2020年5月30日(土)
日限り日記

 [自家整髪]
 外出規制が緩和されたら床屋に行こうと思っていたが、その時期になって行きつけの床屋の近くの病院で3日連続入院患者、看護婦、事務員などにコロナ感染者が出たので行きにくくなってしまった。
 髪の毛の方はこれまで3ヶ月近くほったらかしである。改めてどこに出かけるわけでもないがさすがに限界になってきた。というわけで妻の助けを借りながら自分で整髪することにした。
 ブランド品の電気バリカンは電気量販店では売り切れである。それを聞いて娘が新聞の広告を送ってくれたがどれもアイデア商品のようでもう一つ信頼が置けない。それと多分規制が解除されたら元通り床屋に行くだろうから先々使わないものは買わない方が良い。
 取りあえず手元にある道具でやってみようということで用意したのは電気カミソリ、はさみ、櫛、鏡、エプロン。場所は庭の芝生の上、髪の刈り屑は芝刈りと同時に整理してしまう魂胆。
 電気カミソリのもみあげを切る歯が意外に有効で、はさみと使い合わせてなんとか形が整ったようだ。今床屋に行ってきましたという形にならないだけこの方が自然で良いかも知れないとおっかなびっくり切っている妻に言う。床屋に言ったらもうやってやらないと嫌がるでしょうね。
 
 
 嫁ぐ家は笹の紋章秋祝言
 
 
 
 

2020年5月28日(木)
日限り日記

 [スポーツ新聞]
 「日刊スポーツ」のweb版を愛読している。スポーツ報道の水準は高いと思う。一般紙は「読売」(「日経」も)を読んでいるからスポーツ紙は親「ジャイアンツ」であっては困る。「読売」は「ジャイアンツ」の機関誌だと観念しているが、それでも「ジャイアンツ」の選手の一本のヒットをよそのチームの投手のノーヒットノーラン達成よりも大きく報じるような紙面を毎日読まされると、頭がおかしくなってしまう。
 ところがweb版「日刊スポーツ」が最近「政界地獄耳」という欄を設けて政治の話を載せるようになった。コロナ禍でスポーツ記事が少なくなったからかも知れないが「政界地獄耳」以外にもとってつけたように政治の記事が多くなった。
 政治記事を載せるのはいいとしてその内容が非常にお粗末なのである。「地獄耳」とあるから特ダネや裏話があるかと言えばそうではない。独りよがりで掘り下げ不足な記事、親会社の朝日新聞の主張そのものである。朝日の反政府(反安倍)網の一環を担わされているのか。
 原点に戻って優れているスポーツ報道に徹して欲しいと投書をしようと思ったが、読者の意見を投書する欄はない。いやならば読むのを止めれば良いといことであろう。
 それではと言うので取りあえずweb版「サンケイスポーツ」に切り替えてみた。こちらは政治記事はなくもっぱらスポーツだけで勝負をしているのは良い(レベルは低い)が、スポーツ以外に女性の裸の写真が多い。女性の裸を避ける君子ではないが、ロリータ好みの日本の男性におもねるようなポースをした写真が多いのはいただけない。どうせ載せるなら男を見下すような強く美しい女性にしてほしい。
 注文ばかりしているようだが、良いスポーツ紙がなくて困っているのです。
 
 元気になれる歌の一つの紅蓮華
 
 
 

2020年5月26日(火)
日限り日記

 [続アイガー・メンヒ・ユングフラウ]
 前回5月22日版で友人から次のようなメールが来たことを紹介した。「貴著「ベルリンからの手紙」を読み返した。もし改訂されることがあれば「ミューレンでユングフラウやアイガーを東から眺めた」というのは「西から眺めた」とするか「東方に眺めた」とすべきではないか」。
 地図で見ると確かにミューレンは三山の西側にあるので、準拠した原典の著者の佐貫亦男氏の勘違いかも知れない。アルプ五十年の佐貫氏がご存命なら反論があるかも知れないが、と返事をし、ホームページにも掲載した。
 やがて、親しい知り合いからメールが来た。
 「私もスイスには興味があり、ユングフラウやマッターホルンにも行ったことがあるので、貴著のここの記述は何回も読んでいます。ご友人のご指摘も、そうかなとは思いますが、ここでは、ミューレンが主語で、三山をミューレンの東斜面から眺めた、ということではないかと思います」。
 なるほど。
 有名なミューレンで西から三山を眺めるのでは当たり前すぎるわけですからね。原典の書き方が字足らずであったかも知れないが、そういう見方もありますね。
 死せる佐貫氏生くる山男を走らす。

