。なんでもこのような時は素早いのが勝ちだから、ぐずぐずせずに療治していったものだ。それゆえ大怪我人も容易には死ななかったよ。

徳川時代は、いくらお医者が開けないといっても、急場になってまごまごするような者はなかったよ。それに、なかなか手ばしっこいことをして療治するから、どんな者でも手遅れのために殺すようなことはなかったよ。

さようなふうにやっていくと、津波のため無惨なる者も憂き目を見るようなことがなくなってくる。それから3カ年も5カ年も、つまり被害の具合次第で納税を年賦にして、ごくゆるくしてやるのだ。

一方では怪我人や飢餓者を助け、他方では年貢をゆるめるから、被害の窮民は喜んで業につくようになるもんだよ。こうなればもうしめたもので、安心だよ(勝海舟「氷川清話」(講談社学術文庫)から抜粋、一部現代文に改めた)。」

 

つまり、海舟はこういうときの救済策は、徳川時代の方がずっと行き届いていた、と強調している。

明治政府は、それまでの幕藩体制-地方分権政府から中央集権政府に変わって日も浅かったから、上の吉村の記述ででも、中央の体裁の取れた救済策が目立って表に出ているように見える。しかし勝の目には政府の救済策が本当に困っている人たちに有効に働いていないと見えたのであろう。

 

それならば、今回の東日本大震災の国の救済策はどうであろうか。

現在の災害救済策の基本は、1995年(平成7年)1月に起きた阪神淡路大震災の時に取られた策が基本になっている。それはなぜか。

おそらく、災害の状況がテレビを通じて、生々しく国民の前の映し出された初めての災害だったのではないか。国民は、政治が今何をなすべきか、テレビの生の情報を見て自分なりに考えることが出来た。これは、政府ばかりでなく大量のボランティアが現地に入ったことでも分かることである。

今回の災害でも同様である。

勝の言う、小屋掛け=仮設住宅、炊き出し=食事提供、怪我人を収容する大小屋=医師派遣と仮診療所(これは一番進んでいないが)などはそれなりに早くから手が打たれている。納税の年賦は債務の繰り延べ策などと共に、やがて出来てくるであろう。災害援助金、募金など現金の支給も、かなり遅いとは言え、これから本格的に行われるであろう。江戸時代から見て社会が発展したのであるから、救済策は充実して当たり前のことである。

むしろ私は、勝が徳川時代にあったと述べている「すぐにお代官が被害地に駆けつけて村々の役人を集め、村番を使った手当をするのだ」というような迅速性、「炊き出しの米はちゃんと天災時の用意がしてあって、どこに行ってもお蔵米がかこってある」というような計画性、周到性、そして温かさが、今の政治に貫かれているかどうか怪しむものだ。

つまりは政治が、我が国が災害多発国であるという認識の上に立って、日頃からどのくらい国民のことを考えているかということである。

(2011年6月)

 

 

  

 


漱石と柏餅

 

今度岩波文庫になっている漱石を一通り読み通した。「我が輩は猫である」から「明暗」に至る長編、短篇小説、文学論、日記、講演記録などである。なぜこの時期にかといえば、俳句の先生に子規のことを調べてみてはといわれたからである。子規には素晴らしい構想があり、作品もあるが、文学論に限って見れば子規と漱石のやりとり(漱石・子規往復書簡集など)を通じてみる限り漱石にかなわない。漱石はすごいなというのが漱石を改めて読み直すきっかけになった。そして読み始めたら止まらなくなってしまった。

岩波文庫にある作品は、小説はほとんど入っているが、漱石全集の全てではない。「漱石日記」の解説に依れば、文庫にある日記は全集にある日記の半分ぐらいのようだが、それで十分のように思えた。それに、この文庫の脚注は、本文そのものを味わう上で欠かせない。

改めて読んだ印象は、作家として円熟味を増すにつれて、小説はどんどん分かりやすく、面白くなっていくという点である。一番難しいのは、処女作の「吾輩は猫である」で、彼の蘊蓄に辟易とさせられた。そして、一番面白かったのは、絶筆となり未完でもある「明暗」である。

それはどうしてだろう。一つには、漱石は常に自分や自分の考えを分析し、自分に納得させながら前に進む作家だったからだろう。そしてもう一つには、同時代の作家、評論家の手厳しい批判であろう。たとえば正宗白鳥は彼の作品についてこう言っている。

「自分は漱石の道徳臭さが気に入らない」「どのページにも頑張っている理屈に、私はうんざりした」「読者を感激させる魅力のない長編小説を読み通すことのいかに困難であるか」

そして漱石は同時代の人の批判を大部気にしていた。漱石は作品を書く前に次の作品はこういう構想で書くと発表している。同時代の批評を汲んだ上で新しい構想を立てていったものと思う。

さて漱石の作品のそれぞれについて論評することはここではしないが、我々が漱石の作品を読むことの出来る幸せを、大岡昇平はこう言っている。

「病躯をかって西洋と日本の間を疾走して死んでしまった、類い稀な文学的現象として漱石の生涯は感動的です」(大江健三郎、「明暗」の解説より)。

そして私は個人的には、漱石の描く小説の女主人公、たとえば、「三四郎」の美禰子、「それから」の三千代、「明暗」のお延などが、全て自分の考えをはっきりと持ち、男性に伍して自己主張をすることに爽快感を持つものである。この時代といえども女性は十分に知的なのである。

実は私が一番熱心に漱石を読んだのは、高校生、大学生時代であったが、そのときは正直言ってあまり面白いとは思わなかった。「猫」は衒学的でうんざりしたし、「坊っちゃん」は少し時代がかっているし、田舎者を馬鹿にするのが共感できなかった。また、そのほかの小説でも、いろいろと内省し、弁解をする主人公が潔くなく、煩わしかった。

現代小説の代表作家の村上春樹について、私の同年齢の人はとても難解だという。私は、なによりも彼のエッセイが好きだが、小説も面白いと思っている。ところが今度漱石を読み直してみて、現在の作家よりも漱石に親近感が湧くことに驚いた。年齢差をいえば、漱石と私の年齢差は67歳、村上春樹との年齢差は15歳ではるかに村上春樹に近いのだが。昔読みにくいと思っていた漱石が、嘘のように、素直に、自然にすらすらと読める。主人公の自己分析に納得できる。彼の言い訳も行動も理解できる。

漱石夫人は、漱石は机に座ると特段の苦しみもなく、すらすらと筆が運んでいたと言っている。苦しみ抜いて完成した文学論などで文学に対する考えがきちんと整理されており、日頃の思考を通じて人間分析が出来ているからであろう。その結果、その作品は十分に現代の読者のカタルシス、精神浄化の手段たりうるのである。

ところで、今回句会で「柏餅」という兼題が出た。私はすらすらと気持ちに入って来る漱石を読んだばかりだったので、

 

漱石の全集を繰る柏餅

 

という句を作って提出した。

ところが句会の主宰は、漱石のような堅苦しい作品を読みながらと言うのでは句が堅苦しい、格好つけすぎである。句を読まされる人まで格好を付けさせられてしまう。もっとざっくばらんがよい、と言われた。私は、漱石はすらすらと、楽しく、ざっくばらんに読める作家なのですよ、ある程度年をとれば、と反論したかったが、憚られた。まあたしかに、「全集」とは格好付けすぎかも知れないので。

それでも漱石は、柏餅を食べながら読むものなのである。それは間違いありません。学生時代に読んだ人は、もう一度読み直してみて下さい、一番のお薦めは「夢十夜」です。

(2011年5月)

 

 

 

 

「君」俳句

 

最近「君」という字を使った俳句が増えたように思う。例えば、私の知人の俳句で句会で先生に褒められた次のような句がそれである。

 

  手を振って君現るるダイアモンドダスト

  初日の出高僧めきて遠く見る君

 

これは私の推測だが、シンガーソングライターの作る歌詞に、「君」「僕」がしばしば使われ、それが若々しい感じを与えていることに、俳人が影響を受けたのではないだろうか。

ところで、高浜虚子が初めて歳時記を作ったのは、昭和9年である(虚子新歳時記 第一版 三省堂)。この歳時記に載っている例句は、当然のことながら江戸、明治の俳人のものが多い。例えば芭蕉、嵐雪、凡兆、去来、越人、蕪村、召波、一茶、子規などである。

この歳時記を何気なく繰っていたら、雪の部に次のような例句が載っていた。

 

  君火をたけよきもの見せむ雪まろげ   芭蕉

  よき君の雪の礫に預らん        召波

 

この二つの句の君は、いずれも現在の君の句での使われ方と、ほとんど差がないように思われる。なお、召波は江戸中期の俳人。初め服部南郭に漢詩を学び、その句は師蕪村に似て超俗典雅(17271771ちなみに、夏目漱石は明治33年ロンドンに留学した時に、「召波集」をカバンに入れて船に乗った(漱石日記)。

 

つまり、君の句は最近生まれたのではなく、長い間、新鮮さを失わず存在し続けたのではないだろうか。そうだとすれば私の推測は間違いである。むしろ、シンガーソングライターは、日本語の「君」ということばの新鮮さを受け継いで使っているのかも知れない。

ところで、昨年の読売俳壇の優秀俳句として小澤實氏が取り上げていた俳句に

   君といふ言葉に春の光あり

 というのがある。

小澤氏は、優秀句に取り上げた理由についてこう述べている。

「「君」と呼びかけることばに春の光を感じるという。たしかに、「君」は、人を知って、その人と友になろうとした時、呼びかけることばである。呼びかけた人も呼びかけられた人も、ともに眩しい春光に包まれている。主観的な表現ではあるが、まさに真実をついているのだ。ことばそのものを詠んでいる異色作(読売新聞2011124日)。」

この、君という言葉に春の光あり、は、芭蕉、召波の句と現代の君「俳句」を結びつける句であるのかも知れない。

(2011年2月)

 

 

  

 









 

2010年を振り返り、2011年を望む

昨年はお世話になりました。お陰様でホームページを訪問して下さった方は、延べ1万8千人に及びました。厚く御礼申し上げます。

昨年は私にとっては嬉しいことが三つ続いた特別の年となりました。

まずは1月に俳句の所属結社から同人に推挙されたこと。同人というのは結社の会員の中から主宰に選ばれるもので、一応初心者の段階は過ぎたというお免状のようなものです。誰を同人に昇格させるかは、普通は主宰の判断で決まります。会員としては、ただただ毎月いい句を作って主宰に認められなければなりません。なぜ同人になって嬉しいのかと言えば、自分の俳句が認められた、ということにあります。私の場合は投句を始めてから3年半後に同人になりました。もちろん、いい句を出している方はもっと早く同人になっていきます。

同人の扱いは結社によって異なります。会費が2倍になるのは大体どこも同じですが、例えば、同人になれば以降主宰の選は受けない(投句した5句がそのまま機関誌に掲載される)という結社があったり、また、同人になっても他の会員と特段の変わりはなく、会員の中に混じって主宰の選を受ける(つまり5句投句して5句選ばれたり、1句しか選ばれなかったりする)結社もあります。

私はそれまで、別の結社の句会に出ていたのですが、年早々から同人にしていただいた結社の句会に出るように変更しました。同人でありながら句会でいい句が出せないのは恥ずかしいことでしょうが、そのような緊張もいい句を作るためには必要ではないかと思ったからです。去年はいい句が生まれたとは言えませんが、新しい句会の仲間と知り合えた年でありました。

 

3月に下の娘が第二子を産みました。事前の調べでは女であろうと言うことでしたが、第一子に続いて男でした。娘が出産入院している間、上の子を預かりましが、妻、すなわちおばあちゃんに、あれほどなついていたにもかかわらず、どうしても一緒に風呂に入ろうとしない。妻は最初から心配していたことが現実となって、大いに落胆しました。

生まれたばかりが一番大変で、日に日にこの兄弟は切磋琢磨しながら大きくなっています。娘も子供の成長に従ってたくましくなっていきます。娘はやがて勤めに戻りますが、私たち老夫婦が支援するには限界があります。我が国の託児制度の貧困なことは、聞くたびにあきれるばかりです。

 

最後は、暮れの12月に発表された中国語検定2級合格。これは既に単独で書いているのでここでは述べません。しかし、合格までの所要期間2年半はまあまあとはいえ、7回も落ちたというのは落ちすぎであったと思います。中国のことわざに「一失足成千古恨」一度失敗すると、その先千年後悔することになる、というのがあります。成功したから良かったものの、忸怩たるものがあります。

一方、この受験勉強を通じて得たことと言えば、やはり優れた先生と知り合えたことです。とくに、母国を離れて他国で言語や文化を教えている方々の中には、母国の言語、文化についての教養と、日本の言語、文化についての好奇心に溢れている方が多いので、付き合ってみると本当に知的刺激を受けます。

さて、以上の経過をもとに今年何をなすべきか。分かりやすい目標は去年達成してしまったので内容に踏み込んだ目標になりましょう。

俳句ではいい句を作るということに尽きます。句会は変わりましたが、参加者の互選でも、主宰の選でもいい成績が上げられていません。今までのように〆切りに追われて何句かをやっつけに作るということではなく、俳句が人生と切っても切れないようになっている、と言えるような生活をしないといい句は出来ないでしょう。

所属結社といい、句会の指導者といい、優れた人たちを先達や仲間として作り得ましたので、後は自分の心構えです。

中国語は、第一に中国語の小説を読んでみたい。三国演義を口語文で読み始めましたが、この後現代文学を読んでみたい。

つぎに、中国語(漢字)と日本・日本語の関係について勉強してみたい。これに関係して、すでに読んだ本、読もうと思って集めた本として、

 

漢文の話(吉川幸次郎)

読書の話(吉川幸次郎)

漢字がつくった東アジア(石川九楊)

日本語と漢字文明(黄文雄)

日本語と中国語(劉徳有)

漢字と中国人(大島正二)

漢字と日本人(高島俊男)

中国見聞百五十年(藤井省三)

我的中国(リービ英雄)

漱石の漢詩を読む(古井由吉)

古典日本語の世界(漢字がつくる日本)(東大教養学部)

中国古典からの発想(加藤徹)

漢文脈と近代日本(斉藤希史)

漢文スタイル(斉藤希史)

万葉集の発明(品田悦一)

私の日本語雑記(中井文夫)

 

などがあり、読みながら考えるのを楽しみにしています。

さらには、わが家の歴史を書くなど。これはいま、乏しいながら資料を集めようとしているところです。

今年も「ようこそ正太郎館へ」をよろしくお願いいたします。

(2011年1月)

 

 

 

 






 

中国語検定2級合格
 

今回やっと中国語検定2級に合格した。

私が中国語を勉強し始めたのは20034月である。中国語を選んだ理由は別に述べるとして、語学を効率よく勉強するにはやはり時々実力判定試験を受けるのがいいだろうと思い、学力が付いた段階で国内で一番伝統のある日本中国語検定協会の中国語検定試験(中検)を受けることにした。中検は、準4級から1級まで6段階ある。2004年には、3級(大学で第二外国語で2年間履修した程度)までを合格した。そのとき2級は過去の問題をやってみたが、到底歯が立たなかった。 

しかし、2008年になって語学学校のクラスメートの女性から、2級を受ける勉強会のメンバーにならないか、という誘いを受けた。4人そろわないと勉強会のクラスが成立しないからである。このようにして20086月に初めて級の試験を受けた。結果は、苦手と思っていたリスニングは合格、得意と思っていた筆記で1点不足で、総合で不合格となった。合格にはリスニング、筆記がともに基準点に達していなければならないのである。

1点差というのでは引き下がれない。中検の試験は年に3回あるので、今度こそはという思いで次の回を受験したが、あろうことか今回もまた、筆記で1点不足であった。3回目からは筆記は通るのだが、問題が難しくなったリスニングが、1題差で落ちてしまう。このようにして中検から足が抜けなくなってしまった。

中検の受験生は、この間少しずつ変わってきた。受験者数が年々増加するし、以前は語学の得意な女性が多かったが、最近は男性、しかも若い男性が多い。就職するにしても転職するにしても、中国語検定を取っていることがものをいうようになったのではないか。

実業から引退している私の場合は、合格してもしなくても何も変わりはしない。しかし、乗りかかった舟を途中で下りるのはいかにも口惜しい。というわけで、受験参考書を何冊か買い足したし、リスニング力強化のために専門の講座に通ったりして、かなりの時間とお金を費やした。試験日の前1ヶ月ぐらいは勉強に集中するために家族旅行なども行かなかったから、妻には、何が大切かを見失わないようにね、と冷やかされもした。

そして、受け始めてから2年余、8回目の201011月の試験でやっと合格した。文字通り、七転び八起であった。

たしかに大学入試の時と同じように、文法のポイントを書き出したノートを作ったり、千本ノックと称する作文1000題をやり遂げたり、毎日中国語放送を聞いたりして、まじめに受験勉強をした。1点を挽回するための勉強によって、多少の実力は付いたと思うが、老化による忘却もひどいものがある。中国人の先生は「工夫不負有心人!」(努力は必ず報われる)と褒めてくれたが、結局は、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、というのが一番適切な合格の理由だと思う。当たるまで諦めなかったということが僅かに評価されるところであろうが、これも中途退場することで自分の面子をつぶしたくなかった、というのが正確なところだろう。

さて、2級に合格したあと、今後どのように勉強を続けるべきか考えているところである。2級まではごく一般的な試験(2級の合格率は15%前後)だが、この上の准1級は、とてつもなく難しい(実務に即従事できる程度で、合格率8%前後)。泥沼に入るようなことはやるまい。「大浴女」「兄弟」以降現代中国文学を読んでいないので、面白そうなものを探す(今中国では、村上春樹が一番読まれていることから分かるように、いい現代中国文学は少ないようだが)、三国演義などの古典を読む(もちろん現代語で)、中国語の日本語への訳し方に取り組んで比較言語の分野に入る、などが考えられる。

いずれにしろ、自分で仕掛けた受験勉強という罠に陥っていた日常から、目標を達成して離れることが出来、自由になれた。今回の合格では、これが一番嬉しいことだ。自分で掛けた罠から逃れられることが嬉しいとは変な話だが、人が陥っている罠とは、自分が仕掛けたものであることが多いのではないか。私の場合はしばしばそうである。

201012月)

 

 

 

   

 

 

 

噂話

 

雑誌「文芸春愁」増刊の「俳句のある人生」(2010年5月号)には俳人113人に、好きな俳句、好きな俳人、俳句が上手くなるための初心者へのアドバイスなどを尋ねたアンケートの結果が載っている。このうち好きな俳人では、松尾芭蕉が他を大きく引き離して第一位である。明治以降の俳人の中では高浜虚子である。

初心者へのアドバイスは、各人各様で、どれが正道というものはないようだ。例えば結社に入って結社の句会で自分の句に対する他人の評を聞くこと、というアドバイスがあるかと思えば、結社などには一切入らぬこと、というアドバイスもある。

私が一番面白いと思ったアドバイスは、次のものである。「他人の噂話をしないこと」。このユニークな回答には思わず笑ってしまった。句会の後はだいたい気の合った人同士で懇談をすることが多いが、そのときは、一応今日自分が出した句の説明をして、懇親会出席者の意見を聞くこともある。それが一通り済むと、だいたいは結社の近況の話になる。

俳句の結社では、本人の年齢、職業などは普通公にしないから、話題と言えば、主宰の話、会員仲間の動向などになる。彼女の俳句が最近調子がいいのはこういう理由があるからだとか、誰と誰がどうしたとか、などである。語学の勉強会とか、絵の勉強会などには噂話をするような雰囲気はないが、俳句の集まりには仲間内の噂話をしたくなる雰囲気がある。

それは多分、俳句は座の文学と言われ、仲間でいろいろ言い合っていい句にしていくということ、また、俳句は省略が多く読者の推測に任せる文学だというのと無縁ではないだろう。それと、読む人を感動させるためには、ある程度自分のプライバシーを表に出すことも必要になるので、句に個人の事情が滲み出てしまうことが多い。そのようなことから、集まった人たちは、句の論評にとどまらず、私事を推論しても許されるというような気持ちになるのではないか。しかし、どのような事情があるにせよ、噂話をすることで俳句が上手くなるはずはない。俳句には他の文学と同様、静かな観察と孤独な思考が必要なのである。

