[俳句は入門できる]
俳句の善し悪しは選者によって違う。
高浜虚子時代は、善し悪しは虚子が選ぶかどうかにかかっていたが虚子のあとは指導者が乱立して指導者の数だけ俳句の善し悪しの基準も増えた。
毎週日曜日のNHKの俳句の番組を見ていてもそう思う。選ばれる句は選者によってが実に異なる。
私としては番組の今の選者の中では、長嶋有の選らんだ俳句が新鮮だし面白い。ほかの選者にはない句が選ばれる。多分長嶋有好みの投句がなされるのだろうけれども。
ということで長嶋有の句集「春のお辞儀」を買って読んだが、これがつまらなかった。面白い感じ方をする人、面白いことを面白がる人、面白がらせようと努める人である(池田澄子)ことは分かったが、どうだ面白いだろうと言われているような句ばかりだ。選者としては人の選ばないような選び方をするので面白いが、作者としては目立ちたがりすぎるということか。
俳句は所詮「わざわざ作る」のだが、わざわざ人の気がつかないところを探し回って作るばかりでは、読み手が疲れてしまう。
しかし今回「俳句は入門できる」という長嶋有の本が出たので買ってみた。立ち読みして「俳句は一人でも出来る仕組みだ」という一行に惹かれて買ったと言って良い。
私はいまやささやかな知的競争である「句会」の競争にさえも疲れて、一人で作って楽しめるかという問題意識から先週は「日曜俳句入門」という投句だけで俳句を楽しむ本を買った。「俳句は入門できる」を買ったのも同じ心境からである。
しかしこの本は得るところはなかった。
わずかに
・こんなの詩ではないという言葉は嘘。詩はその人が詩だと見なしたものはすべて詩。
・俳句はわざわざ作るもの
・俳句は一人で作って楽しめるが、バッティングセンターでボールを打つ楽しみでしかない
などが気になったフレーズ。
選ぶ句は相変わらずよい。
凧ひとつ浮かぶ小さな村の上(飯田龍太)
切れ凧のなほ頭を立てて流さるる(鷲谷七菜子)
降りてくる凧の目玉の勇ましき(山科誠)
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