 
 
 ミューレンの夏の野原に肘枕
 
 
 
 

2020年5月24日(日)
日限り日記

 [井波律子]
 井波律子さんが亡くなった。中国文学者の彼女の著作は「故事成語でたどる楽しい中国史」「三国志演義」「中国の隠者」「中国の五大小説」などを読んだが、いずれも内容は豊富だったが面白くはなかった。真正面から問題を捉えようとしているので手にするのだが真面目すぎるというか一杯一杯だというか。
 中国歴史文学には、吉川幸次郎、貝塚茂樹、(仏文学者の)桑原武夫など余裕を持った人がいて読者も煙に巻かれながら中国4千年の歴史と文学を学ぶといった雰囲気があるから、井波のような堅物は貴重ではあるが敬遠されがちなのではないか。
 それでも私は井波律子の「完訳論語」は好きだった。論語では、安井小太郎(明治時代に祖父が使ったもの)、金谷治、桑原武夫、宮崎市定、加地伸行、近くでは高橋源一郎の解釈本を持っているが、井波律子の論語の解釈、説明が一番しっくりくる。21世紀にふさわしい解釈をする。孔子を身近に引き寄せていて敬意を失わない。吉川幸次郎が孔子を「論評」したりするのはさすがにどうかと思ってしまう。井波の本は大判なのだが授業でもこれを持ち歩いていた。
 
 
  竹落ち葉寒山拾得散らす音
  
  
 
 

2020年5月22日(金)
日限り日記

 [アイガー・メンヒ・ユングフラウ]
 大学時代のクラスメートからメールが来た。
 「貴著「ベルリンからの手紙」を読み返した。もし改訂されることがあれば「ミューレンでユングフラウやアイガーを東から眺めた」というのは「西から眺めた」とするか「東方に眺めた」とすべきではないか」。
 「ベルリンからの手紙」は私が父親の半生について書いた本である。父は35歳で渡欧したが独ソ戦争勃発のため帰国できず病を得て39歳スイスで客死した。山歩きやスキーが好きだったのでスイスの山を大分歩いた。指摘されたところはその様子を父からの手紙や父の山友達の佐貫亦男氏の著書を参考にして書いた部分である。
 メールをくれた友人は若い頃スイスジュネーブに勤務していたときにスイスの山々を歩いたようで、この部分以外に対しても景色を眼前にしているような生き生きとした感想を書いてくれた。
 さて、実際はどうなのか。
 大分前に書いた本だが、資料は残っている。父の手紙、佐貫さんの何冊かの著書、何枚かのスイスの地図をテーブルに置いて検証する。
 まず佐貫亦男「アルプへ五十年」から。
 「このようにしてK(父のこと)と歩いた1942年の夏の旅はエンゲルベルクでティトリスを眺め、グリンデルワルトでアイガーを仰ぎ、ユングフラウヨッホでベルナーオーバーラントを大観した。ミュレンではユングフラウ、メンヒ、アイガー三山を東から眺めた」
 はっきりと、東から眺めた、と書いてある。
 次に地図を当たる。ミュレンとはどこか。MUERRENだとすればすぐ分かる。明らかに三山の西、友人の指摘が正しい。地図上ではほかにミュレンあるいはミューレンに当たりそうな場所は三山を望めるあたりには見当たらない。
 父の手紙にはそれらしい表現が見当たらないから、佐貫氏の記述を使わせてもらったのだと思う。私自身も本を書くに当たって出来るだけ父の通った研究所、工場、大使館、休日を過ごした場所、病院などを現地踏査したが、旅行者としての急ぎ歩きではっきりとした記録が残っていない。
 アルプ五十年の佐貫氏に聞くのが一番だが逝去されている。佐貫氏はスイスの山々の位置関係についても詳しい手描きの地図を残されているので、生きておられれば一言ありそうなところなのだが。
 ということで、ここは友人の指摘を有り難くいただき、次の機会に直すことにしよう。このほかに新しい資料も見つかっているので、改訂第4版を出す機会があれば嬉しいのだが。
 