ところで、アンケートに俳句が上手くなるためには「他人の噂話をしないこと」と書いた俳人は、私が俳句の指導を受けている先生である。あらためて先生の慧眼と鋭い警句に敬服する。でもそれならば先生は、他人の噂話など全くしないかと言えば、そうでもない。つまりこれは、先生ご自身の自戒でもあるのでしょうね、おおそれながら。

201010月)

 

 

 





 

堀田正慶を悼む


(向かって右から二人目の背の高い男が堀田正慶)
 

平成217月私は鎌倉近代美術館に入ろうとしていた。ここの二階の喫茶室で八幡宮の蓮の池を見ながらヨーグルトムースを食べるというのが、鎌倉に行ったときの私の密かな楽しみになっているからである。

その日、美術館の展示物は坂倉準三展であった。坂倉は明治34年生まれ、東大文学部美術史学科卒業。ル・コルビジェアトリエ設計室所属、昭和15年(1940)坂倉建設事務所設立。数多くの建築を設計した。

私は建築物の模型や資料を何気なく見ているうちに,ガラスケースのなかにあるある資料に釘付けになった。その資料とは「図面台帳(1939年~1968年)」という大学ノートで、開かれているページを見ると、受注した年月、建築物、設計担当スタッフ名が手書きで書かれていた。とっさに、これを見れば叔父のことが確かめられるかも知れない、と私は思った。

私の叔父(母の弟)は、大学を出てすぐ坂倉建築事務所に入ったと母から聞いているのだが、実際に入ったのか、何年いたのかなど、正確なところが分からない。彼は戦死したし、今残っている姉弟も詳しいことは覚えていない。このノートを見れば手掛かりが得られるかもしれない。

私は早速、美術館の学芸部員に会って、このノートを見ることが出来ないかを聞いたが、これは坂倉建築事務所の人が展示して行ったので、美術館の人は触れることが出来ないとのこと。しかし、彼女は、この建築事務所はスタッフの記録などが整っているのでそこに名前が書いてあるかも知れない、と言っていくつかの資料を持ってきてくれた。

その資料というのは「大きな声-建築家坂倉準三の生涯」、「PROCESS Architecture 110 SAKAKURA ASSOCIATES」などである。そこには坂倉建築研究所歴代スタッフ名簿が掲載されている。そして叔父「堀田正慶」は1941年から1942年に在籍していたと書かれていた。最も古いスタッフが1940年であるから、正慶は創成期の第二年目に入社したことになる。私は彼の在籍が確認できて嬉しかった。

資料によると、1941年(昭和16)に坂倉建築事務所(または建築研究所)には11名の新入社員が入っている。そのうち正慶を含む4名が翌1942年に退職している。これは正慶の例で言えば、軍隊に応召したからである。

 

堀田正慶は、大正8年(19193月父が駐伊日本大使館に勤務していたときにイタリアのローマで生まれた。帰国後暁星中学、東京高等学校を経て、昭和16年東京大学建築学科を卒業し、その年坂倉建設事務所に入社した。東大建築学科では、その年の最優秀卒業設計に与えられる「辰野賞」を受賞した。

彼の人となりや最後については、東京高等学校「東高第十二回生三十周年記念随想録」(1969年出版)に同級生が書いている。少し長くなるが原文のまま載せてみる。

 

「堀田君、彼は私と同期で海軍予備学生となり、中攻で戦死。誠に惜しみても余りある人材だった。彼なら技術将校になれたものを、何で好き好んで兵科を選んだのだろう。私も学校の成績こそ悪かったが所謂「頭の良さ」ではそんなにコンプレックスを感じたことはないのだが、彼にだけは一目どころか井目風鈴もいいところ、全然兜をぬいでいた。授業中は碌に先生の話も聞かず、放課後は野球ばかり、寮に帰っても駄弁ってばかりいて、いざ試験となると頭痛鉢巻徹夜で頑張っても赤点すれすれの私とは月とスッポン。だいたい彼が一生懸命机に向かって勉強している姿など見かけたことがない。例のヒョロ長い体の上に育ちの良さそうな顔を乗っけて、ふらふら歩いていたり、少し幅の広い鼻と、八重歯をのぞかせた口をいっしょにニヤリとさせて、話をしている姿位しか思い出せない。

それでいて授業中、目を皿にして先生の講義を食い入るように聞いているかといえば、そうでもない。ところが成績は超抜群、それもそのはず、私たちが試験の前の日など呻吟の末彼に教えを乞うと、これがまた先生から聞くよりももっと明快に教えてくれる。いや大した奴だった。おそらくぼんやりと授業を聞いている中で、すっかり理解してしまう頭脳を持っていたのだろう。大げさに言えば、日本の損失と言える位彼の戦死はもったいないことだったと悔やまれてならない。私に限らず、まだまだ彼の替わりに死ねばよかった奴が大勢いるというのに。(平山幹雄)」

 

「昭和19年の春、私はセレベス島の南東部にあった「ゲンダリ」海軍航空基地に零戦の整備士として勤務していた。ある日南洋特有の美しい黄昏をバックに一式陸攻(葉巻型の当時海軍の代表的爆撃機)が次々と広い飛行場に着陸してきた。しばらく後、飛行場の一隅に建てられた木造の士官宿舎の私の部屋のドアをノックして、腕に金色の中尉のマークのついた飛行服を着た背の高い男が入ってきた。それが堀田君であった。堀田君は私とは別の世界の人柄であり、又秀才であったので同級ではあったが余り親しく話をしたことがなかった。それがどういう訳か、大学卒業後海軍予備学生に一緒に入り4ヶ月間岩国航空隊で共に基礎教育を受けた。彼は搭乗員志願であり、私は整備員志願であった。彼がどうして当時最も危険であったパイロットを好んで志願したのか理由を聞く機会はなかったが基礎教育期間中に彼の優れた才能は徐々に頭角を現し、やがて同級生の間で評判になった。入隊後2ヶ月して通信のモールス信号の試験があった。100点満点をとったのは彼一人で、日頃温和で無口な彼に人々は驚きの目を向けた。しかし、東高時代の彼を知る私としてはさもありなんとほくそ笑んで、彼と同窓であることを誇りに思った。

2年振りにあった彼は随分変わったように感じられた。しかし彼は相変わらず多弁ではなかった。彼は一式陸攻約10機の隊長としてマレイ半島ペナン基地から当時まだ激戦の続いていたニューギニア東部へ攻撃に行く途中にここに寄ったのだと簡単に話した。明朝早く出発するというので私の部屋でビールを飲みながら1時間位語り合ったが多くは私が別れて以来の出来事を話をしたように記憶している。

彼とは会合が最後になるとは露知らず私は早朝出発の彼を「帽子振り」で送りもせず寝ていた。1日おいて彼の攻撃隊は私の基地に帰ってきたが、彼の姿は何処にも見あたらなかった。彼の部下は悲痛な顔をして堀田中尉は立派に自爆されましたと語った。彼は隊長機としてニューギニア東部のホーランジャ米軍基地に停泊していた船団を攻撃に行き地上砲火を受けて愛機が炎上すると敵団めがけて体当たりしていったそうである。最後の点について彼の部下は私に堀田中尉の乗った隊長機が体当たりしたのをはっきり見ましたと強調していた。

あれから二十数年経った。激動の時代は去り、私の頭にも白髪がめだってきた。惜しい男を戦争は奪い去ったものだと思う。若し生きていたらきっと名の知れた芸術豊かな建築家になっていたろう。彼は建築にあこがれていたし、それに答える十分な才能を持っていた。

ドアを開けてぬっと入ってきた背の高い飛行服の堀田君の姿を今でもはっきり覚えている。(猪島正雄)」

東京高等学校同窓会名簿には次のような記載がある。

「堀田正慶 東大工学部建築学科卒 昭和19531日ニューギニアで戦死(筆者注 25歳) 海軍大尉」 

 

この随想録を見ると、東京高校の同級生もなぜ正慶がパイロットになったのか不思議に思ってい。と言うことは、当時の若人にも、軍隊に行くことはやむを得ないとしても、危ないところに行くのはいやだという気持ちがあったということであろう

にもかかわらずなぜ正慶はパイロットになったのだろう。私は、正慶がエンジニアとして飛行機が好きであったかも知れないが、そのほかに、父の影響があったのではないかと思ってい。彼の父は当時外務省の第一線で活躍していた。正慶はそういう家族に育ったので、自分だけ危険から逃げることはできない、いわばノブレス・オブリジェ(noblesse oblige)のようなものを成長する過程で自然に身につけてきたのではないだろうか。戒名「忠肝院征空義烈日慶居士」には飛行機が好きだったのだからこれでお国のために死ぬのは仕方がない、という両親のあきらめの気持ちのほかに、そういう運命を辿らせてしまった父親の悲しみが籠められているような気がする

私の父弟もノモンハンで28歳で戦死した。このとき小隊長だった彼は真っ先に敵陣に突っ込み、彼一人が敵弾に倒れた。正慶も、その日の戦闘ではどうやら隊長であった彼だけが死んだようだ。歴戦の兵士は何とかして生き延びて故郷の母に孝行をしたいと思ったようが、職業軍人でなく実践の経験も乏しい大学出の隊長・小隊長のなかには、自ら真っ先に突っ込み、真っ先に死んでしまったという人が多かったようである。

 

ところで、坂倉建築事務所の展示会で見た「図面台帳」に正慶が設計した建物は書いてなかったのだろうか。坂倉建築研究所に調べていただいたところ堀田が担当した案件として次のような記録が残されていることが分かった。

1941.11.27  戦争建築(組立) 将校甲宿舎、同床詳細

1941.12.19  アパート 軸組図

1941.12.29  アパート 小屋伏図、開口部詳細平面図

図面は残っておらず、また当該作品は現在特定できないとのことであった。太平洋戦争の戦火や再開発により、建物は今はもはや残っていないであろう。

本日は正慶の66回忌である。第二次世界大戦後65年経った今も世界の中で戦争が後を絶たない。それどころか、戦争は今後も後を絶ちそうもない。開戦の理由も、今まで起こった戦争の開戦の理由と、さして変わっていない。多くの若者が死んで行っていることも変わっていない。人類というのはいつまで愚劣な動物でありつづけるのだろう。(ご多忙のところをご親切に資料をお調べいただいた坂倉建築研究所のご協力に深く感謝いたします)





      手を振つて夏雲へ往き還らざり 

2010531日)

  

 

 

 

 

 

 

OS Windows7とカナ書きと


パソコンはOS(オペレーティング・システム)が改良されるときには、機械の心臓部であるCPU(中央処理装置)の能力も高められる。このため、私はWindows3.19598MeXPVistaOSを変える都度、パソコンを買い換えてきた。今度OSWindows7になったが、Vista機を買ったのが2008年秋である。1年半も経たないうちに、20万円の出費は痛い、というわけで今回はパソコンは買い換えずに、OSのアップグレードで済ますことにした。OSメーカーのマイクロソフトに診断してもらっても、私のVista機は十分対応できるとのことだった。

そこで、落ち着いてアップグレード出来るように3日を確保した。一日は万一に備えてデータのバックアップに、一日はOSのアップグレードに、一日は予期しない出来事に対処する日として。過去パソコンのトラブルは慌てていろいろな手を打って、結局は抜き差しならない深みにはまってしまうことが多かったからである。

ところで、私にとってバックアップが必要なデータとは何だろう。日記、自分のホームページのデータ、家族の写真、知人友人の住所録、インターネットメールの過去ログ、中国語学習教室の録音データなどか。日記は高校一年の時から付けているが、平成8年からパソコンで書いてパソコンの中に保管している。キーボード入力を毎日練習することになるし、過去の出来事の検索が瞬時に出来てしまうという利便がある。インターネットメールの過去ログは、いわば手紙に代わるようなものだが、最近は手紙よりもメールでのやりとりが増えているのでなくしたくない。

OSのインストールは、事前に本やインターネットに載っている説明書を何度か読んだので、さして大きな問題もなく終了した。メールソフトを新しくし、これに過去ログを移すのが少々手間取ったが、これもことなく過ぎた。さてユーザー登録を済ませて新しいOS Windows7を使ってみたが、これが恐ろしく遅かった。私は大いに落胆したが、初めの覚悟通りその日は慌てずに寝てしまった。

ところが、翌日起きてパソコンを立ち上げてみると見違えるように速く立ち上がった。Vistaよりも使いやすいし、格段に速くなっている。なにごとかと調べてみると昨晩のうちにマイクロソフトからWindows Updateなるソフトが10通以上入っている。どこかで、自動的にアップデートする申し込みをしていたに違いないのだが、パソコンの持ち主に通知もしないで、自分の売った製品の欠陥を修理してしまうシステム商品の怖さも感じた。

さて、そうなるとさらに少しでも快適にする方法はないかと考えてしまう。動画の性能をよくするグラフィックボードは既に挿し替えてあるし、メモリーも増設してある。そこで、最近の大容量USBメモリーを挿してさらに高速にし、DVDソフトをWindows7用に入れ替えた。

ここまでうまく行ったので、これから外付けのビデオキャプチャーボードを付けてテレビ機能を付加してみようかと欲が出てきた。パソコンにテレビ機能を加えると、画質の面で必ずがっかりするという意見があちこちに載っているが、初めから多くを期待しなければいいわけだ。

パソコンは買い換えなかったが、この調子ではあとで追加する費用が相当な額になって来そうだ。また、好事魔多しで、このように調子に乗っていろいろやり出すと、いつか大きなトラブルが起こりそうな気もする。私は小、中学生の頃は鉱石ラジオや真空管ラジオを作ることが好きな少年だった。しかし、聞こえ出すとすぐ手を加えて、結局聞こえなくしてしまっていた。今回も結局はパソコンを買い換えるようなことにならないといいのだが。

ところで、この文章は、漢字ひらがな以外に、カタカナ、ローマ字を使って書かれている。この文章を中国語で書くとすると、すべて中国語の単語、すなわち漢字で書くことになる。パソコンは「電脳」、アップグレードは「升級」、インストールは安装」、インターネットは「因特網」、メールは「短信」、データは「資料」、ソフトは「軟件」、マイクロソフトは「微軟」。ヨーロッパ語でも、英語の単語は自国語で造語しているから、日本語のカタカナ表音表記は珍しいはずだ。ITなど外来の技術について書くときは、日本語はまことに融通無碍である。

私の文章でも、トラブルとかユーザーとかバックアップとか、日本語で言えそうなのに安易にカナ文字を使っているものもあるが、カナやローマ字でないと書けないものが大半である。明治時代、沢山の翻訳語たとえば、野球(baseball)、理念(Idee)、力学(dynamics)、領土(territory)、自動車(automobile)などが生まれたが、今ならこのような造語をせずに、カナ書きするのであろう。このままで行くと、日本語はどうなるのだろう。ITが普及して、日本語が滅びるということになるかも知れない。

(2010年2月)





 

 



中国東北地方旅行


 


私の父は
19415月、船で日本から大連に着き、大連から南満州鉄道で、奉天(今の瀋陽)、ハルピンを経てチタでシベリア鉄道に乗り換えて、ドイツに向かった。父にゆかりのヨーロッパの土地はだいたい訪問し尽くしたので、今回は大連からの旅を、父の残した旅行日記(行欧記)をもとにハルビンまでたどってみることにした。

父は旧満州国大連に足を印するに当たり「我が脳裏を走り回るのは次の魂詩である」として次の詩を記している。そのときの自分の気持ちを表していると思ったのであろう。

爾霊山    乃木希典

爾霊山険なれども豈に攀(よ)ぢ難からんや

男子功名克艱を期す

鉄血山を覆て山形改む

万人斉しく仰ぐ爾霊山

 我々のツアーは、大連空港から入国すると、その足で旅順の203高地(爾霊山(にれいざん)はこの数字から乃木将軍が命名した)見学へと向かう。1904年、中国領土の203高地で外国である日本とロシアが山の形が変わるほど激しく戦った。山上に中国語で「国の恥を忘れることなかれ」と書いた看板が立っているのは、このためであろう。 

バスが大連市内に入ったとき、星が浦海岸を教えてくれとガイドに頼んだ。父は、「星が浦に至れば真昼の太陽頭上に強く輝き、空はあくまでコバルト色に開け、波一つだになき目の前の海の紺色深し。陸は青き屋根、赤き屋根、山肌は所々に茶褐色を染め芝緑にして紅の薔薇咲き、南欧の海もかくならんか」と書いている。

バスのガイドに教えられて星が浦の海を見ようとしたが、波打ち際近くまで高層マンションが建ち並び、海はその隙間からのぞき見するしかない。空は晴天だというのにどんよりとしたスモッグがかかっていて、コバルト色と言うにはほど遠い。父はまた「大連市は道幅広きためか、行人まばらの感あり」と書いているが、現在の大連は、おびただしい数の人と車に満ちあふれている。

父が通ったのは5月だったから、アカシアが今を盛りと咲き乱れていた。アカシアと言えば清岡卓行の「アカシアの大連」がある。そこに書かれているような美しい大連は今はない。昔の日本人街は今は高級住宅地になっていて、改装されないわずかな数の住宅に三角形の「青い屋根、赤い屋根」の面影が残っているだけである。しかし5月に再来すれば父や清岡が見た大連の美しい自然が、きっと見られると信じたい。

空路ハルビンに着く。父は大連から「茫洋たる平原の中を国際列車で進みハルビンに着いたが、駅の構造、ヤマトホテルの作り、尖塔の風景、タクシーの運転手全てロシア風にて、エキゾチックはここより始まる」と書いている。1950年代中ロ関係が険悪になったときにロシア人が引き上げたため現在はロシア人は少ないが、ロシア人が作った街の風情があり、帝政ロシア時代の建物が立ち並ぶ。

父は「松花江畔の遊歩道に出ずれば、幅員1500メートルの広々とした水濁りて、ボート、ヨットの浮かぶこと多し。(中略)キャバレー・ファンタジアに至れば時正に22時。我は胸にライラックの花を手折りて挿し、美女のステージに踊り狂うその光まばゆきままに躍動する豊肉の線に魅せられて、酒を飲む術も忘れたり」と書いている。私も父が歩いたと同じ長い長い柳並木の遊歩道をゆっくりと歩いた。ここには昔と変わらぬ風が吹いていた。

とくに、松花江河畔の夕日はたとえようもなく美しい。大勢の人が河畔に座って夕日を眺めていた。右手に長い「濱洲鉄路橋」が見える。鉄路の先はシベリアを経てモスクワである。父はこの橋を越えて行き、遂に帰ることは出来なかった。私は人々に混じって、長い間鉄橋を見ていた。

夜はキャバレー迄たどることは断念して、同行の老いた妻の姿を見て眠った。ハルビンも、大連ほどではないが、スモッグのため抜けるような青空を失っている。

ハルビンから長春までは、超特急「和諧号」に乗る。本格的な新幹線ではないが時速180キロを出して、乗り心地も快適である。沿線は、玉蜀黍、こうりゃん、米、大豆、小麦などの広い畑がつづく。太陽がその畑の果てにゆっくりと沈んで行く。

長春は満州国時代の首都新京のあったところで、大連やハルビンがロシア人の都市計画の下に作られた街なら、ここは明らかに日本人の都市計画の下に作られた街であることが分かる。街のあちこちに昔満州の政府機関がいた建物が残っていて今も利用されている。偽満皇宮博物館というのは、ラストエンペラー愛親覚羅溥儀の宮殿跡。このように「偽満州」という名が至るところで使われているし、日本軍の残虐さを展示する展示館もある。

この街の特徴は、街の中心部に吉林大学のいくつかの学部があるということだ。吉林大学の医学部は偽満州国務院である。長春に限らないがあふれかえる車と、交通規則を全く守らない運転手、歩行者が多いことも目についた。

最後は瀋陽。ここは清朝の開祖ヌルハチと太宗ホンタイジが住んでいたところで、清朝初期の建築物や遺跡、遺品がたくさんある街だった。最近では日本企業の進出が多く、帰途の瀋陽空港では大勢のビジネスマンが乗り込んできた。

