[緊迫の17日間-その2]
昭和の大戦争時代、軍は兵器を強化するために軍需産業に対して高品質で安く大量に生産する体制を確立することを要望していた。このため軍需物資を作る工場に監督将校を常駐させるなどをしていた。
ある民間会社ではこのような軍の要望に応えて、航空機用のアルミニウム製品(航空機用板材、プロペラやエンジンの鍛造品)の大量生産技術を導入するためにドイツに技術者を派遣することになった。
私の父はアルミニウムの鍛造の技術者で、当時航空機の金属プロペラの開発に取り組んでいた。
彼は社命でドイツに4ヶ月の出張を命じられた。目的はアルミニウム鍛造技術の取得と3000トンクラスの大型鍛造機械の購入である。
昭和16年5月20日栃木県の工場発、29日日本統治下の満州国大連発、6月2日満州里でシベリア鉄道へ、6月5日シベリア鉄道クラスノヤルスク駅(一人で息子の誕生日を祝う)、6月8日モスクワ駅、6月10日ベルリン着。
ドイツが日本に対して6月22日ソ連に向けて開戦宣言をすることを6月5日に通報してきたことは全く知らない。
つまり、それを知った陸軍技術視察団が一斉に引き上げたかあるいは引き上げようとしているその時期のベルリンへ何も知らされていない民間技術者はのこのこと入っていったのだ。そして入国12日後に独ソ戦が勃発し、シベリア鉄道が閉鎖されて帰国できなくなった。
民間技術者は軍の要望により渡独したのであるが、もちろん軍の命令ではなくあくまで企業の判断ではある。しかしその後も彼らは「在独日本帝国大使館付陸軍武官事務所」の管轄下に入って、知り得た知識を会社とともに軍にも報告している。そのような民間会社の人間に危機管理のための情報は全く与えられていなかった。それが官民の関係の実態であった。
会社社長は開戦を知ってうろたえる技術者に、踏みとどまって落ち着いて初期の目標を果たすようにという訓令を打った。
帰国不能の間、空爆による住居環境や食糧事情の悪化もあり父は結核を発病して、遂に帰国できなかった。
黒き森から揚羽蝶東へ
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