中国語のエッセイ・日本語つき
(一个日本人用中文写的随笔)
(2012年)
汉文典籍的处理
我打算整理位于筑波市的老家的家产。连这样的地方城市里,也有几家专门整理家产的企业。所以,只要付钱,不花太多的体力也能整理家产。可是处理专业物品,还是很难,最感到为难的是书籍。
家里有很多在明治时代出生而成长的爷爷读的汉文典籍。我从小学到初中也跟爷爷读了几本,不过,读的也许只是很少的部分,大部分我不知道是什么样的书。
当作垃圾来处理我所尊敬的爷爷的遗物,对我来说,是很难受的。我用因特网查到了东京的汉文典籍专业书店,并打了电话。我先告诉他们书名,有《小学》、《列子》、《后汉书》、《汉书评林》、《孔子家语》、《近思录》、《弘道馆记述义》、《古今学变》、《锦城文録》、《常山文集附録》、《文选音注》、《谢选拾遗》等,全都是在日本出版的。
他们听后说,这些都是普及版,不是专业书。所以,一听就没太高的价值。可是,烧掉或者当为家庭垃圾扔掉,我们也不忍心。所以请全部送给我们,让我们选择能不能利用。不能利用的话, 我们负责处理。
这样的结果让我稍微喘了一口气。爷爷出生的是明治10年,他的专业是博物学,不是汉文学。当时大部分的学习靠汉文。当然假名混杂文的教科书也有,不过数量很少。我重新感到了汉字文化的力量和恩惠。
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漢籍の処分
つくば市にある故郷の家の家財を整理しようとしている。このような地方都市にも、家財を整理する業者は沢山あるので、お金さえ出せば老人でも力仕事をしないで片付けられる仕組みが出来ている。しかしさすがに専門的なものを処分するのは難しい。一番困ったのは本である。
この家には明治生まれの祖父が読んでいた漢籍が沢山ある。私も小学校6年から中学にかけていくつか読まされたが、それはほんの一部で大半はどのような本なのかさえ分からない。ゴミとして処分してしまうのは、祖父の勉学している後ろ姿を見ている私にとっては辛いことである。そこでインターネットで東京の漢籍専門書店を探しだして、電話をしてみた。本の名前を聞かれたので、「小学」「列子」「後漢書」「漢書評林」「孔子家語」「「近思録」「弘道館記述義」「古今学変」「錦城文禄」「常山文集付録」「豈好弁」「謝選拾遺」「文選音註」「国史略」「八大家文読本」などなどと答えた。
書店の見解では、いずれも日本で出版された本であり、しかもごく普通の人が読んだ本で、専門書ではない。しかし、燃やしたり、家庭ゴミになるのは忍びないので、全部送ってもらえば、使えるものは使い、使えないものはこちらで責任を持って処分するという返事だった。
私は少し気を休めることが出来た。祖父は明治10年生まれであり、専門は博物学で漢文学ではない。当時はこのようにほとんどの勉強が漢文によったということである。もちろん仮名交りの教科書もあるが数は少ない。あらためて漢字文化の力と恩恵を感じ取った。
我的老家
11月末的三连休之一日,我去了老家。最近因为远距离驾车感到疲劳,就坐电车去,让弟弟到筑波站来迎我,一起去老家。午饭是在便利店买的饭团子,为的是能伸长在老家的时间,多做些事情。
此次是11月末,我们想把老家修理、打扫一下儿,以便能顺利地越过冬天。可是隔了好久,一进入平素不住人的家,我们就知道了现在老房子的情况是只靠我们二人的手完全不能处理的状态。院子里的大梅树由于台风的影响从根都折断了,樟木的大树枝已靠近屋顶。在房地周围种植的橡树变得太大了,枝干伸出院外。篱笆的树大得让道路难通。杉树也长得很大,如果刮倒了的话就可能损坏领家的房子了。
我立刻请花匠制作采伐树和树枝的估价表。老家附近过去从前农业的人就多,不过,据说现在他们的孩子们的大部分都是职员了,农业专业户没有了。因此土地的需求量越来越少了,现在有土地的人,卖不掉,而维持的费用也很高,很麻烦。
树不断地长大,如果一直这样下去,结果会怎样呢。从老家返回的那个夜晚,我仿佛梦见院子里的樟木变得巨大,占据了整个院子。
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田舎の家
11月末の三連休の一日、田舎に行った。最近は遠距離を運転するのがいやなので電車で行き、弟につくば駅まで迎えに来てもらって、そこで合流して田舎の家に行く。昼飯はコンビニでおにぎりを買う。これは少しでも田舎にいる時間を長くして、仕事をしたいからである。
今回は11月という時節柄、田舎の家が無事に冬を越せるよう点検やら掃除をするためである。しかし久しぶりに普段は無人の家に来てみて、とても我々ふたりの手に負えない状況になっていることが分かった。庭の大きな梅の木が台風の影響で根元から折れている。楠の大きな枝が家の屋根にかかっている。家屋敷の周りに植えてある樫の木が大きくなって、近所の土地に張りだしている。垣根の木が大きくなって道路が通りにくくなっている。杉の木が大きくなって、もし倒れでもしたら近所の家を潰しそうだ。
早速植木屋を読んで木や枝を伐採する見積もりを作ってくれるようにたのんだ。私の田舎の周りは昔は農業をやる人が多かったが、今はほとんどが勤め人で、専業農家はいないという。従って土地の需要もないから,今土地を持っている人は、手放すことも出来ず、維持するにもお金がかかって困っているのだそうだ。
このまま木が大きくなって、巨木になったらどうなるのだろう。田舎から帰ってその夜は庭の楠が巨大になって庭を占領してしまった夢を見た。
国立近代美术馆
12月的第一个星期日,我和妻子去了东京大手町的东京宫殿饭店吃午饭。这家饭店经全面改建后,于2012年5月再开业。40多年以前,我和妻子就是在这家饭店第一次见面的。现在虽然建筑物完全翻新了,不过,因为还在皇宫美丽的濠前,地点没变,我们感觉从前的气氛还留存着。建筑物能重新改建,不过,上了年纪的人不能重返青春。
然后我们去了位于北之丸公园一角的东京国立近代美术馆,看了题为“为美术兴奋得浑身发抖”的企划。这企划是为纪念近代美术馆60周年而举办的,展出的是近代美术馆收藏的杰作绘画作品。
近代美术馆原来在东京的京桥,我记得我大学生时常常去那里,1969年迁移到现在的地方。这个季节去的话,北之丸公园内的枯叶纷纷飘落下来,这本身就象是一张风景画。
展示的作品是横山大观、上村松园、万铁五郎、岸田刘生、东山魁夷、藤田嗣治、安井曾太郎、速水御舟、加山又造等日本画家的杰作,气势之大,实在不愧标题所写。此次我对横山大观的《生生流转》、安井曾太郎的《金蓉》、藤田嗣治的《アッツ岛玉碎》、加山又造的《春秋波涛》等作品有特别的感觉。
附属的餐馆改变了经营者也重新开店了。价格稍微高点儿,不过,适应这个美术馆,有闲雅的气氛。
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美術にぶるっ
12月初めての日曜日私は妻と大手町のパレスホテルに行った。ここは全面的に改築されて今年2012年5月にオープンになったが、今から50年近く前、私たちは初めてこのホテルで出会ったのだった。建物は全く一新されたが、皇居のお濠の前という美しい場所は変わっていないためか、昔の雰囲気が残っているような感じがした。建物は新しくできるが、人間は年を取るばかりだ。
そこから北の丸公園の一角にある「東京国立近代美術館」に行って「美術にぶるっ」という企画を見た。これは近代美術館の60周年を記念して行われている企画で、近代美術館の管理している絵の傑作が陳列されているのである。
近代美術館は元々は東京京橋にあったもので、私は学生時代によく行った記憶がある。今の場所には1969年に移ったようだが、この季節に訪れると、北の丸公園の枯葉がしきりに落ちていて、美術館自体が一枚の絵になっているような感じである。
展示は横山大観、上村松園、万鉄五郎、岸田劉生、東山魁夷、藤田嗣治、安井曾太郎、速水御舟、加山又造などの日本人画家の傑作が展示されていて、企画のタイトルどおり「ぶるっ」とするような気分を味わった。今回は横山大観「生々流転」、安井曾太郎の「金蓉」、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」、加山又造「春秋波濤」などに特に感銘した。
付属のレストランは経営者を変えて再開した。値段が少し高いが、この美術館に相応しい落ち着いた雰囲気があった。
神田神保町
昨天我去东京,顺便去了神田神保町的中国图书专卖书店看看。在神保町站下了地铁,这儿附近有十几家食堂。其中一个较小的食堂,无论什么时候去都是满员,外边必定有10来个人排队等着。
昨天没有排队,看店内,服务员正忙碌地打扫,厨师也忙碌地准备做菜。门牌上写着“从11点15分开始营业”。现在10点45分,我想去书店看30分钟书再回来,时间正好。顺便看了一下儿食堂玻璃窗内摆放的品种,咖喱饭600日元,猪排份儿饭700日元,奶油炸肉饼700日元等,是一般食堂的价格。我内心决定好了今天要吃奶油炸肉饼,便离开了那家店。
在书店,暂时脱销的莫言的书排列着很多,都在封面上印着“诺贝尔文学奖获奖者莫言作品系列”。不过封面的设计与增印以前的完全不同。
我下次想读的《四十一炮》、《檀香刑》、《生死疲劳》当然有,不过陈列太多了,反而却不想买了,离开了莫言的架子。总算买到了在中国本土禁止出售的阎连科的《为人民服务》。
返回来那家食堂是11点半,可已经满员了,需在外边排队。因为不喜欢冷风中等候,决定下次再来。
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神田神保町で
昨日東京に出たので神保町の本屋に寄ってみた。地下鉄神保町駅を降りて中国図書専門店に行く途中には何軒か食堂がある。その中のある食堂はいつ行っても満員で、必ず外に10人ぐらいの列が出来ている。
昨日は珍しく列がなかったので中を見ると準備中だった。表の看板に「昼食は11時15分から始まります」と書いてある。現在は10時45分だからあと30分本屋にいて、帰りに寄ればちょうど良さそうだ。ついでにショーケースの中の見本を見ると、カレーライス600円、とんかつ700円、クリームコロッケ700円などと一般的な食堂のようだ。とりあえず今日はクリームコロッケにしようかと思って、店の前を離れた。
本屋では、一時期無くなっていた莫言の本が並んでいた。それも「ノーベル文学賞受賞者莫言の作品系列」と表紙に印刷されている。増版であるが表紙のデザインも今までのものとは全く違う。
「四十一砲」、「壇香刑」、「生死疲労」など読みたいと思っていた本があったが、これだけ沢山並べられると買う気が起こらなくなる。今日は莫言を離れて、ほかの作家にしようと思い探したら、中国本土では発売禁止になっている閻連科の「為人民服務」があったので、台湾版繁体字であるが買った。
さてと時計を見ると11時30分である。ちょうどいい時間かと思いさっきの食堂に行ったらもう中は満員で、外に行列が出来ている。寒い中を待つのはいやなので、次の機会にすることにした。
橐吾花

上个星期二在东京银座, 举办了同期进入公司的职工联欢会。共有20个人参加了这个一年一度的联欢会,大约是当年人数的一半。
20个人都分别讲了各自的近况。我常常觉得老人们讲话肯定以自吹自擂为多,不过,那天同事们的讲话都是很谦虚的,比如“我做着这样的事,不过真的不是什么了不起的事”。“今年和去年差不多一样”等等。
我讲的话是关于读完了几本莫言的原著、想父亲母亲而创作的俳句得了老师评价的高点,并决定把这首俳句刻在新作的墓志背面等,看来在参加者中,只有我一个人有点儿自吹呀!
回家的路上,打算做几首俳句,便去了滨离宫庭园,这是江户时代的诸侯的庭园。我借了最近新出现的自动导园机器,这个机器内装着地图和语音向导, 导园机器把我领到从来不知道的地方,比如练马场和打野鸭子场等等。
因为也能选择中文,所以我试着听了中文,不过,几乎没听懂。看来我还得努力呀!
现在园内开了很多橐吾花,太大太多了。橐吾花令人有既安静又整洁的感觉,越小越好。
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石蕗の花
東京銀座で会社の同期入社の者の懇親会が行われた。この一年に一度の懇親会に20名、入社した数の約半数が参加した。
恒例によって出席者全員が近況を話した。老人の話は100%自慢話になると、私は思っていたが、この日は皆謙虚で、こういうことをやっているが大したことではないとか、去年と大体同じだとか言って終わるのだった。
私の話は、莫言を原書で何冊か読んだこと、父母のことを詠んだ俳句が結社内で選者にいい評価をいただいたこと、その俳句を新しく作る我が家の墓誌の裏に刻むことにしたことなどで、つまりは参加者の中でただ一人自慢話をしたのが私だった。
帰りには少し俳句を作ろうと、浜離宮に寄った。ここは江戸時代の徳川将軍家の庭園である。今度新しく園内を音声でガイドする機器が貸し出されていた。案内機器には地図と音声ガイダンスが入っている。今まで知らなかったような所、馬場跡とか鴨場とかの案内があったので行くことが出来た。解説の言葉は中国語を選ぶことも出来るので時々選んで聞いてみたが、ほとんど聞き取れなかった。私の中国語はとても自慢できるような代物ではないのだ。
浜離宮には今石蕗(つわぶき)の花が咲いている。それが驚くほど沢山あるし、また大きく立派である。石蕗の花は、淋しいとか静かだとかといった雰囲気がある花だと思っていたので、戸惑うばかりだった。やはり向田邦子の「花の名前」に影響されているのかも知れない。「花の名前」では夫の陰の女の名前が「つわこ」だった。
いずれにしても、石蕗は小さくて数も少ない方がいいと私は思う。同期会での自分の偉そうな発言が気になっているわけではないけれども。
石蕗の目立ちすぎゐる日なかかな
镰仓圆觉寺制符条书
1 1月4日,我去了镰仓建长寺和圆觉寺,看了一年一次进行的晾晒宝物的活动。特别有意思的还是看到了平时只能从门外才看得见的精华的圆觉寺舍利殿(国宝)。
今年我特别对有些书籍感兴趣。这些书籍就是圆觉寺藏有的《北条贞时禅院制符条书(永仁2年(1294年))》和《北条贞时圆觉寺制符条书(乾元2年(1303年))》。都是为了控制僧侣的日常生活而制定的,都由12条组成。我不但对内容感兴趣,而且对构成文章的词汇感兴趣。这些制符条书都是用汉字写成的汉文。可使用的不是古代的,比如《论语》、《史记》(纪元前91年)那样文章的词汇。好像是现代的汉文的文章词汇似的。
圆觉寺是1282年从中国招聘来的无学禅师开的,而建长寺也是从中国来的大觉禅师开的。所以,僧侣的日常生活纪律都用中文书写是很自然的。我觉得,因为这个纪律是为了控制日本僧侣,所以应该用容易理解的、日常使用的、口语似的文章词汇写下来。下面我介绍几个我记下来的制符条书的例示。
《北条贞时禅院制符条书 禁止条事》
一. 僧众不带免丁事
一. 禅律僧侣夜行他宿事
一. 北吕后并女人入僧寺事(“北吕后”可能记错了)
一. 僧众横行诸方采花事
一. 僧众去所不分明事门事
一. 僧侣着日本衣事
一. 僧侣远行之时送达事
(永仁二年正月)
《北条贞时圆觉寺制符条书》
一. 粥饭事
一. 临时打给一向个停(“给一向个”可能记错了)
一. 小僧侣喝食入寺事
一. 僧徒主门女人入寺事
一. 行者人工带刀事
(乾元二年二月十二日)
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鎌倉円覚寺制符条書
11月4日鎌倉に行った。鎌倉にある建長寺と円覚寺では、一年に一度収蔵している文化財を虫干しを兼ねて一般に公開している。一番の圧巻は、国宝舎利殿が特別公開され、普段は入ることの出来ない門の内側に入って、舎利殿をお参りすることが出来ることである。
宝物の中で今年私が注目したのは、二つの文書である。それは円覚寺にある「北条貞時禅院制符条書(永仁2年(1294年))」と「北条貞時円覚寺制符条書(乾元2年(1303年))」とで、これは僧侶の日常生活で犯してはいけない規律を定めたもので、ともに12か条からなる。私が興味を持ったのは、内容もさることながら、この文章と使われている単語である。この文章は、全て漢字であるが我々の知っている「漢文」ではない。つまり論語や史記(紀元前91年)の文章ではない。むしろ、現代の書き言葉に近いように思える。
円覚寺は1282年、元から招聘した無学禅師によって開かれたものであり、建長寺は同じく元の大覚禅師によって開かれたものだから、中国語で書かれているのはごく自然である。しかし、この規律は日本人の僧侶の生活を律するものであったから、日本人の僧侶が読んで理解しやすいように、日常使われる口語に似た文章や単語が使われていたに違いない。その中で私が拾い書きをしてきたものを下に紹介する(私の付けた訳は、大約であるし、正確でないかも知れない)。
「北条貞時禅院制符条書 禁制條事「(北条貞時が定めた禅寺の僧侶の犯してはいけないこと)
一.
禅律僧侶夜行他宿事(禅宗の僧侶が夜外泊すること)
一.
北呂后并女人入僧寺事(女性が寺に入ること、「北呂后并」は記録ミスの可能性あり)
一.
僧衆横行諸方採花事(僧侶が乱暴を働いたり、女遊びをすること)
一.
僧衆去所不分明事門事(僧侶が外出して行方が分からないこと)
一.
僧侶着日本衣事(僧侶が日本の着物を着ること)
一.
僧侶遠行之時送達事(僧侶が遠出する時に送ること)
(永仁二年正月)
「北条貞時円覚寺制符條書」(北条貞時が定めた円覚寺の僧侶の犯してはいけないこと)
一.
粥飯事(お粥を食べること)
一.
臨時打給一向个停(臨時に停めること(文意不明「打給一向」は記録ミスの可能性あり))
一.