 アイガーの東方遥か日本の夏
 
 
 
 

2020年5月20日(水)
日限り日記

 [錦繍」
 宮本輝「錦繍」を読了。
 離婚して10年後偶然出逢った元夫婦の取り交わした手紙だけの小説。
 なぜ離婚したのか、離婚した後の生活は、死と生の区切りとは、死んでゆく自分を見つめるもう一人の自分、人を殺したり自殺した人間は生まれ変われないという寓話、モーツァルトなど。
 元々行きがかり上離婚したような二人だが、振り返ってみれば離婚したからこそ陰翳彩なす人生が待ち受けていた。
 お互いに出した7通の手紙で織り出される人生模様。人生は偶然の織りなすものと思われるが、実はこの行き方しかなかったのかも知れないと思わせられるような小説。少しぼやっとしたところがある小説だが「錦繍」という題を得て内容が明確になった。
 宮本は34歳大病の後この小説を書き小説家としてやっていける自信を得たとのこと。同時代に彼を識っていれば、34歳でこれだけのことが書ければきっといい小説家になるに違いないと見通せたかも知れない。
 ところで自分が妻以外の女性と手紙をやりとりするとしたらそれは今から50年以上も昔の人。やってみたい気もするがお互いその後の生死すら分かっていない霞のような話。「錦繍」は二人それぞれの未来についての光も感じられるがさて我々は。
 
 
 五月雨の滂沱の雨の三日間
 
 
 
 

2020年5月18日(月)
日限り日記

 [政治家の芸]
 「文藝春秋」の巻頭随筆では毎回塩野七生のイタリアの近況が面白い。
 ところで今回のコロナ禍騒動ではイタリアのジュゼッペ・コンテ首相の演説が一番面白かった。外出禁止、飲食店閉鎖を発動したときは、国民に私に命を預けよというような声涙ともに下るような大仰な演説をしたかと思ったら、解除するときはこのままでは成り立たない国民の不自由な生活を私が解除してあげると手のひらを返した言い方である。まるで閉鎖と解除では違う内閣であるかのような印象だ。
 あれだけ死者を出しながら、いや出したからこそか明るく言ってのける。日本の政治家には出来ない芸当だが深みはない。
 同じヨーロッパでもドイツのメッケル首相は科学者だけあって諄々と説き起こす。ドイツは死者こそ多いが人類としてやるべき戦いを戦っているというプライドを国民に持たせる。日本の政治家には出来ない至芸である。
 結局首相も国民の幅の中にしか現れない。
 防疫体制では日本はドイツに比べてはるかの劣ることを認識させられた。結果として医療の面でも「追随と増長」(追いかけて追いつくとすぐに増長する)にあった日本人の慢心の鼻を折るには良い機会になったが。
 日本は外出自粛下死亡者数が極めて少ないコロナ禍克服の成功国(今までのところは)でありながらその理由が説明できず、かえって海外からPCRなどの検査体制の不備にもかかわらず結果オーライの不思議な成功国などと揶揄されて勝ち組気分になれない不満が国民に鬱積した。死亡者数が少ないという何よりも勝る結果を堂々と誇るべきだと思う。
 
 
 筍を煮る大鍋の大雑把
 
 
 
 

