2019年12月27日(金)
日限り日記

 [2019年の本]
 2019年の3冊でインターネットイニシャティブの会長の鈴木幸一さんが「日本の小説が面白くないわけではないが、記憶に残る小説や読み物はほとんど海外の作品、として海外の作品を挙げていた。ミロスラフ・ペンコフ「西欧の東」、エイモア・トールス「モスクワの伯爵」、「オルハン・パムク「紅い髪の女」。
 鈴木さんは今年日経の「私の履歴書」に履歴を書かれた人で、ネット社会の事業を自分で切り開いた人でありながら実業界の人の書く自慢話に陥らず謙虚で、面白かった人である。
 私も最近は長編小説を読めなくなってしまったので日本の小説に転じているが、鈴木さんお気持ちは分かる気がする。ガルシア・マルケスの「百年の孤独、」莫言の「豊乳肥臀」のような作品は日本で出ないものか。とくに最近のように社会がグローバル化している現在、変化の少ない日本社会のことを書いても読者の生活と離れてしまう。
 鈴木さんの薦める本の翻訳発行所は「白水社」「早川書房」である。こういう会社があるのは素晴らしいことだと思う。
 
  煤払ひ煤の目玉となつてをり
   
 
 
 
 
 

2019年12月24日(火)
日限り日記

 [クリスマス音楽会]
 団地の自治会館にクリスマスコンサートを聴きに行く。出演者は、バイオリン平松可奈、パーカッション(ドラムス)海沼正利、ピアノ進藤陽吾で、立派なプロのミュージシャンだが海沼・平松夫妻が我々の団地に住んでいるご縁で出演となったとのこと。
 海沼・平松さん宅は我が家ははす向かいなので、日常良くご挨拶をする。海沼さんは毎日のようにワンボックスカーにドラムスを積んだり下ろしたりしている。演奏会場と曲目によって一番ふさわしいドラムスを選んで運ぶのだそうだ。彼は楽器に関心があるので持ち物が多く、ずっと一軒家に住んで楽器の隙間で寝起きしているとのこと。
 時々バイオリンやドラムの音が漏れてくるのでこの向こう三軒は団地の中でも、ちょっと文化的な場所である。海沼さんは横浜ジャズフェスティバルで遠目に拝見したことがあるが、目の前でトリオの演奏を聴いたのは初めてだった。
 音楽はすべてジャズにアレンジされている。バイオリン中心のジャズというのは昔レコードを聞いたマイルス・デービス、ソニー・ロリンズ、ミルト・ジャクソンなどの活躍していた時代にはなかったことだ。やはりサックス、トランペット、ベース、ピアノ、ドラムスなどのジャズの方が私には馴染み深いが、バイオリン中心のジャズもそれなりに良いと思った。なにしろ目の前の演奏なので迫力がちがう。
 クリスマスソングはジャズ風でなく普通に演奏をしてくれたので聴衆も参加しやすかった。聴衆は50人ぐらいだっただろうか、賛美歌もほとんどの人が唱和できていた。賛美歌はポピュラー音楽並みに人口に膾炙している。歌えばなんとなく神の慈しみのもとにある気にさせられる。まあわれわれは八百万(やおよろず)の神の民草(たみくさ)であるからに。
  
 
  煤逃(すすに)げの混声賛美歌合唱団
 
 
 
 
 

2019年12月22日(日)
日限り日記

 [輓曳(ばんえい)競馬]
 オリンピックの聖火が回る場所が発表された。それぞれに意義のある場所なのだろうが、ただ一つ私が異議を言いたいのは輓曳競馬場である。
 動物だって強さを誇示したいのだ、馬も喜んで競っているのだという人もいるが、私には動物虐待以外の何物でもないと思える。あんな重いものを曳かされて後ろから渾身の力で鞭を打たれる。何にも良いところがない。日頃から輓曳競馬はやめて欲しいと思っていたところに、それがオリンピックの聖火が回る場所に指名されたというので、びっくりだ。指名を外して欲しい。
 
