2019年9月29日(日)
日限り日記

 [モンブラン]
 新宿一億人の俳句教室句会。
 高野フルーツで食事、ブックファーストで本を見る。小川軽舟の新しい句集(なかったが)、米澤穂信、東山彰良、柚木裕子の新作などを見る。
 句会は、一句特選、一句落選。
 
  野分あとそと抱き起こす女郎花
 は、そと抱き起こすと女郎花の組み合わせがいい。
 
  お転婆な野分姫去り龍田姫
 は、言い過ぎている句、とのこと。
 
 今日の日経は、モンブランのランキング。
 モンブランはケーキの一種。細い紐状に絞り出した栗のピューレと泡立てた生クリームなどで作る。
 一位は小布施堂の朱雀モンブラン、二位は銀のぶどうのモンブランローズ、三位はパティスリー・サダハル・アオキ・パリのマロン・フリュイ・ルージュ。そこで今日はいつもの追分団子でなく伊勢丹によってモンブランを買う。一位は本日分は売り切れだったので、三位を買う。
 これが想像した以上においしかった。妻にも大好評だった。甘党なのだからもう少し研究したらおいしいものが簡単に手に入るのではないか。
 ところでモンブランは、中国語表記は「蒙布朗(mengbulang)」。栗の味の茫洋とした感じが出ている表記ではないか(ちなみに山のモンブランは「勃朗峰(bolangfeng)」)。日本語の表記は「モンブラン」と例によって発音をカタカナで表記したもの。お菓子、スポーツ用語、セックス用語などはカタカナ表記で、今や完全に日本語化している。
 
 
  野分あとそと抱き起こす女郎花(おみなえし)
 
 
 
 

2019年9月27日(金)
日限り日記

 [長寿祝の挨拶]
 私の卒業した会社には中央と地方のOB会があって、中央のものは一定の社内資格だった人が集まる。現役も社長以下すべての役員が集まることになっている。社長は一応OBの人の意見を現役の人にお聞かせくださいと言うようなことを言うが、これは双方にとって面倒くさいものだ。少なくとも現役の時代の私はOBの言うことはあまり聞かなかった。だから今も要望しない。
 この会では長寿すなわち白寿、米寿、喜寿の人を祝うという行事がある。
 祝われた長寿の代表の人が挨拶をする。これが普通に長いですね。それでも言い足りないような雰囲気で終わる。聞いている方は乾杯のグラスを机の上に置き直して我慢して暖かく聞いている。長寿の人の挨拶だからこそ許されるのでしょうね。
 最近このOB会で異変が起きている。昔はほぼ全員会に入会したが最近は入会しない人が増えた。そして入会しても長くとどまらずに早々に脱会する人が増えた。
 昔政治学者のラスキが「国家」という本で、国家はほかの組織と同等の重みを持つ一つの組織に過ぎない、と言った(うろ覚えですが)。私は大学時代にそれを読んで、何を言っているのだろうといぶかしく思う一方、何か新鮮な考えに接した思いがした。
 国家が特別の組織ではないことなど今は当たり前のこととして受け止められていよう。近年人々は国家とか会社とかの組織には属していても束縛が多くいいことはないから出来るだけ距離を置いて自由でいたい、属して気持ちの良い組織以外には入らない、という人が増えたと思う。
 まあその気持ちも分かるが、定年までだと40年勤めた会社にすぐに別れて、何のつながりも未練も残さないというのも淋しい気もする。新しい地域とか趣味同好会の組織は厄介な付き合いもなく淡泊で良いが反面それなりにはかないものではある。国家も同じだろう。
 
 
 咲ききらぬ蕾の多し芙蓉枯る
 
 
 
 
 