中国の東北地方とはどのような地区であろうか。

一つには清朝およびその前の女真族、後金などが生活をしていたところ。次には1898の租借条約によって、ロシアが遼東半島を租借した時代、さらに、1932年の日本による満州国建国。また、中国国内の民族移動としては、水害を逃れて揚子江下流から漢民族がここに移動をした。質実で体力のある良質の労働力が多く、海外からの企業進出も活発である。言葉もおおかた普通語である。

この地区の一番の問題は何であろうか。やはり急速な発展に伴う環境の悪化であると思う。いずれの都市も高層建築が林立し、車に溢れ、交通渋滞、クラクション、車と人の信号無視が一日中続き、スモッグにより青空を見ることが出来ない。9月の国連の気候変動サミットで胡錦涛主席は、気候変動の対策は発展途上国の発展促進のニーズを尊重して進めるべきだという観点から演説をしたが、一国で世界のCo2の20%以上を排出している国としては、自国の環境改善が則世界の環境改善になる点を認識すべきだし、特に環境改善が自国民のためになるということを認識すべきだと思う。

次に優れた点。なによりも沢山の若者がいて活気がある点である。街も空港も駅も、将来の明るい道を自ら開こうとする意欲のある若者で膨れあがっている。

日本と中国は時差が1時間。飛行時間で3時間。国民性には違いはあるが儒教を理解できるなど共通するするところも少なくない。両国の若者にはお互いの国を理解しようという柔軟な考えがある。100年後には今よりもきっと密接なよい関係にあると信ずることが出来た。(写真は、ハルビン松花江沿岸の柳並木)

(2009年9月)

 

 

 

 

或る「閉村式」での挨拶


本日はご出席の皆様には、多数、またご遠方からもこの「社宅撤収式」にご参加いただき本当に有り難うございました。

私は、四歳の時から十一歳の時までを父母、姉弟とともにこの地区の社宅で過ごし、その後父と同じ会社に入社して三年ほどこの地区にある独身寮におりました。その関係で今日挨拶をする役割を仰せつかりました。

この地区の社宅群をいよいよ撤収すると聞いたときに、ここを第一、第二の故郷と思って時々訪ねてこられるような方々にご連絡した方がいいのではないかと思い立ち、所長ともご相談して最期を見届ける場を設けていただきました。しかし、昔お住みになった方への連絡が難しく、とても全員への連絡は出来ておりません。にもかかわらず大勢の皆様がこのようにお集まりいただいたことに、厚く御礼申し上げます。

さて、この地区は、昭和十二年工場の近くにある小高い山の中腹を切り開いて、基幹社員用の社宅を建設したときに始まります。

本日お集まりになった方々を拝見して、この社宅はおおよそ三つの時代に区分できると思います。第一は、ここに一戸建ての社宅群が出来るまで別の地区の四軒長屋などに住み、完成を心待ちにして新社宅に移り住んだ両親とその家族の時代です。いわばこの地区の黎明期、第二次大戦の戦中戦後をここで過ごしたグループで、今日おいでになっている方では、N様、M様がその方です。お二人とも九十歳を越えておられます。ご出席いただき、これ以上嬉しいことはありません。またその子供としては、K様ご兄弟などがその例です。

次には昭和二十年代、三十年代会社の大量採用時代に入社され結婚されて新婚生活をここで送った両親とその家族の時代で、今日お見えになっている方では、H様とそのお子様の時代です。この時代この地区も最盛期を迎え社宅もどんどん増えていきました。

最後は、少人数で生産出来るよう工場の生産性が格段に向上し、また単身赴任をする従業員が増え少子化もあって、ここに住む人が減少してきた時代です。家屋も老朽化してこれ以上使用することは難しくなったため、別にアパートを建てて住民をそこに移転させることにしたと聞いています。

各時代ここでの生活は様々ですが、共通するものとして今日欠席のお手紙を下さった方のお手紙の一節を読んでみます。

「自分は小学校四年まで兄は六年までここにいた。春は戦争ごっこや野球、夏は魚止めの水泳とカブトムシ・クワガタムシ採集、秋は栗取り、冬は橇、スキースケート、思いだしても何一つ忘れ去ることの出来ない、懐かしいことばかりだ。先日は魚止めまで行ってみたが、猿の大群の歓迎を受けた」

お手紙を下さった方のような少年少女が、沢山ここから巣立っていきました。ある小説家は、「少年少女時代を幸せに暮らした人は、一生幸せに暮らせる」と言っていいます。ここの社宅群はこれで七十年の歴史を閉じますが、我々はそのたのしい思い出を心に刻み込んで、これから幸せな人生を生きていきたいと思います。今後出来れば二、三年かけてでも、皆様の思い出を本に纏めてはどうかと思っています。

なお、社宅群を撤去したあとこの土地は、山林に戻す計画になっていると聞いております。七十年前に自然から借りた土地を再び自然に返して緑豊かな森に戻すと知り、深く心に感ずるものがありました。

最後になりますが、今日は六十数年ぶりにこの土地に来たという方もおられます。懇親会ではお時間の許す限り楽しくご歓談下さいますようお願いいたします。皆々様のご健康をお祈りしてご挨拶といたします。

(2009年6月)

(注)閉村式の記録を参加者からの要望により添付します。ご希望の方はこのURLをクリックして下さい。

http://akagane.pro.tok2.com/special_info/tanze/tanze.htm

 

 


 





 

大学教科書販売所にて

 

4月末、私は某大学教養課程(一、二年生)の教書販売所で中国語の教科書を見ていた。

私たちが外国語を習った方法は、英語にしろ第二外国語(私の場合フランス語)にしろ読解、作文、文法の三本立てで会話の時間はなかった。社会人となり国際交渉などで、自分に発言の機会が来る度に通訳が入り、会議の進行が遅くなることを恥ずかしいことだと思っていた。かくして、学生時代に会話の勉強をしておくことは、どうしても必要だと考えるようになった。

一方、6年前に中国語を習い始めたが、こちらは会話学校であったためひたすら会話だけだった。教科書は中国国内で外国からの留学生向けの教育に使われている「漢語口語」で、日常会話が中心で文法の説明はほとんどない。これではなにかが足りない。そこで今の大学では語学の初習者にどのように教えているのか、知りたいと思ったのだ。

電話で大学に聞いたところ、教科書は4月末頃になれば学生に販売した残りを外部の人に販売できるとのこと。

教科書販売所は大学生協の二階にあって、一見倉庫のような広い部屋の棚や床に教科書が積み上げられていた。現在この大学では第二語学で中国語を取る学生が最も多く、教科書も担任の先生によって異なるため、語学の教科書の中では一番種類が豊富だった。大学一年生で週3時限(1時限は90分)、一列、二列、三列があって基礎(文法・作文を含む)、講読、演習(会話)を中心とした授業が別々に行われる模様だ。

 教科書は中国語教育研究会という大学内の先生が編集した「基礎漢語」を中心にして、ほかに「時事中国語」のような市販されている本も使う。授業は日本人と中国人の講師が行うようだ。

 会話の教科書について言えば、私が会話学校で習っている中国製の教科書「漢語口語」は、現地の言い方がふんだんに入っていて、会話の内容は簡単だが表現方法はいかにも中国語らしいという表現が多い。大学で使われているものは、日本のことをよく知っている日本にいる中国人が、日本人のために執筆した日本人に分かりやすい構成になっている。会話の教科書といえども、国内(中国)製と外国製とではこんなに違うのかと認識を新たにした。

 このような違いはあるが、やはり2年生で教科書「行人」(市販されている)にあるようなまとまった文章を読めるような勉強の仕方、すなわち大学の教え方がやはり王道だと思う。日本の中国語学校は、生徒の要望に流されて速成の会話力を狙いすぎているのではないか。この方法では、日常の会話には不自由しないが、まとまった意見を言ったり文章を読んだりする力が付かないと思った。

 さて、中国語以外の教科書がまた面白く、教科書販売所でまだ教科書を買いに来る学生に混じって長いこと立ち読みをしてしまった。文化系の一、二年の教科書の中から、面白そうな教科書を拾ってみる。

政治学講義(佐々木毅)、現代政治理論(川崎修ほか)、政治学(アリストテレス)、私法入門(五十嵐清)、実定法学入門(田中英夫)、ミクロ経済学(奥野正寛)、経済学の考え方(宇沢弘文)、福翁自伝(福沢諭吉)、カント(イマーヌエル・カント)、リヴァイアサン(トマス・ホッブス)、万葉集、古典日本語の世界(神野志隆光ほか)、漢文脈と近代日本((斉藤希史)、国家(プラトン)、魯迅辞典(藤井省三)などなど。

 これでもほんの一部である。面白そうなものがとても多くてとうてい拾いきれない。

さて、自分が今大学一年生に戻ったとして、どのような教科を選択するだろうか。そう思って眺めてみると、五十年前に選択をしたとおなじような教科を選んでいる自分がいるのに驚いた。自分には今とは違った別の道を選ぶことが出来たはずだと思っていたが、事実はやり直しても、全く違う道を選ぶことはないのかも知れない。人間は自分とは違うもう一人の自分をつくることは、簡単にはできないものらしい。

 ところで、教科書すなわち教科の中で、漢字漢語に関する教科が多いのに驚いた。しかし、考えれば当然のことかも知れない。例えば上にある「古典日本語の世界」は昨年読んだが、この本の副タイトルは「漢字がつくる日本」である。古代、日本人が現実に読み書きしていたのは、「源氏物語」「枕草子」などの「かなの和文」ではなく。圧倒的に漢字・漢文だった。日本の近代以前の文化は、漢字・漢文の中に生きていた。

 明治以降は外国語というと英語、ドイツ語、フランス語だった。世界共通語である英語を別として第二語学というとドイツ語、フランス語だった。それはすなわち、この時代に日本社会が、それまで文化の輸入元であった中国がアヘン戦争で西欧社会に大敗したことを契機として、西欧文化の熱烈な受け入れを望んだからに他ならない。いま大学の教養課程で漢字文化についての教科が多く、また、第二語学として中国語を取る学生が一番多いというのは、明治から今に至る150年間の西欧化熱が和らいで、我が国に古代からある漢字文化を確かめ、その上に立って新しくアジアの中の日本を築いていこうとする人々が現れてきたからなのかも知れない。

(2009年5月)

 

 

 

 



新年「ページ設定」

新年というと、さしあたり白紙のページにものを書くことから始まる。そのためには一ページにどのように書くか、ページレイアウトを決めなければならない。

 昨年12月に5年間使ったパソコンをwindowsXPからwindowsVISTAに換えた。データ移管に10日を覚悟したが、もっとかかってしまった。データを一括して移管するソフトが入っているが、これはマイドキュメントとかメールの過去ログとかの移管には有効だが、写真や住所録の移管は中途半端にしかできない。そこで、外付けのハードディスクを使って、コピー・アンド・ペーストという従来の方式を繰り返すしかない。私の場合は、自分のホームページの元データが問題なく移管できるかどうかが最大の心配事だった。これがうまくできないとホームページそのものが壊れてしまうからだが、何度かヒアヒアはしたが無事移管できた。

さて、データは一応移管できたので自分で文章を作ることにして、VISTAに付属している新しいワープロソフトのワード2007を立ち上げて「ページ設定」をしようとした。「ページ設定」とは、一ページに横に何字、縦に何行を書くかを決めることである。ところがどこをどうしたら設定出来るのかが分からない。ツールバーをくまなく当たってみたが見あたらない。マイクロソフトのホームページでQ&Aを見たが、ワード2003のページ設定の仕方は載っていても、ワード2007については見あたらない。

マイクロソフト社のサービス規定では、相談回数4件までは無料だが、それを超えると有料になる。ページ設定のような単純なことを聞いて無料の回数を使うのはいやだと思ったが、やりたいことの時間も迫っているので、やむなく相談センターに電話をした。

「それはですね、ツールバーのページレイアウトの一番下に、ページ設定という字がありますね」

「あります。そこをクリックしても何の反応もしませんけど」

「ページ設定の一番右端の下に小さな矢印がありますね」

「見あたらないなあ。あっ、この2ミリ角ぐらいの、色のついていないひっかき傷みたいなものですか?」

「そうです。そこをクリックすると、ページ設定のダイヤログボックスが出てきます」

「あっ、出ました。これはワード2003で見慣れたボックスですので、後のやり方は分かります」

「では」

「ちょっと待ってください。この無色のひっかき傷をクリックするというのは、あまりにひどいではないですか。これでは分からないのが当然だ。こんなソフトは不親切だと強く抗議します。したがって今回の相談は、相談回数にカウントしないでください」

「お客様のお怒りは担当部門に伝えます。それでは、ワード2003がワード2007でどう変わったかを、パソコンで分かりやすく知る方法をお教えしましょう。これで相談回数2件を、1件をサービスとして1件としてカウントします。さてその方法とは・・・・・・・・」
 巨大組織に老人が立ち向かうむなしさを、十分に味わった。

このような初期の戸惑いはあるが、総じてVISTAXPにくらべて格段に使いやすくなっている。早いし、検索が素早くできる。たとえばマイドキュメントの中のファイル探しなど思いつく文字を入れれば同じ画面で即座に検索が始まる。パソコンのトラブルからの自動復帰も早い。高齢者であればあるほど、なるべく早く新しいソフトを使うべきだと私は考えている。少しでもいいところがあれば使った方が楽しいし、後で何世代かを一度に切り替えようとすると、ハードルが高くなって大変である。

でも「ページ設定」を教えてもらったときにこみ上げてきた私の怒りがどのくらいだったか、ワード2007を使っている人は「ページ設定」を試してみてください。ひっかき傷のようなマークが、実はキーになるのですよ。そうと知って改めて見直すと、ワード2007には、このほかにもたくさんのひっかき傷がつている。

これからは、無印にこそキーが隠されているということの暗示であろうか。

20091月)

 

 

 






奇跡の一日

今年は、野球はベイスターズ、サッカーはジェフを応援している者にとっては、悪夢のような一年だった。もっとも、ジェフの方は最悪とはならなかったが。

何しろ開幕から両チームとも怒濤の連敗である。

3月8日に開幕したJリーグでは、ジェフは5月6日までの2ヶ月に、2分け9敗で勝ち試合が一試合もない。18チーム中ただひとつほかのチームから大きく引き離された。もともと昨年のレギュラーから、羽生、水本、水野、山岸、佐藤といった主力選手が抜けたので大いに危ぶまれたのだが、予想以上に勝てなかった。

ジェフは、前身のアマチュアの日本リーグ時代から通算して二部に降格をしたことのない唯一のチームだが、もともと何年かに一度好調な年はあるがそれが続かず、中位から下位に甘んじるチームだった。ユースを育てるのがうまいチームだが、育てていい選手にしてもチームに留められずほかのチームに引き抜かれるチームでもあった。しかし、そのなかでも今年はいよいよだめだなとほとんどのファンが思うぐらいにチームの勢いがなくなってしまった。

横浜ベイスターズの方はどうか。3月28日からの開幕対阪神戦に3連敗してから、5連敗、6連敗もあって、3,4月が6勝18敗1引き分け、5月が7勝17敗で、これも5位のチームに大きく引き離された。

ベイスターズの経営がマルハからTBSに移ったときに、これで少しは資金力が潤沢になったり宣伝が上手になったりしてチームが強くなるかなと思ったのは、完全に間違いだった。お金はなさそうだったが球団創始者一族である経営者のチーム愛が感じられたマルハ時代のほうが、応援のしがいがあった。

大矢監督の態度も煮え切らなかった。途中で辞表を出したらしいが慰留されてとどまってしまった。とうていとどまることが許されない成績なのだが。この人が二度目の監督に指名されたときに「また横浜かと思いました」と発言した記事を読んだ記憶がある。手元にその証拠がないが、本当にこのような言葉を発したとしたら、その瞬間からその人は周囲の支持を失い、成功することがあり得なくなる。

さて、野球とサッカーは、毎週水曜日と土曜日に試合が重なる。今年重なった21日の成績を見ると、ベイスターズとジェフの両チームが勝った日は、なんとたった1日である。両方のチームが負けた日が8日、あとの12日は、どちらかのチームが勝ったか引き分けた日となる。

同じデータを、両方のチームが弱かった1994年にとったことがある(このエッセイの「今年の期待」参照)。このときは重なった29日のなかで両方のチームが勝った日が4日、両方とも負けた日が14日だった。今年は14年前よりも輪をかけて勝てない年だった。

弱いチームのファンにはなりたくないが、私は両方のチームともに、20歳前後からの何十年来のファンである。こればかりはにわかに変えられない。チームは交代のできる経営者のものでも、やがては去る選手のものでもなく、ファンのものであると私は固く信じている。

野球の方は、最下位になってもその下に落ちないぬるま湯リーグだが、Jリーグの方は二部降格がある。今年の最終戦は17位のジェフが勝って、15位、16位チームのどちらかが負けないと二部との入れ替え戦にも進めず自動降格になる、という瀬戸際の日となった。

その日はもちろん経過を聞いてはいられない心境だったが、ネットの速報では、後半28分までジェフは0対2でリードされていた。ところが、終わってみれば4対2で逆転勝ちとなり、15位、16位チームがともに負けたため、入れ替え戦にさえならずにその日のうちに残留が確定した。

おそらく、勝つ・負ける・引き分けるの確率を3分の1とすれば、三チームにこのような勝ち・負け・負けの事態が起こるのは、27回のうち1回しか起こらない奇跡のようなことだと思う。

0対2から4対2で勝つのもいわば奇跡のようなものだ。技術を超越したような試合になってしまった、と今シーズンチームを引っ張った巻が言ったが、追い込まれて、最後の力が引き出されたのだろう。このようなつらい日は二度とあって欲しくないが、この日はジェフの、いや人間のすごさを見せつけられた一日だった。

(2008年12月)

 

 

 




芥川賞・直木賞贈呈式

 

8月22日に行われた芥川賞・直木賞の贈呈式に、芥川賞を獲った楊逸さんから招待されて出席した。混雑すると思われたので,式の始まる前に楊さんに挨拶をするつもりで早めに出かけたが、そのような進め方ではなかった。

定刻6時になって、受賞者や選考委員が一斉に会場に入ってくる。すぐに選考委員から選考経過が報告される。会場は後で聞いたところによると1000人は集まったそうだ。

芥川賞は池澤夏樹氏が報告をした。私は作家というのは大勢の前で話をするのはあまり得意ではないのではと思っていたが、直木賞の選考経過を報告した林真理子氏もそうだが、とても話が上手だった。話す内容が充実しているのはもとよりのことである。

池澤氏は、前回の芥川賞候補作品とはまったく違った作品が出てきたので驚いた。中国から日本に運んでくれたのが、今の日本にない“熱い”日本語の小説だったとはありがたい。日本文化は多要素でできているが、文化に純血はないとしみじみ感じた、と話した。

楊さんは、「緊張と喜びが交じって、のどのところで混雑してしまった」と話して会場を笑わせた後、「明日からまた、孤独に戻って文筆職人業に専念したい」と話した。楊さんは表情がにこやかで声も明るく、あたりにほのぼのとした気を発していた。そのためか、贈呈式とそれにつづく懇親会はとても和やかな雰囲気だった。

私は挨拶のためにできた列に並んだ。列に並んでいた人は出版関係や報道関係の人が多かったようだ。楊さんが出版業界に迎えられて活躍されることを心から願い、私は一言二言お祝いの話をして引き下がった。最近作の「金魚生活」(文学界9月号)が、文学界新人賞受賞作「ワンちゃん」、芥川賞受賞作「時が滲む朝」を越えるような作品ではないかという私の感想は、既に楊さんにお伝えしてある。

楊さんは子供の時に両親が下放され厳しい環境で育った。日本に来てからも皿洗いなどいろいろな仕事をした。しかし、彼女は受賞のことばで「人生にさせられたすべての苦労に感謝する。そして私を温かく包んでくれた日本――この小さな島国の大きさに心を込めて感謝する」と言っている(「文藝春秋」2008年9月号)。