小僧喝食入寺事(小僧が飲んだり食べたりして寺に入ること)
一.
僧徒主門女人入寺事(僧徒の主門から女性が入ること)
一.
行者人工帯刀事(行者や工事人が刀を持つこと)
(乾元二年二月十二日)
“做爱”的词汇
读莫言的小说的话,“做爱”这个词汇常常出现。我问中国人,即使没有“爱”,男女之间的性行为也叫“做爱”吗? 她说,“做爱”的词汇是表现行动的词汇,如果完全没有互相爱慕而进行性行为的话,不可能叫“做爱”。
她又说,“做爱”的词汇感觉很好. 日语里有没有这样浪漫的词汇?
“做爱”的词汇像似英语的make love,或法语faire d'amour的构成。“做爱”是不是汉语原来的词汇呢? 我查了查这个词汇的语源。根据《汉语词汇的“借用”和“移用”及其深层社会意义(汤志祥)》这篇论文,“做爱”的词汇来自台湾词语。可是,这词是台湾原有的词语,还是外来的词语,不太清楚。
汉语普通话在这改革开放的二十多年里借用了不少原来本身没有的词语,因为语言一直随着社会的变化而变化。下面我根据这篇论文顺便介绍一下借用词汇。
英语借词∶(音译)艾滋、比基尼、伊妹儿,(字母词)APEC、CD,(字母+意译)AA制、IP人材,(意译)超级市场、软件、硬件等。日语借词∶放送、空港、人气、物语、新干线、一级棒等。中国内区域词语∶(香港词语)减肥,峰会、蛇头、透明度。(台湾词语)爽、新锐、整合、性爱、做爱、作秀。(北京方言)打的、的哥、没戏、大甩卖、大款儿。(广州方言)打工、买单、老公。(上海方言)拍板、派对、师傅等。
还有其他的各种各类的借用、移用词汇,太多了不能一一介绍。
对“做爱”来说,日语以前的文章中, 使用着“性交”词汇,太直截了。现在,一般使用片假名的“セックスする”, 没有“做爱”那种浪漫的情调。
现在在日语中,性关系的词汇,跟IT用语一样, 使用片假名的词汇非常多。而这个片假名的词汇只是根据外语的发音纪录下来的。可以说词汇的片假名表记化是随着社会的发展而发展的吗? 反正我觉得日语赶不上社会的发展而已。
可是事到如今,我们的语言不可能借用汉语的“做爱”、“鸡巴”这样的词汇吧!
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セックスするという単語
莫言の小説を読んでいると、「セックスする=做愛」という単語がよく出てくる。そこで「做愛=愛を作る」は愛がない男女の行為でもそう言うのかと中国語の先生に聞いたら、「做愛」は男女間の性行為という動作だが、双方に愛がないまま性行為に進むような行為は「做愛」とは言わないと言う。日本語にはこのようなロマンチックな単語がありますか、と聞かれてしまった。
それにしても「做愛」は、英語の「make love」、フランスの「faire d'amour」を直訳したような単語で、いかにも外来語的感じのする単語である。そこで、手短にインターネットで調べてみると、湯志祥氏の「中国語単語の借用と移用、その社会的考察」という論文によれば、どうやら台湾から来た言葉のようだ。しかしその語源ははっきりしない。
中国では文化大革命以降二十年間に、本来中国になかった言葉の借用が増えたという。言葉は社会の変化に応じて変化するからである。ここでこの論文から少し借用単語の例を紹介してみよう。
英語からの借用単語:(音訳)エイズ、ビキニ、Eメール。(原語)APEC、CD。(原語+意訳)AA制(割り勘)、IP人材。(意訳)スーパーマケット、ソフトウエアー、ハードウエアーなど。日本語からの借用単語:放送、空港、人気、物語、新幹線、一番。中国内の区域からの借用単語:(香港語)減量、サミット、ヤクザ、透明度。(台湾語)爽快、新鋭、整合、性愛、セックス、ショー。(北京方言)タクシー、タクシードライバー、見込みがない、大売出し、大借金。(広州方言)アルバイト、お勘定、主人。(上海方言)最後の決定をする、パーティ、タクシードライバー。この他にいろいろな分類による借用、移用単語があって、とてもここでは紹介しきれない。
ところで肝心の「セックスする」の「做愛」については、以前の日本語の書き言葉では中国から来た「性交」という単語を使っていたが、あまりにも直截的である。かといっていまの「セックスする」は「做愛」ほど情緒的な感じがしない。
現在の日本の性用語は、IT用語と並んでカタカナ書きが氾濫している。しかもそのカタカナ語と言えば、外国の単語の発音をただカタカナ書きにしただけである。このようなカタカナ書きは、日本語が社会の発展に追いついていないためであろう。
かといってことここに及んでは、いまさら現代中国語を借用して「セックスする」を「做愛」とか、ペニスを「鶏巴」ということも出来ない話だ。
祝莫言获得了诺贝尔奖
今年中国作家莫言获得了诺贝尔文学奖。对莫言的小说喜爱的读者我来说,是非常高兴的事。
我第一次看莫言的汉语小说是2011年2月,是长篇小说《丰乳肥臀》,我花了约1个月的时间读完了。前半部分需要较多时间,从途中开始觉得太有趣了,感觉如果快速读完的话,真是可惜,就慢慢地细细品味。然后又读完了长篇《蛙》、《酒国》,中篇《牛》、《白棉花》、《变》、《红蝗》,现在开始读《欢乐》。
莫言是个多产作家,除上述之外还有长篇《红高粱家族》、《檀香刑》、《四十一炮》、《生死疲劳》等,还有很多中篇小说、短篇小说、散文、随笔、剧本等。
获奖后莫言说:“我还是会将大部分精力放在新作品创作上。我会继续努力。”据说莫言的特征是“用现实和梦幻的融合在作品中创造了一个令人联想的感观世界”。还有他以山东省高密县为主要舞台,写现代中国100年之间发生的事情。
除了上述以外他的特征还有,登场人物的女性都很强,女性至上的感觉,而另一方面,男性大都软弱。还有,故事的展开,像《三国演义》和《水浒传》一样地敏捷、波澜万丈,可以说承继了中国古典大众小说的血脉。
他说他一直在写作形式上进行探索和创新,结果他不断地向读者提供新鲜的小说。
以前评论家江藤淳论述夏目漱石说, “作为评论家,我遇见了值得一生持续研究的作家夏目漱石,是很幸运的”。对我来说,“作为学习中国文学的爱好者、能遇见莫言,一位可以让我一生持续读的作家很幸福”。
现在中文小说在日本书店的库存很少,不能马上到手,很不方便,再加上这次获奖。现在在东京神田的中文图书专卖店里,莫言的作品一册也没有了。希望他的小说很快地又排列在书店的架子上。
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莫言ノーベル文学賞受賞
莫言が今年度のノーベル文学賞を取った。莫言愛読者としては、大変嬉しいことである。
私が莫言の原本を初めて手にしたのは2011年2月だった。それは「豊乳肥臀」で、大作だったが約1ヶ月かかって読破した。時間がかかったのは前半だけで、途中からは面白くて読み進めるのが惜しい位だった。それから長編では「蛙」「酒国」、中編では「牛」「白綿花」「変」「紅蝗」を読了して、いま「歓楽」を読み始めている。
莫言は多作の作家なので、このほかにも長編で言えば「紅いコウリャン家族」「檀香刑」「四十一砲」「生死疲労」などがあるし、中編小説、短篇小説、散文、随筆、脚本などはたくさんある。
受賞後莫言は、自分は小説家なのでこれからもどんどん小説を書いていきたいと言っている。莫言の小説の特徴は、特に長編小説では魔術的リアリズムといわれるように、現実の描写と仮想の世界の描写が複雑に絡みある点にある。また、主に山東省高密県に舞台にした現代中国100年の間の出来事を書いているという特徴もある。
そのほかに、登場人物の女性は大体において強く女性上位で、男は大体において弱く哀れで可笑しいという特徴がある。また、物語の展開が「三国演義」や「水滸伝」のようにスピーディで波瀾万丈であるという点は、中国の古典大衆小説の血を引き継いでいると言える。
また、様々の表現方法を採用しているので、似たような小説だというような印象はなく、読者に常に新鮮な小説を提供してくれる。
莫言を体制内作家という人に対して、彼は自分の書く一語一語をよく読んで欲しいと言っている。国内に居てこれだけ時の体勢に批判的なことを言うのは、すごく勇気のいることだし、意義のあることだと私は思う。
以前評論家の江藤淳は夏目漱石を論じて、漱石のような「一生つき合い続けることのできる作家に出逢えたことは評論家として幸運だ」と言っていたが、私は「中国語を勉強するものとして、莫言のような一生読み続けることの出来る作家に出逢えたことは幸せだ」と言っておこう。
ただ、なにせ中国語の小説は日本には在庫が少ないので、すぐ手に入るわけには行かない。受賞した今ではなおのこと、神田にある中国語図書専門店には、莫言の本は一冊もない。早く書棚に並ぶことを願っている。
莫言と山東省で菊の酒
读完了莫言的《酒国》

这部作品是以互相有关联的三个文本组成。第一个文本是这部小说的本文,描写关于省人民检察院的特级偵察员的搜查历程,第二个文本是本文的登场人物李一斗---既酒国市酿造大希望成为作家的研究生---和莫言的几封往返信件,还有第三个文本是李一斗写的小说。
这个三个文本互相错综复杂。第一个文本是这个小说的中心,其内容是:省有关部门得到了酒国市的干部食人肉菜的信息,便派遣有能力的检察院特级偵察员丁钩儿前去调查此事。但是不久他却由于市干部的飨宴, 最终沉湎于酒和女人而自取灭亡。
第二个文本是:李一斗请著名作家莫言想办法让出版社出版自己的小说。不过出版社对李一斗的小说不予评价。同时却描述了李一斗的对酒的高深造诣。
第三个文本是李一斗的小说。文中描写了酒国市从农民那儿购买肉食小孩儿的过程。李一斗的岳母是人肉菜的房东。
在莫言的小说里,现实和魔幻两个世界交织进行着。为了表现这样的世界,莫言摸索各种各样的办法。这个小说中他采用了复杂的构造手法,既作家写的小说本文、作家和登场人物之间的信件以及登场人物自己写的小说三层构造交织错节。而在另一部《蛙》中,他又采取了本文和剧本并立的构造写法。
今年莫言获得了诺贝尔奖。我想他获得的理由之一是他不断地摸索新的表现方法。
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莫言の「酒国」を読んで
この作品は相互に関係し合う三つのテキストから成り立っている。第一のテキストはこの小説の本文で、特捜検事の丁鈎児の捜査の状況についての叙述、第二のテキストは酒国市の醸造大学の大学院生で小説家希望の李一斗と莫言の往復文書、第三のテキストは李一斗の書いた小説である。
この三者が相互に入り組んでいる。第一のテキストがこの小説の中心だが、その内容は、酒国市の幹部が人間の幼児の人肉料理を食べているという情報を省の幹部が得て、省から事情調査のため敏腕の特捜検事が派遣されることに始まる。だが刑事もやがて市幹部の供宴に負けて酒と女に溺れて破滅する。
第二のテキストでは李一斗が著名な作家の莫言に何とか出版社に掛け合って自分の小説を出版させるようにしてくれと頼む。莫言は出版社に紹介するが出版社は評価しない。同時に李一斗の酒に関する蘊蓄が語られる。
第三のテキストは、李一斗の小説である。そこでは酒国市が農民から肉童を購入する様子が書かれていたり、彼の岳母がその人肉料理の大家だったりする様子が書かれている。
莫言の小説は現実の世界と幻想的魔術的世界とが交差して進められるものが多い。そしてその表現方法として様々な工夫がなされる。この小説では小説本文と作家に対する手紙、手紙を書いた人の小説という構造であり、別の小説たとえば「蛙」においては、小説と脚本との並立構造である。これは莫言が言いたいことを表現する方法を常に模索しているからであろう。
莫言は今年ノーベル賞と取ったが、その理由の一つとして絶えず新しい表現方法を模索しているということがあげられると思う。
横滨爵士乐散步

10月7日我去看了“横滨爵士乐散步2012”的节目。据说这个“爵士乐散步”是从1993年开始的,现在3000个音乐家参加,两天一共有12多万人的到场。
今年的会场是大厅9处,爵士乐俱乐部24处,18个街角。我去了关内的大小两个大厅和横滨开港纪念馆。首先令我吃惊的是哪个会场都满员。关内大厅定员1200人,横滨开港纪念馆定员200人,观众挤满会场。票价是各会场通有票,一日5000日元。
在关内和樱木町地区的路上,戴着通用票标签的人随处可见。观众男女,老少都有。我在横滨住了40年,这次让我重新认识到横滨是个极好的城市。
演奏的爵士乐,从Dixieland Jazz到现代爵士乐,乐队有三重奏也有大乐队。我大学生时代只喜欢听古典音乐,不过,进入公司之后由于受到了爵士乐迷的朋友的影响,5年间一直热衷于各种爵士乐。
现在古典音乐的唱片都换成了光盘,不过, 爵士乐的唱片呢,作为当时的纪念还留着。
在“横滨爵士乐散步”的演奏中,我欣赏到了各种各样的爵士乐。不过现代演奏家自创的爵士乐, 我不能享受,还是最喜欢以往的名曲多的Dixieland
Jazz和1940年左右的爵士乐。明年,我要事前好好地调查, 想听喜欢的演奏家的演奏。
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橫浜ジャズプロムナード
10月7日に橫浜で行われた「ジャズプロムナード2012」に行った。「ジャズプロムナード」は1993年に始まり、今では3000人のミュージシャンが参加し、来場者は2日間で12万人になるという。
今年の会場はホールが9カ所、ジャズ倶楽部が24カ所、18の街角であった。私はこのうちの関内ホールの大小ホール、橫浜開港記念館の3カ所でジャズを楽しんだ。私がまず驚いたのは、どの会場も満員だったということである。関内ホールは大ホールは1000人定員、小ホールは200人定員。入場料は各会場共通券が一日5000円である。
関内や桜木町地域は共通券の証拠であるバッジを付けた人で溢れていた。また聞いている人は、男女、若い人から老人まで各年代に渡っている。もう40年住んでいる町だが改めて橫浜は素晴らしい町だと認識した。
演奏されているジャズは、ディキシーランドジャズから現代ジャズまで。バンドはトリオから大バンドまで。私は学生時代は専らクラシック音楽を好んだが、会社に入ってからジャズ好きの人がいたためその影響を受けて5年間ほどかなりジャズに入れ込んだ。
今はクラシックのレコード盤はCDに買い換えたが、ジャズのレコードはレーベルなどもなつかしく、当時の思い出としてそのまま残してある。
「橫浜プロムナード」ではいろいろなジャズを聴いたが、現在の演奏家が自作で作ったようなジャズにはついて行けない。やはり往年の名曲が多いディキシーランドジャズとか1940年代のモダンジャズが一番好みに合う。来年は事前によく調べて好みにあった演奏家の演奏を聴くようにしよう。
秋たけなは町中がジャズフェスティバル
教《论语》的老师
这个暑假教我们《论语》的老师是北京出生的,专业是日中文化论,她戴黑框眼镜,穿不艳丽的衣服,直发,发音极为鲜明,30多岁。她充分地准备课程,给学生分发资料,对高龄学生提出的复杂问题也有自信回答上来。总之,她是个适合教《论语》的老师。
我因为有急事,后半的授课休息了,老师寄给了我休息日的资料---“为政”。并且,其中有老师亲手给我写的信,她说,:真遗憾讲座的后期不能与您见面了,我很担心。您的文章,我在仔细阅读,希望有再见到您的时候。我送给您一篇短篇小说《千年の祈り》(A Thousand Years of Good
Prayers) 。希望您有空读一读。
其中,所谓“你的文章”是我向老师介绍的我主页中写的中文小品文的事。我读了老师推荐的《千年の祈り》这个短篇。
这篇短篇小说是移住美国的中国作家李翊云用英语写的。小说的主人公最近离婚了。她的以前中国火箭工程学者的父亲,对她很担心, 也到了美国的。他们都很少说话,不能彼此了解。女儿对父亲说,“爸爸,我是主动离的婚,不是被迫离婚的,还有现在有喜欢的人,请放心。”。父亲也认识了一位从伊朗来的女性。女儿让父亲去美国各地旅行。
这个短篇很有趣,不过,对我来说,这位论语老师向我推荐这样的现代小说,是既出乎意料又有趣的事。
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論語の先生
私たちがこの夏論語を習った先生は、北京生まれ、専攻は日中文化論、女性で年齢は30歳代後半であろうか、黒縁眼鏡を掛けて、髪の毛はストレート、発音は極めて鮮明、洋服は決して派手ではない。十分に授業の準備をされ、生徒に配る資料も過不足がない。高齢の生徒の質問にも自信を持って答え、たじろぐことがない。要するに、いかにも論語を教えるのに相応しい雰囲気を持った先生だった。
私は急用が出来たため後半の授業を休んだところ、先生は休んだ日の資料を送ってくれた。そして、その中に先生の手書きの手紙があった。それは次のようなものだった。「後半休まれたことは残念です。あなたの文章は詳細に読みました。またお会いできることを楽しみにしています。同封して「千年の祈り」という短篇を送ります。お暇が在れば読んで下さい。論語の「為政」篇を送りますので自習して下さい。またお会いできることを楽しみにしています。」
この中で、「あなたの文章」というのは、私のホームページの中国語エッセイのことである。私はこの先生の送ってくれた「千年の祈り」という短篇を読んでみた。この短篇小説はアメリカに移住した中国人イーユン・リーが、英語で書いたものである。小説の主人公はつい最近離婚した。中国でロケット工学者だった彼女の父は心配してアメリカにやってきた。彼らは共に口数が少なくてお互いの意思がなかなか通じない。娘は父に「お父さん、私の方から離婚したの、離婚されるのではないの、安心して」と言う。父は父でイランから来た婦人と公園で知合い話をするようになる。娘は父親をアメリカ見物の旅に出す、という物語である。
この短篇も面白かったが、私はあの論語の先生がこのように現代的な物語を送ってくれたことに、驚き、感激もした。論語ほど無自覚のうちに我々東洋人の思考、行動の規範になっている哲学はない。そして、その上に立って今を生きることがまた何よりも愉快なことなのである。
莫言的《红蝗》读后感
在中国高密县,50年前后发生了两次大蝗灾。50年前的灾难很厉害得震天动地的,地上什么植物都没有了。