2019年9月25日(水)
日限り日記

 [東京読売ジャイアンツ新聞]
 ジャイアンツがセリーグで優勝してからの読売新聞の馬鹿騒ぎには心底うんざりする。今日は阿部選手の引退が一面写真入り3段だ。スポーツ欄では「岡本弾、CS任せろ」。
 読売新聞社が東京読売ジャイアンツ球団を持っているのではなく、東京読売ジャイアンツが機関誌として読売新聞を持っているんでしょうね。
 そんなにいやなら取らなければ良いではないかということだが、他にないのです。朝日、毎日は安倍首相のやることはそれだけで反対だ。安倍の元では何ごとも反対という野党と同じ。これらの新聞の言い分を結んでみると、日本国をどのような国にしたいのか支離滅裂となる。無定見なお題目を毎日聞かされては身体に悪い。だから我慢して読売を取っている。
 それにしても読売はクオリティーペーパーを目指しているのなら、報知新聞と同列ではないもう少し品の良いスポーツ欄にならならないだろうか。スポーツ欄は朝日に丸投げしてはいただけないだろうか。それでは部数が落ちると思っているなら読者を馬鹿にしているのではないかと思うが、それとも読者はいまだに巨人・大鵬・卵焼き程度のおつむなのでしょうか。
 
 秋晴るる休戦協定線南北
 
 
 
 

2019年9月23日(月)
日限り日記

 [栗入りピラフ]
 久し振りに横浜西口に出た。
 パンツはウエスト88センチで頑張ってきたが短期間で太ったウエストをどうしても絞ることが出来そうもなく、穿くときに苦しい。そこで1年前に買ったパンツ2本を3センチ伸ばしてもらう。このブランドは値段はすこし高いが使用後の直しの費用がかからない。
 あとは何年か使って痛みの激しい枕を新調する。今更違う枕を使いたくないので今までと同じ商品を買う。5年前と同一商品を作っているのはあっぱれだ。
 昼食は資生堂パーラーへ。20分待ちだが、どこに行っても人が多くて待たされる。いつものエビシュリンプのサンドイッチを食べるために待ったのだが、しかしメニューに栗とキノコのピラフとあったのでそれを注文。次の俳句会の兼題が栗なので何でも栗に関するネタを仕入れたい。
 しかし栗は栗おこわはと違ってピラフには合わないみたいだ。ピラフに入っている油が栗の素朴な味と香りを消してしまうのではないか。
 横浜駅も横浜線も巨大な外国人に満ち満ちていた。今日はワールドカップのアイルランドとスコットランドの試合が新横浜競技場であるのである。スコットランドに行ったときにはこんなにむさ苦しい人に囲まれた気はしなかったがやはり人口密度の関係かそれともラグビーファンは普通の人よりも大きな人が多いのか。
 
 大相撲の優勝争い、プロ野球の優勝争い、ワールドカップラグビーとスポーツの優勝争いがたけなわである。そこに全英女子プロゴルフ優勝の渋野日向子が一日8アンダーで優勝争いに絡んできたので、この2日間はスポーツ観戦でてんこ盛りの日となった。
 
 スクラムの頭ひしゃげて栗きんとん
 
 
 
 
 

2019年9月21日(土)
日限り日記

 [高齢者支援]
 昨日地域の民生委員の訪問を受けた。
 今年から地域として高齢者に目配りをするために、75才以上の人の家を訪問して、日常生活の心配事を聞くということが始まったとのこと。
 我が家は幸い今目前に困ったことはないが、地域の高齢者支援策にどのようなものがあるか聞いてみた。
 さしあたって受けられそうなものは、月一回の食事会、20人ぐらいが集まるということだった。食事をして歌を歌うのだそうだ。この地域の実際の情報が得られるかも知れないとのこと。
 そのほかは、地区の「ケアプラザ」に行くと受けられるサービスが一覧で分かるとのことだった。
 将来は子どもの世話になるとしてもそれと並んで地区のお世話になることも十分にある。奥さんが倒れたときに地域のサポート制度に助けられたと知り合いが言っていた。
 食事会のように高齢者ばかりの社会に入っていくのはこの年になっても怯むものがあるが、怯んではいられないかも知れない。
 
 
 まづ空が秋に成り行くビルの街
 
 
 
 
 
 