 前回の芥川賞の選考では、一部の選考委員から、外国人が日本語で書いた小説という話題作りからこのような作品を候補作品にしてくれては困る、というような話があったが、それではそのときにあげられた他の候補作品はと言えば、個人の内面に終始し、物語のない「私小説」的なものが多かった。政治的・文化的背景を持つ「大きな物語」が、常に優れているとはとうてい思えないが、個人の悩みばかり読まされては閉口してしまう。

芥川賞・直木賞の贈呈式の会場には、親族席がしつらえられていた。一族の誇りといえる賞なのであろう。演壇の付近には、すらっとした、お洒落な格好をした若い人たちが2,30人ぐらいいた。近づいてみると中国語が、日本語のように静かに話されている。中国本土で出会う中国人とはひと味違った中国人が日本にいる。楊さんの作品は、中国語の味わいをもった力強い日本語を使って(喩えれば、青竜刀を使うように[上野徹氏談])、日本と中国の間を生きる人間を描いている。楊さんの作品の種は尽きないと実感した。

(2008年8月)



 


シベリア横断オートバイ

我々ツアー一行がロシアのサンクト・ペテルブルグの駐車場にいたときだった。一人の日本人の男が日本語の話せる現地ガイドに近づいてきて、オートバイでフィンランドのヘルシンキに行くにはどう行ったらいいのか教えてくれと言った。

見ると、250ccぐらいのオートバイに、荷物を満載している。シベリアを3週間掛けて横断してきたが、この2,3日は寒くて大変だったと話をした。年齢は40才後半ぐらいで、顔は赤銅色になっている。ガイドのセルゲイは彼の差し出す地図を広げて、丁寧に道を教えていた。

日本からシベリアを横断するには、富山県の伏木港からフェリーに乗って、ウラジオストックに着き、そこからスタートするらしい。インターネットにはさまざまな体験記が載っている。中には自転車で横断する人もいるが、途中でシベリア鉄道に便乗する人もいる。ウラジオストック・モスクワ間は、シベリア鉄道でも7日かかる。かつてシベリア鉄道によるユーラシア大陸横断を夢見ていた私には、彼の健康がうらやましかった。

ガイドのセルゲイは、道を教えるにはもってこいの人だった。彼はサンクト・ペテルブルグの大学の日本語学科で5年間日本語を学び、卒業論文のテーマは「今昔物語」をロシア語に訳すことだったが、勤めようとしたロシア東洋研究所の給料があまりに安かったため、ガイドの試験を受けて8年前にガイドになった。結婚したがハンディキャップを持った子供が生まれたので、福祉政策の進んでいるフィンランドに移り住んでいるとのことだった。ガイドの仕事があるときに、5時間かけてペテルブルグの母親の家に来て、そこを中心に仕事をする。ロシア人の妻はフィンランドのグリーンヴィザを得て、フィンランドで仕事をしているとのことだった。

共産党政権時代の常に監視されているような時代に比べれば住みやすいが、物価が高く生活は大変だ。一般の人の月給は日本円換算で20万円から30万円ぐらい。石油産出国にもかかわらずガソリンが値上がりしてハイオクで1リットル150円。モスクワやサンクト・ペテルブルグは、オイルマネーの影響で建築やインフラの修繕の仕事がさかんで失業率は低いが、地方は仕事が少ないとのことだった。

ところで、オートバイに乗ってきた男は、バスに乗った我々を笑顔で見送ったあと、しきりにポケットを探り、捜し物をしていた。まさかシベリアを無事に横断してきて、サンクト・ペテルブルグでスリに遭ったのではあるまいと思うが。

やがてバスは大きな聖イサク寺院の角を曲がり、彼の姿は見えなくなった。

(2008年8月)

 







強奪事件を目撃する

海外ツアーに参加して、3度盗難事件に出会っている。

1度目は2000年10月に中国に行ったとき。添乗員がくどいぐらいにスリに注意するように注意していた万里の長城で、一行の女性がカバンをカミソリで切られ、財布を奪われた。なぜそこに財布があることが分かったのか不思議だが注意しても防ぎようのない出来事だった。

2度目は2004年8月デンマークのコペンハーゲンで。賑やかな港の風景を見て、バスまで戻る100メートルぐらいの間に、一行の最後尾にいた女性がハンドバッグから現金を掏られた。女性はバスに戻ってからハンドバッグのジッパーが自分の閉め方と違うのに気がついて、中を改めたところ財布はあったが、財布から現金だけが抜き取られていた。現金は日本円10万円と高額だったが、犯人を捜そうにも時間が3分以上は経っていたし、港は喧騒を極めていた。

その女性夫婦はバスで私たちの前の座席に座っていたのだが、掏られたことを聞いたご主人の第一声は

「きみ、怪我がなくてよかったね」というものだった。私は密かに自分ならどう言ったかを思って、この思いやり溢れる言葉を胸に刻み込んだ。

 三番目は今度のロシア旅行である。サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館を見て、一行22名が添乗員と現地のガイドに引率されてバスに戻る途中だった。バスの停めてあるところまでの200メートルぐらいの間を、パンフレットを売る3人組が執拗についてきた。どうやら私と私の前を歩く男性に的を絞ったらしく、二人につきまとった。両側から胸をパンフレットで押す。「ノー」「触るな」と大声で警告すると、分かったと言っていったんは離れるのだが、またつきまとう。バスは運転手側と後部側に二つの入り口が開いていて、運転手側には日本の女性添乗員が、後部側には現地の男性ガイドがついて客を乗せていた。

 そして、私の前を行く男性が後部側の入り口のステップに足を載せ、手でバスの柱を掴むために腕を上げた瞬間だった。三人組が両脇から彼を襲った。一人が背広の襟口を締め上げ、二人が両脇を挟んだ。彼らはすぐに離れた。私にはとうてい彼らを引き離す余裕はなかった。席に戻った男性はやられたと叫んだ。添乗員が追いかける先を三人組が脱兎のように逃げて人混みに消えた。

 男性は、現地通貨をわずかながら持っていてそれを背広の内ポケットに入れておいたそうで、被害は僅少だった。道中胸をパンフレットで触れていたのは、財布のあるなしを探っていたのであろう。

 しかし、売り子が一瞬にして強盗に変わる様を目撃すると、たとえ貴重品をお腹に巻き付けていても、倒され強奪されないとは限らないと思った。それくらい強引で乱暴だった。現地のガイドは警備員としてはまったく役に立たなかった。

このときバスの停車場に向かって移動していたのは、我々一行だけだった。ハイエナの待ち構える場所にインパラが近づいていったようなものだった。しかし、彼らがハイエナなのかどうかは一見しただけでは分かり難いのだ。

海外での盗難事件については、事情を知っている外務省の人がやられたとか、警視庁の職員が海外視察中にやられたとか、おもしろおかしい話はよく聞く。しかし、エルミタージュ美術館の近くは一番危険だと言われているにもかかわらず、現地の警察の目が行き届いているとは思われなかった。自助努力は当然だが暴力的な行為には太刀打ちできない。やはり多発する国は治安を維持するという理念が足りないのではないか。

(2008年8月)



クラス会


6月13日に恒例の高校のクラス会が小石川後楽園の涵徳亭で行われた。この庭園は寛永年間(1624~1643年)水戸徳川氏の初祖徳川頼房によって作られた大名庭だが、我々の高等学校は土浦一高なのでまんざら縁がないわけでもない。いつもここでこの時期にやるのだが、梅雨の季節であるため、2年前に“梅雨入りの今年も濡れしクラス会”と詠んだほどだ。

 今年は梅雨の中休みで、初夏を思わせる薄い日差しのある一日だった。私は1時間ほど前に着くように家を出て、庭園の奥にある菖蒲田を見に行った。1000平方メートルに660株の花菖蒲があるそうで、ちょうど見頃の一日だった。花菖蒲には江戸種、伊勢種、肥後種の三種類があるそうで、いわば江戸種の典型が咲いているというわけだった。

菖蒲田の周りでは、写真を撮る人、写生をする人に交じって、句帳を手に俳句を作る人も数は多くないが見かけられた。その中の四人ほどが、我々のクラス仲間だった。

そこで、当日作った一句を、この随筆のために投句してもらった。

   小石川後楽園菖蒲田にて

   花菖蒲満ちる古園の下午にゐて     悠

   蒼天にたけくらべるや花菖蒲      晴彦

   花しょうぶ昔を伝へ咲きにけり     泰

   花菖蒲江戸の絵柄を付けて咲き     正太郎

 

 当日は東京近辺に住む23人が集まったが、ゲストとして今年の正月に亡くなった同級生の奥様が出席された。主人は家で外の話はほとんどしなかったが、このクラス会のことはいつも楽しそうに話をしていた。自分もどのような方が集まっておられるのか知りたいと思って、仏壇の**さん(ご主人の名前)に背を押されるようにして出席した、と穏やかな口調でご挨拶をされた。私には、奥様の気持ちがよく理解できるような気がした。ご主人は自衛隊の空将だった。

   亡き将の奥様とをり菖蒲園       正太郎

   空将の笑顔映して菖蒲池        正太郎

 

 ところで、泰は投句に添えて、高校一年の時新しく着任された社会科のE先生が黒板に書かれたという句を、不正確かも知れないがという断りつきで、知らせてきた。

   別離傷心そのまま五月雨となり

 

 E先生は誰とどのような別れをして新任地に着任したのであろうか。その気持ちを新任地で黒板に書くときの先生の鬱屈した思いが伝わるような気がした。先生の気持ちを60年近く経った今に伝える俳句の力もすごいものだが、それも先生と少年泰の感性が響き合ったからであろう。

(2008年6月)

 



花重し

 

最近始まった週間「日本の歳時記」上の大岡信氏の「四季の想い」によれば

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

の「万緑」の語は、宋の宰相詩人王安石がザクロの花を詠じた詩句「万緑叢中紅一点」から得たのだという。この語はこの一句だけで、現代の俳句の季語の仲間に入ったと大岡氏は言っている(「四季の想い」7)。

ところで、杜甫は春の雨を詠って次のような五言律詩を書いた。

春夜喜雨

好雨知時節    好雨時節を知り

当春乃発生    春に当たってすなわち発生す

随風潜入夜    風に従って密かに夜に入り

潤物細無声    物を潤して細かに声なし

野径雲倶黒    野径雲ともに黒く

江船火独明    江船の火独り明らかなり

暁看紅湿処    暁に看る紅潤うところ

花重錦官城    花重し錦官城

 

この花重しの花は何の花であろうか。中国発行の詩の解説書では春の花としか書いてない。学生向けの漢詩集に描いてある花は、どうやら牡丹のようだ。中国の国花は牡丹だから、花というと牡丹になるのかも知れない。

私はこの情景を素晴らしいと思った。詩の中に喜ぶという字はないがこの時期の慈雨を喜んでいる様が、全体に満ちあふれている。特に、「花重し」と詠んだのは、雨を含んで色を増し重くなった満開の花を愛で慈しむ気持ちがよく出ていると思った。しかし、日本で使う場合は、この花はどうしても桜であって欲しい。そこで

 

  花重し煙雨の中の天守閣(正太郎歳時記2006年・小田原城址)

  花重し半夜の雨の播磨坂(〃2007年・東京小石川)

 

という俳句を作った(俳句では「花」というと桜をいう)。

俳句の用語(季語、関連季語など)には、花盛り、花白し、花満つるなどはあるが、俳句用語事典にも「花重し」という言葉は載っていない。私が初めて使用したものと思っていたが、ヤフーで検索をすると、ネット上にはいくつか「花重し」の句が載っている。もっとも、馬酔木の花であったり、泰山木の花であったり、牡丹の花であったりして、桜花重しと詠んだ句は少ないようだ。

私としては、花重しを使った桜の名句が生まれ、花重しを俳句の中で早いうちに使ったのが私であると、密かに自己満足するときがくることを望んでいる。もとより、俳人の端くれとして、名句を作るのが私であってもいいのではあるが。

(2008年5月)





日本語と中国語(楊さんと私の考え)

今年の「文学界新人賞」受賞は、中国人の楊逸が日本語で書いた「ワンちゃん」だった。「ワンちゃん」はその後、芥川賞の候補作になったが落選した。楊逸は、普段は中国語の先生をしており、私の以前勤めていた会社の何人かが中国に赴任する前に彼女の授業を受けた関係で、今回楊さんを招いて激励会が設けられ、私も参加した。

話は、どういうきっかけで日本語で小説を書くようになったのかとか「文学界新人賞」に応募したいきさつなや、モデルのあるなしなどに及んだ。私は、「文学界」で読んだときに私のホームページに載せた「ワンちゃん」の読後感を、コピーして楊さんに渡した。

私の読後感は非常に短い文章なのだが、楊さんは繰り返し読んでいるらしくなかなか頭を上げなかった。やがて頭を上げると、私に向かってニコッと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。

私の文章は三人の中国の女流作家につい書いたものなのだが、楊逸の「ワンちゃん」の部分は次のようなものである。

 

 「最後は今年の「文学界」新人賞受賞作「ワンちゃん」である。

 作者の楊逸(ヤン・イー)は1964年生まれ、ハルピン市出身。1987年留学生として来日。お茶の水大学を出て現在中国語教師。受賞作は日本語で書かれたもの。

主人公の「ワンちゃん」は、とんでもない中国人の旦那と離婚して日本に来て、日本のぐうたらな男と結婚した中国人。ワンちゃんは日本の嫁の来てのない男性と、生活苦の中にいる中国人の女性とをお見合いで結びつけることを商売にしている。日本の男の中に、頼りがいのありそうな八百屋の男性がいて心が乱れたりする。(中略)

 日本語と中国語とでは同じ漢字を使いながら、すべてを表意文字の漢字で表現する中国文学と、漢字仮名交じり文で表現する日本文学とでは、一言で言えば、「荒々しい」と「繊細」という差がある。この中国人が日本語で書いた小説には、日本人では書けない迫力と乱暴さがある。著者は、おそらく日本語が拙いからではなく自分独自の文体として、繊細な日本語を荒々しく使うことによって、真実(リアリティ)を描きとることに成功した。

 漢字を通じての日中の文化・文学の相互作用を探る、というのが、私の中国語を学ぶ理由である。このような小説を読むと、両国には大きな価値観の違いはあるが、感性ではかなり共感しあえるものがあることが分かる。」(「ようこそ正太郎館へ」日本語エッセイ「中国女流作家」より)

 

 会が終わりとなる頃、楊さんに今後の作品発表予定を聞いたところ、とりあえず随筆ではあるが「新潮」と「群像」の3月号に載るという。そこで発売日に早速読んでみた。

「新潮」の随筆の題は刺激的で、「明治天皇を食べようか」というものである。これは著者が日本の友人に「ジンギスカンを食べよう」といわれたときの驚きを、日本語に引き直して言ったものである。その随筆で彼女は、日本語と中国語の比較を論じているのだが、その中の一説を引用してみよう。

 

「日本語は実に面白い。こういった固有名詞の省略ばかりでなく、語順が自由で、表現が概括的で大雑把ささえ感じられる。真面目で繊細な職人気質の日本人の性格から、全く考えにくい面がある。一方の中国語は、中国人の大雑把な性格とは正反対で、表現が細かく、語順がちょっとずれると別の意味になってしまう。」

 

 すなわち、私が上の文章で、中国語=大雑把(荒々しく力強い)、日本語=繊細と言っているのに対して、楊逸は正反対のことを言っているのだ。楊さんが私の読後感を読んで、ニコッと笑っただけだったのは、このためだったろう。

これは来日20年、日本語の文章と格闘してきた楊さんの意見であるだけに説得力があるが、一方私も短い5年間の勉強に過ぎないが、自分の考えが正しいと思っている。

ところで、今回の楊さんと私の意見の違いを読んで思ったのは、「母語」についてである。子供の言語の発達を観察すると、4,5才になると急速に言語能力が伸びてくる。形容詞、副詞、接続詞はもちろん、受身文、重文や複文(「もし私が勝ったら、これを頂戴」)も、簡単に使いこなす。時制(過去、現在、未来)は少し難儀するようだが、それもすぐに乗り越える。これは4,5才までに周りに溢れている言語の光を浴びて、単語や文体が体内に蓄積していたに違いないとさえ思えるほどだ。このような「母語」からすると、理屈で覚える外国語はなんとも身に付き難い。楊さんは日本語には省略が多いと嘆いているが、我々には、中国語が語句を省略したり主語が述語(時制がない)の前に位置したり後ろに位置したりするのが難物なのだ。また、思考は言葉(通常は母語)を通じてなされるのだから、ある言葉を話す集団(通常は国民)の特徴とそこで使われる言語の特徴とは、相通ずるものがあると思う。

さて、この日中言語比較は、古くから研究がなされ、沢山の本が出版されているし、今も毎月のように研究論文が出されている分野である。しかし、手に入るものはいずれも漢文、中文、漢字の日本語に対する影響を研究する日本人の書いたものだ。私の身近には中国人の日中のバイリンガルも多いので、別の視点で、検討を深めていきたいと思う。

(2008年2月)

  

 

 

 


命の一句

  

               幽明の親族(うから)の声や桜の夜   北島正太郎 作

 

 戦死した弟の遺骨を兄が引き取りに行った。

「弟は、真白に散った桜の花びらのように多数の戦友とともに並んでいた。僕は弟が何処にいるのだろうと一生懸命捜し回った。ここだ、ここだ、と僕を呼んでいたであろうが、弟には声が出なかったのだ。右も左も真っ白な戦友の中に混じって弟も四角な木箱の中に入って白い布の中に包まれていた」

 兄とは私の父である。父も昭和の戦争の犠牲になって、妻子、両親を残して死亡した。

 桜の夜には、彼岸此岸の親族を呼ぶ声がする。

(2008年1月「炎環」20周年記念号 命の一句 より)









2007年を振り返る

エッセイは例外なく自慢話である、と井上ひさしが言ったそうだが、「振り返る」という題では、なおのこと自慢の度合いが強くなるだろう。数字は偽らないという錦の御旗を戴いて、限られた分野での今年の結果を数字で総括する。

 

1.    自費出版文化賞入選

2005年に自費出版した拙著「ベルリンからの手紙 第二次大戦、大空襲下の一技術者」が、第10回日本自費出版文化賞(日本グラフィックサービス工業会主催、NPO法人 日本自費出版ネットワーク主管)に入選した。 

総応募数915作品(地域文化・個人誌・文芸A,B・研究評論・グラフィックの6部門の合計、内拙著が属した個人誌部門では232作品)、入選58作品(内個人誌部門で12作品)に入選した。賞はこの上に、部門賞(6部門各1作品づつ)、大賞1作品とあるのだが、そこには進めなかった。

なお、この本に関係する会社の若い技術者(130名)に対して、2回講演会を行った。昭和10年代の技術者の話をしたのだが、これは聴衆の祖父の時代に当たる。

 

2.    中国語

 2003年4月に勉強を始め、2004年6月に日本中国語検定協会3級(大学第二外国語で2年修了程度といわれる)に合格した。しかし、その後は、自宅で過去の問題を解いてみても、合格ラインの70点にほど遠く、2級は今年も受験するにさえ至らなかった。最大の問題点は、試験時間の2時間集中力が維持できないことであり、身につけている単語(熟語)が足りないことである。あと1000単語(熟語)増や必要がある。

 講読では魯迅の「阿Q正伝」、鉄凝の「大浴女」を原文で読んだ。しかし、理解度は、50%程度であったろう。

 新しく知り合った中国人3名と中国語で政治、経営、文学などについて懇談した。これも言いたいこと、聞きたいことの50%以下での会話だった。それでも中国人と、村上春樹の作品論や、中国人が日本語で書いた小説の話を中国語でする、などというのは、結構スリリングなことであり面白かった。

 なお、ホームページ上の「中国語のエッセイ(日本語つき)」に新しく付け加えた作品は、2006年の38作品に対して2007年も38作品であり、同数である。今年は中国語と日本語の関係、古代中国語と現代中国語の関係について書いたものが多かった。中国在住の中国人大学教授から、時々読んでいるが日本人から見た中国・中国人観が自然かつ恬淡と書いてあり面白い、という意見を戴いた。