高密县东北乡人在四老爷的带领下费巨资建蝗庙拜蝗神。但是蝗的生命力、繁殖力既强又汹涌。又在九老爷的带领下毁蝗庙驱蝗神,用尽所有方法杀虫灭蝗。终于九老爷请来了刘将军,但蝗虫仍灭而不绝。
在这样困难的情况下,四老爷和九老爷,这兄弟俩,为一个穿红衣的女子争风吃醋。春天刚开始时,锯锅匠那悠扬的招徕生意的歌声在胡同里频繁响起。四老妈一听到锯锅匠的歌唱就变得脸色微红。四老爷一气之下写了休书,把四老妈打发回娘家。最终四老妈与她的情人死在了军队的枪口下。
50年后的大蝗灾,人们在解放军、科学家的帮助下终于战胜了蝗虫。
作者在这个小说中写到了,蝗虫的灾难、闹饥荒的社会、以及无论什么时代也总是发生的男女关系、兄弟竞争的问题、近亲交媾的问题等等。最后作家说;饿馑和瘟疫使人类残酷无情,人吃人,人即非人,人非人,社会也就是非人的社会,人吃人,社会也就是吃人的社会。
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莫言の「紅い蝗」を読んで
中国の高密県では50年前と後に、二度にわたって蝗の大発生による災害が起こった。50年前の災害は天地を揺るがすほどの災害で、地上には植物が全くなくなってしまったほどだった。
高密県の東北地方では四叔父の指導の下に巨費を投じて蝗神社を建設して蝗の災害を取り払おうとした。しかし、蝗の生命力、繁殖力はすさまじく、祈祷などでは駆除できないものであった。そこで今度は九叔父の指導の下で蝗神社を取り払い、あらゆる方法で蝗を殲滅しようとした。九叔父は最後には劉将軍に頼んだが、しかし軍隊も蝗を絶滅できなかった。
このような困難な局面にあっても、四叔父と九叔父の兄弟は、紅い着物を着た女をめぐって奪い合い嫉妬し合う戦いを演じた。春が始まると、鍋の鋳掛屋の呼びかける悠揚たる歌声が、頻繁に路地裏に響き渡った。四叔母は鋳掛屋の歌声を聞くと心がときめき、自ずから顔が赤らむのだった。四叔父は妻の密通を知って怒り、離縁状を書いて妻を実家に返した。結局、四叔母とその恋人は、蝗を絶滅させるための軍隊の、流れ弾に当たって死亡した。
50年後の蝗の大発生による災害は、人民解放軍と科学の力によって人間側の大勝利となった。
作者はこの小説の中で、蝗の大発生や飢饉などどのような社会にあっても、男女間の問題、兄弟間の競争、近親相姦などの問題を抱えている人間のおかしさを書いている。小説の最後は「飢饉と疫病は人類を残忍非情なものにする。人が人を食えば、人は人でなくなり、社会も人でなしの社会になる。人が人を食えば、社会は人食いの社会になる」と書いている。
莫言は著作の中で現代中国社会の問題を鋭く指摘しているものの、根底において生活が豊かになっておりいい方向に向かっていることを認めているのだと思う。
秋天的七种草
从离我的附近的车站再走15分左右的地方,有一个“神奈川县立四季的森林公园”。这里共36公顷面积,有起伏的丘陵。除茂密的森林以外有水菖蒲园、苇塘湿原野、莲池等的池塘、萤火虫的河,还有观察自然用的稻田等等。园内也有很多散步路,可以享受森林日光浴。
9月9日在这里举行了观察秋天七种草的集会,我与妻子参加了。秋天的七种草,就是在《万叶集》里山上忆良(660~733年)的歌中所说的“如果屈指数在秋天的原地开花的草数,就是七草的花。有“胡枝子花”、“芒”、“葛花”、“瞿麦的花”、“黄花龙芽花”、“泽兰花”、“牵牛花”。据说其中的“牵牛花”就是现在的“桔梗”。
当天参加的人有50左右。听说观察自然的集会的出席者一般是15人左右,当天参加的人大概喜欢看在野地里自然地生长的秋天的七种草。我们只知道这七种草的名字,不过其中有的花看不到自然生长的状态。
然而主持者开始说明时,却说、在这个公园里只有“胡枝子花”、“芒”和“葛花”,我们都失望了。
据说,其实公园的人种植了几根“泽兰花”,不过没生根。他们说,“泽兰花”、“黄花龙芽”、“红瞿麦的花”,现在一般只能在园艺店或在植物园里可以看到,在秋天的野地里其实很少看到,可以说是临灭绝的品种。
尽管如此,我能亲眼看到眼前簇生着的艳丽的葛的花,也很满足了。
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秋の七草
私の家の隣の駅から15分ぐらい歩いたところに、神奈川県立四季の森公園がある。ここは面積が36ヘクタール、起伏に富んだ丘陵がある。林の他に、菖蒲園、葦原湿原、蓮池などの池、蛍の川などの川、自然を観察するための田んぼもある。園内には沢山の散策路があってそこを歩くと森林浴が出来る。
9月9日にはここで秋の七草を観察する会が開かれたので、妻と参加した。秋の七草は、万葉集の山上憶良(660~733年)の歌「秋の野に咲きたる花を指折りかき数えれば、七種の花、萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、女郎花、また藤袴、朝顔の花」である。このうち「朝顔の花」は今で言う「桔梗」だそうだ。
当日参加したのは50人以上だった。いつも自然を観察するこの会の出席者は、15人程度だそうだから、皆秋の七草には関心が高いというわけだ。名前は知っているが自然に生える実物はなかなか見られないという草もあるから、この際に見ておきたいと言うのが沢山集まった理由だと思う。
ところが説明の初めから、この公園では三種類、つまり萩の花、葛の花、尾花(芒)しかありませんと言われて、皆がっかりしてしまった。
実は藤袴は植えたけれども、育たなかったのだという。藤袴、女郎花、撫子の花は、園芸店では見られても、実際に秋の野で見ることはなかなか難しい絶滅に近い品種なのだという。
そうではあったものの私としては、葛の花の群生を間近に見ることが出来て、満足した。葛の蔓や葉は、その繁殖力の強さから外国ではグリーンモンスターと言われ、日本からの外来植物の中でもっとも忌み嫌われるものだそうだ。しかし、その花たるや深窓の令嬢のごとく楚々としておりまた実に艶やかなものである。
かのグリーンモンスターから葛の花
秋天的镰仓

9月2日星期日我去了镰仓。由于前一天下了急雨,炎暑一下子变得柔和了,加上当天从早上也开始下急雨,尽管是星期日,可外出的人没有想像得那么多。
一般我总是一个人去那儿作俳句,不过,当天是与妻子一起去的,所以要去她要去的地方。首先我们在“小町路“的荞麦面条铺吃了山药汁荞麦面。“小町路”现在在扩宽道路的施工工程,不过我看,逛街时一边看着左面的店一边看着右面的店很有意思。所以扩宽道路是不是必要的呢?。
然后我们去了青菜市场。现在是青黄不接之时,应时的蔬菜只有茄子。妻子对盐酱菜用的圆的水茄子有兴趣,不过看起来很重,没买。
然后乘坐巴士去净妙寺。这里牡丹和诸葛菜很有名,不过现在花没有。寺院内有一只猫,它的样子超脱风俗似的,就是它热得要命,我们不由得笑了起来。对我来说,这里边的咖啡店烤的面包是绝品,买了一个下山了。
接着去了报国寺院。不管怎么说,丧这里的竹林是非常棒的。因为春天笋出生,父母竹丧失了气势,可是到了秋天的话,气势恢复。现在这里所有的竹子都光滑美丽。阳光在高高的竹叶之间中露出,像钻石一样地放出璀璨的光芒。风吹的话,竹叶摇曳展示着不同的钻石光辉。
竹之间张结着水灵灵的蜘蛛网。在报国寺院后庭的悬崖里有足利一族(1336~1573年)的坟。大黑蝴蝶在眼前往返飞来飞去,简直像超过700多年时空的幽灵。
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秋の鎌倉。
2日の日曜日に鎌倉に行った。前日にわか雨が降って一挙に炎暑が和らいだが、当日も朝からにわか雨が降ったので、日曜日にもかかわらず人出は思ったよりも多くなかった。
いつもは吟行のため一人で行くのだが、今日は妻と一緒なので、彼女の気に入ってくれそうなところに行かなければならない。まず小町通りの蕎麦屋でとろろ蕎麦を食べた。小町通りは道を広げる工事をしているが、右の店を見て左の店を見るというブラ付きのためには、今のひろさの方がいいと思った。
ついで青物市場に行く。今は端境期で、旬のものは茄子ぐらいしかない。妻は水茄子という円い漬物用の茄子に興味を持ったが、重そうなので見物するに留めた。
それからバスに乗って浄妙寺へ。ここは牡丹と諸葛菜が有名だが今は花はない。境内の猫が余りに暑いためか、いかにも解脱したというような貌をしていたので笑ってしまった。裏の山に登ると石窯ガーデンテラスというのがある。ここで焼いたパンが僕には絶品であるので、一つ買って山を下った。
ついで報国寺へ。ここは何と言っても立派な竹林で有名である。今はまさに竹の春の真っ最中であるらしく、どの竹もつやつやとしていて美しい。見上げると高い竹の葉の間から日が漏れて、ダイヤモンドのようにきらきらする。風吹くと竹の葉が揺れてダイヤモンドが違った輝きを見せる。
竹林の蜘蛛の巣が雨で瑞々しくなっていた。報国寺の裏側の崖面には足利一族の墓の洞がある。大きな黒揚羽が目の前を、あたかも700年の時空を越えて飛んでいるように行き来していた。
天辺に飛び散る光竹の春
论语
今年暑假我所在的横滨汉语学校也有夏季特别讲座,不过,我和每年一样去东京的学校学习《论语》。讲座要5天,每天逐条精读两个小时的《论语》。《论语》共有20篇492章,所以5天不能学完。剩下的部分应该下次再学习。
首先我们读几次原文,然后读讲师选择的最信赖的现代中国学者写的《论语》现代文。这位讲师,也准备了古日语译文和现代日语译文。日语译文上课时不读,学生们自己随便读就好。
中文古文很短,所以有时有不同的解译。譬如有名的“吾日三省吾身:为人谋而不忠乎? 与朋友交而不信乎? 传不习乎?”当中的“传不习乎?”的今译文有两种。第一是“老师传授我的学业是否复习了呢”,还有一个是“我是否把自己没学好的知识传授给别人呢?” 没有人知道正确的解答,只能相信信赖的学者的见解。
《论语》共有20篇,492(511)章。我出席了3天的授课,只学了“学而篇第一”16章的内容。要想精读完全篇,还要花几年呢?听说前十篇称为“上论”,内容整齐,我想我这一辈子至少能读完“上论”。
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論語
今年の夏休みは普段通っている橫浜の中国語学校でも夏期特別講座があったが、私は東京の学校で、「論語」を学ぶ講座に出た。講座は毎日2時間、5日間で論語を逐条精読する。論語は20篇、492章あるから5日間では終わらない。出来るところまでやって後は次回と言うことになる。
まず原文を何度か読んで、次に講師がもっとも信頼できるという現代中国の学者の現在文を読む。この他に講師は、従来の漢文読みの日本語訳と、中国語現代文を日本語に訳したものとを用意してくれたが、日本語訳は生徒が必要に応じて読むということで、教室では触れなかった。
中国語古文は短いから、ときには違った訳になることがある。たとえば有名な「我日に三度我が身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか」の「習わざるを伝うるか」は、「伝授された学問をしっかり修得したであろうか」という解釈と、「自分でよく復習しないことを人に伝えたのではないか」という解釈が成り立つようだ。私は以前後の方の解釈で習った気がするが、現在では前者の解釈の方が有力のようだ(この場合、日本語読みも「伝わりて、習わざるか」と読むことになるようだ)。しかし、正解はないから、信頼できる学者の説を信用するしかない。
論語は20篇、492(511)章から出来ている。私は3日間講義に出席したが、ようやく第一篇の「学而」篇16章が終わっただけだった。全篇を精読するには、何年かかるだろうか。一生かかろうが、せめて内容が整っているといわれる前十篇「上論」だけでも読み上げたいものだが。
摔倒了
7月26日去东急HANDS买了一根1米长的木棒,那天天气异常炎热,走出店门后,我在人行道上行走时,突然不知何因绊了一下,绊了以后就身体前倾,踉跄地冲大马路台阶,到机动车道上。由于拿着木棒,再加上背着背包,使我很难维持身体的平衡,终于在对面的人行道附近的机动车道上摔倒了。
摔倒的当时,我听了女人的惊叫。我双手双膝,而且脸都受伤出血了,眼镜也摔坏了。几个女人围过来问我,“您没事儿吗? 您不要走,暂时休息之后再走好。今天天气太热了,您要小心”。他们以为我中暑,头晕摔倒了。说实在的,我自己也不太清楚是绊倒还是头晕。
然后我去了高岛屋的眼镜部。眼镜框有办法修好,不过,一个镜片破碎了要换新的。他们说,您出血得厉害,但是看上去眼睛没事,很幸运。
真的,摔倒在车行道上,如果此时汽车开来,碰撞到汽车上,实在是糟糕了,大概不能写这篇文章吧。
现在,双手的关节活动的话还很痛。去了医院,骨没有异常。医生说,一定要时间,肯定会渐渐好的。
有人说,“吃一堑,长一智”。我觉得对,特别对老人们,摔倒能引起很多麻烦的事。可是,对老人来说,不能避免突然绊倒,也不能避免突然头晕。
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転倒する
7月26日中日会話学院の帰り道に、東急ハンズによって、1メートルほどの木の棒を買った。外に出るとものすごい暑さだった。歩道で何かに躓いての第一歩が、落差のある車道だったため前のめりになって反対側の車道近くまで10歩ほどつんのめった。持ちにくい棒を持っていたのと、背中に背負っていたリュックサックが、前にずれてきて、身体を持ちこたえさせることが出来す、車道で転倒した。
つんのめっている最中に、女の人の悲鳴を聞いた。両手両膝、それに頬に傷を付け、眼鏡が壊れた。ゆっくり立ち上がると二三人女性が集まってきて、大丈夫ですか、しばらく座って休んでからから歩きなさい、なにしろ今日は暑いですからね、と言う。自分は躓いたと思っていたが、見ている人は熱中症で倒れたと思ったらしい。そう言われてみると自分でもどちらだったか判然としない。
それから高島屋によって鏡を見たら右のほおが紅く腫れていて、左右の手の平と膝が内出血をしていた。眼鏡は縁は何とか直ったが、レンズが一枚われてひびが入っている。取り替えるには左右同時にしないとバランスが悪くなるおそれがあるそうだ。目は何ともなさそうですから不幸中の幸いでしたね、と言われた。
確かに、躓いて車道に出た時にもし車が来て衝突したら無惨な姿になっていたはずだし、ひどく転べば目や手脚に障害が生じたかも知れない。
それからほぼ一ヶ月が経っているが、いまだに両手の手首の関節が痛い。病院に行ったが骨には異常はないので、少しずつ好くなるでしょうとのことだ。
「一度躓けばそれだけ利口になる」というが、老人にとって転ぶということはたいへんな後遺症を伴う。かといって、突然躓くことは避けがたいし、突然めまいを起こすこともまた避けがたいのである。
躓いてたたら踏む間も秋暑し
爷爷
我的祖父明治28年,18岁时毕业于茨城县师范学校。毕业的同时成为小学校的老师,才20岁就当了小学校的校长。
此后从教于母校茨城师范,到了24岁的时候,成为岩手县一关中学校老师(担任博物)。3年后又到冈山县师范学校当老师。 这时代也就是明治时代,他应该和别的年轻人一样,以“坂之上的云”作为目标而日夜努力着。
日本的明治时代,制定了各种各样的有关教育的法律,大学、高中、初中等学校纷纷设立。特别在有实力的地方,为了孩子们喜欢办中学。作为校长为寻求好的教师,云游全国,可自由聘用。但是,辞令书全部是内阁总理大臣亲自写名的。总之教师的人事完全在中央集权下进行的。
另一方面学生们也有选拔老师的气运,他们常常罢课是为了把过分严厉教育的老师以及把按照他们的基准看不顺眼的老师排除掉。
就拿岩手县一关中学校来说, 学生的罢课的理由之一是排除从岩手县以外来的老师,特别是茨城县出身的老师。我祖父可能是这个运动的对象。
今后我打算查阅当时那个地方的报纸,想了解当时为什么他们打算排除茨城县出身的老师,以及我祖父是不是这种对象。
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祖父
私の祖父は明治28年18歳で茨城県師範学校を卒業した。卒業と同時に小学校の教諭となり、20歳で小学校の校長になった。その後母校の茨城師範の教諭となり、24歳の時に岩手県立一関中学校の教諭(博物担当)、3年後に岡山県師範学校の教諭となった。明治時代他の青年と同じように“坂の上の雲”を目指して努力していた。
日本の明治時代は、大学、高校、中学など沢山の学校が設立された。なかでも中学校は有力な地方に中学校を設立しようという気運が高まり、校長としてスカウトされた先生は、よい教師を求めて全国を行脚した。しかし、辞令は全て内閣総理大臣名である。人事は形式的には中央集権的に行われた。
一方生徒の方も先生を選択するという気運があり、あまり厳しく教育したり、彼らの意に沿わない授業をするとストライキを起こして先生を排除する有様だった。
祖父は一の関中学校の生徒の中で起こった“茨城出身の教師を排除する”という運動の対象になった可能性がある。
このようなことがどうして起こったのか、これから当時の一関の状況を調べてみるつもりだ。
油漆铺工匠
前一段时间、我家的房间做了小部分的改装,那时候,与新建的时候同样种类的工匠们都来了。有木匠、自来水工程铺的工匠、煤气工程铺的工匠、裱糊工、还有电器商店的工匠、油漆铺的工匠等等。
闲谈时,我得知各家店铺都很难吸引继承技能的年轻人。可是,据说在这样的情况下,只有油漆铺的工作受年轻人的欢迎,他们不断地进入公司。
这个理由是什么呢?我问了年轻的油漆工匠。他说:“学会油漆技能不需要长的岁月。木匠等最低需要5年才能独立,而学会油漆很简单。涂油漆和画画儿一样,有创造新的东西的乐趣。我在迪斯尼乐园涂过油漆,也与大学的艺术系的人合作过,很快乐。他们日落以后有自由的时间,下雨的话,可以休息。由于有许多自己的时间,他们还可以寻找自己的兴趣,我的一个涂油漆的朋友就是个音乐家”。
这位年轻的油漆工每天最早来我家开始工作,甚至早上7点就开始工作,天暗了就赶快返回家,有效地利用时间。
这样的好事,委托给其他的人很可惜,下次我想自己漆我家的油漆,你认为可以吗?