 輓曳競馬ほど愚劣なるもの知らず
 
 
 

2019年12月19日(木)
日限り日記

 [祖父のノート]
 前に最相葉月の作品やエッセイが好きだと書いたが、星野博美も好きである、なんというかその生き方、行動力が自然でよい(最近は作家の柚月裕子をはじめ多くの分野で女性の方が力があると思う、と言うか私は評価している)。
 その星野の話(読売新聞12月17日、一部を抜粋)。
 「祖父は自分の人生をつづった手記を書き残した。祖父が書き残さなければ永遠に誰も知らない物語だった。何かが残っていれば、常日頃から話題にして家族と共有し、記憶を強固にすることができる。その結果、祖父は半永久的に生き続けている。最近父が「俺も書きたいと」言い出した。大賛成だ。」
 最相葉月が父が残した日記を、読みましぇーん、自分で始末をしてくれたら良かったのに、と言っているのと真逆である。
 その人の考えにもよるが、家族の歴史や残された人の構成によっても違うのだろう。
 私もやりたいようにやって、後は次の世代に任せるとするしかない。私が祖父や父のノートを抱えてどうすべきかうろうろしているように、後生の人もすまないが私の文章を持ってうろうろしてもらうしかない(基本は一読して貰えればすぐ捨ててもいい)。
 
 
 母の逝き猫逝き年の二度進み 
 
 
 

2019年12月16日(月)
日限り日記

 [漏水補償]
 水道管の水漏れ工事を終えた工事屋が判を押して送っておくようにと書類を置いていった。タイトルは「修繕工事届出書」送り先は水道事務所地区センターとある。
 まもなく地区センターから電話があって漏水の伴う水道料金の減額が決まったという連絡があった。それによれば、我が家の前月の水道使用量は48立方メートル、今月は50立方メートルで2立方メートルを漏水によるものと認定し872円減額するとのこと。
 私の家の漏水場所は自分の家の中で私の責任によるものだが、それでも補償されるのでしょうかと聞いたら、漏水は個人で注意しても気がつかないうちに起こるので補償するのだとのこと。横浜市水道条例で決まっているのだという。
 横浜市の水道は、わが国最初の近代水道として明治20年(1887年)10月に給水を開始した。それから長い時代を経て、技術はもとより制度も進んできたのだろう。漏水補償制度も歴史の積み重ねによるのだろうが、言われるまでは知らなかったし、知った後も今のような財政緊迫情勢下で続けておくべきかどうか疑問に感じた。
 有り難い制度ではあるが、低所得者対策として支給者を限定することの方が一律支給よりも適切ではないかという気がした。
 水道ばかりではない。後期高齢者医療費負担率1割など温かいサービスを広く行うのは、財政を考えれば我慢して本当に困っている人に集中的にと思うが、国民が共感しないと政治は選択しにくいだろう。
 
 
  数え日に数えるまでの日となれり
  
  
  
 

2019年12月13日(金)
日限り日記

 「令和に読み継ぎたい名著「わたしのベスト3」」
 今月の文藝春秋に15名の推薦する本が載っているので読んでみた。
 ある人は本多勝一の本のみ3冊推薦しているなど偏りもあるが、総じていずれも面白そうだ。
 45冊中私が読んだのは「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)、「舟を編む」(三浦をしん)、「博士の愛した数式」(小川洋子)、「約束された場所で」(村上春樹)、「「石光真清の手記」の一部、「想像ラジオ」(いとうせいこう)にしか過ぎない。
 この45冊に共通しているのは太平洋戦争に関係する本が11冊と多いことだ。例えば「戦場の博物誌」(開高健)、「望郷と海」(石原吉郎)、「おとうとものがたり」(やなせたかし)、「逸見小学校」(庄野潤三)、など。
 共に苦労を重ねて育ち22歳で戦死したとおうとを詠んだやなせたかしの詩。
 
 君のかわりにやるとすれば
 ぼくは何をすればいいのだろう
 おもいでの中の弟は
 まだとてもちいさくて
 びっくりしたような眼をみひらき
 「お兄ちゃん、わからないよ」と恥ずかしそうにいった
 (墓前で)
 