 

3.    俳句

 俳句結社(排他的結束と序列を重んずる集団で、家元制度あるいはマフィアに似ているともいわれる)に入っている者は、同人(主宰が指名する。但し会費は一般会員の倍)を目指すと言われており、私もそうである。一応俳句が出来るというお墨付きをもらいたいためである(このように家元制度に酷似している)。そのためには、月々の投句に対する主宰の評価で、一般会員の中で高い位置にいなければならないが、今年は入っている二つの結社ともに、一般投句者の中位とか5句投句で採用1~3句とかで、とうてい近々同人になるという展望はもてなかった。自分でも納得できる俳句を詠むことができなかったので、結果は当然である。

俳句結社には、花鳥諷詠を重んじるホトトギス系から、人間探求派までいろいろな系統がある。自分がどのような俳句(客観写生か、叙情詩か、心情探求か、面白い句かなど)を詠みたいかで、それに合った師、結社を求めることが大切だと言われている。俳句を始めて5年近くなるが、今年も自分がどのような俳句を読みたいのか分からずに、いろいろ試して得るところが少なく終わった。

また、ホームページ上の自分の歳時記(正太郎歳時記)には、句会で主宰がいい句だと選んでくれた句や、句会で高得点を取った句などから自分で選んで追加しているが、追加した数は、2003年(私が俳句を始めた年)6句、2004年28句、2005年31句,2006年の93句に対して、2007年は85句である。

 

4.    ホームページ

2006年1月に開設した自分のホームページ「ようこそ正太郎館へ」の中味は、昨年と変わらず「エッセイ」「中国語のエッセイ(日本語つき)」「俳句」「ファイミリーギャラリー」である。

「ようこそ正太郎館へ」へのアクセス数は8100で、昨年のアクセス回数5300を引くと、今年の純増は2800である。昨年はホームページを公開したばかりだったので読んでいただけそうな人を積極的に開拓したが、今年はその努力が足りなかったし、ホームページの体裁や内容の改革が足りなかったかもしれない。

 ところで、ヤフーで「中国語のエッセイ」を検索すると、私の「ようこそ正太郎館へ」は100ページ(999件)のなかの1ページ目の、しかもトップの位置に出てくる。グーグルでは40ページ(393件)のなかの1ページの7番目である(いずれも2007年12月20現在、12月30日現在ではグーグルは2ページ目に落ちている。)。

 検索ページの中で上位に位置することは、至難のことだと言われている。現代の激しい情報提供競争社会の中で、「ようこそ正太郎館へ」が検索サイトのこのような高い位置を維持していることは、今年の奇跡であるのかもしれない。

 

今年一年お読みいただいたことに心から御礼申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。

(2007年12月)

   

 

 
 

中国の女流小説家

 

去年から今年に掛けて、何冊かの中国の女流小説家の小説を読んだ。そのうちから三冊について、主として書かれた背景を見てみたい。書かれた背景が、本の内容を規定する典型的な例のように思われるからである。一冊は原文がフランス語で書かれたものの日本語訳、一冊は中国語で書かれたもの、一冊は日本語で書かれたものである。

はじめは山颯(シャン・サ)の「女帝 我が名は則天武后」(2003年)。著者は1972年、北京生まれ。天安門事件(1989年)後の1990年、中国にとどまる限り書きたい作品を出版することは出来ないと悟って、17才で渡仏。何の後ろ盾もないままに、才能だけを武器にして運命を切り開いた則天武后のように、渡仏後わずか10年にして、フランス語でベストセラーを生み出す作家に成長した著者。二人の間には相通ずるところがあるように思われると、この本を原文のフランス語から日本語に訳した吉田良子は、訳者あとがきに書いている。

二冊目は鉄凝(ティエ・ニン)の「大浴女」(2001年)。著者は1957年、北京生まれ。1975年に高校を卒業、文化大革命(1966年―1976年)中に志願して農村へ。同年処女作を発表。現在、中国作家協会主席(「青年文摘」などより)。

 小説の主人公の伊小跳は、文革の始まった年に小学校に入学。やがて両親は地方に下放され、二人の妹と家を守る。下の妹小茎は事故死するが、事故死を自分が防げたのに防がなかったのは、小茎が母と愛人との間に出来た子であることを知っていて嫌っていたためだという思いが、小跳の半生に重くのしかかる。母の愛人は病院の医師で、母は下放された農村から脱出するために必要な偽の診断書を書いてもらうために、この医者と愛人関係となった。

 次女の小帆は、アメリカに留学し、移住する。小跳は出版の仕事に就きたいという望みを叶えるために、身を売って生活をしている美人の親友に頼んで実力者にコネをつけてもらう。やがて小跳は出版社の副社長となる。

 このように、文化大革命から天安門事件・改革開放という激動の時代にかけて、中国の女性たちが、自分の力で運命を切り開いていく物語である。

 前半の文化大革命のところまでは、時代背景とそこで生きる女性の息遣いが聞こえる気がしたが、後半は、男女の愛憎小説に流れたのではないかという印象を持った。あるいは、天安門事件あたりの時代背景が、活写できないという事情があるのだろうか。

「則天武后」もそうだが、現代でも中国の女性が、知性を武器にすることもさることながら、性を手段にして目的を達成していくのに半信半疑ながら驚いた。知り合いの中国人に聞いた限りでは、必ずしも小説の上だけではないようなのだが。

この「大浴女」はフランス、イギリス、日本でも翻訳され、多くの読者を獲得した。

 私が中国語の原文で現代小説を読んだのは、魯迅の「阿Q正伝」に次いで二冊目であり、私にとっても記念すべき本である。

 最後は今年の「文学界」新人賞受賞作「ワンちゃん」である。

 作者の楊逸(ヤン・イー)は1964年生まれ、ハルピン市出身。1987年留学生として来日。お茶の水大学を出て現在中国語教師。受賞作は日本語で書かれたもの。

主人公の「ワンちゃん」は、とんでもない中国人の旦那と離婚して日本に来て、日本のぐうたらな男と結婚した中国人。ワンちゃんは日本の嫁の来てのない男性と、生活苦の中にいる中国人の女性とをお見合いで結びつけることを商売にしている。日本の男の中に、頼りがいのありそうな八百屋の男性がいて心が乱れたりする。

辻原登、島田雅彦氏の講評から一部を引用する。

「これは、間違いなく、漢語と日本語の差異の往還から生み出されたものだ。ここには、たしかに漢語が近代文学と格闘して得たものと、日本語が近代文学と格闘して得たものとの、一つの融合の証がある」(辻原)、「ワンちゃんは「女の一生」在日中国人バージョンである。描かれているのは日中田舎比較であり、風俗対比である」(島田)。

 日本語と中国語とでは同じ漢字を使いながら、すべてを表意文字の漢字で表現する中国文学と、漢字仮名交じり文で表現する日本文学とでは、一言で言えば、「荒々しい」と「繊細」という差がある。この中国人が日本語で書いた小説には、日本人では書けない迫力と乱暴さがある。著者は、おそらく日本語が拙いからではなく自分独自の文体として、繊細な日本語を荒々しく使うことによって、真実(リアリティ)を描きとることに成功した。

 漢字を通じての日中の文化・文学の相互作用を探る、というのが、私が中国語を学ぶ理由である。このような小説を読むと、両国には大きな価値観の違いはあるが、感性ではかなり共感しあえるものがあることが分かる。

(2007年12月)


 


我が家の昭和戦争

桜の季節になると、我が家の昭和戦争を振り返ることが多い。いくつかの記録を取り出してみる。(文中の(   )は、筆者の補足)

 

[連隊葬に際して――「北島正毅君追悼録」中の、兄正元の追悼文より]

弟は応召して○○の○○連隊に入った。

弟は(ノモンハン戦争で戦死し)遺骨となって○○連隊に帰ってきた。

昭和14年11月24日雨の都ノ城市の摂護寺で僕は2年振りで弟に会った。真っ白に散った桜の花びらのように多数の戦友とともに列んでいた。      

 僕は弟が何処にいるのだろうと一生懸命探し回った。ここだ、ここだと僕を呼んでいたであろうが、弟には声が出なかったのだ。右も左も真っ白な戦友の中に混じって弟も四角な木箱の中に入って白い布の中に包まれていた。その中に兄として覚えている弟の顔を急いで思い描いて見たが、弟の顔は中中描けなかった。僕は全く頭が下がってしまった。そして始めてそうっと手を出して弟の入っている木箱に触れた。

 僕の隣の人もそのまた隣の人も皆同じように、実に荘厳な最敬礼をして静かに手を出して触れていた。

 満堂が寂として一声もない静かな静かな面会日であった。

 

        

[正元の発病――北島正和「ベルリンからの手紙――第二次大戦、大空襲下の一技術者」より]

1943年12月15日、(ドイツで技術習得中の)正元は遙か離れた病院に向けて出発した。日本の陸軍事務所が自動車を差し向けてくれ、また八田医学博士が付き添ってくれていた。

ベルリンで列車に乗り込んで陸軍が用意してくれた寝台車に横になる。車輪の響きが何時までも聞こえた。

16日、スイス国境バーゼルまで30分手前のフライブルクで下車する。この夏の一人旅にこの近くのコースを選んで風景を絶賛したところであるが、今は医者に付き添われてふらふらとプラットホームを換えている。芭蕉が旅に病み病中を押して出発するときの元気な文章を口ずさみながら、別の列車に乗り換えた。

 

遙なる行末をかかへて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす(松尾芭蕉「奥の細道」)。

 

正元は芭蕉の元気が懐かしかった。彼にはとても路を縦横に踏む元気はなかった。

 

 

[正元の義弟(妻の弟)の死――北島正和「ベルリンからの手紙――第二次大戦、大空襲下の一技術者」より]

 1944年6月、東京洗足の堀田正昭・小雪夫妻に悲報が入った。長男正慶25才が、5月30日に戦死したという知らせである。小雪は長くこの報が間違いであることを願っていたが、やがて正慶の最後を見た航空隊の部下が堀田家を訪れて、堀田中尉の最後を詳しく話してくれた。

彼は一式陸攻(葉巻型の海軍の代表的爆撃機)約10機の隊長として、セレベス島の東南部にあったケンダリ海軍航空基地を飛び立って、ニューギニア東部のホーランジャ米軍基地に停泊していた船団を攻撃に行き、地上砲火を受けて機体が炎上すると、敵船団めがけて体当たりをして行った。

遺体は帰らなかったがすべては覆らない事実となった。

 

 

[正元の死――同上]

(日本の敗戦による)平和の到来は正元にも新たな希望を与えたはずだ。なんとしても帰りたい。帰って家族に会いたい。友人に会いたい。会社で仕事がしたい。

 同僚のうち自分だけが帰れないことになり、同僚を見送った直後に発病して病院に入ってからのこの2年間のたった一人の戦いは、彼の心にも身体にも少し苛酷すぎた。しかし、あと一頑張りだと彼は思ったことであろう。

 しかし、1945年(昭和20)9月18日、正元は突然肺から喀血して、午前11時遂に息を引き取った。39才であった。

 

遺族への証拠として棺桶に入った写真が撮られ、また、マッチ箱大の小箱に数片の遺骨が取り分けられた。大戦後の混乱した状況のために、遺骨はすぐには日本に送ることはできなかったので、1965年までの20年の保管期間で現地の遺骨保管所に預けられた。

 小箱の遺骨は、棺桶に入った遺体の写真、スイスの山々を背にした元気な頃のスライド用カラー写真、預金通帳とともに小さく堅く包装され、遺族に渡すためにスイス公使加瀬俊一が預かった。死亡後の手続きは、ベルンの日本公使館員か公使館付陸軍武官室員が行ったものと思われる。

 日記、家族からの手紙や衣服類などの遺品は、とうてい持ち帰ることはできなかった。

 

[祖父――北島正和「押し葉と電脳植物図鑑との間」「ベルリンからの手紙」より]

日露戦争のころ祖父(正太郎)にはまだ子供がいなかった。やがて明治の末期に岡山で生まれた二人の息子すなわち私の父(正元)と叔父(正毅)は、昭和の初めから始まった大戦争時代を遂に生きて通り抜けることはできず、ノモンハン事件と第二次大戦により、ともに外国で親に先立って死亡した。

1945年4月13日、東京市淀橋区(現新宿区)十二社にある正太郎の住居が空襲により全焼し、正太郎は茨城県筑波郡旭村(現つくば市)沼崎にある、彼が自分の父親のために手に入れた家・土地に避難した。「沼崎」こそは、一族に不測の事態が生じたときに受け入れてもらえる土地なのだった。やがてそこに遺された正元の妻子を迎え、正太郎は家長として家を支え孫の教育に当たった。

1960年(昭和35)6月4日、嫁衣の手厚い看護を受けながら正太郎は83歳で他界した。

(2007年4月)

 

 


 

中国人を案内する

 

1月5日、私の今年の仕事始めは、中国人を東京に案内することだった。

その中国人Aさんは、中国南部の有名な大学の歴史学科(専攻は明・清朝)の教授。40才台女性、現在3ヵ月の短期滞在で日本のある地方の大学で研究をしている。期間が切れて1月下旬には帰国するので、正月休みの2週間を利用して日本の首都圏を見学する。

彼女は私の中国語の先生の親しい学友だったため、首都圏では先生の家に滞在する。先生は私に言った「日本語を話せない中国人を案内するのは、中国語の勉強になりますよ。私の生徒の中で希望者は多いが、もし希望すればあなたに一日割り当ててもいい。その場合は、あなたは日本の文化面を案内してあげてね」。聞く力、話す力共に大いに不安だが、このように言われては引くに引けない。

私は、東京大学構内、国立博物館、江戸東京博物館、国会図書館、神保町の本屋街のうちの3つぐらいを見学することを提案した。国立博物館と本屋街は他の人が案内することになったため、私は東京大学構内、国立科学博物館の「大英博物館 ミイラと古代エジプト展」(これは彼女のたっての希望)、江戸東京博物館を案内することになり、5日の朝、東京郊外の私鉄駅で初対面の挨拶をした。

案内することが決まってから、内山書店や東方書店に行って中国語の東京のガイドブックを探したが、少ないというかほとんどなく、「搭地鉄玩東京」(王常怡)があるぐらいだ。しかし、他の国の人を案内するのとは違って、インターネットで日本語の説明をダウンロードすれば、漢字の読める中国人は概要をつかみ取ってくれる。簡潔に記した日本の資料は、簡潔にするために沢山の漢字が使われているから、例えば東大の組織機構の説明などは、インターネットからの日本語の資料で十分だった。

漢字の日本への伝来は、3世紀に百済から王仁が来日したことに始まるとされている。それ以降、漢字は、漢文と和漢入り交じり文で日本の生活や文化の中に浸透してきた。文字以外に学問、宗教、思想、文化についても、遣隋使、遣唐使などをつうじて日本は中国の教えを受けてきた。この関係は中国の清代末期、日本の明治維新まで続いた。

 Aさんという若い中国人でもある時期の日本の美術や建築、組織や機構などを見ると、自国のかつての文化を目の当たりにするような思いにとらわれるらしく、何度かうなずき微笑まれた。一日本人である私も、若い中国人のこの反響を見て、あらためてこの1500年に亘る両国の関係に思いを馳せることが出来た。このような二国の深い歴史上の関係は、EUが共同体となって一体化された現在、世界に例を見ない関係だと思う。

 同時に、現在の日本と中国の平均的な人の生活較差を見て、Aさんは中国の影響を離れて近代日本の出発点となった明治維新に、強い関心を持ったようであった。なぜ明治維新が行われたか、その結果はどのようであったかなどについてである。Aさんと現在の中国の問題点を話したが、急速な経済発展の中で、都市と農村との較差、富裕層と貧困層との較差がますます開いていくことなどを率直に話しておられた。我々は日中戦争、歴史観などについての話はしなかったが、話そうと思えば、ある程度率直、冷静に意見交換が出来ると思った。

 私は今までもいくつかの国の人を連れて東京案内をしたことがある。しかし、今回の中国の知識人を案内したとき以上の楽しい思いをしたことはなかった。我々の祖先の交流を偲ぶこともできたし、漢詩と俳句の違いを話すことも出来たし、諳んじている漢詩を一緒に唱することも出来た。日本人と中国人との歴史的建造物の保存に対する考え方の違いや、博物館に対する政策の違いなど国民性について話すことも出来た。

 確かに世情言われているように、東南アジアにおける日中の覇権競争はあろう。日本が油断すれば、政治的に脅威となりうる国であろう。しかし、その様な脅威の面ばかりではなく、日中関係がよくなる要素も沢山ある。今後相互に訪問する人が増えるに従って、双方はそれぞれにいいところを認め合い、両国の関係は今よりも穏やかなものになって行くと思う。それは1500年に亘って、両国民が築いてきた関係があるからである。そして、両国の若い人には、固定観念にとらわれずに、いいものはいいと認める柔軟性がある。

 ところで、Aさんに私のホームページ「ようこそ正太郎館へ」を紹介したところ、早速そのなかの「中国語のエッセイ(日本語付き)」の一部を読んでいただいた。私としては読者に中国在住の中国人を意識してはいない。日本人としての見方が強く出ていると自覚していたが、Aさんは「自分の考えを率直に表現していて面白い。これから帰国しても折に触れて読み続ける。そして意見をメールする」と言ってくれた。これからどのような反響があるのか、嬉しいような、恐いような思いがある。

(2007年1月)

 

  

 


 

ホームページ1周年

 

2006年1月1日にホームページ「ようこそ正太郎館へ」を作成してネット上に掲載してから、今日でちょうど1年が経過した。

この間、アクセスしていただいた数は、5,300アクセスである。これは同じ人が一月に2回アクセスしていただいたとして、200人の方がホームページを見ていただいた計算になる。ホームページを訪問していただいた方に、厚く御礼申し上げる。

エッセイは掲載する前にほかのメディアで発表したものがあったし、ホームギャラリー、すなわち家族の描いた絵なども掲載するまでにすでに出来上がっていたものもあった。つまり、少しストックがあったのでそれを順次掲載することで、ホームページの生命である更新も、1週間から10日の間隔で行うことが出来た。しかし、ストックも尽きてくると、新しく生産しなければならない。元々ホームページ作成の目的は、発表する場を作り自分の創作意欲をかき立てることだったので、発表するネタに苦しむのはおかしなことだが、しかし、現実はそのようになってしまった。

「中国語のエッセイ(日本語付き)」は、毎週授業の宿題があるからこれをいい内容のものにすれば出来上がる。「俳句」は月に4回ぐらいいろいろな句会に出ているから、これも計算は出来る。「ホームギャラリー」の方は、妻や娘が絵の勉強をしているので細々とではあるが供給が保たれる。一番の難物は「エッセイ」である。材料はあるが、会社生活から離れた自分の考えは、いろいろな人から批判され鍛えられたものではないから、果たして読者の心に訴えるものでありうるかどうか、そこに自信が持てなくて生産が滞った。

「エッセイ」「中国語のエッセイ」「俳句(正太郎歳時記)」「ホームギャラリー」のどれが好評かは、読む人によって異なる。グーグルやヤフーの検索サイトで検索すると、私の「正太郎館」は第一ページにあることもあるし、「中国語のエッセイ」も一ページか二ページ目にあることが多い。一つだけはっきりしていることは、俳句すなわち「正太郎歳時記」は、高校や大学の俳句仲間からはさまざまな感想をもらっているが、俳句結社の先輩方からはほとんど講評をいただいていないということだ。私のような、俳句を始めて日が浅く出来もよくない者が、自分の句集を作って月々新しい句を付け加えているというホームページの仕組みは、先輩方にはまだ馴染みの薄い仕組みなのかも知れない。高浜虚子はかつて、弟子が句集を出そうとしたときに「今迄の俳句界の習慣が、新体詩や和歌や其他の多くの文学とは違って、生前にそう軽々しく句集というものを出さぬ事になって居る」と反対したことがあった(「魅了する詩型」(小川軽舟)師弟関係 より)が、先輩方も私に「ホームページという安易な方法で、そう軽々しく句集というものは出さないことになっている」と、諭されているのかも知れない。