2019年9月18日(水)
日限り日記

 [火取り虫]
 横浜西口にある信託銀行へ定期預金の切り替えに呼ばれたのだが、痴呆になっても家族が自由に預金を引き出せるという新しいサービスに勧誘された。これは自分よりも子どもが決めるべきサービスだと言って勧誘から逃れる。
 眼鏡屋へ、新しく作った眼鏡が合わないと話したら再測定になった。眼の状態は日により違うのだと言う。測定結果は、右目にある乱視を正しく矯正すると物の形がゆがんで見え、形を正しく見えるようにすると字がぼやけるというトレードオフがあるようだ。懸念していたよりも良くこちらの言い分を聞いてくれた。一度だけ無料でレンズ交換をすると言うので頼んできた。
 寿司清で寿司。寿司種はほどよい大きさだが、築地場外の本店と同じように、場所が広すぎて落ち着かない。一人で来るには東口の寿司政のようにこぢんまりした店が良い。
 東急ハンズで戸車とサッシュの目地を買う。目地はネットで買って失敗したのでしっかり実物を見て買う。サッシュの開閉部に目地を張らないといけないというのは家が古すぎるにほかならず悲しいことだが。いつも頼んでいる大工は歳を取った上に、この前仕事中に階段から落ちて怪我をしたとのこと、やれることは自分でやる。
 高島屋の眼鏡屋でここで買った眼鏡のネジの調整をしてもらう。今日は眼鏡を4個持ち歩いたため鞄が重かった。行きつけの洋品店でこの秋の紳士服の流行を聞く。飛んで火に入る虫のごとく、シャツを買わされる。危うくジャケット、パンツを買わされそうになったがこれは免れる。買っても着ていくところがないことを忘れてはいけない。
 
 数燈は訪なうてみん火取り虫
 
 
 
 
 

2019年9月15日(日)
日限り日記

  [三国志展]
 上野の国立東京博物館の日中文化交流協定締結40周年記念行事の「三国志展」へ。恐れていた長蛇の列はなかった。
 展示物は主として魏、呉、蜀三国時代の埋蔵物(玉、壺、俑、銅製食器、弩機、矛、剣、印、鏡、竹簡、釜、銭、鼎など)で、曹操の墓(曹操高陵)の模型などもある。埋蔵物は、中国のいろいろな博物館や研究所に所蔵されているもので、それを一覧できるのは良かったが、実際に最も曹操、孫権、劉備を偲ばせるものは、日本のテレビの人形劇の人形であった。曹操以外は劉備や諸葛孔明は墓さえどこか分からないとのこと。
 
 184年の黄巾の乱から280年呉の滅亡まで、魏の曹操、司馬仲達、呉の孫権、周瑜、蜀の劉備、諸葛孔明、関羽、張飛、などが登場する三国時代の100年は、誠に波瀾万丈の時代だった。
 三国の終焉、天下は誰のものになったか。「晋平呉天下太平」(晋(魏の司馬氏が蜀を統合して作った国)呉を平らげ天下太平)という一行の磚が残っているそうだ。
 
 観客は男の老人が多いのは分かるが若い女性が多いのはなぜだろう。世界中で中国を除いて三国志展にこのように沢山の人が集まるのは日本ぐらいだろう。ましてや若い女性にこのように人気があるとは。
 売店で私は図説中国歴史・三国(中国地図出版社)を求めたが、これは同じようなものが日本では見当たらないなかなかの優れものだった。またしばらく楽しめそうなものを仕入れられて嬉しかった。
  
 野分して関羽の髭の乱れたり
  
  
 

2019年9月12日(木)
日限り日記

 [反日種族主義]
 11日の読売新聞によれば、いま韓国では「反日種族主義」という歴史学者6人による研究書が10万部を超えるベストセラーになっているとのこと。代表的な著者の李ソウル大学教授は「韓国社会の集団的な偏見を打ち破ろうとした」と執筆の理由を語ったとある。
 この本は、日韓の歴史問題が積み重なったのは韓国人の精神文化の根底に隣国日本を悪と見なす種族(部族)主義があるためだと分析し、このような「非科学的な歴史認識のままでは韓国の将来に希望はない」と語ったということである。
 そして徴用工、慰安婦、竹島、日韓請求権・経済協力協定などに関して、韓国での通説と本書の主張を表で表している。例えば徴用工は、韓国での通説は「強制的に動員され、給与もろくに与えられずに奴隷のように酷使された」だが、本書では「19944年9月からの徴用以前は自発的な就労。給与は会社員の3.5倍と高かった」。
 