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ペンキ屋
家の改修をした。ちょっとした工事なのだが、新築のときと同じぐらいの種類の職人が来る。大工、水道工事屋、ガス工事屋、経師屋、電気屋、ペンキ屋など。
雑談をしてみると、皆技能を継ぐ人がなかなか集まらないとこぼしていた。ただそのなかで、ペンキ屋だけは若い人に人気があり、若い人が入ってくるという。それが本当だとして、その理由はなんなのか。
若いペンキ屋に聞いてみた。するとだいたい次のような答えが返ってきた。
“ペンキ屋は技能の習得に長い年月が要らない。大工などは5年は見習いに行かないと覚えられないがペンキ屋は簡単である。ペンキを塗るのは絵を画く時と同じように創造する楽しみがある時がある。ディズニーランドのペンキを塗りに行くが、大学の芸術学部の人とコラボレーションをすることがあり、楽しい。雨の日は自分の時間がとれるし、日が沈めば仕事から解放されるので、自分の趣味に浸ることが出来る。私のペンキ屋の友人にはれっきとした音楽家がいる。”
家の仕事ではペン屋が一番早く来た。早い日は7時過ぎに来て仕事を始める。暗くなるとさっさと帰る。つまり時間を有効に使っている。
さてそのようにいいこと尽くしなら、他の人に任せるのはもったいない。せめて自分の家のペンキ仕事ぐらい自分でやるとするか。でもたぶん体力的に持ちそうもない。
ペンキ屋のだぶだぶズボン秋暑し
我家的修理
独门独院的房子当然有优点,不过,也有缺点。每年要花很多维持修理费是之最令我头痛的地方。
我家的房子是在1979年建筑的,就是说已经过去了33年了,所以要修理的地方很多。铁的部分和木的部分要涂饰,大概每3年做一次,今年也该做了。除这部分以外,今年还需要涂饰房子的外壁。还有,厕所也需要修理,所以今年一定要花一大笔费用。
涂饰之先,油漆工要把房子的外壁用水冲洗干净。不过,清洗机的水压非常非常强,把老房本完好的地方也损坏了。首先是空调配管上的绝热材被吹坏了,配管中的铜管赤裸出来了。还有防雨窗的木的部分, 也被水压冲洗坏了。
想完美地做好一件事话,有时会牺牲其他的部分。大概人的身体可能也是一样吧,把患病的地方完美地去除的话,会损伤其他健康的细胞。
下次装修的时候,我要事先对修理工人说,老房子很旧很容易弄坏,请小心轻做。我不期待完美,一般的水平就够了。
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家の修理
一戸建ての家にはいい点も多いが勿論困る点もある。その一つは、毎年かなり家の修理費がかかるということだ。
我が家は1979年の建築だから、33年経っている。そのため修理するところも多い。金属部や木部は3年に一度ぐらい塗装をしているが、今年はこの他に外壁の塗り直しが必要だったし、トイレの改善も必要だったから、かなりの出費を覚悟した。
ペンキを塗る前には家の外壁を水洗いする。しかし、この水圧が相当に高いものだから家の健全な部分まで壊されてしまうことになった。空調設備のパイプの断熱材が吹き飛ばされて中の銅管がむき出しになったり、木のがらり雨戸の弱くなった部分が壊されてしまったりした。
ある部分を完全にやりきろうとすると他の部分を犠牲にしてしまう。人体の場合も同じで、患部を完全に除去しようとすると他の健全な細胞まで傷つけてしまう。
次の時には修理をする人に、家が旧くて壊れやすいからそっと水洗いしてくれ、完全でなくてもそこそこでいいからと言っておく必要がありそうだ。身体を手術する時も、同じように言うつもりだ。
《白棉花》读后感

年仅17岁的农村青年马成功,一直恋着比他大几岁,貌美、正直勇敢、身手不凡的青年女子方碧玉。他们有幸一起离开棉田,来到棉花加工厂,结识了多才多艺、风流多情、自命不凡的才俊青年李志高。
方碧玉已成为他们村支部书记的儿子的未婚妻。可是她却跟李志高陷入情网,常常到棉花加工厂垛钴洞做爱。马成功对李志高说“李大哥,只有你才配方碧玉,我不配。”
他们村支部书记和他儿子国忠良得知后带几位精壮的民兵来找方碧玉。而李志高却与一直喜欢他的孙红花双双调走了。绝望的方碧玉问马成功说,“你很早就想着我,是不是?”。她说着,把上衣的扣子解开了。“你也脱了吧!”她把他抱在怀里时, 马成功周身僵硬,又一次像极度疲劳后一样,脑子里只有一点光明。她悲哀地说:“兄弟,你还太小了。”
第二天方碧玉让工厂的机器给搅碎,死了。可是有人说, 给搅碎的不是方碧玉,她装自杀。后来有人在新加坡见过一个贵妇人,与方碧玉一摸一样。
这个小说也与其他的莫言的小说同样,女人很强,男人都没出息。18岁身体像大人一样非常棒,我想鼓励马成功加油跟碧玉做做。可是、同时我能理解, 这个青年身体是大人,不过精神还是孩子,对性很胆怯。
根据某本书,中国年轻男女人们的交往方法,比日本人和欧美人,诚实、慎重。如果有特定的恋人,他们互相觉得他们的关系很重要,爱得很深。一般来说,结婚以前有肉体关系的情人较少(现在比以前多了)。结婚以前有孩子不好,父母没有面子。
除了他们以外,这个小说里有军队回来的人,黑道人等。作为中国社会的青春故事,非常有趣的小说。据说我的中文老师,以这个一册她成为了莫言的迷。
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莫言「白綿花」読後感
17歳の馬成功は、何歳か上の同じ村の方碧玉と一緒に綿田を離れて綿の工場で働くことになった。彼女は、若くて美しく、勇敢であり、身体も強い。馬成功はずっと彼女にあこがれていたが、彼女は地方の書記長の息子と婚約をしてしまった。彼女は綿工場で多才多芸、力も強く男らしい李志高と知合い、恋に陥る。
彼らが綿工場の倉庫の中で愛し合っているのを知って、李志高は心を乱すが、彼女に相応しいのは自分でなく李志高であると認めて、彼は一歩引き下がる。
やがて地方の書記長が息子を連れて綿工場に乗り込み、方碧玉を連れ戻そうとする。李はかねて李を好きだった女と逃げてしまう。方碧玉は綿工場の秘密の場所で、馬成功に自分を好きだったのだから愛し合おうと迫るが、馬成功は身体が硬直して応ずることが出来ない。
18歳は若すぎたのねと、方碧玉は言い、その日工場機械に身を投げて自殺してしまう。しかし後になって彼女は自殺したように見せかけて、シンガポールで生きていたという情報も流れる。
この小説でも他の莫言の小説と同様、女は強く、男はみんなだらしがない。18歳といえば身体的には立派な大人なので、頑張って方碧玉とやってしまえと言いたいが、身体は大人だが精神的にはまだ子供という年であり、思い切って行動できない馬成功も理解できる。
ある本によると、一般的に言って中国の青年男女の付き合い方は日本やヨーロッパに比べて慎重であり真面目である。特定の友達が出来るとお互いにその関係を大切にしようとし、深く愛するようになる。現在は少し変わってきたが、一般的に言って結婚前に肉体的関係を結ぶという人は少ないようだ。馬成功にもそのような中国人の考え方が流れているのかも知れない。
この小説では、彼らの他に、軍隊帰りや、ヤクザの男などが生き生きと活動しており、中国社会での青春物語になっていて、とても面白い。莫言が青年時代に勤めた綿花工場が下敷きになっているだけに描写が生き生きしている。私の中国語の先生は、この一冊で莫言が好きになってしまったそうだ。
平泉

平泉文化遗产主要体现了平安时代盛行的、从中国传到日本的佛教净土思想,尤为突出的是藤原氏第一代清衡建立的中尊寺内的金色堂。这是一座边长5米多的佛堂,屋顶、墙壁、地板、大门、柱子等全部涂漆后贴金,并且遍施螺铀。为了保护,从镰仓时代开始就在外面建造了覆堂。现在的混凝土新覆堂是1965年建成的。
1689年松尾芭蕉在“奥的细道”的旅行路上,也看见了在覆堂内的金色堂。观看平泉町和中尊寺的金色堂是芭蕉“奥的细道”旅行的主要目的之一。他在旅行纪录的“奥的细道”上,写出了他的感动。
离中尊寺约3公里处的毛越寺是由藤原氏的第二代基衡创建的。毛越寺的庭园也是当时的净土思想的体现,山石、小岛等都被认为体现了自然的山岳和岛屿,周围的殿堂倒映在池糖上,宛若西方净土世界。
我两天认真地看,认真地学习。俳句会上,我和往常一样,不但得不到参加者的互选的点数,而且也得不到主持人的选择,没办法。我买到了两个“秀衡涂”( 秀衡是藤原氏的第三代)的碗。这个特产得到了我爱人的很高的评价。
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平泉
所属している俳句結社の句会が平泉で行われるというので、いい機会だと思い6月30日と7月1日平泉を訪れた。平泉は人口8千人の町だが、全域が緑に覆われ北上川が緩やかに北上している。平坦な地勢と交通の便利なことから、中世藤原氏に依る奥州統治の政治的中心地となった。藤原氏は1087年から1189年までここを拠り所として奥州を治め、平泉は平安京(現在の京都)に次ぐ日本第二の都市となった。
平泉文化の特長は、平安時代に盛んになった中国伝来の浄土思想を具現しようとしたことである。その中でも突出しているのは藤原氏第一代の清衡が建立した中尊寺の金色堂である。一辺5メートルの金色堂は、仏堂、屋根、壁、地板、門、柱など全てが漆で塗られた後金箔が施され、夜光貝の螺鈿が貼られていたりする。金色堂を保護するために鎌倉時代からすでに外側は覆われていたが、今のようにコンクリートで覆われたのは1965年である。
1689年、松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中で訪れたときも、「四面新に囲て甍を覆て風雪を凌」いでいた。平泉訪問は彼の奥の細道の旅の主要な目的の一つだったから、平泉、高舘跡、金色堂などを深い感動を以て記している。
中尊寺から3キロ離れたところに第二代の基衡の創建した毛越寺がある。ここの庭園も浄土思想を具現したものと言われている。山石、小島などで山や岬を作り、池に映しだしている美しい様子が西方浄土そのものだというのだそうだ。
この二日間熱心に見て回り句も作ったが、句会の成績は相変わらずだった。第三代の秀衡が盛んにしたと言われる「秀衡塗」のお椀を一対求めてきたが、これが妻の高得点を得た。
花くわい秀衡塗に華やかに
鳗鱼盒饭

我们10名大学的同学3个月一次集合开俳句会。地方是一个朋友在东京青山有的一家事务所。下午5点集合举行两个小时的俳句会,然后举办宴会。
这个宴会,的确让那位事务所主人的朋友动了不少脑筋,准备了很好喝的酒和很好吃的酒菜,酒菜主要以时令材料为主。因为那位朋友是搞陶瓷工艺的,所以盛酒菜的容器全部是他亲手制的。当天我们奢侈地享受季节的传统文风和美味的时令佳肴。
照例宴会的最后,一定供应有名的鳗鱼盒饭。因为丰盛的酒菜足以让我吃得饱饱的,一般将鳗鱼盒饭带回家后吃。这次5月的例会同样,可回家后打开鳗鱼盒饭时,令我大吃一惊。鳗鱼的量,比起往常来, 减少了一半或者3分之二左右,饭差不多露出来了,称鳗鱼盒饭实在有点儿牵强。这个不是我们爱吃的那个鳗鱼盒饭。
鳗鱼的养殖,首先从捕获天然的鳗鱼的子鱼开始的。最近随着这个鳗鱼的子鱼收获量的锐减,鳗鱼的收获量也锐减了。相关人士指出,目前日本的活鳗交易量仅为去年的50% ,价格高涨了许多。
之所以鳗鱼的收获量减少是因为鳗鱼的子鱼的量减少了。除了停止滥捕鳗鱼的子鱼以外, 为了恢复收获量没有有效的办法吗?。另一方面,不能用其他的食物代替吗? 鳗鱼业界来说,这变成生死问题,现在蒲烧鳗店停业的消息不绝于耳。
离7月27日的夏季“土用丑日”不到1个月了。鳗业形势不但对业界而且对喜欢吃鳗鱼盒饭都是异常峻严的。
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鰻重
私たちは3ヶ月毎に一度、すなわち季節毎に一回、大学のクラスメート10名で俳句会を開いている。場所は友人の一人が持っている青山の事務所である。5時に集まって2時間ほど句会を行い、あとは宴会になる。
事務所を持っている友人がいつも工夫を凝らして酒と酒の肴を用意してくれる。酒の肴は、季節をよむ俳句会に相応しく旬の材料を使ったものである。彼は陶芸もやるので、酒の肴は全て彼の手製の器に盛られて出される。この日我々は、その時期に相応しい俳句と食事を楽しむ贅沢を味わうことが出来るわけだ。もっとも俳句の方は「うまい」という句が揃うとは限らないが。
食事の最後は、いつも鰻重と決まっている。私は大体酒の肴でお腹が一杯になるので、鰻重は家に持ち帰って食べることが多い。ところで、前回5月の例会で家に持ち帰った鰻重を開けて見て、大いに驚いた。今までの鰻の量に対して、半分あるいは3分の一ぐらいに減っていてご飯が大きく露出しており、鰻重としては誠に貧弱である。これはもう我々の好物の、あの野田岩の鰻重ではない。
ウナギの養殖はまず、天然のウナギの子供、シラスウナギを捕ることから始まる。今鰻は、シラスウナギが捕れなくなったため、養殖の量が減り成魚として市場に出る量が激減した。成魚鰻の交易量は去年の50%となり、価格が高騰した。
市場に出る量の減少の原因がシラスウナギの減少にある以上、シラスウナギの乱獲を止めるしか方法がないのではないかと言われている。一方、消費者は鰻重や鰻丼にこだわらなくても構わないことから、生産の減少はウナギ業界にとっては死活問題になっている。
土用の丑の日7月27日までもうすぐである。鰻はいま業界ばかりでなく鰻好きの人にとっても異常な事態になっている。我々の例会も、出来れば鰻で締める慣例を続けたいものなのだが。
例会の最後はやはり鰻飯
萤火虫
萤火虫从6月到7月在水边一边闪亮一边飞舞。其腹部有复杂的发光装置,发出冷的光,不伴随热,雌雄都闪亮。
萤火虫从《万叶集》的时代就开始在诗歌里吟咏,现在萤火虫作为俳句季节词是最重要的夏天的季节词之一。
干净的自然地水是萤火虫得以生息的必要环境。据说在东京,能看到萤火虫是明治20年的时候,以后再也看不见了。当时作为名胜地有,江户川、押上、向岛等现在晴空塔附近的地方。
我印象最深的是,20年以前跟家里人一起去奥能登时看的萤火虫。我现在还清地记得在漆黑的森林里看着眼前闪闪发光飞舞的萤火虫,听着涛涛日本海的声音。