ところで、紙による発表方法と、ネットによる発表方法とはどのように違うだろうか。私は2005年1月に、父と昭和10年代のアルミニウム加工技術について書いた「ベルリンからの手紙」という本を1000部自費出版した。これに対しては400人以上の方から読後の感想をいただいた。また、会社のOBや現役の方から講演会で話をするよう要請も受けた。要するに当時のことを記録に残したということで、関係者から評価をいただいた。

ネットによる発表はどうだろうか。

先ず発表する側としては、間違ったら修正すればいいという気楽な気持ちで原稿を作り、ネットに掲載するし、いやになれば取り消したりもする。本の場合は綿密に推敲をし、校正を行う。本の装幀を考えるのは、ホームページのデザインを決めるよりは、ずっと時間を使う。中味も装幀も一度決めたら変えられないからだ。本を作るのには200万円ぐらい金がかかるが、ネット上の発表では全く金はかからない。

読む側はどうか。通行人が掲示板の掲示を見るような気軽な気持ちで見るということになる。私のホームページのアクセスは5300だが、感想のメールをいただいた方は、私を知っている数人の方だけである。しかし、中国語のエッセイ(日本語付き)は、新編を掲載するたびに熱心に読んで下さる人がいるし、俳句は、もしホームページがなければ紙くずと共に捨て去られる句が、整理保管されて、近作報告となって友人に届けられる。

本とネットは、対立する概念ではなく、異なる伝達手段であるには違いない。私の中では、とりあえずネットに貯めておいて、機会があればそこから拾い上げて本にしたいという気持ちはあるが、しかし、よしんば本に出来ないと分かっていても、ホームページを今止めることは考えられない。手軽に自分を表現する手段として、これに代わるものは今のところない。

更にいえば、ホームページでは、デジタル技術を使ってホームページでなくては出来ない、変化に富んだ背景、動く画面、素早く参照できるリンクなど、新しいメディアに相応しい形式に取り組んでいくべきかも知れない。今の私のホームページは、形式としては本や雑誌の延長上にある。

 今年一年、さらに面白いホームページになるよう努力いたしますので、なにとぞご愛読下さるようお願いいたします。

(2007年1月)








第9交響曲

 

1941年に、技術導入のために4ヵ月の予定で渡独した私の父は、到着後12日後に勃発した独ソ戦争や、その年の12月に始まった太平洋戦争のために帰国することが出来なくなり、ベルリンで鬱屈した毎日を送っていた。

そのときの様子を、私は「ベルリンからの日記―第二次大戦、大空襲下の一技術者」というタイトルで本にまとめて、2005年に自費出版した。その結果、いろいろな方から読後の感想を頂いた。特に、当時ドイツにおられた方のご遺族から、様々な情報をお寄せ頂いた。

その中に、一枚のCDを送って下さった方がおられた。その方のお手紙によると、私が本のなかで父の日記を紹介して「1942年4月19日はヒットラーの誕生日前日なので、ラジオでフルトヴェングラー指揮によるベートーヴェン第9交響曲の演奏があった」と書いたのを読んで、はっと思い当たることがあったとのことだった。

その方によると、個人でこの時の実況を録音した12インチ78回転の7枚のレコード(14面)が偶然オーストリアの古物市場で発見されて、2004年にCD化されたとのことで、そのCDを送って下さったのである。

フルトヴェングラーが指揮をしたベートーヴェンの第9交響曲でCDになっているのは、生涯で11種類がある。特に演奏が優れているものは、戦時中にベルリンで演奏したコンサート(1942年3月22日)のライブと、戦後、戦火で中断していたバイロイト音楽祭の復活記念コンサート(1951年7月29日)のライヴだと言われている。

送って頂いたCDは、原盤が最近発見されたものなので11種には含まれていない。当時の、しかも個人が行った録音であるから雑音が多いが、それでも演奏会場の拍手が始まると、緊張感が伝わってくる。特にソロの4人と合唱団は、恐ろしいまでの迫力と緊張感に溢れていて、歌手の鼓動さえ聞こえるように感じられた。

CDの最後には、放送局のアナウンサーによる締めの言葉が録音されている。

「今夕はヒットラー総統の誕生日前夜で、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)にとってお祝いのときである。宣伝相ゲッペルス博士の演説のあと、フルトヴェングラー指揮のベルリンフィルハーモニーによる第9の演奏を行った。このイベントは、ドイツ放送、ルクセンブルグ放送など30局を通じて、アフリカ、南・中・北米、南・東アジア、オーストラリアに伝えられる」。

フルトヴェングラーは、戦後、ナチへの協力疑惑をかけられたが、裁判の結果は無罪となった。CDの解説書には、彼は生来、このようなお祝いの場で演奏することを嫌っていたが、当日は強制的に演奏させられた、と書かれている。

そのころのドイツは、前年の電撃的ソ連侵攻に失敗し、また英国軍による対独空爆が激化していた。しかし、大陸ではなお一進一退の攻防を展開していた。太平洋戦争では、日本軍がこの年の2月にシンガポールを占領した。3月に東京に初めて空襲警報が発令されたとはいえ、戦争の転機となるミッドウエー海戦まではまだ2ヵ月を残していた。要するに、第二次大戦は五分五分の攻防戦を展開していた。

動きの取れない状況ではあったが、父はまだ日本、ドイツそして自分の将来に明るい希望を持っていたに違いない。父はこの日の演奏を満足して聴いたのではないか。父はしかし、遂に生きて日本に帰国することが出来なかった。あれから64年経った今、父が聞いたものと同じ実況録音を聴くとき、父になりかわったような、張りつめた気持ちで聴いている自分がいることに驚かされる。

(2006年3月)

 

 




俳句と中国人

 

今日本に住んでいて、日本人のことをよく知っている中国人に日本の俳句を見せても、何を言っているのかよく分からないし、なぜこれがいい俳句なのか分からないと言われてしまうことが多い。

たしかに、日本語で「見えるか」と言う質問は、中国語では「見て読めるか」という質問になるように、中国語は、曖昧を許さず具体的にはっきりさせるという特徴がある。俳句のように、はっきりと断定することを避けて、余韻を残して読者の読み方に任せるというようなことは、理解できないのかも知れない。

また、幼稚園の時から「春眠暁を覚えず 処々に啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落ちること知る多少ぞ」(孟浩然 春暁)というような有名な詩を暗記させられている彼らは、漢詩の最短型である五言絶句(五字四行)以上の表現に慣れてしまっていて、俳句の十七音では到底何を言っているのか分からないのかも知れない。

一方、日本人にとっては中国の詩はよく理解できるものであったため、昔から愛好者が多かった。日本人による初めての漢詩集「懐風藻」は751年、「古今和歌集」よりも150年前にできている。当時一般人の作る詩歌は漢詩だったのだ。時代が下がって江戸時代の松尾芭蕉の句集を見ても、日本の古典と並んで、中国の古典や詩を踏まえて作られたものも多い。「奥の細道」の平泉のところには次の記述がある。

「泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て、時のうつるまで泪を流し侍りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡」

 

この、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」は、もとより唐の詩人杜甫の「春望」の一節である。

「春望」は五言律詩(五字八行)の詩だが、上の節につづいて

「時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」

という節がある。

これは芭蕉が奥の細道に旅立つときに詠んだ、

 行春や鳥啼き魚の目は泪

 

に影響を与えていると見る方が自然であろう。

また、季語の中にも、中国の言葉がそのまま使われているものもかなりある(鞦韆(シュウセン)ブランコのこと、昔中国の官女たちが春これで遊んだので、春の季語)。

このように、漢詩や中国の言葉は、俳句にも大きな影響を与えている。

ところで、杜甫は沢山の素晴らしい漢詩を残したが、その中の「秋興」という詩(七言律詩)は、彼が慶州にいたときに読んだもので「山峡に秋の粛気が満ち溢れ、菊の花が咲いている、自分はいつ故郷に帰れるのだろうか、自分の乗ってきた舟は岸に繋がれたままだ」という秋に感じて作った詩である。

高浜虚子の「虚子俳話」によれば、杜甫のこの七字八行詩の最後の一行、

「白帝城高急暮砧」(白帝城高くして暮砧(チン)急なり-白帝城は高く聳えており、日暮れに里人の砧(きぬた)を打つ音がいそがしく高く響く)

という一行は、砧という季題も入っているし、一幅の絵になっており、これだけで立派な俳句になっているとのことで、虚子は昔からこの詩の句を口に唱えるたびに、いい俳句だなと思っているとのことだった。

 私はこれを読んで、なるほどと理解した。そして、両国人の心に通じるものがあることを、あらためて認識した。しかしまた、漢字七文字で俳句になるのか、という驚きを禁じ得なかった。

HAIKUは世界各地でその国の言葉でつくられるようになった。中国には、2005年に日本の俳人の働きかけで漢字で俳句を作る漢字俳句学会ができた、というような報道があるし、これとは別に俳句を普及させるために、中国語訳に取り組んでいる方もおられる。

その一人、岩城浩幸氏の「日中俳句往来」から例を挙げてみよう。

「古池や蛙飛びこむ水のおと」(芭蕉)の中国語訳は、たとえば

「池塘、青蛙入水、水音響」

「古老池水浜、小蛙児跳進水里、発出的声音」

となるのだそうだ。二番目の方は、五、七、五文字になっている。

 私の知っている中国人は、この俳句と中国語訳を見て、両方ともよく分からないと唸るばかりであったが、私には一番目の「池塘、青蛙・・・・」の方は、なかなかよく原文の感じを出しているように思える。原文の俳句と中国語訳の違いは、日本古来の「わび」「さび」の感じがでているかどうかと、切れ字となる「や」「かな」「けり」といった助詞、助動詞の効果がどうかということであろう。

ところで、明治に入って発句が俳句として独立してからは、正岡子規や夏目漱石などは漢詩も俳句も両方作って楽しんでいる。しかし、今の我々には、漢詩を作るなどということは、なかなか出来ることではなくなってしまった。せめて、漢詩、短歌、俳句のそれぞれのいいところを、じっくりと味わえるようになりたいものだ。

(2006年2月)

 







14,000の幸福

 

前回「たのしみは・・・」で始まる橘曙覧の52首の短歌集「独楽吟」のことを書いたが、今回は14,000の幸福について、である。

実は平成12年3月の日経新聞に、作家の稲葉真弓氏が「一万四千の幸福」という題で随筆を書いている。アメリカの作家のバーバラ・アン・キプファという人が、ふと目にした小さな幸福な事柄を20年に亘って書き留めたという紹介であった。面白そうだと思い買い求めようとしたが、果たせなかった。今回ふと思いついてインターネットgoogleで14,000happinessと入れて検索してみたら、たちまち、Barbara Ann Kipferの 次の著作が現れた。

1.14,000 things to be happy about

2.the wish list

3.4001の願い(向井千秋・向井万起夫共訳)

そして、インターネットで注文すると1週間でamazonから本が届いた。この6年間の情報網の進歩にあらためて感服した。

2は1の、自分を幸福にしてくれた14,000の事柄を整理した上で、さらに今後幸せにしてくれそうな事柄を加えて、約6,000項目の願いをチェックリストにしたものであり、3は2のなかから、日本人に理解されやすいものを選んで訳したものであるから、正確にはこの三つは一連の著作である。 

さてこの本の内容であるが、著者の14,000 things to be happy aboutと、the wish listの前書きから抜き出してみよう。

「幸せは、日常の小さな出来事に気が付いたり、楽しんだりすることから生まれてくるということを知って欲しい。

願いを抱くというのは、素晴らしいことだ。実現不可能なことを夢見たり、現実離れしたことを考えたり、空想に耽ったり、野心を持ったり、それは全て私たちを前へ前へと押し動かし、何かをするように私たちを駆り立ててくれる。また、自分は何者なのか、自分は何者になれるのかということを教えてくれる。この本に並べられた全ての項目が「生きているうちに、私は・・・・したい」という文章で成り立っている。ささやかで容易に実現できる目標もあれば、雄大で空想的な願いもある。この本が、あなた自身の願いリストを作るための手伝いとなることを望む」(向井訳から抜粋)

具体的なリストを見るために、「4001の願い」の表紙に書いてあるものをコピーしてみる。

 

  ・・・・・・・・・

  知りたくないことは知らないままでいる。

  ファーストキスをした人ともう一度キスする。

  ・・・・・・・・・

  開幕戦で始球式をさせてもらう。

  誰かさんの夢の中に登場しちゃう。

  退職したくなったらいつでも退職できるようにお金を貯めておく。

  ・・・・・・・・・

  いたずらっ子であり続ける。

  スティーヴン・スピルバーグに映画のシナリオを売ってあげる。

  かけ離れた世代の人と友情を築く。

  誰かのヒーローになる。

  母と心を開いて話をする。

  友人の子供の名付け親になる。

  お金めあてに結婚したのに、結婚相手に恋してしまう。

  ・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・

(新たな願いを思いついたら、□・・・・に付け加える。自分と同じ願いがあったら□に印を付ける。すでに達成しているのもがあったら、大きな赤字で印を付ける)

 

このように例示してしまうと、面白味が伝わらないかも知れないが、続けでどんどん読んでみると、正直言って文句なく面白い。例の、無人島に流されるとしたらどんな本を持って行くか、という質問に答える方式で面白味を計ると、私の場合、もし帰ってこられるのなら「歳時記」(いい句を作って、案外やるなあと言ってもらいたいという魂胆から。無人島に四季はあるものとする)、帰ってこられないなら、この本を持って行きますね。

 ただし、手元にある「4001の願い」は2002年5月30日第1刷となっているところを見ると、日本ではあまり売れていないのかも知れない。ヨーロッパにヒルティやアランの思惟書「幸福論」があり、日本には橘曙覧の「たのしみは」で始まる短歌の歌集「独楽吟」があり、アメリカに「チェックリスト」があるというのも、民族の好みの違いを表しているのかも知れない。

ちなみに、the wish listの最初のページには、

 

  完璧な俳句を一句詠む。

 

というのがあった。同意します。ただし、俳句がうまくなるためには、多作多捨が必要といわれるから、この一句を得るために、膨大な句を捨てなければならない。些細な幸福を得るのも生やさしいことではないのかもしれない。でも、この際は、ある日突然、完璧な俳句が自分の頭に浮かび上がるという夢を捨てないでいたい。

(2006年1月)

  






「独楽吟」

 

 新年を迎えたが、この世の中でたのしいことというのは、どのようなことだろうか。

大分前のことになるが、私は会社の先輩から、こういう本があるよ、と手渡された。それは、橘曙覧(たちばなのあけみ)の「独楽吟」(ひとりたのしめるうた)という短歌集だった。

橘曙覧は、1812年越前福井に生まれた。その人柄は多くの人に愛され、藩主松平春嶽との交流もあった。父を早く亡くすなど家は貧しかったが、国学の勉強に励むかたわら和歌の道にも励み、数々の名歌を、曙覧の歌集である「志濃夫迺舎歌集」に残している。

「独楽吟」はそのなかの一集で、全ての歌が、「たのしみは」で始まっているところに特徴がある。まず、その中のいくつかを示してみよう。

 

たのしみは 百日(ももか)ひねれど成らぬ歌の ふとおもしろく出(いで)きぬる時

たのしみは 妻子(めこ)むつまじくうちつどい 頭ならべて物をくふ時

 

この二番目の歌は、山上憶良「憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」(万葉集)と共通する家族愛を詠んだものだが、「うち集い」と「頭並べて」が重なって、おおらかな、ほほえましい情景が浮かんでくる。

 

たのしみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時

 

この歌は、平成6年天皇陛下がアメリカに訪問した際、歓迎式典でクリントン大統領が歓迎スピーチに引用されたとのことだ。難しいところが全くないばかりでなく、全世界の人にその通りだと共感を与える歌だと思う。

 

 たのしみは 心にうかぶはかなごと 思ひつゞけて煙草(たばこ)すふとき

 たのしみは そぞろ読みゆく書の中に われとひとしき人をみしとき

たのしみは いやなる人の来たりしが 長くもをらでかへりけるとき

  たのしみは 機(はた)おりたてた新しき ころもを縫て妻が着する時

 

このように、たのしみは、で始まる歌が52首この歌集に収められている。学者に相応しく52首の中で15首が学問に関する楽しさである。第二位は飲食に関する楽しさで10首。52首全てが一見して分かりやすい歌で、日常の心情、家族や友人とのふれあい、自然の変化など、日常気が付かないような平凡ことにこそ、楽しさが存在しているのだ、と詠いあげているように見える。

しかしまた、52首全体を眺めてみると、このような楽しさも、意識して発見しようとしないと通りすぎてしまう、そのくらい現実はつらく感じられるものだということを言っているような気もする。アラン(1868~1951)が「幸福論」のなかで「悲観主義は気分に由来し、楽観主義は意思に由来する」と言っているのと、共通するところがあるのではないか。

いずれの意味ででも、自分で感じたことを「たのしみは・・・・」と書き続けてみると、そう簡単には続かないことが分かる。常には見なれぬ鳥の来た時、と書いてみても、毎日そのような鳥は来ない。ありのままの自然や出来事に新鮮な気持ちで感応することは、特に歳をとると難しいことなのだが、少しでも長く瑞々しい感性を持ち続けていたいものだ。

(2006年1月)

 

 

 



韻文の力 

 

 今年の初めに「ベルリンからの手紙 第二次大戦、大空襲下の一技術者」という本を自費出版した。技術のことも書いた本なので、難しいことを分かりやすく書くことに力を入れたが、同時に、なるべくリズム感を持って読んでもらえるように心がけた。その方法として、要所に韻文を使うことにした。

 この本で、初めて韻文が出てくるのは、主人公である私の父の乗った汽車が、関ヶ原にかかったときに父が詠んだ俳句である。

 

    叡山に雲立ち込める暑さかな

 

 この時父には、渡欧に向かってはやる気持ちと、父母妻子を残して行く後ろ髪を引かれるような気持ちとが交錯していた。

 大連から乗った国際列車は、やがてノモンハンに近い駅にさしかかる。父は2年前、唯一の弟をノモンハン戦争で失っているから、滂沱とした涙を止めることが出来なかった。26歳の弟を惜しんで両親が建てた石碑には、弟の先生が詠んだ歌が記されている。

 

    月澄めば筑波嶺こえてかりがねの

啼き渡らむか石文の上に

 

 渡欧して2年、同僚の二人は帰国できるようになるが、父にはビザが下りなかった。この時の心境を父は同郷の水戸藩の学者、藤田東湖の詠んだ詩に託している。

 

    3度死を決して死せず 25回刀水(利根川のこと)を渡る

    5度間地を乞うて間を得ず 39年7処にうつる・・・・・

    なお残す忠義の骨髄にみつるを・・・・

    故人言うあり 斃れて後やむと

 

 その後病に冒されて手術のためにドイツ・シュバルツバルトにある病院に向けて出発するのだが、乗り換えの駅で、韻律文というべき芭蕉の「奥の細道」の文章を口ずさんでいる。

 

    遙かなる行末をかかへて、斯る病覚束なしといへども、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊かとり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。

 

 その後の療養生活では、父は好んで漢詩を詠み、散文詩を作っているが、俳句では劣勢な枢軸側(日本・ドイツ・イタリア)と、病身の自分を励まして詠んだ句がある。

 

     枢軸に勝ちどき上がれ雪新に

 

 日本人として自分一人でスイスの療養所にいて、帰国の当ての立たない父の気持ちを推測して私が選んで書いたのは、唐の詩人柳宗元の詩であるが、それはその中に詠われている次の一節が、父の気持ちを正確に表していると思ったからである。

 

    いかでか身を千億に化し得て

    散じて上りて故郷を望まむ

 

なんとしても日本に帰りたい、身を砕いてでも嶺に登って、故郷を眺めたい。

 俳句、短歌、詩、漢詩、韻律文のそれぞれに、相応しいところで力を発揮させることが出来たと思う。あらためて、韻文は、散文ではとうてい表せない人の気持ちを、端的に、また的確に、表すことが出来ると思った。

(2005年7月)

  

 






バード・ガスタインについて

 