 には心を打たれる。
 私は私の父が29歳で戦死した弟を悼んで書いた痛切な文章を大切に持っている。父もまた戦死ではないが戦争が原因で死亡している。
 我が家の戦後は私が死ぬことで終わると思うが、日本国の戦後はまだまだ終わらないことがわかる。もちろん日本軍によって親しい人を殺傷されたアジアの国々の人にとっての戦後もまだ終わらない。我が国には被害国から何度も謝罪させられるのはたまらないという気持ちを持つ人が多いが、肉親を戦争で失った人の心は思いやらないといけないだろう。
 
 この45冊の中で東日本大震災に関する本は「福島第一原発収束作業日記」のみである。まだ定まっていないということだろう。
 
 我が死まで我が家は戦後開戦日
 
 

2019年12月10日(火)
日限り日記

 「小学5年生」
 柚月裕子の「あしたの君へ」を読む。家庭裁判所調査官補として研修中の主人公の奮闘と懊悩。
 今までの検事ものに共通する正義感が爽やか。
 小学校5年生の孫が学校が臨時休校だということで勉強に来る。まずベランダの柱をよじ登って二階に上がる運動から始めたが、私は一階の天井裏に上げて先日水道屋が直した水道管の様子を見させた。子どもにとって天井裏は面白いはずなので。
 小学校5年は私が父を亡くした年である。自分の当時はこの程度であったかとしっかり確認する。私の小学校の成績表・身体検査表が残っているので孫の成績や身体と比較する。身長体重はほぼ同じ。少しやせっぽちなことを気にしている孫は、安心したようだ。
 塾の試験の見直しをするというので付き合った。
 良く出来ているが時間が足りなくてお終いの方の問題に移れないとか、「適当でないものを選べ」を「適当なものを選べ」ととりちがえるなどは隔世遺伝か。
 島の図形を示して「佐渡島」「対馬」「種子島」「屋久島」を選ばせる問題は地図が好きな祖母の勝ち。算数は、代数は祖父の勝ち、図形問題は孫の勝ち。
 
 不機嫌な少年たりし餅も搗き
 
 
 

2019年12月7日(土)
日限り日記

 [水道屋親子]
 午後一階のトイレの壁の中から水の漏れる音がしてあっという間にトイレの床と廊下に水が流れ出してきた。取り急ぎ水道の元栓を閉めて水を止めた。
 壁の中だと大工に頼むのかと思い大工に電話したら今遠くにいて行けないと言う。そこで近所の水道屋に電話したが作業者が仕事で出払っていていないと言う。
 水道屋仲間で来てくれそうな業者を当たってみてくれないかと頼んだら、お困りでしょうから手を打ってみますとのことだった。
 やがて電話をした水道屋の作業者が作業に行く途中を引き返して見てくれるということになった。
 見てくれたところ二階の洗面所に行く鉄製の水道管にピンホールが出来てそこから漏水しているのだと言う。
 二階に行く水道管には地面に専用のバルブがあるのでそれを止めれば一階の水は使えるということで、専用バルブの場所を教えてくれた。
 そして小穴の開いた鉄製の水道管は使わないことにして、その脇に新たにポリブデンの管を取り付ける修理が2時間ほどで完了した。水道管には鉄管、銅管、ビニール管、ポリブデン管などいろいろあるがそれぞれを結合する専用の継手が出来たので、作業が楽になったとのこと。
 作業をした人は「初めに電話を受けたのは私の父親で創業者なのですよ。もう91歳になっていて住所を聞き違えたり応対を間違えるし、いまだにもっていろいろ仕事のやり方の指示をしてくるし、困ってしまう。今後なにかあったらこの携帯に電話してください」と言った。
 いやこちらとしては、それはお困りでしょうと言ってすぐ対応してくれて、とても嬉しかったです。お父さんの受付は、実に見事でしたよ。
 
 
  水道管突き破りしは冬の水
 
 
 