此后在东京的郊外各种各样的地方也看见了萤火虫。我住的横滨近几年随着山水的洁净,萤火虫也渐渐多了起来。根据我的日记纪录, 8年前的2004年6月我去神奈川的四季森林看了萤火虫。
今年6月18日的夜晚,我再一次去了四季森林看萤火虫。与以前不同的是,天空不那么黑,萤火虫从黑暗的森林中飞出来,在河面上一边闪亮一边飞舞,让人感到黑色的森林更幽暗,更深奥。
8年前觉得不多大概100只左右,不过,今年出现萤火虫的地方宽广了, 至少能看见200只。可是,前来参观的人,从孩子到坐轮椅的人肯定有300人以上,到处听见快活的欢声。
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蛍狩
蛍は6月から7月にかけて水のほとりを光りながら飛ぶ。複雑な仕掛けの発光源が腹部にあって、熱を伴わない冷たい光を発する。雌雄共に光る。蛍は万葉集の時代から詩歌に詠われてきたし、今も俳句では夏の重要に季語になっている。
蛍が自然に発生するには水がきれいでなければならない。東京で蛍狩が出来たのは明治20年頃までだったという。名所としては、江戸川、押上、向島、広尾などだったそうだ(草間時彦、季語200解)。
私が見た蛍で印象のもっとも強いのは、今から20年ほど前家族で奥能登に行った時に見た蛍である。漆黒の山を背に蛍が舞い、日本海の波音が聞こえていた。
その後東京の郊外でもいろいろなところで蛍が見られるようになってきた。私の住む横浜でも近年川が綺麗になるにつれて、蛍が見られるようになってきた。日記によると8年前の2004年の6月に橫浜の四季の森で見たことになっている。
この6月18日の夜、また四季の森に蛍を見に行った。前と違って空が明るかったのはそれだけ町の明かりが空に映っているということだろうか。蛍は暗い森から出てきて、川の上を飛び、森を更に暗く、深くしている感じだった。
8年前はせいぜい100頭ぐらいだと思ったが、ことしは範囲も広がり200頭はいただろう。しかし一方、見物の人はというと、子供から車椅子の人まで300人以上いたのではないか。あちこちで明るい歓声が上がっていた。
葦の葉にしばし息づく恋蛍
老年人驾驶讲座
我参加了老年人驾驶讲座。不参加这个讲座,驾照不能更新,参加是义务。讲座的内容分为两个项目。一个是“认识功能检验”,另一个是“老年人驾驶讲座”。
所谓“认识功能检验”包括日期时间的确认检验、插图记忆力的检验、描写表的能力检验等,简单地说就是“痴呆症的检验”。听说在高速公路上有到反方向开车的人,那不是大意出错儿,而是原于痴呆症。他意识不到自己违规。
“老年人驾驶讲座”有视力视野的检验、模拟机器的驾驶检验、实际上路驾驶检验。
当天参加者共9名,分3个班进行检验。最高年龄者是89岁,据说他每天为了做买卖必须驾驶车。
老人开车引起的交通事故比率比年轻人多一倍。这个老年人驾驶讲座的最大的目的是让老人停止开车,归还驾照。此讲座的费用是6,000日元,按两个半小时的课计算,费用设定得较高。
我们几乎每天在报纸上都能看到老年人驾车引起的交通事故,当天的讲座中我们也看了这方面的录像。虽明知道老人驾车是很危险。可是,轮到自己的话,认为还不要紧的人多。
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高齢者運転講習
高齢者運転講習に参加した。これを受けないと運転免許証の更新が出来ないので、運転を続けるためには受講は必須である。内容は、「講習予備検査」と「高齢者講習」に別れる。
「講習予備検査」とは、日付時間の確認、イラストによる記憶力の検査、時計の描写などで、簡単に言うと認知症の検査である。高速道路を逆方向に走る人は、間違いによるのではなく、認知症に依るのだという。つまり自分が間違っていることを認知できないわけだ。
「高齢者講習」は、視力視界の検査、シミュレーション機械による運転、実車による運転がある。当日は9名参加して、3人ずつ3班で検査が行われた。最高年齢は89歳の人で、毎日乾物屋の商売のために車を運転しているとのことだった。しかし、この方が実車運転をした時に後ろの座席に座っていた二人は、足を踏ん張って体勢を整えていた。
高齢者に依る事故の比率は若い人の二倍を超えている。この高齢者講習の一番大きな目的は、高齢者に運転を止めさせて運転免許証を返上することを促進するためらしい。そのために2時間半の講習費用が6,000円と高く設定されているのだろう。
毎日報道される高齢者の事故を見ても、事故を起こした時のビデオを見せられても、高齢者の運転はかなり危険であることが分かる。しかし、当日参加した人の話を聞いても、さて自分のことになるとまだ大丈夫だろうと思っている人が多い。
云游柳

云游柳,是西行(1118至1190)吟作的“道边有泉水流动着,我坐在树荫下暂时停步了”(《新古今和歌集》)的柳树。松尾芭蕉(1644至1695)敬仰西行,他无论如何也想看一次这棵柳树,终于在“奥的细道”的旅行路上,能站立在这棵柳树下。
他在那里度过暂时的时间内咏作出俳句“看女人将禾苗种植在一片稻田,我走开了,留下了柳!”。芭蕉访问后过了55年,怀念芭蕉的与谢芜村(1716至1784)也来到这里,咏作出“柳散清水涸干石头各处处”的句。这些句都刻在石碑上,在云游柳的树荫下竖立着。
现在云游柳也被稻田包围着。我们去的那天,正好插秧结束了,青蛙在叫,柳的树枝不断地触到稻田的水面。云游柳很大,能把我们40人全都遮掩在它的树荫下。
在下午的俳句会上,回忆芭蕉做的俳句很多。看来传统文化, 就是这样被人们一代一代继承的吧。
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遊行柳
5月28日、我々俳句仲間40名は、那須塩原の駅に集結して貸し切りバスに乗って芦野に向かった。バスはやがて国道294号線、旧奥州街道に出る。すると案内人が左手を指して「あれが遊行柳ですよ」と言った。 一行は異口同音に、大きいのだな、と言った。
遊行柳は、西行(1118~1190)が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集)と詠んだ柳である。西行に私淑する芭蕉は、この柳を是非一度見たいと思っていた。そして、奥の細道の旅の途中でこの柳の下についに立つことが出来た。
芭蕉は、そこでしばしの時間を過ごして「田一枚植て立去る柳かな」と詠んだ。芭蕉が訪れてから55年後に、芭蕉を慕っていた蕪村がここを訪れて、「柳散清水涸石処々」という句を作っている。どれも皆石の碑に書かれて、遊行柳の蔭に建っている。遊行柳は大きくて、木の陰に40名全員が入れるほどである。
遊行柳は今も田んぼに囲まれている。ちょうど田植えが終わった時で、蛙が鳴き、柳の枝が早苗田の水面に触れるばかりであった。
午後の句会では、芭蕉を偲んで作った句が多かった。伝統というのはこのように人々が代々受け継いで作っていくものなのであろう(写真は「一個人」(2009年10月号)より)。
笈のごとリュック背負ひて青葉かな
《中国媳妇日记》
我不喜欢看漫画。小学生的时候看了田河水泡的《野狗黑》以来,令我入迷看的漫画一本都没有。而且我不喜欢看上班族在电车中埋头阅读漫画杂志的样子。
不过,我家人都喜欢看漫画,老二女儿甚至在大学期间进入了漫画研究俱乐部。她有把握地向我推荐大和和纪的漫画《源氏物语·做浅的梦》,我看了,不过,感觉不怎么样。
最近听说《中国媳妇日记》很有趣。我曾读过杨逸获得《文学界》新人奖的《小王》,描写的是结婚介绍所的人为年轻的中国女性和中年的日本男性牵钱结婚的故事。文中三对三样的情况和想法写得很好,非常有趣。是不是《中国媳妇日记》和《小王》一样呢? 我在书店找找,才发现这本原来是个漫画。
据说《中国媳妇日记》原本是在博客上登载的内容,后编辑出书,一、二册一共已经销售了50万部,最近中文版也出版了。
内容是40岁的日本漫画家和20多岁的中国女性相亲后,开始结婚生活的故事。因为中国和日本的文化差异和言词的差异很大,中国媳妇在日本的生活中引起了各种各样的事情。他们相亲相爱,漫画家对媳妇的父母也很好。
与小说不同,漫画不能表现微妙的内心变化等,只能单纯明快地表现出彼此的心情。就是说,为了表现幽默、明快的话题,漫画有效果。即使这样说,我还是不想看漫画。
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「中国嫁物語」
私は漫画が好きでない。小学生のころ田河水泡の「のらくろ」を夢中で読んで以来、夢中になった漫画はない。むしろ電車の中でサラリーマンが漫画雑誌を読み耽るのには、批判的な者である。
もっとも、家族は皆漫画が好きで、二女は大学で漫画研究会に入っていたほどだ。彼女からは大和和紀の「源氏物語 あさきゆめみし」はぜったいに面白いからと薦められて通読したが、そうでもなかった。
最近「中国嫁日記」が面白いという話を聞いた。楊逸が文学界新人賞を取った「ワンちゃん」は、結婚を仲介する在日の中国人が、若い中国人女性と中年の日本人男性とを結婚させる話で、三人三様の様子や思惑が実に面白かった。「中国嫁日記は」同じようなものかと本屋で見たら、これが漫画だった。
もともとはブログに載っているものを本にしたもので、一、二巻を合わせて50万部を売り上げるし、中国語版も出ているという。40歳の日本人漫画家と20代の中国人女性の見合いから結婚生活の話しである。中国と日本の文化の違いや言葉の違いによって、お嫁さんはいろいろな事件を引き起こす。何と言ってもふたりがお互いに好きになっているのがいいし、漫画家が中国人のお嫁さんの両親を大切にするところもいい。
小説と違って漫画では微妙な心の葛藤などは表現できないが、その代わりお互いの気持ちを単純明快に表現できるのはいいところかも知れない。こういう明るい話題には漫画はむいているかも知れないと思った。かといってこれで漫画が好きになったというわけではないけれど。
锻炼俳句会
5月5日儿童节,早上7点我去了位于东京龟户的龟户文化中心,是为了参加我属于的俳句结社组织的锻炼俳句会。
当天的俳句会,在结社主持人的指导下,从上午9点到晚上9点举行了6次。这种活动是从去年开始举行的,而我从今年开始才参加。由于我没有健康方面的自信,不知能否承受得了连续12个小时的“头脑大运动”所以我的方针是无论如何平安地结束一天。
在第一次的俳句会上,我们提交了自备的5句。这次我顺利得到了主持人的特选。从第3次开始我们去外边,边欣赏看风光边即兴做俳句。正是当天在龟户神社举行“紫藤花节”期间,所以有很多人。由于我前年曾来这里欣赏了漂亮的紫藤花,所以高兴地前往。
可是,紫藤已经结束了开花,仅仅只有一架紫藤开着。说实话,我凭着前年的盛开的紫藤花的印象, 在家里预先稍微准备了几个俳句,现在面对眼前的景色,知道几乎没什么有用了。
不知道是不是这个原因,在下午和晚上的俳句会上,虽然得到了参加者的互选的点数,不过没得到主持人的选择。
一天结束了, “平安地跑完全程”开始的目的达到了,不过,俳句的成绩没有想像的那么好。回家后的第二天,我疲劳极了,无论如何不想再做俳句了。
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鍛錬句会
5月5日こどもの日は、朝7時に出て東京亀戸にある亀戸文化センターへ行った。所属する俳句結社の鍛錬句会に参加するためである。
この鍛錬句会は、結社の主宰出席のもとに、午前9時から午後9時まで12時間に6回の句会を行い、主宰の指導を得るというものである。去年から行われているが、私は今年から参加した。健康に自信のない私の方針は、何はともあれ無事に一日を終えることであった。
持参した5句を提出して第一回の句会が始まった。私はそこで主宰の特選を得たので、今日はまあそこそこやれるのかなと思ったが、甘かった。第三回からは外に出て見たものを句にする吟行句会である。亀戸神社は藤祭りの最中で大変な人出だった。私は一昨年見た見事な藤が見られるものと、勇んで行った。
しかし、事実はもう開花を終わっていて、僅かに一つの棚にだけ、終わりに近い藤が咲いているだけだった。実は私は今日の吟行に備えて、一昨年に見た藤を思い浮かべて予め少し句を用意して参加したのだが、それがほとんど使えないことを知った。
午後と夜の句会では、参加者の互選の点こそ少し戴いたが、主宰の選にはほど遠かった。
初めの目的である無事に完走するということは出来たことでよしとしよう。俳句の成績が自分の力を越えることは出来なかったのは当たり前のことで、悲観するには当たらない。しかし、翌日はさすがに草臥れて、俳句のことは考えるのもいやだった。
魂けぶるかの世の色を藤の花
莫言的《牛》读后感

文化大革命时期,调皮的少年罗汉辍学在家,与生产队饲养员杜大爷一起放牛,因为生活贫困养不起更多的牛,生产队长麻叔请来了公社兽医站的老董为双脊、大小鲁西三头小公牛施行阉割手术。术后,罗汉、杜大爷与三头牛朝夕相处,历经煎熬,大小鲁西终于康复了。但双脊因手术中大出血,术后感染,在经历数天的折磨后而不幸死去了。
杜大爷想把牛拉回去,剥皮,吃肉,可是公社的主管牛的孙主任不允许,说,不怕传染吗? 这病一旦扩散,那会给人民公社带来多大的损失?
赶快把死牛抬到屠宰组去,解剖,取样化验,然后让屠宰组高温消毒,熬成肥料!
他们的牛死后第三天,公社驻地发生了一个惊人的大事件,三百多人食物中毒。中毒的人基本上是公社干部、吃国库粮的职工和这些人的家属。可是死的人没有。中毒的原因是他们的双脊。
公社革委就沙门菌中毒事件组成调查组追查责任。是冒险做手术的公社兽医站老董的责任?
是公社主管牛的孙主任的责任?
还是公社上层的责任? 最后,所有的责任都由杜大爷的四女婿-----公社屠宰组长承担。听说是他把有毒的牛肉卖给了公社的各级领导。可是他本人也因为食牛肉中毒了。调查又说,这是要是发生在万恶的旧社会,三百零八个中毒者只怕一个也活不了。
这本书中有句话说,“旧社会没听说骟人的蛋子,新社会骟人的蛋子。”,“你是人民吗? 我是人民吗? 你我都是草木之人,草木之人按说连人都不算,怎么能算人民呢?”