2020年5月15日(金)
日限り日記

 
 [流転の海]
 「流転の海」(宮本輝)全9巻読了。
 大河小説だかゆったりとした流れもある小説ではない。急流で波乱に富み休むところのない河、松坂熊吾という男の一生である。
 波乱に富む事柄は全て彼が巻き起こした事件である。あるいは彼がいたからこそ持ち込まれた事件である。彼の決断の基準は正義、義侠心。義侠心に富み、移り気で新しい事業の好きな男の一生である。
 9冊に及ぶ大部な本だが、「ジャン・クリストフ」とか「チボー家の人々」のような大河小説と異なり大小の生臭い事件の積み重ねである。その点では母親上官魯氏と9人の子供、なかんずく唯一の男の子の上官金童を書いた莫言の「豊乳肥臀」に比肩できるかもしれないが、こちらは中国という国家のドラスティックな変遷に翻弄される一家の物語であるのに対して「流転の海」は場所も四国愛媛県南宇和郡一本松村と大阪、せいぜい城崎であり、あくまで松坂熊吾一人の物語である。時代の波は受けているがそのときどきの新聞報道が書かれているぐらいで、主人公が本当に時代に揉まれて生きたことが実感できるのは一人息子が多くの朝鮮半島の人と暮らした蘭月ビルでの生活、息子の友人知人が北朝鮮へ帰国して行くくだりあたりだけである。
 つまり「流転の海」は松坂熊吾の生き方、問題解決の仕方を楽しむ物語となっている。
 この9部作は37年かかって書かれたという点で類書のない珍しい本である。いくつかの物語がうねりのように二度三度現れては転調してゆく。主題が形を変えて現れる交響曲のような響きを、読んでいる最中も読んだ後も楽しむことが出来る。
 しかし、私にはこの小説は第1巻こそ類を見ない力があったし次第に減じて行くとは言え第8巻までは力強い筆致もあり強く惹きつけられたが、最終章の第9巻は巻を置く能わずという心理情況にはならなかった。
 主人公の老いに合わせて作者が老いてゆくことの良さもあるだろうが、最後は主人公の死に合わせて作者の筆力も力尽きたかと思わせた。それだけ作者の力を出し切った小説たと言えるのだろう。
 
 
 花束の一束流転する海へ
 
 
 
 

2020年5月12日(火)
日限り日記

 [診察延期交渉]
 横浜労災血液内科に電話、5月の診察を8月に変えてもらった。
 事前採血は8月に変更できない、採血するかどうかは8月受診時の医師の指示によるとのこと。当日事前に血液検査をしてその結果を聞くというのが今までの決まったやり方である、事後に検査をするのは不合理はないかと言ったが、事前採血は延ばせないという前提でのみ診察を延期できるとのことなのでしぶしぶ了承した。
 予約変更はさせないと嫌がらせをやっているとしか思えない。
 患者だって好んで予約を変更するわけではないと思いやる気持ちがない。
 やはり競争の少ないお上の系統の病院だ。
 予約変更をすれば自動的に事前採血も変更となるのが当たり前だと思うが。
 
 次いで、慶応病院泌尿器科に受診の延期と処方箋の発行をお願いする。オンライン診療を受けてくれれば受け付ける。よければ病院の医師から電話するということだったので電話を待っても来ない。再度電話したら同様の患者が多く今日は間に合わないのだそうだ。
 翌日医師から電話あり、変わりなければ従来通りの薬を90日分処方します、次回は8月、事前検尿を入れておく、処方箋は家に郵送するとのことだった。
 いかにも大量の患者を扱うことに慣れた商業病院という感じだがこれでいい。遠隔診療が出来るのなら今後わざわざ1時間以上掛けて通院することはないかも知れない。医者に顔を合わせる時間はどうせ1、2分なのだから。病院の受診方法も今後変わっていくかも知れない。
 
 
 経師屋の糊の香りや夏の風
 
 
 
 
 
 

2020年5月9日(土)
日限り日記

 [コンボルブルス]
 我が家の唯一の自慢のコンボルブルスが花盛りである。
 コンボルブルスは、地中海沿岸地方を中心に世界に200種余りが自生。形態は一年草、多年草、低木とさまざまで、つる性のものも多く見られる。日本に自生種はなく、セイヨウヒルガオ(ヒメヒルガオ)とよばれる帰化植物である。ヒルガオによく似た、漏斗形の大きく開いた花を咲かせ、1花の寿命は2~3日くらい、雨天や夜間は閉じる。
 我が家のものは多分コンボルブルス・サバティウス(Convolvulus sabatius)。
 常緑の半耐寒性多年草。4月から6月に花径2cmくらいの青い花を咲かせる。茎は這うように横に長く伸び、マット状に茂る。別名ブルーカーペット。 
 育て方は我が家の場合は、花の盛りが終わると思い切ってカットしてしまう。また伸びようとするが年内いっぱいはカットしてしまう。それだけである。