 私は「日本人の朝鮮観」(小倉和夫)や文藝春秋特集「日韓断絶」など読んでみたが、なぜ両国がかくも断絶しているのかよく分からない。この「反日種族主義」の方が良く理解できる。この本は日本で翻訳出版も予定されているようだから読んでみよう。
 韓国で新しく法相になったチョグクはこの本を、日本政府の主張を繰り返している、吐き気がすると本と言ったそうだが、それにしても韓国には言論の自由があるということである。
 
 ところで日本ではいま嫌韓一色であり、最近韓国政府の言い分を一部分理解する発言をした人に対して、非国民呼ばわりをした人がいたのはいただけない。日本には「反韓種族主義」のような人はいないと断ずることは到底出来ないだろう。明治初期の征韓論にしても、「韓国は明治政府の思想と立場を理解せず正式な交流を拒否したことで新政府への侮辱と受け取ったのが理由の一つである(「日本人の朝鮮観」)」とされているが、これなど日本の一方的な判断だろう。
 にもかかわらず、言論の自由のある国として自由な論を張る人を抑えるとしたら、言論の自由で韓国に劣るということになる。
 なぜ日本人は韓国を嫌うのか、国家間の約束を守らない国だからか。日本側の「反日種族主義」のごとき研究書を読みたいと思う。韓国が嫌うから韓国が嫌いなのではない、何か因習的非科学的理由があるとしたら、我々も改めなくてはならないと思う。
 
  
  曼珠沙華一字一字が華やぎて
  
  
  
  
 

2019年9月10日(火)
日限り日記

 [バシリスク]
 高樹のぶ子が芥川賞の贈呈式で話したところに依れば、「バシリスク」という南米に住むトカゲは必死に後ろ足を動かして水面を進む。別のところまで自分を運んでいくことによって妄想の世界がうんと広がると思う、と高樹は受賞者(と自分)を励ましていた。
 私も以前子どもから、パパは泳いでいないと沈んでしまうジンベイザメのようだと言われたことがあった。確かに現役の頃は、まあ誰でもそうだとは思うが、やりたいことに向かってひたすらもがいていた。
 現役引退後しばらくはやりたいことの予定を沢山入れてそれを真面目に消化することで忙しくして、それで生きていることの喜びを感じていたこともあった。
 
 しかし今は違う。一日中何の予定がなくても困らない。初めは予定がないことにストレスを感じてしまうこともあったが、それに慣れると予定があると面倒になってしまうから極力予定を入れないようになる。
 この心境の変化はどうしてなのだろう。
 第一には身体の変化。もがいても足が動かない。身体が気持ちに付いてきてくれない。第二にはなにもやりたいことがない日々を過ごす方がずっと充実していると言えるのではないかと思えて来たことである。
 バシリスクでいられなくなれば、ほかのものに変身すれば良いだけのことではないか。例えば「浮き寝鳥」のように。もっとも浮き寝鳥も水面下では結構足を動かしているらしいが。
 
  野分あとみんな顔出す恐竜も
 
 
 
 