可是莫言没有高声批判权力方面的不正当,而只对人没有办法的愚蠢行动,用善意而又富有幽默的手法表现出来。我觉得这是牛对人的报复。
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莫言の「牛」を読んで
文化大革命の時期にいたずらっ子の羅漢は学校を放校されて家で生産隊の飼育係の老杜と一緒に放牧の仕事をしていた。生活が苦しくてこれ以上の牛を飼育できない生産隊長のあばた叔父は、人民公社の獣医師の老董を呼んで、双脊と大小の魯西の三頭を手術して去勢するよう頼んだ。術後羅漢は老杜と熱心に三頭を看護した結果、大小の魯西は健康を回復したが、双脊は手術中に大出血をして感染症に罹り、彼らの懸命の看護も空しく数日後に死亡した。
老杜は牛を引きずって帰り、皮を剥いで皆で分けようと思った。しかし公社の牛の主管である孫主任はそれを許さなかった。「死因は伝染病だと言うではないか、病気が拡散したら人民公社は大変な損害を被るぞ。早く牛を屠殺係に持って行き、解剖をして検査をすること。屠殺係は高温で処理して肥料としてしまうしかないだろう」。
双脊が死んでから三日後に公社のある地域で驚くような事件が発生した。三百人以上の人が食中毒に罹ったのである。中毒になった人は基本的には公社の幹部、職員とその家族だったが、死亡した人はいなかった。食中毒の原因物は双脊だった。
公社の革命委員会はサルモネラ中毒事件について調査班を組織して責任を追及した。双脊には無理だと知りつつも敢えて去勢手術をした公社の獣医師老董の責任か。公社の牛の全体管理者の孫主任か、はたまた公社のもっと上層部の責任か。しかし、最終的には老杜の四女の婿である公社の下級職員の屠殺班長が全ての責任を取らされて終わった。有毒の牛肉を公社の指導者に売ったという廉でである。しかし、本人もまたこの牛肉の中毒患者であった。調査班はまたこのようなことを言っている。「もしかの全てのものが悪い旧社会(国民党時代)に起こったとしたら、三百八名の患者全員が十分な治療を受けられず死んだであろう」。
一方、本の中にはこのような台詞もある。「旧社会では人の去勢まではやらなかったが、新社会では人の去勢まで行っている。」「君は人民かい? 俺は人民かい? 君も俺も草木のような取るに足りない人なのだ。草木のように取るに足りない人が、どうして人民と言われようか?」
しかし、莫言は声高に権力の不正を荒立てるのではなく、どうしようもなく愚かな人間の行動を、温かいユーモアに富んだ表現で書き上げている。私はこの事件は、牛の人間に対する報復だったにちがいない、と思った。
龙卷风
2012年5月6日下午1点左右一场恐怖的龙卷风暴袭击了日本的关东地方。由于这个龙卷风,造成1人死亡,46人受伤,580栋的房屋受损坏。
当天日本的高空流入了强烈的冷空气,而在地表又从南流入了暖空气,大气的状态非常不稳定。
当天筑波市的地表气温为25.6度,在高空5500米流入了零下19.1度的寒气。约45度的寒暖温差产生了强烈的上升气流,积雨云堆积,发生了龙卷风。
据说筑波市的龙卷风的受害范围,长度为15公里,幅度为500米,龙卷风的移动速度时速为70公里,平均风速每秒50至65米。因为关东平原地表宽扩没有山,所以没有减弱龙卷风力量的障碍。
当天我弟弟带几个朋友去我们的筑波市老家挖笋子。下午1点左右天气急变,天黑雷鸣,风变得强起来,要下大雨,电也停了,不过没下那么大的雨。
偶然来的工程企业的人说,由于龙卷风经过的地区受害严重,道路不通,不得不绕道而来。现在从因特网上查看国土地理院发出的龙卷风的路径航空照片,我才知道只离我的老家2,3公里。
我在心中衷心地向受害的人说句慰问活语的同时,也痛感人世间不知道明天要发生什么。
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竜巻
2012年5月6日午後1時頃関東地方の数カ所で竜巻が発生した。この竜巻で1人が死亡46人が怪我、家屋580棟が損壊した。被害に遭った方には心からお見舞いを申し上げる。
この日は日本の上空に強い寒気が流入する一方で、地表では南から温かい空気が流れ込み、大気の状態が不安定になった。
このときのつくば市の気温は25.6度、上空5500メートルには氷点下19.1度の寒気が流入、約45度の寒暖差で強い上昇気流が生まれ、積乱雲が発達した。
つくば市の竜巻の移動速度は時速70キロ、平均風速は50から65メートル、被害範囲は幅500メートル、長さ15キロだったという。関東地方に多かったのは、関東平野が広く、竜巻の力を殺ぐ山がないからだという。
この日私の弟は友人数人と一緒につくば市にある私たちの家に筍掘りに行っていた。午後1時頃天気が急変し、空は黒く雷が鳴り風が強くなってきたのでこれは雨にやられるな、と思っていたが、大した雨は降らなかった。しかし停電になった。
たまたま家に来た工事業者が、近くが大変な被害に遭って道路が通れず車で遠回りをせざるを得なかったと話したので、弟ははじめて被害を知ったとのことだった。今、インターネットで国土地理院の発表した竜巻の経路の航空写真をみると、竜巻が我が家から2、3キロメートルぐらいのところをかすめて進行して行ったことが分かる。
この世はなにが起こるか分からないということを改めて痛感した。
竹の子に凭り掛かりゐる栖家かな
虚幻的观赏樱花
我不能忘记2009年去福岛县三春町观赏了美丽的“泷樱”,决定今年再次北上去看永远留在心中的樱花。选来选去总算决定去看长野县伊那市的高远城址的樱花。
这里,明治8年,旧藩士们在荒废的城址里,移植了大量的樱花。它与青森的弘前公园和奈良的吉野山一起,被认为是日本樱花的三大名胜。
到那儿,从我家坐横滨线到八王子,先换乘中央线在冈谷站下车,然后换乘饭田线在伊那市下车,再从那里乘坐巴士。单程要4个半小时。
我开始计划起程的第一个日子是4月20日。当初根据网上的开花信息,盛开的日子为17日,不过只有20日我们夫妻俩才合适。当天我们早上6点起来,当再次查阅当地的信息时才知道从下午要开始下雨,而且只有百分之五十的花盛开。
赏观樱花还是在全盛开时最好。我们决定中止旅程,取消了票。第二周我俩没有互相适合的日子,看来今年大概去不成了。不过,我继续关注当地的樱花信息,得知24日,天气也好,盛开的情况也好,是最适合赏花的日子。
我说服妻子希望我们同去观赏,不过她说24日有约无论如何也不能取消,要去只能我一个人去,到底去不去,我一直犹豫不决,到了当天的早上我还是磨磨蹭蹭难以决定,最后,只好无奈地放弃了,没去。
樱花开花的日子很短,不可能等我们两个人的日程都合适的一天。退休后我觉得今后的人生要留下更多的家庭生活的回忆,所以想尽量两个人一起行动, 不过现在看起来今后一个人行动的机会一定会多起来的。
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幻のお花見
2009年に行った福島県三春町の滝桜の美しさが忘れられない私は、今年もどこか地方にある思い出に残る桜を見に行こうと決めた。そしてあれこれ検討した結果、長野県の伊那市にある髙遠城址の桜を見行くことに決めた。
ここは、明治8年、荒れ果てた状態になっている城址に旧藩士たちが桜を移植したのが始まりといわれている。青森の弘前公園、奈良の吉野山と並んで日本のさくらの三大名所といわれている。
我が家からは橫浜線で八王子に出て、中央線に乗り換え岡谷駅下車、飯田線に乗り換えて伊那市下車、そこからバスに乗る。片道4時間半はかかる。
初めに計画をした候補の日は4月20日だった。このとき開花情報では満開は17日と言われていたが夫婦の日程が合うのが20日しかなかった。朝6時に起きたが現地の情報を見ると午後から雨、花は開花が非常に遅れて5分咲きとある。
折角行くのだからと直前の判断で中止して、切符はキャンセルした。次の週は二人の日程が揃う日がなかったが、桜情報を睨んでいると、24日が天気といい開花の具合といい最適だった。
妻を説得したがどうしても先約を止めることは出来ないと言う。行くとしたら一人で行くしかないわけだが、その日の朝までぐずぐずと決めかねた。しかし、結局は行かなかった。
桜のように開花の日が短い時は、二人の日程が揃うことを諦めなければならない。これからの人生は思いで作りでもあるので、なるべく二人で行きたいが予定が合わない時は一人で行動する必要があることを、十分に思い知らされた。
花といふ花を開いて水鏡
世界兰花展

我2月21日去了在东京巨蛋棒球场举行的世界兰花展。 这几年每年都去,每次都有新的感动。今年的日本大奖是Dendrobium的大盆,有大约2000个茎都盛开着艳丽的花。
去年获得大奖的兰变得大一周的作品再次被展出,精美极了。据说获得大奖的人已去逝了,他孩子继承了栽培兰的父业。在这个领域世世代代永远继承下去也是极好的事。
因为展示场很宽大,为了好好看,只能集中几个感兴趣的展区。今年有个叫“兰的珠宝盒-婆罗洲”展,在婆罗洲岛成长的蓝色的兰被展出,不过,这个因为要排队等候1个多小时,只有死心了。
然后我们去充满香味儿的兰的展区,就是fragrance审查部门,在那里空气中漂荡着香气。虽说是香气,洋兰的、东洋兰的、日本兰的各不同。有散发着浓厚而细腻的香味儿、有令人清爽的香味儿,强的、弱的气味儿等微妙不同。花的左右对称盛开是兰花共通的特长,而兰的香味儿也有共同的特长。可是、我现在除了“优雅的香味儿”以外,很难我到合适的词汇来表现。
今年在兰的销售店,我们也买了各一盆卡特来兰和一盆Paphiopedirum。他们说这两种兰在室内开花,两年以前在这里买到的兰在我家每年都开花,没错。台湾的兰花店也很多,不过,气候不同,盆花明年开不开有些不安,所以我们在台湾的店只买回来了几枝剪花。
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世界蘭展
少し前の話だが2月21日に東京ドームで開かれている世界蘭展に行ったときの話しである。ここ数年は毎年行っているのだが、行くたびに新しい感動がある。今年の日本大賞は、デンドロビュームの大きな鉢で、2000本あるという茎の全てに花が付いていた。
去年大賞を取った蘭が、また一回り大きくなって展示されていたのが圧巻だった。聞くところによると昨年大賞を取った方は亡くなられて、お子様が蘭の栽培事業の跡を継いでいるのだという。この分野で代々同じ仕事の携わるというのも素晴らしいことだ。
広い展示場なのでなにかに絞らないとよく見ることが出来ない。今年は「蘭の宝石箱-ボルネオ」展というのがあって、ボルネオ島で育った青い蘭が展示されていたが、これは1時間待ちなので諦めるしかなかった。
そこでフレグランス審査部門という匂いのよい蘭を集めた場所で、蘭の匂いを楽しんだ。匂いと言っても、洋蘭、東洋蘭、日本欄で異なるし、個体によっても、濃密な匂い、爽やかな匂い、強い匂い、微かな匂いなど微妙に異なる。蘭の花は左右対称という蘭に共通した特長があるが、匂いにも優雅な匂いとしか今は表現できないが、蘭に共通した匂いがある。
今年も蘭の販売コーナーのいつもの店で、カトレアと胡蝶蘭を一鉢ずつ買ってきた。室温で咲くといううたい文句の通り、ここで買った鉢は我が家でも毎年咲いている。台湾の店も沢山出ていたが、気候が違うから来年咲くかどうか不安なので、台湾の店では切り花だけ買ってきた(写真は昨年日本大賞を受賞したセロジネ・クリスタータ・ホロレンカが一回り大きくなって今年展示されたもの)。
春蘭嗅ぐ鼻しづしづと集まりぬ
中国古文译成现代文
这儿我介绍一下儿用现代文译成的中国古文中《老子》的一个句子。
(古文原本):“道可道,非常道;名可名,非常名。”
(现代文的释解):“道,可以说得出来的,就不是永恒存在的道;名,可以说得出的,就不是永恒存在的名。”
我读过用日本式读的汉文和译成现代日语的文章。把古文改变成现代文章时,因为加上便于理解的注释,所以两个国家的现代文比起古文来, 都长了起来。
这句“道可道···”对我来说,要是没有现代文的解释,我就怎么也理解不了。那么古代的人是不是人人都能理解“道可道,非常道”这样短的文章呢 ?
据说中国春秋战国时代(前770~前221)写的古文(《孔子》、《老子》、《孟子》等),在汉的时代(前206~220)有的加上了注释,可是因为时间过去了,这样的注释也不能理解,所以在唐朝的时代(618~907) 有必要加上新的注释。可是这种唐代的注释,现代人还是不能理解。看来言语和生物一样有变化,几百年过去了,变得不明白也是当然的事。
据说鲁迅、毛泽东也受老子的影响。据说毛泽东曾说过,作为军事战术的书,比起《孙子》来,《老子》更出色。至于老子对鲁迅的影响,是不是正确现在还不太清楚,不过令我马上想起《故乡》最后的一段。
“我想:希望是本无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多,也便成了路。”
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中国古文を現代文で書くと
実際に中国古文を現代文で書き直した「老子」の中の一文をご紹介する。中国語の文章は上の中国語のところで見て欲しい。下に日本語による中国古文の漢文的な読み方と、現代文による読み方を記してみる。
(漢文読み):道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。
(現在文):これが道ですと示せるような道は、恒常の道ではない。これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない。
つまり現代文に直すということは、中国語であっても日本語であっても、現在に分かり易いように注釈を加えると言うことである。その結果両国語とももとの文章よりも長くなっている。
とはいえ、若し現代文がなければ、私には原文の意味は全く分からない。当時の人はだれもがこのような簡潔な表現で意味が分かったのだろうか。
中国でも春秋戦国時代(前770~前221)に書かれた古文に、漢の時代(前206~220)に付けられた注釈は、唐の時代(618~907)になると注釈そのものが読めなくなり、新しい注釈が加えられるということになったのだそうだ。唐時代の注釈も今では分からない。言葉は生物のように変化していくから数百年経てば分からなくなるのもやむを得ない。
ちなみに老子は後に沢山の人に影響を与えた。一説によると魯迅であり、毛沢東もその一人だそうだ。毛沢東は軍の戦術の書としても、専門的な「孫子」よりも「老子」の方が優れていると言ったそうだ。老子の魯迅に対する影響として、合っているかどうか分からないが、私がすぐに思いだすのは「故郷」最後のくだりである。
“思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ(竹内好訳)。”
赏樱花

今年由于立春之后持续较冷的日子长的关系,樱花开得比往年晚,在东京市中心4月8日才盛开,据说这个日子比较往年晚5天,比去年晚2天。我4月7日去了东京九段的靖国神社和皇宫的千鸟渊赏花。
去年3月11日是日本东北地方遭受大灾害的日子,我们没有享受赏樱花的心情了,也许出于弥补某种遗憾,我今年无论如何也想好好赏樱花。这个心情好象大部分的人都一样,从九段下站下来车后,由于人群众多拥挤极了。
在靖国神社参拜用的道路两侧排列着货摊子开的店,樱花树下铺着蓝色苫布的地上,满了赏花的人,没有悠闲慢慢地观赏樱花的气氛。因为靖国神社供奉着为了国家而阵亡的人们的灵魂,所以我们感觉有特别的心情。我28岁和25岁的叔舅,就战死在第二次大战中,他们的亡灵也供奉在这里。
那天, 在中庭人们还能安静地赏花,舞台上上演着所说的户冢伴奏节目,很有趣。
从靖国神社到千鸟渊很近,这儿也没有观赏樱花的座位。岸道上拥挤赏樱花人们,500米的道要慢慢地走差不多一个小时。可是,从两岸下垂的樱花树枝, 映在水中,非常漂亮、美丽,什么东西也不能与之相比。樱花和其他的花儿不一样,一年之中的开花期只有一个星期,所以格外招人喜爱。
现在樱花开放的前锋慢慢地推移到东北地方。我衷心期盼在以后的日子里,东北地区受灾者的生活能更加地改善。
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今年のお花見
今年は春になってから寒い日が続いたため、桜の開花が遅れた。東京都心で満開が4月8日で、これは平年に比べて5日、昨年に比べて2日遅いのだそうだ。私は4月7日に東京九段の靖国神社から千鳥ヶ淵に行ってみた。
昨年は3月11日の大災害で、とても桜を見るような気持ちにはなれなかったが、その反動のためか、今年はどうしてもしっかりと見てみたいという気持ちになった。この気持ちはほとんどの人が同じであったらしく、九段下駅を降りると、大勢の人出で混み合っていた。
靖国神社では参道の両側に屋台が出ていて、桜の下には、青いシートや椅子がすっかり置かれていて人が一杯座っている。とてもゆっくりと花見が出来る雰囲気ではない。靖国神社は国のために闘った人たちの御霊が祀られているので、特別な気持ちにはなる。私の場合は28歳と25歳の叔父が、ノモンハン戦争と第二次大戦で戦死してここに祀られている。
それでも内庭に入ると喧騒はなく、落ち着いて花を見ることが出来たし、出し物の戸塚囃子というお囃子も面白かった。
靖国神社からすぐ先の千鳥ヶ淵の方は、花見の席はないが、お堀の対岸の桜を見るための列は混み合っていて、500メートルの道は全てゆっくりとしか歩くことが出来ない。しかし、両岸の崖に垂れ下がるさくらの枝がお堀に映っている様子は、なにものにも比べられないくらい美しい。桜は開花の期間は僅か一週間と短く、また散り際が格別に美しいのが特長である。
これから桜前線はゆっくり東北を上っていく。これから秋にかけての良い時期に、東北の被災者の方の生活が一段と改善されることを心から望みたい。
見下ろしつ見上げつ濠の桜かな
中国古典
我在东京的一家汉语学院参加了春假5天的讲座。讲座的名字是“用现代中文读中国古典”。我小学生的时候跟爷爷学过日本式读法的《论语》。那么,用现代的汉语怎么读古文,古文与现代文有什么不同,出于这些兴趣,所以我参加了这次讲座。
5天学习的内容是,韩非子、孔子、孟子、老子、庄子和孙子6个思想家的文章。他们的思想当然不同,简单地说孔子为仁, 孟子为义, 老子为道和德, 庄子为无。共通的是,一来,他们都是纪元前的春秋战国时代活跃的思想家。二来,他们的文章都即简洁又有说服力。
老子,庄子的思想,虽听了老师简洁的说明,但我还不能抓住根本的思想,觉得需要好好学习基本的知识。“道可道,非常道;名可名,非常名。”等很难理解。可是我的同学们一半儿对老子最感兴趣,我敬佩他们。