2019年12月5日(木)
日限り日記

 [一句を以て追悼する]
 私の叔父(父の弟)は1939年ノモンハン事変で戦死した。大学を卒業して2年後に応召、2年後に29歳で戦死。
 以下は叔父の部下だった人が両親へ送ってくれた手紙の抜粋である。叔父は小隊長だった。
 「8月26日の朝。敵(ロシア軍)の自動車は我が方に向かって走ってくる。このままでは友軍の陣地を発見されてしまう。敵が50メートルぐらい近づいたとき、小隊長は射撃命令を下した。敵の数は2,30はあったらしかった。小隊長は一個分隊のうち4名の兵を引き連れて突撃した。三人を斬り倒し四人目の敵に斬りかかったとき敵の撃った拳銃の球に当たった。
 小隊長を助け壕に戻り傷の手当てを済ませた。その晩とうとうこの世の人でなくなった。小隊長は「俺の親に俺はお国のために笑って死んだと手紙を出してくれ」と言われた。小隊長殿のご両親よ、小隊長は実に立派な戦死をなさいました。どうぞご安心ください。軍人が命を捨てるのはお国のためです。」
 このほかに部隊長、中隊長の手紙もあるが、死亡したときの状況は上の手紙に尽きている。
 私はこの手紙を読んだときに、このままでは友軍の陣地が発見されてしまうと叔父が思わなかったとしたらどうだったのか、小隊の中で率先して敵に突っ込まなかったらどうだったのかと思った。ノモンハン事変は草原のなかのたかだか何キロメートルかの境界を争って日本兵の死傷率は76%、1万8千人を超える死者を出した戦だった。
 まるで犬死ではないか、と思ったが口に出さなかった。それではあまりに叔父が可哀相である。戦死に役に立った死と役に立たなかった死があるだろうが、それは死者は選べない。兵の一人一人の戦死が今の日本を作っていると思いたかった。
 
  戦死おほよそ犬死なりき草茂る  長谷川櫂句集「沖縄」
 は現実なのだろうがそうは思いたくなかった。
 
 今年は叔父に捧げる句が二つ出来た。
 
   死は一弾死後は百年終戦忌
   小隊長一人突撃流れ星
 
 
 
 

2019年12月2日(月)
日限り日記

 [日記の処分]
 ノンフィクションライター最相葉月の作品も好きだが読売新聞に載っている人生相談の回答も好きである。整然としていて潔くかつ情けもあるというところが。
 今日の日経新聞には「母の最終講義が始まった」という寝たきりのお母さんが身をもって自分(葉月)を鍛え教育していると思えるようになってきたという随筆が載っている。
 そのなかに気になる一節があった。
 家を整理していたら大量の大学ノートが出てきた。「独身時代の父の日記ではないか。なんで自分で捨てとかへんねん! 物書きの娘なら興味をもって読んでくれると思ったのか。そうは問屋がおろし大根、残念でした、読みましぇーん!」

 私には、祖父が師範学校の学生時代から教員時代にかけて残した大量のノートがある。父の大学時代のノートもかなりある。それをどうするか頭が痛い。特に明治時代大学進学がかなわず、独学や講習会をこまめに聞きながら数科目の教員資格を取っていった祖父のノートは捨てがたい。
 それと自分の日記。私は高校1年のときから日記を付け始め、途中中断はあるものの今も続いている。大学ノートや市販の日記帳がかなりの何冊ある。
 平成8年からはパソコンで付け始めたが、これを紙にプリントアウトしようと思っている。
 何のためプリントアウトするのか。後世に読みやすくするために。後世は読んでくれそうなのか。まあ読みそうもない。最相葉月と同じで、なんで自分で捨てとかへんねん! なんでパソコンから紙にプリントアウトなどするねん! となることは目に見えている。
 パソコンからプリントアウトすることはやめるとしても、自分の分身のような日記を自分で捨てることは到底出来ない。自分が死んだら日記は即捨てること可、と明確にしておいたらどうでしょうね最相さん。
 

 終年は卒寿や五年日記買ふ