NHK語学講座のテキスト末尾のエッセイは、いずれも内容があり、毎月面白く読んでいます。

「テレビドイツ語講座」11月号テキストには、口絵にオーストリア・バード・ガスタインの写真が載っており、鈴木真弓さんの文も載っています。

そこではここは昔から有名なリゾート地だったと紹介されていますが、バード・ガスタインはある一時期、ヨーロッパに滞在していた日本人と数奇な関係を持った町でもありました。

第二次世界大戦末期ドイツ軍が劣勢になった1945年4月、日本大使館は同盟関係にあったドイツのヒットラー総統から、自分たちは必ず勝機をつかむからそれまでチロル地方のこの地に避難していてくれ、という要請を受けました。このため、ベルリンにいた大島浩大使以下の大使館員および日本陸軍駐在武官、民間人など約180名がここに避難しました。

やがて5月にドイツが敗れたため、一行は7月までバード・ガスタインで米軍に管理され、その後フランスのルアーブル港に送られました。ヨーロッパ各地で連合国側の管理下に入った300人あまりとともに船でアメリカに移され抑留された後、1945年12月に日本に帰ってきたのでした。

この時期ヨーロッパにいた日本人はそれぞれさまざまな苦労をしました。この一行に合流しようとして果たせずに客死した者、一行の一員として移動中に知り合ってやがて幸せに結ばれた者などいろいろなことがありました。いま、バード・ガスタインの写真を見、エッセイを読んで、往時を偲びました。

NHKテレビドイツ語会話Stammtisch2002年11月)

  

               

 



押し葉と電脳植物図鑑との間

 

この春、つくばの家に帰ったときに、押入から祖父が作った押し葉の束を探し出した。祖父は茨城師範学校を卒業して、博物科、教育科、法制・経済科、漢文などの教員資格をとり、茨城県、岩手県、岡山県、東京都の師範学校や旧制中学校で教鞭をとっていた。

押し葉は、博物の授業の教材として自分で作ったものである。アブラガヤ、イヌハギ、イヌホオズキ、オサバグサ、カヤツリグサ、キヌガサソウ、ミミナグサ、ムラサキシキブなど50枚ほどの台紙に貼った押し葉が、荳科、馬鞭草科、亜麻科、樟科、灰木科など14の科ごとにまとめられている。台紙には、草の名前、制作年月、採集地、草花の名前が分からなかったときに教えてもらった先生の名前などが書かれている。制作年月は、明治25年すなわち祖父が15歳の時から明治37年までに散らばっている。つまり祖父は師範学校の生徒の時から押し葉を作り始め、教師になってからもこれを続けた。採集地は、茨城師範学校植物園、多賀郡、水戸、岡山県半田山、御野郡、御津郡などとなっている。

台紙を科ごとに分類して新聞紙で包装したのは岡山市に住んでいたころで、新聞は明治37年の5月から7月にかけての山陽新報、神戸又新日報、大阪朝日新聞、読売新聞、時事新報が使われている。新聞は、大分色あせてはいるが、はっきりと記事を読むことができる。

明治37年2月から38年9月にかけて、日本はロシアと日露戦争を戦っていた。紙面では、自国船を湾口に沈めてロシア軍艦を港に出入りできないようにする第3次旅順口閉塞のときのような、熾烈を極めた戦闘が連日報道されている。社説では、「韓国経営の第一義」という題で、韓国の領土保全は日露戦争の主たる目的の一つなのだから、我が国が韓国のために貨幣、税、教育などの諸制度、軍事設備などの改革を行うことはもとより、外交を引き受けるべきだ、と論じている。「仲裁と交戦の目的」という題では、この時期他国の仲裁によって休戦的講和を得ることは、幾多勇将猛卒の血を捨てるものであり、軍備費の不足は国債で調達して目的を達成するまで戦うべきである、と主張している。外電では、ロシア社会党が「日露戦争は、ロシア政府が満州、韓国のいわゆる黄露領を略取しようとして戦っているのであって、ロシア人民の沢山の血を流して何の得るところがあろうか」という檄文を発表した、と報じたロンドンタイムスの記事を載せている。また、ロンドン・スペクテートル紙に載った「日露戦争に関し露国を驚駭せしめたるもの頗る多しといえども、一見弱者たる日本に対する米国の挙国的同情より甚だしきものなかるべし」という記事を紹介している。

日露戦争は、このあと米国の仲介によって終結するのだが、わずか三ヶ月間の新聞からも、現在の日本が通ってきた過去の歴史の流れを、鮮やかに読み取ることができる。

このころ祖父にはまだ子供がいなかった。やがて明治の末期に岡山で生まれた二人の息子すなわち私の父と叔父は、昭和の初めから始まった大戦争時代を遂に生きて通り抜けることはできず、ノモンハン事件と第二次大戦により、ともに外国で親に先立って死亡した。

祖父の作った押し葉の標本は、台紙もぼろぼろになり始めているし、草や花も折れてなくなりそうになっていて、当然ながら色も失せている。草花の見本は、いまでは、インターネット上のいろいろな植物図鑑で、自然のままの姿を簡単に楽しめるようになっている。

それでもなお、押し葉は、写真やディスプレイには代え難いものがある。台紙に貼られている草花の一つ一つの姿に個性がある。ある日生命を得て、やがて人の手で摘まれてから100年以上のあいだ形を残している押し葉だからこそ、この間の国と家の移り変わりを、私に語りかけてくれているように思える。

(茨城県東京経済人倶楽部会報2002年4月)

 






 

茨城フォーラムに出席して

                   

 「いばらき産業交流セミナーIN横浜」につづいて、東京で行われた「茨城の工業団地・ひたちなかフォーラム」に出席した。フォーラムの目的は、茨城県内の産業・インフラ・工業用地などを紹介するとともに、ビジネス交流を図ることだそうで、東京の場合、参加者が200社に及ぶ盛況であった。

県の幹部からは、常磐、東関東自動車道に加え、計画中の北関東自動車道、首都圏中央連絡自動車道、つくばエクスプレス、百里基地の民間利用などにより、我が県は製造・物流拠点としてますます発展することが期待されていると説明があった。また、東海村の原子力研究所に導入されることが予定されている「大強度陽子加速器」によって、つくばと並んで新しい技術の基地になることが期待されるという説明があった。

茨城県は、1985年以降の累計で、県外からの企業立地件数で全国1位,外資系企業(工場)の立地件数でも全国1位の「魅力度NO.1」の県だそうで、質疑を聞いても、真剣に進出を検討している会社が多いと感じられた。しかし、中には鋭い質問もあった。道路整備もいいが、高速道路代が高く、物流業者にとってはいかに高速道路を使わないでものを運ぶかが問題なのだ。水戸線や両毛線をもっと整備して、高速で大量貨物を運搬できるようにすれば、那珂湊港や友部に計画中の総合流通センターの特徴が出るのではないか。県央や県北の工業団地には需要が少なく、利用者はつくば以南を求めているはずで、もっと県南や県西の地区に出やすい環境を整えてはどうかなどである。また、大動脈の常磐線の問題も出された。新幹線に比べて、極端に乗り心地が悪く、スピードが遅いこと、上野乗り換えの不便なことなどである。

ところで我が県は、いま北と南で際だって異なる状況にある。北部は徳川水戸藩の地位が高く、また、旧制水戸高校、水戸一高が生み出した人材が県内外で活躍してきたこと、また産業の面でも、日立が県の産業を支えてきたことなどから、長い間県の中心としての位置を占めてきた。

しかし、つくば万博とほぼ同じ時期から、南部の発展はめざましいものがある。特に近年、首都50km圏内がITなど情報技術産業や物流拠点として集積効果があり、立地する価値が一段と高まった。神奈川、埼玉、千葉はその流れを敏感に読み取り、MM21,埼玉新都心、幕張など50km圏内に核となる開発地域をもうけている。我が県ではつくば市がこれに当たる。もっともここは「つくば自治区」といった趣で、県が主体性を取って、つくばの強みを生かしているとは思えない。それが証拠に、一番早く立地しながら、国の投資が一巡した今は習熟期を迎えた都市になりつつあり、往年の活力を失ってさえいる。

現在茨城県の取り組んでいる施策やプロジェクトを見ると、あまりに総花的であり、ときに水戸を基点とした発想が強いと思われ、果たして費用対効果の面でこれでいいのかなという気にさせられる。累積の企業立地件数NO.1は、重厚長大産業の寄与度が高かった時代のものを含んでいる。今や情報技術産業への産業構造の転換や工場の海外移転の流れが加速しているのだから、魅力度NO.1を続けるためには、今にふさわしい政策に転換しなければならないのではないか。

私は、茨城県の現今の施策は、常磐新線を起爆剤にした、つくばや県南の一層の活性化であり、その影響を時間をかけて全県に波及させることであると思う。県北は、歴史と伝統を強みにして、文化の面で県をリードする重要な役割を持っている。ここに製造業や物流拠点を誘致するためのインフラを作り続けることは、市場の需要に反したことであり、あまり急ぎすぎると無駄使いとなって体力を失わせることになる。県に必要なことは、このような茨城の「南北問題」を正しくとらえ、将来像と足元の課題を明らかにして、率直に県民に問いかけることであると、フォーラムに出席して思った。

(茨城県東京経済人倶楽部会報2001年4月)

 






 

シベリア鉄道

                        

 昨年6月に社長職を退いて、日々追いまくられるような生活から解放され、いろいろと今後の生活設計を立てられるような心境になっている。私の場合体力があるうちにどうしてもやっておきたいことがある。それはシベリア鉄道に乗ることである。

中学時代を水戸で過ごした私の父は技術屋となり、1941年(昭和16年)35才の時にシベリア鉄道に乗ってドイツに行った。アルミニウム合金の製造技術の研究のためである。着任10日後に独ソ戦が始まり第二次大戦が激化するなかで、連合軍の空襲の下を逃げまどううちに肺結核に冒されてついに帰国することが出来なかった。なぜそのような時期に会社は社員を派遣したのかと疑問に思ったこともあったが、昭和史をひもとくと、当時は国自体が激しく変化する国際情勢を全く把握できていなかったのだから、私企業もまた被害者だったといえるのかもしれない。

 父は筆まめであったから、シベリア鉄道の中でも、ヨーロッパ滞在中でもしきりに日記や手紙を書いている。そこにはヨーロッパ戦線の状況、次第に空襲圏に入ってきたベルリンの様子、多くの邦人を残したままいち早く安全なところに避難した日本大使館への憤り などが詳しく書かれている。私は手紙を頼りに時間を見つけては父の滞在したホテル、手術を受けたドイツ陸軍病院、療養をしたスイスのサナトリウム、遺体を焼いたレマン湖畔の火葬場など巡ってきた。それは、戦士の遺族が戦場を訪ねる気持ちと同じで、霊を慰め、魂を連れ戻すような心情といってよい。そのなかで、今まで果たせなかったことはシベリア鉄道に乗ることだった。

シベリア鉄道、ウラジオストックとモスクワを結び、全長9,297km、所要時間は約150時間。1904年に全線が結ばれ、現在はほとんどの区間が電化されているが、列車の暖房は各車両ごとにボイラーのある石炭暖房だそうだ。厳冬の季節に万一暖房が故障すればたちまち生死に関わるからである。列車の長さも重量も日本のものとは比べものにならないくらいに大きい。ウラジオストック発の横断本線鉄道のほかに、北京発ウランバートル経由と満州里経由で本線に合流するルートがある。

 父の記録によれば、東京駅を発ったのが1941年5月25日、途中勤めていた会社の工場のある尼崎、門司に寄って船で大陸に渡り、大連発が5月29日、ハルピン、満州里、イルクーツク経由モスクワ着が6月8日、ベルリン着が6月10日であった。大連からモスクワまでの9日は今の時刻表で見ると7日で、この60年間にシベリア鉄道にも電化をはじめ大きな改善があったと見るべきだろう。

日記によれば当時の1ドルは2.5マルク、5.3ルーブル、4.26円だが、今の1ドルは2.2マルク、27.8ルーブル、107円で、ドルとマルクの間は大差はないが、ルーブルや円は大きく下落している。この間には戦争や革命などいろいろな経済社会の変化があり、デノミなども行われているので比較することは難しいが、やはり欧米機軸通貨は時代を超えて機軸の役割を果たしていると見るべきだろうか。飲食物の値段や列車のサービスの内容、コンパートメントの広さや材質の記録もあるから、乗ってみれば変化のほどははっきりと分かるはずだ。

父の場合、この旅で緊張したのは国境を越えるときの荷物の検査だったらしく、正装した乗客が大きな荷物を持って右往左往する様子がおもしろおかしく描かれている。なんといっても困ったのはトイレだったようで、一等車がとれずに一部屋4人乗りの二等車だったが、洗面所やトイレの汚れを思うと起床する勇気がなくなると書いている。

今ではインターネットにも沢山の情報が載っているし、旅慣れた若い人だと利用するのはたやすいようだが、全線を通してほとんど英語が通じないなどはたして気持ちや身体がもつかなという気にさせられる。妻を誘ってみたが、シャワーもない一週間以上の列車の旅には自信がないというし、私もトイレがどの程度改善されたか情報をもっていないので強くは頼めない。

この旅には、故郷を思い家族を思って4年余、ついに帰れなかった父の悔しさを晴らすいわば仇討ちのような心情で出ることになる。しかし、平和で温暖な島国に生きていて、常磐線の最新鋭「スーパーひたち」の横揺れにさえ音を上げているような老人は、ひょとすると頑強で手強いシベリア鉄道の返り討ちに会って、ほうほうの態で逃げ帰ることになるかもしれない。

(茨城県東京経済人倶楽部会報2000年10月)

                   






 

「スーパーひたち」に期待する

 

私の会社の主力工場はいわき市にあるので、私は茨城県を貫く二本の交通動脈、常磐線と常磐高速道路の恩恵を大変に受けている。

常磐線で愛用するのは「スーパーひたち」で、これは上野から水戸までを1時間、いわきまでを2時間、仙台までを4時間で走る北関東から東北の東海岸地域の生活、ビジネスを支える輸送機関のエースである。鉄道車輌の設計にデザインが本格的に取り入れられたのは、1989年に現れた「スーパーひたち」からだそうで、流麗な外形や整った車内設備はなかなかのものだと思う。

私がよく利用する上野~いわき間の2時問は、新幹線になれてしまうともう少し縮まらないかと思ってしまうのだが、電車が走り出すといつもああそうだったと思い知らされることがある。それは「スーパーひたち」の揺れである。これははじめからだったようで、雑喉謙氏の「最新鉄道とっておき物語」での試乗記でも「よく揺れる。進行中立って歩くには細心の注意が必要」と書かれたりしている。

ものの本によると、鉄道は一定の速度になると左右に揺れを繰り返す、いわゆる蛇行動が起こる。これは軌道と車輌の間にわずかな遊びをつくっていたり、軌道に分岐があるために起こるのだが、これを避けるためには車輌側で解決するのが早道なのだそうだ。台車間を長くしたり、バネ下重量を減らしたりするほかに、揺れを感じなくさせるため振り子方式の車輌を採用するなどさまざまな方法がある。車輌ばかりでなく軌動も高速向きにする必要がある。レールを太く強くしたり・枕木の弾性を強めたりバラストを厚くするなどである。東北・上越新幹線ではスラブ軌道というコンクリート軌道敷にレールを直接連結して、コンクリートそのものに車輪の振動を緩衝させる役割を果たさせているとのことである(川島令著など)。

常磐線特急の改善の歴史は、車輌改善が中心であったように思うし、事実毎年のようにあたらしい車輌が登場する。これはこれで大変にありがたいことだが、今の常磐線をスピードと乗り心地の面で一段と素晴らしいものにするためには、やはり軌道を高速向きに革新することが必要なのではないだろうか。

今年のはじめにいわき市の市長や茨城県の幹部にお話したところ、いわき市長は水戸以北の高速化を実現したいが、このためには路盤の改善が必要とのことであった。県の幹部の方は早くから問題意識を持ち検討したが、そのときは関東ローム層のため地盤が不安定で技術的に難しいということだったそうだ。しかし、よく見るとまだ一部に木の枕木が使われているような状態なのだから、最新の技術で取り組んでいただけばめざましい改善が出来るのではないか。資金面では鉄道整備基金などの支援策があると聞いた。

特急と普通車兼用であり、間断なく使用されている線路なので、技術面・コスト面など障害は大きいとは思うが、常磐線をスピードと素晴らしい乗り心地の鉄道に生まれ変わらせることの意義はきわめて大きいと思う。 

           (茨城県東京経済人倶楽部会報 1998年3月)


                                                                                  




 

     

日々自分に問いかける

 

僕は高校に入った年の4月から日記をつけ始め、途中に中断はあったが、六十歳を越えた現在も続けている。初めのページには「Oさんにすすめられて日記をつけることにした」とあるが、次の日の日記にはその日見た映画「青い山脈」についての感想で、自分にも六助、新子のような恋をする機会ができるだろうかと熱っぽく書かれている。

その頃の日記の中身は、新しくできた友人のことや読んだ本や映画の批評のほかに、文芸部の機関誌「火山湖」や同人誌「楊柳」に出す詩だとか短編小説などの習作が多い。日記は大学ノートに書いていて一冊一冊に題が付けられているので、題を見ただけで当時の心境とか、書く目的とかをうかがうことができるのだが、その一部をご紹介すると「新機軸」「矛盾時代」「最初の岐路」「俺について」などというのがある。「俺について」は高校時代最後の日記帳の題であるが、そのなかに次のような散文詩がある。それはその後の僕の人生の土台になっている問いかけである。

俺にとって

もっとも不安なのは

俺をこの俺が知っているかどうかということである

心身体について俺は俺のできる限り

俺を知ろうとするだろう

この日記帳は

答えに至る計算用紙である

 

僕が大学に入ったのは、六十年日米新安保条約反対闘争の前段階の激しい学生運動のあった時代だったので、入学早々に自分の政治的見解を問われることになる。また、同年代の石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞をとり、すでに文学の道を諦めていた僕の心をも刺激した。時の波に揉まれながら、一般教養や専門学部の講義を聞いて学問の奥の深さに強く感動したり、いろいろな才能を持った男女の友人と知り合って交友の輪を広げていった。

当時の日記では、このような日々の新しい出来事を楽しみながらも、読まなければならない本や、やらなければならないことを並べて、時間が足りないと嘆いたり怠惰な自分を励ましたりしている。また、政治、文学、信仰、友情などを論じつつも、いつも、自分が何ほどの者なのかを疑ったり探ったりしている。だが「日記はうれしさ、悲しさを分かちあえる友達で、将来に向かって書かれているのではない」と書いているように、直面している問題には鋭敏に反応しながらも、長い目で見た人生設計をしっかり描けないままに流されていた。しかし、後から考えると、変化に富んだ実りの多い四年間だった。

学生時代は、飛行機が離陸するために滑走路を疾走する時間にあたると思う。ここをどのように過ごすかによって、後の人生が変わってくる。もしも今、僕がこの時代に戻ることができるのなら、もつと人間の幅を広げ、そして学問でも芸術でもスポーツでも何でもいいから、一つのことに楽しく深く打ち込んでみたい。広い知識や行動の幅を持っていてその上に一つ得意技があることが、強みになるし人生を楽しいものにしてくれるからだ。また人生設計については、仮にやりたい夢の萌しがあったとしても強い願望にまで高めて行けなければ、日々努力を積み重ねることができず、実現することは難しい。僕の場合もそうだった。ただ、自分に合った進路を選ぶことは必要だが、たとえ自分の力不足や経済環境などでベストの選択ができなくても、その後の自分自身の考え方や取り組み方で、人生を生きがいのある充実したものに変えることができるというのも現実である。

僕の場合、製造会社に就職したが、その年の日記には、以前は就職した人の不平を軽蔑していたが、僕は今後勤め上げる自信を就職十日で失ってしまったと書いている。その僕が考えを変えてサラリーマンの生活に意義を見つけだせたのは、どうせ勤めたからには現状から逃げ出さずやりたいようにやらせてもらおう、そのためにまずは身近な人に評価されるような実力を付けようと腹をくくったのが始まりだった。