关于孔子,我们学了《论语九则》。我今年又看了电影《孔子》。通过电影和这次学的九则,我觉得孔子的可贵之处是待人亲切。孔子对人信赖、善意,也有乐观的看法。他之所以有3,000人的弟子,可能是因为他独特的人格吧。
孟子的名句中有,“民为贵,社稷为次,君子轻”。还有对滕文孟子说:贤君必恭俭礼下,取于民有制。这个两千四百年以前孟子的思想对现在政治下的社会也应该是适用的。
古代的文章,比较短,所以有时看不懂。可是一旦理解,因为文章简洁、有韵、有力,比起现在的文章来,却更容易理解。现在的文章有时太复杂了、太长了。
这次学习的内容除六大思想家的文章以外, 还有中国 “诗”、历史文等等。我们是同属汉字文化圈的日本人,可以享受这样的古代文章,是很幸福的事。
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中国の古典を読む
東京飯田橋の日中語学校が春休みを利用して行った5日間の集中講座に参加した。講座の名前は「現代中国語で読む中国古典」である。私は小学校時代に祖父から日本式の読み方で論語を習ったが、それを中国語で読むとどのように読むのか、いまの中国語とどのように違うのか、一度勉強をしてみたいと前から思っていた。
5日間で勉強をしたのは、韓非子、孔子、孟子、老子、荘子と孫子の六人であった。孔子は仁を、孟子は義を、老子は道と徳を、荘子は無を考えの中心に置くというように、考え方はそれぞれ違う。しかし、共通しているのは、紀元前の春秋戦国時代、すなわち今から二千数百年前に活躍した思想家であること、文章が簡潔で力強いということである。
老子、荘子の思想は、先生から簡潔な説明を受け、文章も読んだがが、本質的なところを掴めるまで至らなかった。しかし、同学の半分以上の者が、六人の中で老子に対して一番関心があるとのことで、私はすっかり驚いたし、敬服した。
孔子については論語九則を学んだが、これだけ見ても孔子が人間の能力、善意を信頼して、楽観的であったことが分かる。私はたまたま今年映画「孔子」を見たが、そこでも孔子が部下に対して温かい人であったことが描かれていて感動した。弟子が三千人いたというのも、彼の温かい人柄に拠るところが大きいと思う。
孟子では、民を第一とし、国家はその次、君主は最後であるべきこと、賢君は必ず臣下に対して礼を失わず、税金を取るのに定めによって限度を越えることがないこと(滕文公章の一文)を学んだ。これは現代の社会にもそのまま通じる箴言である。
古文は短いので理解しがたいところがある。しかし一旦理解してしまえば、むしろ現代語に置き換えない原文の方が、簡潔でリズムが良く、力強い文章なので、真実を表現しているというのも驚きであった。現代文はあまりにも長く、かつ複雑である。
中国にはこのような思想家の文章以外に、詩があったり歴史文があったりする。同じ漢字文化圏にある日本人がこの恩典を受けられることは大変幸せなことなのである。
看了《集结号》

由于中国老师的推荐,我看了冯小刚导演的电影《集结号》。所谓集结号是吹喇叭撒退的事。故事发生在1948年的中国内战时,人民解放军的联队长谷子地奉师团长的命令带47个部下一起死守高地的堑壕。
师团长命令,如果听见喇叭响就可以退。战争极其激烈残酷,他们击败了数十倍之多的国民党军的同时,年轻的士兵们不断地丧失生命。小队长,临终的时候说他听见了喇叭的声音,不过,因为谷子地的耳朵没有听见喇叭声,所以他的联队遵守命令没撒退。结果47位士兵,除了他以外全都牺牲了。
他退伍后,前往失去战友们的战地悼念时,知道这些英雄们从前线逃走的失踪者而处理上报的。不久,在师团长的坟面前与号手再次相见,他知道师团长为了救其他士兵们的命, 以谷子地的联队做为牺牲的代价,故意命令不吹撒退的喇叭。他的内心被猛烈地怒了。
谷子地,他一个人备力挖掘已成为煤矿的堑壕痕迹,持续寻找战友们的遗骨。最后终于,联队的名誉恢复了。烈士们的石碑被建立起的是他们死后8年的事。
在坟上写着《无名》竖立的树片得多。当时中国的农村识字率很低,常常用俗名来招呼,在联队里谁在,谁战死也不太清楚。父母起了名字,不过如果死了,没有人再知道他们的名字了,联队长叹息的场面让我印象很深刻。
我看的是DVD,不过,台词大概听不懂。有字幕,不过长的字幕也不是一看就能理解的,加上,字幕用的口语有时也很难理解。我感到学语言的道还很远。
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無名戦士の墓
中国語の先生に勧められて、馮小剛監督の「集結号」を見た。集結号とは、退却ラッパのことである。1948年の中国内戦。人民解放軍の連隊長の谷子地は47人の部下と共に高台の塹壕を死守する任務を帯びる。
ラッパが鳴ったら退却してよいとの師団長の命令だったが、圧倒的な数の国民党軍の前に若い兵士たちは次々と命を落としていく。小隊長が、いまわの際にラッパの音を聞いたと言って死んでいくが、谷子地の耳にはラッパは聞こえなかった。退却しなかった結果、彼の連隊は彼一人を残して全滅した。
除隊後、部下たちを失った戦地跡へ赴くと、部下たちが前線から逃亡した失踪者扱いとなっていることを知る。やがて、師団長の墓の前でラッパ手と再会し、味方の大勢を救うため、師団長が連隊に退却を命じるラッパを吹かせず、連隊を犠牲にしたことを知り、激しく憤る。
谷子地は、今は炭鉱となっている塹壕跡を一人で掘り返し、部下たちの骨を捜し続ける。ついに、連隊の名誉は回復。烈士の石碑が建てられたのは兵士たちが亡くなってから8年後のことだった。
戦死した兵のお墓には「無名」と書いた木片が立っているだけのものが多い。この当時中国の農村は識字率が低く、隊でも俗名で呼ばれることが多かったから、誰がいて誰が死んだのか辿れないことが多かった。父母はいろいろ考えていい名前をつけたが、死んだら無名か、と連隊長が嘆く場面が印象的だった。
私が見たのはDVDだが、台詞はほとんど聞き取れない。中国語の字幕があるが長い字幕を一目で理解するのは難しいし、字幕が読めても俗な話し言葉で理解できないものもある。語学の道ははるかに遠いと痛感した。
电影《祝福》DVD观后感
最近中国的电影由出色的导演编新拍的很多。这部电影《祝福》是1956年制作的,是中国电影改革以前的作品。
此影片没有最近电影的那种艺术效果,没有描写人的微妙、细腻的心理。比起原作小说来,电影太简单化了,好人坏人一目了然。原作的“我”在电影里没被描画出来这一点对我来说也是不满的。他是虚弱知识分子的代表,鲁迅好像把这个人物化为他自己。
1956年是毛泽东时代。这时代,中国旧的风俗习惯都被判断为坏东西,而认为新时代的风俗习惯好。但是,从鲁迅的小说来看,各个时代都有各自的风俗习惯,无需判断善恶。我觉得,鲁迅认为无论在什么时代,人类都有随心所欲、无耻、丑恶的心想。他执着地追究人的这种心理。
电影开始时写有鲁迅的文章如下;
“我们追悼了过去的人,还要发愿:要自己和别人都纯洁聪明勇猛向人,要除去虚伪的脸谱,要去世上害已害人的昏迷和强暴。我们追悼了过去的人,还要发愿:要除去于人生毫无意义的苦痛,要除去制造并尝玩苦痛的昏迷和强暴。我们还要发愿:要人类都受正常的幸福。”
鲁迅死去是在1936年,当然不是鲁迅特意为这部电影写的,而是和电影有关的人引的。这样的教训文章倒不如没有更好。
电影的最后还有解说词:这是40多年以前的事情,应该庆幸的是这样的时代终于过去了,终于一去不复返了。
是真的吗? 我觉得世界上各种各样的传统习惯、迷信等至今依然存在着,并且这不一定就是坏事。传统习惯是难以克服的,如同人类不能擦掉自己的历史一样。
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映画「祝福」を見て
最近の中国映画は優れた監督が出てきてから素晴らしい作品が出るようになった。この映画は1956年に作られたもので、中国の映画革命以前のものである。
この映画は最近の映画に比べて技術の面でも見劣りがするし、人間の繊細で微妙な内面の心理を描き切れていない。魯迅の原作に比べて映画は単純化され過ぎているし、善人悪人が一目瞭然のように描かれている。原作のなかの「私」が描かれていないのも不満だ。彼は弱い知識人の代表で、魯迅は自分のことをこの卑怯な知識人を通じて描いたのだと思うので。
1956年といえば毛沢東の時代である。この時代中国では旧い風俗習慣はみな悪く、新しいものはみな良いと見なされた。私は魯迅は、いつの時代でも人類は自分勝手で、恥知らずで、醜悪な一面を持っていると考えていたと思う。彼は執拗に此の様な人間の心理を追求していた。
映画の初めに魯迅の次のような言葉が映し出される。
「我々は過去の人間を追悼し願う。自分やほかの人がみな人に対して純潔聡明勇敢であることを。仮面を脱ぎ去り己や他人を害する迷信や強暴さを取り去ることを。人生の意味のない苦痛や迷信や強暴から来る苦痛を取り除くことを。そして人類が正常な幸福を受けられることを。」
魯迅が死んだのは1936年であるからこの文章は魯迅がこの映画のために特に書いたものではない。おそらく映画関係者がどこからか引用してきたものだ。このような教訓的な文章はそらぞらしく、なくもがなだと思った。
映画の最後には次のような台詞がある。
「この映画の話は、いまから40年以上前のことである。このようなことはすでに過去のことになっていて、二度と繰り返されないことになっているのは喜ぶべきことだ。」
本当だろうか。この世の中にはいろいろな伝統習慣や迷信が依然として存在している。しかも、必ずしも全部が悪いというわけではない。伝統習慣はなかなか克服できないものだ、それは人類が自分の歴史を消せないことと同じことである。
看梅俳句会
3月3日(星期六)在水户偕乐园有看梅俳句会。因为星期三下了相当大的雪,我担心天气会怎么样,不过,幸运的是从早上开始晴起来了。早上7点后出门, 10点到达水户。
在这个季节特快电车在“偕乐园站”临时停车。下车后上台阶就到了偕乐园。有相当多的人来欣赏梅花,不过除了早开的几棵梅树以外,其它的梅树几乎都还没开花。还有,吹向园内的风像所说的“余寒”一样的相当的冷。
3月3日,在日本的历史上也特别的日子。万延元年(1860年)3月3日主张“尊王攘夷”的水户藩的浪士,在东京樱田门外杀害开国派的德川幕府大老井伊直弼。据记录当天下了大雪,在那个时代日本采用的是太阴历,3月3日相当于现在的4月初,下雪是很少见的。
还有,3月3日是桃花节(女儿节), 是为祝福女孩子祝福的节日。有女孩子的人家在屋里摆出若干个精致的偶人,祈祷女孩子健康成长。在偕乐园也举行流偶人的祭祀。宣传手册上写着此次是“第21次五轩香梅偶人放流式”。就是水户市五轩町主持的,20年以上接连的仪式。放流的雏(偶人),是由于小学生用纸手制的东西,游人以100日元购买。销售额捐献给有关福利团体。
放流雏的地方是偕乐园内的“吐玉泉下的池子”。我购买了雏,不过舍不得放流,带回家来了。当天的俳句会成绩虽仍旧不太好,不过我享受了北关东地方的初春,还是很满足的。
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梅見句会
3月3日(土曜日)水戸の偕楽園で梅見の句会があった。水曜日にかなりの雪が降ったので天気が心配だったが、幸いに朝から晴れてきた。朝7時過ぎに家を出て水戸に着いたのが10時だった。
この季節は特急電車が偕楽園駅に臨時停車する。駅を降りて階段を上ると偕楽園だった。かなりの人出があったが、早咲きの梅を除いてまだほとんどひらいていなかった。また、園内を吹く風も、余寒というようなかなり冷たい風だった。
3月3日は日本の歴史で大きな事件のあった日である。万延元年3月3日に尊皇攘夷を主張する水戸藩の浪士が、開国派の時の大老井伊直弼を桜田門外で殺害した。3月には珍しく大雪が降ったとあるが、当時は旧暦であるから今の4月に当たるので珍しかったのである。
また、3月3日は桃の節句でお雛様を飾る日でもある。女の子供のある家ではおもいおもい雛人形を飾り、子供の健康な成長を祈る。偕楽園でも園内の池に雛を浮かべて流し雛を楽しむお祭りがあった。パンフレットには「第21回五軒香梅ひな流し」とあるから20年も続いている行事である。五軒というのは水戸市五軒町が主宰する行事だからである。流す雛は、小学生が手作りで作ったもので100円で求める。売上金は福祉関係に寄付するとある。
雛の流されるのは偕楽園内の「吐玉泉下の池」である。私は雛を求めたが流すのが惜しくなって家に持ち帰った。当日の句会は相変わらず成績が悪かったが、寒かったとは言え北関東の春を感じた一日だった。
流し雛相寄り添つてひとところ
墓地
我的朋友没有孩子。他家的墓地在一座寺院院内。他问寺院要是没有人继承的话,坟墓会怎么样?
寺院的人回答,没有继承人时,寺院替您家保存三十年。为此,请给我们捐献祭祀费和保存费。三十年后寺院把您家祖先的遗骨移动到寺院里的别的合葬地方,把墓碑拆掉,坟墓土地要归还回寺院。祭祀费和保存费的多少,每个人根据各人的经济情况而决定就可以。
根据东京都陵园经营的规定,墓地的使用者死亡,承袭的人没有的时候,管理部把遗骨转移到合葬地,撤去墓石,再把那块地方借给别人。
没有墓地了对当事者的心理来说也许感到寂寞,不过,这样管理还是好吧。在乡下有的坟墓,土地和墓碑都自己所有的,如果照顾扫墓的人不在了,坟墓会永远残留在荒废的土地上。到底哪个办法好呢?
看我周边的熟人,没结婚没有孩子的人相当多。根据法律,所有者不详的不动产应属于国库所有。今后所有者不详的土地或墓地会增加吧。
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お墓
私の友人の家には子供がない。この家のお墓はあるお寺の境内にある。お墓を継ぐ者がいない場合は、どうなるのだろう。
お寺に聞いたところ、あらかじめ供養料をそれなりにだしてもらえれば、30年ぐらいはお寺でお守りする。その後はお骨は共同で供養することにして、墓石はお寺で壊し、土地はお寺に返してもらうことになると言われたそうだ。供養料はそれぞれの経済的事情で出来る限りのものでよいとのことだ。
東京都営霊園の場合は規定によれば、お墓の使用者が死亡しその地位を承継する者がいない時は、遺骨を別の場所に移して合葬され、お墓は撤去される。その土地はまた新しい人に貸し出される。
お墓がなくなるのは関係する者にとってはさびしい気がするだろうが、このようにきちんと管理されるのはいいのかもしれない。よく田舎にあるような、土地も墓石も自分のものである場合は、訪れる人がいなくなれば、お墓は自然に壊れるまで残るだろうが荒れ果てたままになる。果たしてどちらがいいだろうか。
私の親戚知人を見ても、結婚していないとか、子供がいないとかの家がかなりいる。民法によれば、無主の不動産は国庫の所有に属す、とあるが、意図して国に帰属させようとすると、使用価値のある土地以外は、到底出来そうもないことが分かる。このようなことで、所有者の分からなくなった土地とかお墓が、今後だんだん増えてくるような気がする。
夕桜娘に話す墓地のこと
电子纳税
每年这个季节是税金确定申告的季节。从去年开始我选择了所说的e-tax纳税方式,就是使用个人电脑制作申告文件,然后通过网络发送过去的方法。
采用这个方式的话,电脑可以替我做计算,不用添源泉征收票等是好处。可是为此我们需要准备读卡器,到区政府领取个人认证卡。
去年试行了,怎么可好用。用电脑输入数据也屡次死机,可能是机密系统管理得太严格了。去年,我不得不给国税厅的咨询处打电话,仔细地问一问,他们亲切认真地回答,到申告文件发送为止一直热情地指导我。我觉得他们的软件也许也有很多问题。
今年我想返回到在纸上填写的旧的方式。 不过,一次失败就逃走,太可惜了,想再一次年用e-tax方式试着做。今年好像他们的软件改善了,确实能顺畅地做好文件,并电子发送完毕。
然而,我忘记了把去年的股票卖价亏损额在今年缲越损失栏内写上去,所以要再问到e-tax咨询处。结果是,在纳税期限的3月15日以前,我们随时可以订正错误,发送正确的申报文件。国税厅以最新的申报日期为佳。我想这是活用电脑特长的方式,很好。我觉得今年我采用e-tax方式是正确的。
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電子納税
毎年この季節は税金の確定申告の季節である。去年からe-taxという、パソコンを使って提出書類を作って電子送信をする方法を採用した。
この方式を採ると、パソコンが計算をやってくれるし、源泉徴収票などを添付しないでいい。しかしこのためにはカードリーダを買い、区役所で個人認証カードを交付してもらう必要がある。
去年やってみたら、なかなか上手く行かない。入力してもパソコンがたびたびフリーズしてしまう。そこで、国税庁の相談センターに電話をしたら一つ一つ丁寧に教えてくれて、電子送信が上手く行ったかどうかの確認まで付き合ってくれた。どうやら機密保持の仕組みが厳格すぎるらしかったし、ソフトウエア-自体もまだ成熟していないようだった。
今年はこれに懲りて、紙に書く旧方式に戻ろうかと思ったが、尻尾を巻くのはいやなのでもう一年と思ってe-tax方式でやってみた。今年はソフトウエア-が改善されたらしく、実にスムースに入力できたし電子送信をすることが出来た。
ところが、去年申告した株式の売却損を、今年繰越損失欄に記入することを忘れた。そこでe-tax相談センターに相談したところ、納付期限の3月15日までなら、正しい申告を送信すると後で送信したものが正しいもとして受け取ってもらえるという説明だった。これはパソコンの特長を生かしたいい方式だと思った。今年はe-taxを採用してよかったと思った。
北京故宫博物院200选展

2月4日我在东京国立博物馆看了“北京故宫博物院200选展”。想看的“清明上河图卷”真品的公开已经结束了,现在展示着复印品。听说真品公开的时候要排4个小时队,所以我死心了。
此次展示品的内容是,水墨画、水彩画、书法、青铜品、玉石、陶瓷器、涂漆物、雕刻物、刺绣、工艺品等。有纪元前的商、西周时代的古董,不过,大多数是宋、明、清时代的。除此以外,还有故宫最盛期的清朝的宫廷文化的精粹,比如乾隆帝的肖像画和穿的龙袍等。
我有兴趣的还是“清明上河图卷”和“康熙帝南巡图卷”。前者描绘的是在北宋时期都城开封城市居住的平民的日常生活,将各种各样的职业人物真实活泼地描绘出来。使人能理解当时的平民生活的情况,非常有趣。
后者是以康熙帝南巡作为题材的大型图卷。图卷中描绘出威武,排列整齐的文官、武士、骑马的武士,还有雄壮大规模的船群等。这个图卷是由宫廷雇佣的画家画的。虽然我们能看得懂的满族文化比汉族少得多,可是能了解清王朝统治时期文化鼎盛发展情况。
通过这次的展览,我们可以了解我国从邻国受到很多文化上的影响。众多的观众也一定有同样的感受吧?