  西洋ヒルガオスケートボード子供のこどもたち


  
 

2020年5月7日(木)
日限り日記

 [読書欄]
 読売新聞の読書欄で気になった本。
 ・「土を喰う日々」水上勉 新潮文庫
 ・「今昔物語 本朝世俗部上下」角川ソフィア文庫  
 推薦者は原文でも慣れれば読みやすいと言っているが、家に福永武彦の現代語訳がある。読んでみよう。
 
 ・「雲のカタログ」(草思社1900円)
 面白そうなので注文したが、なかなか入手できない。
 
 ・「荻窪風土記」井伏鱒二 新潮文庫
 注文したが、まだ入手できていない。
 前に大学クラスメートの句会で、友人が
 “阿佐ヶ谷に太宰と鱒二夕時雨”
 を出した。少し古い話ではないかと評してしまったが言い過ぎたかも知れない。
    
 ・「たわむれ」アントン・チェーホフ 未知谷
 絵付きらしく価格が高いが欲しい。チェーホフは本当に短編がうまいそうだ。レイモンド・カーヴァーの傑作「使い走り(Errand)」はチェーホフの死に際についての小説で、短編の名手が短編の名手について書いたもの。「たわむれ」とは関係ないが。

  なお今週の「週刊新潮」(ゴールデンウィーク特大号)では5人の評者が5冊ずつ本を推薦している。なんと25冊のうち読んだ本が1冊(「御社のチャラ男」)であとは1,2冊除いて名前さえ聞いたことのない本ばかり。隠れた良書を推薦する欄かもしれないが自分の知識のなさを恥じた。
 
 
   木は躑躅草は百花の五月かな
 
 
 

2020年5月4日(月)
日限り日記

 [ポストポスト投函]
 答案用紙を提出した瞬間に誤りに気づくというのは私の前からあった癖だと思う。
 この癖はいまでは、俳句の投句を郵便ポストに投函した瞬間によりよい推敲案を思いつく、という形で残っている。
 投函した後では手遅れなので、葉書に書いた瞬間にいい推敲案を思いつくというように癖を慣らしている。これならば葉書を交換する代金5円の損で済む。
 しかし、最近困った問題が起きた。知り合いの人が最寄りの郵便局に局長として赴任して来たのである。私服制服の違いがあるしあまり親しくはないので遠目で彼だと断定は出来ないがまあ彼に違いない、若いのにあれほど頭が薄い人はあまりいないから。
 その知り合いは同じ俳句の句会の人で、最近入ってきたのだがたちまち主宰の特選を取りまくっているようなとても上手な人だ。
 この人に沢山の失敗作の葉書を交換してもらうのを知られるのは恥ずかしい。失敗した俳句は黒で塗りつぶして見えないようにしたが、それでも恥ずかしい。しかたがないから葉書の交換は少し離れた郵便局でやることにした。
 
 しかし、最近徐々に投句が葉書ではなくwebでするように決められてきつつある。そうなるとクリックした瞬間に送信されるから手の打ちようがない。もはや癖を愉しむような悠長なことは出来ない。
 

 投稿は一句一葉糸柳
 
 
 
 
 

2020年5月1日(金)
日限り日記

 [電子書籍]
 「流転の海」2巻を読み終わったが、3巻4巻は出版元にも在庫がないとのこと。中古か電子書籍によるしかない。
 ネットで中古に当たったら同じ古本屋で第3巻、第4巻があった。しかし送料は350円×2冊になるとのこと。先方にはそれなりの言い分があるだろうがそれでは同じ本屋から買う意味はない。金額のことでなく気分が面白くない。
 今回は取りあえず第3巻をすぐに読めるということもあり電子書籍キンドルで購入した。Androidであればスマホ、タブレット両方で読める。活字の大きさも画面の明るさも調整できるので、文庫本より読みやすい。ただ読んだ本として書棚に残らない。どの程度進んでどの程度残っているか、読み終わった量は%で表示され、これから読み終わる時間が表示される。それらを良しとするか悪しとするか。
 
 コロナに罹りました皐月職人