仕事ではうまく行かないことも多かったし、失敗して挫折しそうになったこともあったが、次には必ず成功させようと仕事に打ち込むことで乗り越えた。こういうときには、大学時代に勉強した法律や経済の学問や考え方が役に立つことが多かった。十代から二十代にかけての柔軟な頭に刻み込んだ勉強は、そのとき知り合った友人のように必ず自分を助けてくれるし、人生を内容のある豊かなものにしてくれる。しかし、それ以上に僕にとっては、自分がどういう人間なのかを日記の中で日々見つめ直していたことが、生き方を発見したり問題を解決したりするのに力になった。

そして課長や部長に昇進したときあたりから、日記の重点が変わってきた。会社などの組織では、正しいと思うことを積極的に提案することが求められるが、決定された上は決められた方針に従って全力を尽くさなければならない。自分を見失わないために、自分の本心を日々確認しておきたいという気持ちが強くなった。また部下を持つと、仕事を達成することも大切だが、チーム全員が明るく気持ち良く働けるようにすることも同じよに大切である。このためには、上に立つものが自分へのこだわりを捨てて、会社や部下のことを優先させて仕事をすることが必要である。チームワークを第一にするために退かせた自分の自我や自己顕示欲は、日記に記すことで鎮めることもできるし、よりよいものへ高めることもできる。

会社の社長になったとき、自分の役割は、会社の目標や戦略を明確に示し、適した人を適した仕事に配置し、社員を育て、全社の力を結集して結果を出すことであると考えた。会社が社会に貢献しながら業績を上げ、社員が幸福になれるよう全力を傾けなければならない。日記では、一日の行動やその日の決断の基になった信念などを書いているが、おのずから、自分が社長の役割を誠実に果たしているかどうかを自分自身に問いただす場になっている。

ところで、日記をつけることは人生を二度生きることだとか、反省材料を残すためとか、一日一日に区切りをつけて進むためとかいろいろ言われており、それぞれに正しいと思うが、僕の場合基本は一貫している。それは、自分は何者のかを自分に問いかけてきたことである。

この問いかけは高校時代に出来上がったものであるが、その源は、欠点の多い自分を少しでも高めたい、自分に生きる力を与えたい、自分の気持ちに正直に生きたい、自分を確立したいという願いから発している。しかし道は遠く、今に至ってもこのような自分には殆ど達していないように思う。したがって、この問いかけは、これからもまだまだ続けて行くことになるだろう。

(進修百年―土浦第一高等学校百周年記念誌掲載1997年11月)

 

 



母の死亡通知

 

拝啓 寒くなってまいりましたがお元気でお過ごしのことと存じます。

 私は、****の長男です。母は、この10月12日に86歳で他界いたしました。葬儀は15日に土浦市にて執り行いました。謹んでご報告いたしますとともに、生前母に賜りましたご厚情に対して、厚く御礼申し上げます。

 母は、かねてから、元気なうちは自立して生活がしたいということで、つくば市の家に独りで住み、ときおり学校時代のお友達、父の勤めていたころのお友達、編み物のお友達などとお会いするために上京するという生活を楽しんでおりました。前日までは大変元気にしており、孫娘が10日前まで母を訪れて2日ほど泊まり、一緒に近所に出かけたりしていたほどです。 12日の朝から気分が悪くなり、ご近所で親しくしている方のお手伝いでつくば市の病院に診察に行きました。車から病院までは歩いていったほどでしたが、診察検査中に急に病状が悪化して亡くなりました。

 病気の名前は大動脈解離ということで、心臓のそばの動脈が裂けたということです。短時間の出来事でほとんど苦しまなかったため、死顔は穏やかなものでした。少し微笑んでいるように見える顔は、私には何かを成し遂げた安堵感、満足感に溢れているように思えました。子供を育て上げた後は、自分の両親、夫の両親、自分の妹の看病などを買ってでておりましたが、自分は誰の手も煩わせずに、逝ってしまいました。

 母は、人を笑わせ、自分も笑うのが好きで、話の最後はああ面白かったと結ぶ癖があったほどです。昨日を悔やまず、明日を思い煩わないという人でありました。そして、一度おつきあいいただいた方には、いつもまでも感謝し続けるという人でした。

 母が一番大切にしていたものは、家族とお友達です。特にお友達からは、元気で楽しく生きる力をいただいておりました。皆様には本当に親しくおつきあいいただき、有り難うございました。母がもし口が開ければ、お一人お一人に御礼を申し上げているはずです。

 母はこれから、50年前に死別しました父の眠る多磨墓地に埋葬いたします。家族を思いひとり寂しく異境で死んだ父にいつも哀惜の気持ちを持ち続けていた母が、楽しく再会するという夢をこの際は信じたいと思います。

 重ねて、おつきあいいただいたご厚情に厚く御礼申し上げ、ご挨拶に代えさせて頂きます。

 寒さが厳しくなりますので、くれぐれもお身体をお大切になさってください。

平成9年10月23日

(1997年10月)

 

 




沃野一望数百里

 

今年の2月に、一時帰国中の駐エクアドル大使の塙哲夫夫妻をお迎えして赴任先の話を聞いた。塙氏は土浦一高で我々の同期である。場所はこれも同期生が経営をしている筑波山の青木屋であったが、前面が南に開けていて、そこから関東平野が一望に眺められる。筑波学園都市を眼下に見て、東京の高層ビルから富士山まで、息をのむような向春の美しい景色であった。土浦一高の校歌は、沃野一望数百里という言葉で始まり、筑波山、霞ヶ浦、桜川とあたりの情景描写が延々と続き、だからどうなのかは最後の四番にでてくるだけだが、たしかにこうして眺めていると、この景色を味方に羽ばたけと励まされているような気がしてくる。

さて、茨城を舞台にした小説はたくさんあるが、私にとって特に印象的なものは、「将門記」(大岡昇平著)、「桜田門外ノ変」「天狗争乱」(吉村昭著)である。将門の乱は、承平5年(935年)将門が衣川の上流(今の下妻の近く)で土地の豪族と武力衝突を起こしたことに始まり、雲のごとくわき出た大兵を率いて関八州を平定するが、京都の命を受けた大軍によってあっけなく首を取られてしまう。文明と天皇制が同時に発生した我が国に、自由な族長のイメージは形成されなかった、と著者は書いている。天狗勢の方は尊皇壌夷を信奉した水戸藩の脱藩士の起こした桜田門外の変のその後で、藩の存続を守ろうとする力から押し出された天狗勢の悲惨な最期が哀れである。これらはどちらかというと反体制の勢力の話であるが、しかし、今や茨城は日本の中央に位置しているだけに、その役割は従来になく大きいと思う。

ところで、私の会社は工場が福島県にあるので、毎年1月に東京で行われる、福島に進出している企業の責任者と県知事との懇親会に出席しているが、今年は遷都の話でもちきりで、阿武隈山系をおいてほかにないと熱気で一杯であった。

遷都については、国会で議決されてはいるが、具体案作りとなるとなかなか先に進まない。茨城県は首都機能の移転先として、日立平野と県西北部の名乗りを上げていると聞いているが、茨城にも候補地はありますよという程度で、遠隔地の誘致希望県の遷都案に比べてパンチ力が足りない。東京、神奈川、千葉、埼玉の県や市の、首都圏に行政機関を移転する「展都」案に対しても一歩距離を置いているように見える。しかし、常磐新線を東京に向かっての第二通勤電車線と位置づけないで、広域分散首都のための線と位置づけて周辺を行政機関に活用させる案も、新線であるだけに十分説得力をもつように思う。

いずれにしても、この沃野は、しっかりした青写真のもとに21世紀の日本にふさわしい形で活用してもらいたいと思う。これで、心ならずも反乱者の汚名を着せられ、鎮めなければ崇りをなす怨霊として畏怖された将門の霊が、1,000年後の今鎮められることを願いたい。

(茨城県東京経済人倶楽部会報1996年3月)

            






 

今年の期待

 

阪神大震災では私の会社は幸い従業員がケガをしたり、建物が壊れたりするような損害を負わなかったが、お得意様や代理店のなかにはかなりの被害に会われた方がおられる。私たちも一日も早い復興のために出来るだけのお手伝いをしているところである。

さて・自然は時を待たず春になるとプロ野球をはじめいろいろなスポーツのシーズンが開幕する。ところで、いまの長嶋や王監督が現役選手の頃「巨人・大鵬・卵焼き」という言い方があつたが、これは、プロ野球のジャイアンツファンというのは、強い横綱大鵬や卵焼きの好きな子供のような人が多いという、いわば冷やかしの言葉である。それならほかのチームのファンはどうかというのを募った週刊誌の企画があって、今でも覚えているのは「阪神・たこやき・ストリップ」「東映(今の日ハム)・色パン(色のついたパンツ)・浪花節」「大洋(今の横浜)・水割り・ヒッチコック」などというものであった。

私はといえば、秋山・土井といった東京六大学のスター選手を集め、知将といわれた三原監督の率いる大洋ホェールズのファン、つまり、日本酒や焼酎でなく洋酒の水割りを好み、外国のサスペンス映画を好むインテリを気取っていると冷やかされていた。

フランチャイズが私の住んでいる横浜に移り、球団の名前も「横浜ベイスターズ」と変わってますますファンである理由が強くなったわけだが、ベイスターズのファンとして一番困るのは、このチームがまことに弱いことである。昨シーズンも勝率5割を超えられず、最後には最下位に落ちてしまった。

ところで、一昨年発足したサッカーのJリーグには私が長年勤めた会社のサッカーチームをベースにした「ジェフ・ユナイテッド・市原」が入っているが、監督や選手に知り合いが多いので、私は郷里の茨城や住んでいる横浜のチームをさしおいてジェフのファンである。このチームには得点王断然トップのオルデネビッツとか全日本のゴールキーパー下川などがいたのだが、試合になると逆転負けが多くて昨シーズンは終盤ようやくビリから4番目に這い上がるのが精一杯であった。

シーズンの水曜日と土曜日にはこの二つのチ・一ムの試合が重なるのだが、昨シーズンは重なった目が29日、そのうち両チームとも勝った日がわずかに4日、両方とも負けた日が14日である。十分に満足する日は13%、逆にどん底の気分になる日が実に半分あるわけだ。野球はジャイァンツでサッカーはヴェルディを応援している人の星取表は調べていないが、満足の割合いでは、天と地ほどの開きがあると思う。

ところで、我々の業界も技術革新、円高による輸出の激減、海外品の流入など多くの課題をかかえている。私は一昨年6月に今の会社の社長になったが、全国のお得意様に新任の挨拶回りをしていた8月半ばの暑い日に、温かい激励を受けて身が引き締まるのを感じながら家に着いた。そのときテレビで野球が中継されており、ベイスターズが一打逆転の大ピンチで、それをハラハラしながら見ているうちに急に心臓が苦しくなり不整脈で脈が数えられなくなってしまった。

幸い薬で正常にもどり再発してはいないのだが、弱いチームを贔屓にする者の苦しさ辛さ身をもって体験した。それ以来、ベイスターズの試合もジェフの試合もテレビでは見ないことにしているのだが、それでもその日は経過は気になるし命は惜しいしという心境になっている。

今年の期待としては・阪神・淡路地区が力強く立ち直ってくれること、そして、いつの日か強いもののたとえとして「ジェフ・ベイスターズ・我が社」といえるようになる地固めの年でありたいと願っている。

(茨城県東京経済人倶楽部会報 1995年4月) 

 






 

先輩の言葉

 

 去年の六月、それまで勤めていた会社の関係会社の社長になったとき、私を助けて働いてくれる何人かのひとに一緒に来てもらった。経営陣に加わるこれらのひと達が、うまく会社に溶け込んでくれればよいがと案じていたとき、日本経済新聞のコラムに、内藤祐次氏(現在当倶楽部の理事もされている)の書かれた文章が載った。それは、「五ヶ条お忘れなく」という題で、要約すると「自分はエーザイの創始者からバトンタッチを受けたころ、自分の能力に過信して協調性のないタイプに入っていたかも知れず、幾度か人心の掌握に失敗した経験がある。座右の銘として、・愚説にも耳を傾けよ ・自分のものとあまり変わらなければ下の者の意見を褒め採用せよ ・怒気怒声を慎め・事務の裁断は機が熟するのを待て ・自分の好まない人とも交際せよ、を勧めている」というものである。私はこの記事を切り抜き皆に配って、まず謙虚に話を聞き、心のふれあいを大切にしてくれるようお願いをした。

 私はそれまで、人事、経理、経営企画といった部門を担当することが長く、社長の役割を身近に見る機会が多かったが、自分がなってみるとなかなか思うようにこなせないことが多い。結局は目分で考え切り開くしか道はないのであるが、先輩のアドバイスも参考になる。

 社長として一番に心がけるべきことはなにかと教えを請うたなかではトヨタ自動車元社長豊田英二氏のお話が明快であった。「目分の思っていることは相手も当然分かっているはずと思わずに、直接にハッキリと分かりやすい言葉で伝えることが大切です」。

本のなかでは、京セラ元社長稲盛和夫氏の「心を高める、経営を伸ばす」が説得力があり、共感できるところが多い。「仕事の結果を決めるのは熱意 ・強烈な願望を描き実現を信じる ・人を動かす原動力は公平無私 ・リーダーの卑怯な振る舞いは職場のやる気を落とす ・経営とは日々の数字の積み重ね」などなど。

私の喉に刃を突きつけたのは、松下幸之助氏の次ぎの言葉である。「経営者に必要な資質のなかで欠くことができないものは、経営が好きだということである」。経営とは、目標を立て、組織し、動議づけをおこない、結果を評価し、人材を育成することによって、公正な競争のもとに、最大の経済的成果(利益)を上げることである、と考えるが、経営者はこのことが、何よりも、誰よりも好きでなければならないと言われていると理解する。経営はどのような規模であっても、会社とそこに働く人の将来を左右する仕事なのだから、全身全霊を打ち込むに値するし、そのことにおおきな喜びを感じなければならない、とあらためて勇気を奮い立たされた言葉である。

             (茨城県東京経済人倶楽部会報 199412月)

                    

 



新入倶楽部会員自己紹介

 

私は平成5年6月、35年間勤めた会社を退任し、関係会社の社長に就任いたしました。この会社は、新車用や取り替え用の自動車電池、ビル・工場などの非常用電源、コンピュータ用のバックアップ電源、携帯電気機器用小型電池など、使い捨てではなく充電して何度か使用する蓄電池および充電機を製造販売する会社であります。現在電池には小型・軽量、高性能、高信頼性、高エネルギー密度、低価格などさまざまな技術革新が要望されており、わが社もこの開発に取り組んでおりますが、茨城県では、特に取り替え用自動車電池のシェアが低いということが分かりましたので、県南のほうに新たに営業所を新設することといたしました。当会に入会いたしました時期と仕事が変わった時期が重なったため、はじめてのご挨拶がお願いになって恐縮ですが、なにとぞ我が社のバッテリーをご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

さて、私の家は代々茨城の出身であり、筑波出の曾祖父が元旭村の聖林寺の住職、祖父は茨城師範の教員、父は生まれは岡山ですが中学時代を水戸ですごしました。私は生まれは昭和9年栃木県ですが、昭和20年に父を亡くし翌年小学校の6年の時から今のつくば市(前豊里町、元旭村)沼崎に移り住み、小学校、中学校をへて高校までを茨城ですごし、東京に出て昭和33年に大学を卒業いたしました。

沼崎時代は祖父と同居して生活をしておりましたが、人に教えることが何よりも好きな祖父の好餌となってしまい、小、中学校時代は毎朝四書五経などの漢文の素読をやらされたり、栗林を開墾して畑を作る仕事を手伝わされたりしましたが、いずれにせよ現在の私の生活よりも内容に富んだ生活をしていたように思われます。今でも当時の家が残っており私も年に何回かは帰りますが、東京育ちの母のほうが沼崎での生活を好んでおり、いまでも暇をつくっては茨城に帰っています。

高等学校時代は、土浦という都会に出たことの刺激をうけて、毎日のように映画を見、批評を書き、文学同人誌の発行に参加するなど文学青年を気取っておりました。同人誌の名前は「楊柳」といい、これに関係した友人が年に何回か集まり、おそらくもう発行回数の数十倍回数を重ねたと思います。

今度はからずも会社の社長に就任いたしましたが、国内景気の一段の深刻化、関連の深い自動車産業の厳しい環境など先の見えない状況が続いております。この会を通じて先輩の皆様のご指導得られれば、まことに幸いであります。

       (東京茨城県経済人倶楽部会報 1993年11月)

 

 

 

 

 

開場記念杯に優勝して

 

1991年10月10日に行われた開場記念杯コンペに優勝することができました。あわせてベストグロス賞を手にすることができて、私にとっては忘れられない一日になりました。

 その日は秋雨が降り続いたうえに台風21号が接近してきたため、少々期するところがあった私もスタートをしばらくためらったほどの天候でした。

期するところがあったと言いましたのは、この8月から使い始めたメタルヘッドのドライバーがようやくなじんできたことと、調子の波が上向きに転じてきたことを感じていたからです。私は年間平均ストローク数が100を切り始めた20年前から記録すなわちデータベースを作っているのですが、これによりますと、45インチの長尺ドライバーを振り回していたこの1年間は、平均ストローク数は使用前とあまり変わらないのですがダブルボギー以上を叩くホールの数が増えているという結果になりました。これは何とか年間アベージで常に前の年のアページを改善し続けたいという私のゴルフの目標(実績は別の話として)をおびやかす危険な火だねだと思ったのです。そこで方向をばらつかせずに距離もあまり落とさないメタルヘッドの44インチドライバーに活路をみつけようと取り組んできたのでした。

 調子の波については、私のデーターでは波はまさしく存在することを示しています。時に3か月周期であり時に6か月周期であり、またいくつかの波が重なり合う。今のところ何故波が襲ってくるのかの原因は、私なりの仮説はいくつか立ててはいるものの十分解析できておらず、したがって克服する方法も手探りの状態です。

 さて当日、スターティングホールのインコース10番のドライバーはわずかに左のラフに入りそこからの8番アイアンはラフに負けてグリーン手前のバンカーヘ、バンカーショットで2メートルに付けましたが2パットのボギー。インはこの10番と3パットした17番がボギー、16番がティーショットが1メートルについてバーディーで37。アウトコースは出だし2ホールがボギー、バックティーからですと私ではセカンドショットでウッドを使わざるをえない3、5、8、9番のミドルホールでフェアウェイウッドがことごとく水を合んだ芝生に勝てずボギーとなって42で合計79。バーディー1、パー9、ボギー8という内訳で、当日の天候とバックティーからノータッチでプレイしたことを考えると出来すぎのスコアでした。フェアウェイウッドでミスが重なりましたがドライバーがいつになくよく当たり、6ホールが1パットとパットもよく入ったことによるものです。また、今回の同伴競技者は、いずれの皆様も温かいお人柄のかたで楽しく落ち着いた気持ちでプレイできましたことも好成績につながった大きな要因です。それにしても長く続いた雨にもかかわらずコースの状態の良かったことに感心いたしました。ご関係者の日ごろのご努力のたまものと思います。

 表彰式でご出席の競技に参加された皆様、支配人、所属プロはじめ競技運営の関係者の皆様から祝福をいただいた後ずっしりと重い優勝カップを抱えて会場を出ましたが、食堂に勤めている方々、マスク一室の方々、フロントの方々などゴルフ場にお勤めの方々からつぎつぎにおめでとうという祝福の言葉をいただくにつれて私の心は天に舞い上がったようになってしまいました。

 クラブ競技会での優勝というのは私のデータファイルのなかでも燦然と輝く出来事です。

この優勝を機にいつも安定して今回のようなゴルフができるように、またさらにはもう一歩高いゴルフができるように努力したいと考えます。同伴競技者の皆様、祝福をいただいた皆様、素晴らしいコンペを運営して下さったよみうりゴルフ倶楽部の皆様に厚く御礼申し上げます。

   (よみうりゴルフ倶楽部会報「よみうり」1992年新年号)