统治者聚集自己国家的传统绝品是为了证明自己王朝的正统性。蒋介石拿走故宫的绝品逃跑到台湾也确实为此。听说台湾的故宫博物馆藏品好极了,我想出看台湾的故宫博物馆。
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北京故宮博物院200選
2月4日北京故宮博物院200選を見た。お目当ての「清明上河図巻」は本物の公開はすでに終わっていて、今はコピーが展示されている。しかし本物が公開されていた時は4時間待ちであったと聞いて諦めたのだった。
今回の展示品の内容は、水墨画、水彩画、書、青銅鋳物、玉、陶磁器、塗物、彫物、刺繍、工芸品など。時代としては紀元前の商、西周のものもあるが、多いのは宋、明、清が多い。そのほかに、故宮が最盛期であった清朝の宮廷文化の精粋や、乾隆帝にまつわる肖像画とか衣服とかが展示されていた。
私が興味を持ったのはやはり「清明上河図巻」と「康煕帝南巡図巻」だった。前者は北宋の都、開封の生きる庶民の日常を描いたもので、さまざまな職業の人物が実に生き生きと描かれている。当時の庶民の様子を知ることが出来てとても面白かった。
後者は康煕帝の南巡を題材とする大型の図巻で、隊列を組んだ文官、騎士、武士、大規模な船群など壮大な規模で描かれている。これはお抱えの画家に書かせたものである。満族は漢族に比べて人数も文化も少ないが、清王朝の統治が行き届き、この時期に全盛期を迎えていたことが分かる。
展示さえているこれらの作品を見るにつけて、我が国が古代から清国に至るまでの隣国から大きな文化上の影響を受けていたことが分かる。大勢の観客も同じように感じたのではないか。
統治者が自分の国の逸品を身近に集めるのは、保持することでその王朝が正統であることの証明になるからである。蒋介石が故宮の逸品を持って台湾に逃走したのはまさにそのためである。今回北京故宮博物院の作品を見て、改めて台湾の故宮博物館を見たいという気持ちが強くなった(カットは北京故宮博物院200選目録「康煕帝南巡図巻」より)。
清明の橋くぐる船笑い声
中国小说的读解
我开始在个人受课跟中国老师学习读解中文小说是去年的1月底。所以今天正好整1年了。一年之间我读完的书是《三国演义》、《上海宝贝》、《丰乳肥臀》、《水浒传》、鲁迅的《故乡》、《蛙》、鲁迅的《祝福》。对我来说去年应该说是一个读了很多的中文小说的值得纪念的年。
为何能读这么很多的书呢。一来,是因为我选的书好。有古典的、有鲁迅杰出作品、还有当代中国代表作家莫言的作品。这些作品很有魅力,所以读完一本的话,就又吸引我就摆脱不了再读另一本的诱惑。
二来, 受惠于好的老师。她以文学、电影、音乐等艺术做为爱好, 造诣很深。她对我一般用汉语讲解。她日语,差不多能完全理解,特别对中文表现和日语表现的差异方面很有关心。
老师有时说,这个中文用日语简捷明了地说是这样。她的回答在字典中或一般的翻译书中都没有,可是当场常常是最合适的翻译。
我根据书类选择不同的读法,读莫言时,读得很快,能理解故事就行,而读鲁迅时踏踏实实地读,能读到发现人们深层的心理描写。
我用很多的时间预习,为了有效的把个人受课上好。我之所以每周认真预习的原因也好像是想获得我尊敬的老师赞赏。反正结果我读了很多的书。
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中国語の小説を読む
私が中国人の先生について中国語の小説講読の個人レッスンを始めたのは去年の1月31日である。だから先月でちょうど1年になる。この間に読んだ本は、「三国演義」、衛慧の「上海ベイビー」、莫言の「豊乳肥臀」、「水滸伝」、魯迅の「故郷」、莫言の「蛙」、魯迅の「祝福」である。私にとって去年は沢山の中国語の小説を読んだという記念すべき年になった。
なぜこんなに沢山読めたのだろう。一つには本の選択がよかったということだ。古典、魯迅の傑作、そして現代中国を代表する莫言の作品は、一つを読み終わるとまたもう一つ読みたいというという誘惑に駆られるほど魅力がる。
二つには先生に恵まれたこと。先生は、文学、映画、音楽を趣味にしておられる。完璧ではないが日本語も理解されていて、特に中国語の表現と日本語の表現の違いに大変関心を持っておられる。先生が、端的に日本語で言うとこうです、と言われるのは、普通の辞書や翻訳にはない訳出で、それがよく合っているのである。
私は例えば莫言は筋が分かればよいとして速く読み、魯迅は人間の深層心理を表現する仕方を知るためにゆっくり読むというように、本によって読み方を変えている。
個人レッスンを実りのあるものにするためには、時間を取ってよく予習することだと思う。私がまじめに予習をするもう一つの理由は、次の週に先生からよくやりましたねと言ってもらいたいというたわいもないことのためである。そして結果としてわりあい沢山の本を読むことが出来たと思っている。
莫言と山東省で昼寝かな
看电影《孔子》

昨天我去东京看了中国电影《孔子》。我学《论语》是在小学6年级的时候。那时我跟祖父住在一起。他喜欢教人,所以我就成了他的香饵,每天早晨我跟祖父朗读《论语》。
纪元前501年孔子50岁时在鲁国就要职,取得了许多政治上的成果。不过,不久就被疏远,只好带着弟子去各国流浪游说。他期待着在途中无论哪个国家都能欢迎他,不过,哪个国家也不接纳他。69岁的时候结来14年的流浪生活返回到祖国鲁的。
读了《论语》时对孔子的印象觉得他是个严肃的人。我想通过这个电影了解孔子生活时代的中国是怎样的,和孔子在一起行动的弟子们怎样的,孔子的真实形象是怎样的。结果,此次的电影,扫除了我以前的孔子形象。电影里孔子的特征是,擅长武艺战术、精通乐器、教导以仁义为基础、不是理想主义者而是实际主义者。有的国家用他的弟子并委任重要职位的时候,孔子很喜欢,同时给予弟子工作上的指导。
还令我吃惊的是,尽管流浪的生活很辛苦,可不用说子贡、子路、颜回、冉求等,孔子的弟子连一个人也没离开他。我想这大概是因为在那样艰苦的状况下,孔子也亲自实践着他平时讲的礼仪,所以弟子们也尊敬孔子的人格吧。
文化大革命之间,孔子作为支撑封建礼教思想的人被否定了。不过,现在又复活了。据旅日作家杨逸说,中国政府有时采用对政府有利的教条,有时扔掉不利的教条,中国是一个讲究实际利益主义的国家。
看完这部电影,我觉得儒教之所以长久残留着,就是因为它的教条是很清廉(比如“己所不欲、勿施於人也”),再加上孔子有很仁爱的人格。
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「孔子」を見る
映画「孔子の教え」を見た。私が論語を習ったのは小学校6年の時である。その年から祖父と同居するようになった私は、人に教えることの好きな祖父の好餌となってしまい、毎朝漢文の素読をさせられたのだった。
孔子は紀元前501年50歳で魯の国の要職について数々の政治上の成果を上げるが、やがて疎んじられて、諸国放浪の旅に出る。旅の途中どこかの国で迎え入れられると思っていたが、どこの国も迎え入れず、やがて69歳の時に14年の放浪生活から祖国魯に戻る。
論語を読んだ印象では孔子は厳めしい人だということだったが、今回の映画は、そのような孔子像を一掃するものだった。映画の孔子の特徴は、武芸に長じ戦術に長ける、楽器をよく知っている、教えは仁義をもとにするが理想主義的ではなく状況に応じて実際的である、弟子に仕事が来ると我がことのように喜び仕事をする上での注意を与える、などである。
私が不思議に思うのは、子貢、子路、顔回、冉求はもとより、孔子の弟子があの辛い放浪生活でも孔子から去らないことだ。このような辛い状況にあっても、孔子が日頃説いている教えを自ら実践していて、弟子が孔子の人格を尊敬しているからであろうか。
文化大革命の間は、孔子は封建思想を支持するものとして否定されていたが、今では復活している。在日作家の楊逸は、中国は時の政府に都合のいい教えは採用し、そうでないものは捨て去るという実利主義の国だと言っている。
儒教が今も残っているのは、一生守るべき信条は何かと問われて孔子が「其恕乎、己所不欲、勿施於人也」(それは思いやりではないか、己の欲せざるところを人に施すことなかれ)と答えたことで分かるように、教えが清廉であるとにあると思う。これに加えて、孔子が温かい人格を持った人だったからではないかと、この映画を見て私は思った(写真は「孔子の教え」パンフレットより)。
孔子との長き道のり温かし
年初第一次消防演习
我知道1月8日有横滨消防队的年初第一次消防演习,想去看。然而出门之际,朋友来邮件说,我发出的邮件还没收到。这样的事实是不可能的,我马上调查个人电脑,写回信而耽误了时间。
到达进行初次演习式的横滨红砖仓库前的广场时,正好11点是演习式开始横浜市长静静地入场的时候。她口若悬河地讲演后, 消防音乐队的演奏开始了。然后,陆地消防队、海上消防队、航空消防队的训练一个接着一个进行,诚然展示出现代的消防和救助。
其实,我真正的目的是想看传统的用梯子的消防队员的表演。我问问讯处什么时候开始,他回答,这个古式消防表演,在演习式开始以前就已经举办完了,以后没有了。他的回答使我很失望,近而忽然感到冬天海边的风很寒冷。所以我去港未来地区的暖和的宾馆,吃了热乎乎的午饭。
本来,对要去门时忽来的邮件,等返回之后再调查慢慢地回答也可以。可我最近不管什么事都马上要做的急性子癖性,弄乱了重要的预定,真傻。
明年年初我打算去看更棒的东京消防队的年初第一次消防演习中的古式消防表演。我知道即使看见棒的古式消防表演,我也不一定能做出棒的俳句。可是, 这个古式消防表演还是俳句上的一种重要的节目。
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出初式
1月8日に橫浜消防の出初式があると知って、出かけることにした。ところが出かける間際に友人からあなたの出したメールがまだ届いていないというメールが飛び込んできた。そんなことはあり得ないと、パソコンを調べて返事を書いている内に出かける時間が遅れてしまった。
出初め式の行われる赤レンガ倉庫に着いたのはちょうど式が始まる11時で、橫浜市長が挨拶のため静静と入場してくる時だった。挨拶が終わると消防音楽隊の演奏、陸、海、空からの消防訓練がつぎつぎに行われた。なるほど近代的な消防と救助はこのように行われるかと大変参考になった。
しかし、おめあての昔の梯子を使った消火鳶の演技はいっこうに始まらない。プログラムをよく見ると、式が始まる前に古式消防演技というのがあるので、確かめてみたところ、初めに行われてもう行われないとのことだった。がっかりして急に寒さを感じたので、みなとみらい地区のホテルに戻って温かい昼飯を食べて帰ってきた。
元はと言えば、出がけのメールなど帰ってから調べてもよかったのである。何でもすぐやらないといけないという最近特に強くなったせっかち癖が、大切な予定を狂わせてしまったのだ。来年はもっと本格的な東京消防隊の出初め式に行こうと、思い直して諦めた。まあ、出初式の古式演技を見たからといって、いい俳句が出来るとは限らないのだが、俳句の上でも出初式は大切な行事なのである。
空蹴つて逆さ大の字出初式
深川七福神巡游
去年年末我头一次参加了在深川地区的芭蕉纪念馆举办的俳句会。顺便我用很短的时间看了看那边周围的风景,想再一次来慢慢地游览深川。没想到这个机会比想像的早点到了。1月7日我参加了“深川七福神巡游”。
我们在门前仲町站集合,走着前往富冈八幡神社(财神爷神)-冬树弁天堂(辩才女神)-心行寺院(福禄寿)-圆珠院(大黑天)-龙光院(毗沙门天王)-深川稻荷(布袋尊)-深川神明宫(寿老年人神)七个神在寺院。
所谓七福神,因为他们能给人们带来福的缘故,在日本被信仰为七尊的神。七福是: 寿命、有福、人望、清廉、威势、魅力和大量七种。七福神巡游是从江户时代的文化、文政(1804年~)的时候开始变得繁盛的,爱好的人也多起来了。
当天我们在途中吃了午饭,除了参拜七福神以外还去了深川不动堂、深川阎王堂、灵严寺院、芭蕉纪念馆、仙台沟、小名木川、隅田川等等,4个小时后解散了。
在深川地方确实神社和寺院很多。我们走着较短的时间内就看见了超过40个神社和寺庙。听说因为旧市内拥挤,所以江户幕府把神社、寺院、坟等迁移到了新拓宽的填海造地处。
当天我游览周边有的种种的史迹,还感觉到了东京“下町”的情趣,过了愉快的一天。
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深川七福神巡り
去年始めて句会のために芭蕉記念館に行った。そのとき短時間ではあるが周りを見て、この辺はもう一度ゆっくり訪ねてみたいと思った。その機会が思っていたよりも早く訪れた。1月7日に「深川七福神巡り」というツアーに参加したからだ。
門前仲町駅に集まって、富岡八幡宮(恵比寿神)-冬木弁天堂(弁才天)-心行寺(福禄寿)―円珠院(大黒天)-龍光院(毘沙門天)-深川稲荷(布袋尊)-深川神明宮(寿老神)を歩いた。
七福神というのは、福をもたらすというので日本で信仰されている七柱の神である。七福とは、寿命、有福、人望、清廉、威光、愛敬、大量を言うとのこと。七福神巡りは江戸の文化文政(1804年~)の頃から盛んになり人に親しまれてきた。
その日、途中昼食をとって、七福神以外にも深川不動堂、深川焔魔堂、霊厳寺、芭蕉記念館、仙台堀、小名木川、隅田川などを回り、4時間ほどで解散した。
歩いてみると深川というところは実に神社やお寺が多い。私たちが歩いた短時間でも優に40の神社やお寺があった。旧市内が混み合ってきたため、江戸幕府が新しく拡げた埋め立て地に神社、寺お墓などを移したためとのことである。
当日は周辺にあるいろいろな史跡をみたり、下町情緒に触れながら一日を楽しんだ。
橋巡り七福巡り舟巡り
抄写佛经
听说12月上旬镰仓长谷寺院附近有年货市,就去了,不过,这个确实是没有价值的宣传。参拜道路上与平时不同的货摊只是几家炒面店、杂样煎菜饼店、章鱼丸子烧店、达磨铺等。
进入长谷寺院后,在院内拥挤着很多的人,可是抄写佛经室内人却很少。我先前就想参加一次抄写佛经,所以当天决定参加。首先去事务室,付一千日元,领受到了佛经手抄本的纸。长谷寺院有两种抄写佛经室。一个是坐在榻榻米上抄写佛经的室,还有一个是坐在椅子上写抄写佛经的室。我选择有椅子的房间。
那个房间的三面墙上都装着玻璃窗户,隔着玻璃可以看到外面的人,自然从外面也能看见我。有20人左右的座位。我进入时除了我以外没有人。抄写佛经时,用毛笔及钢笔、铅笔都可以。我因为最近几年学习了书法, 所以开始研墨用毛笔抄写。在纸张的下面上已经有写好了的般若心经帖样,所以我们只照着就行了。
我大概坐了1个半小时,其中大约有15个人进来进出。都是女人! 写经的作法是,三礼、诵经、净写、祈念等等。不过,一开始,我的脑子里就突然一齐涌上来了明天上课学习内容预习的事,还有下周的俳句会的杂念等。
这些杂念消失后,我渐渐在意般若心经的内容。可是怎么读也不明白,何况意义呢。我以前读过诗人伊藤比吕美写的有趣的《念解般若心经》。我决心返回家后,要再次读那本书。
总算随着时间的流逝,我发现自己头脑空了,天真地认真地抄写佛经。
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写経
12月の18日は鎌倉長谷寺の歳の市だというので出かけてみたが、これが実につまらない代物だった。参道にいつもと違う店が出ているとしたら、それは焼きそば屋、お好み焼き屋、たこ焼き屋、達磨屋などがそれぞれ1軒申し訳程度に出ているだけだった。
長谷寺に入ると境内の人混みの割りには写経室が空いていた。そこでかねてから一度試してみたいと思っていた写経をやってみることにした。まず受付で1000円を払って写経をする紙をもらう。ここには、畳に正座をして書く写経室と、椅子に座って書く写経室がある。私は椅子の部屋に入った。
そこは三方をガラスで囲まれていて、外の人が見えるし外から中の人も見える。20人ぐらいの席があるが、私が入った時は誰もいなかった。写経は、墨を擦って筆で書くのもいいし、筆ペンで書いてもいいし、ボールペン、鉛筆でもいい。ここ数年は書道を習っているので(と言っても年に3回ぐらいだが)墨を擦ることぐらいは堂々と出来る。用紙には予め般若心経が薄く書かれているので、それをなぞればいい。
私がいた1時間半の間に15人ほどが出入りした。それが全部女性なのだった。写経の作法は、三礼、着座、誦経、願文、浄写、祈念などとあるが、始めるやいなや明日の語学の予習のこととか、来週の俳句の句会のこととか諸々の雑念が待っていましたとばかりどっと押し寄せてきた。
それが落ち着くと般若心経の内容が気になり始めた。どう読むのか分からないし、況んや意味が分からない。以前に読んだ伊藤比呂美のあの面白い「読み解き般若心経」を、家に帰ったら早速に開いてみるしかない。
そうこうするうちに、頭が空になって、ひたすら無心に、熱心に字を写している自分がいることに気がついた
墨の香や日向の中の写経室
莫言的《蛙》
新年好!
我读完了莫言的中文《蛙》。中国人民共和国成立的1949年,中国人口是5亿4千万人。此后,按照人口作为国家重要资本的一部的毛泽东的方针,文化大革命结束后不久的1981年突破了10亿人。听说1960年和61年,由于饥荒数千万人饿死了。从1979年独生子女政策开始了,人口增加速度降低,现在人口达到13亿4千万人。
莫言在这个小说中,描写了一个在农村从16岁就开始担任妇产科医生的女性的一生。在国家提倡人口增加的时代,因为她让孕妇安全地接生了一万个孩子,而被称为神手。不过,在推行人口抑制政策的时代,按照共产党的方针,她得给怀第二个孩子的孕妇堕胎。相信孩子越多幸福越多得农民都视她为恶魔。
还有一个主人公就是这个女医生的甥儿。他当了军人,妻子想要第二个孩子,事先没告诉他结果怀孕了。姑姑不允许亲属的甥儿夫妻违背政策,他也作为军人考虑到自己的前途,而让妻子堕胎。妻子在堕胎手术中死亡。他再婚,不过,新的妻子不能生孩子,于是他复员以后就偷偷找人代孕得了个孩子。将来,他想像现在中国有钱人一样,用钱为孩子买户口。
到现在为止对中国作家来说,以独生子女政策为题材写小说是罕见的。加上在故事中,莫言写了中国共产党干部的腐败,新兴富裕层的贪得无厌地欲望追求。这部小说中莫言在从正面提出现在中国存在的问题同时,以自己特有的幽默丰富的表现手法展开故事,使这个小说成为了一部满着了人情味的文学作品,很有趣。
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莫言の「蛙」を読んで
明けましておめでとうございます。毎度お読みいただき有り難うございます。今年もよろしくお願いいたします。
莫言の蛙を原文で読みました。人民共和国が成立した1949年、中国の人口は5億4千万人でした。その後、人口は国家資本の重要な一部だとする毛沢東の方針によって、文化大革命が終わって間もない1981年には10億人を突破しました。その間1960年と61年には、飢饉によって数千万人の餓死者が出たとされています。その後1979年から一人っ子政策が取られて増加の速度が抑えられ、現在人口は13億4千万人になっています。
莫言のこの小説では、16歳の時から農村で産婦人科医を務めた一人の女性の生涯を描いています。彼女は産めよ増やせよの時代には、妊婦を安全に出産させる神の手を持つ医者と崇められましたが、人口抑制政策の時代には、党の方針に従って第二子以降の堕胎に励んだため、子供が多いほど幸せになれると信じる農民からは悪魔のように思われました。
もう一人の主人公は女性医師の甥です。彼は軍人になりましたが、妻が第二子を欲しがり彼に断りなく妊娠してしまいます。叔母の医師は、身内の甥に法律を破ることを許さず、彼もまた軍人としての出世欲から法を曲げられず、妻に堕胎させ、妻は堕胎手術中に死亡します。彼は再婚しますが、再婚した妻は子供ができなかったため、軍から退役後法律に隠れて代理出産で子供を設けました。将来は、現在の中国の金持ちがしているように、お金で子供の戸籍を買おうと考えているのです。
これまで中国の作家が、一人っ子政策を題材にした小説を書くことはタブーでした。小説の中では、中国共産党幹部の腐敗、新興富裕層のあくなき欲望の追求が書かれています。莫言はこのような現在の中国の抱えている問題を正面から取り上げながら、一方彼特有のユーモア溢れる表現と物語のダイナミックな展開で、この小説を人間味溢れる小説にしたてています。