2019年9月8日(日)
日限り日記

 [脚を折る]
 いま倉本聰脚本の連続テレビ小説「やすらぎの郷」の中の一編「やすらぎの刻」を毎日見ている。これは昭和の初期の山梨の養蚕農家の物語で、この中の登場人物がやがて「やすらぎの郷」で暮らす退役役者の一人になるということらしい。
 養蚕農家根来家の男は軍役に服すのが嫌いで本家の長男は山に遁走、分家の四人兄弟は二男は戦死、三男は徴兵がいやで自殺、四男公平は三男の子を宿した「しの」と結婚するが、徴兵令状が来たあと故意に車に足を轢かせて骨折し徴兵を免れる。
 今までいろいろ話を聞いたがこのような方法で兵役を免れる人がいたとは驚きだ。
 まだ進行中の劇だが、これから先どうなるか。
 ところでいま「軍師聯盟」という中国の連続テレビ劇が放映されている。これは三国時代の魏の国にあった司馬氏の才子「司馬()仲達(ちゅうたつ))」の物語である。仲達は曹操に一家を滅ぼされることを恐れて出仕要請を断る口実として自分の両足を馬車に轢かせて骨折する。
 その後は結局曹氏に仕えて出世し、蜀の諸葛孔明と五丈ヶ原で戦い、魏国のナンバー2として曹氏を補佐し、司馬氏は曹操が恐れていたように仲達の死後魏を治める一家になる。
 しかし奇しくも二人とも難を逃れるために自分から脚を轢かせた。
 それにしてもなぜ脚なのか。
 
  ちんちんと南部鉄瓶夕涼し
 
 
 
 
 

2019年9月4日(水)
日限り日記

 [命惜し]
 横浜に住んで良いと思うのはみなとの見える丘公園にある神奈川近代文学館。
 ここの常設展示は良くて何度見ても飽きない。特設の展示の催しもいつも素晴らしい。
 私は入り口にある神奈川と文学の紹介のビデオを見るのが好きだ。ビデオは何種類かあるらしいが内容による好き嫌いはない。バックの音楽には好きなのがあって、ショパンのノクターン19番、20番が流れる紹介ビデオがよい。神奈川の美しい自然を映しているビデオを見ながら(ほとんど見飽きているが)、陶然としてショパンを聴いて聞き飽きることがない。
 
 雛飾りつつふと命惜しきかな 星野立子

 というのがあるが
 
 命惜し文学館の昼寝かな
 
 
 

2019年9月3日(火)
日限り日記

 [日本人の朝鮮観]
 最近読んだ本。
 「シュタイネ」(多和田葉子)
 「言葉と歩く日記」(多和田葉子)
 「古代史で楽しむ万葉集」(中西進)
 「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド)
 「1000句を楽しむ」(宮坂静生)
 「日本人の朝鮮観」(小倉和夫)
 
 「日本人の朝鮮観」は二度目だが、読んでみてもどうして我々はこのように朝鮮を見るのか、よく分からない。
 この本は大和朝廷・平安時代・室町時代・秀吉時代・江戸時代・明治時代の朝鮮観を俯瞰するのだが、なぜ日本人がこのような見方になるのかが分からない。さらに各時代の知識人文学者の見方も詳しく述べているのだが、柳宗悦が朝鮮の芸術の美しさを認めた以外に、なぜ彼らが朝鮮を下に見るのか分からない。
 要するに地政的に文化的に進んだ中国と日本の中間にある国として、進んだ中国文化(文字・儒教・仏教・政治体制など)の伝達者・仲介者として珍重したが、あくまで仲介者としての尊敬しか得られなかった。アヘン戦争で中国が欧米に完敗したことを教訓として、日本がアジアでいち早く欧米化に成功した後は、彼我の国民の一般的な生活レベル、文化レベルを比較して見下し始める。
 中国は一般人のレベルとは別に、いつの時代にも孔子、杜甫、李白、羅貫中、魯迅、莫言などの知の巨人が存在したが、韓国には見当たらず、伊藤博文を暗殺した人間を英雄とするごときが日本の知識人の韓国に対する接近を阻んでいる。
 そしていまでは例の日本人の国民性の「追随と増長」の対象となったということであろうか。
 ところで日本の国民性を「追随と増長」と規定した人(窪田城氏)に言わせると、韓国の国民性は「従順と怨念」。
 今の日韓関係は文字通りこの二つの国民性がぶつかって「増長(日本)と怨念(韓国)」になっている。
 時間を待つしかないと思う。

    月涼し孔子一行曲阜へと
 
 
 
 

2019年9月1日(日)
日限り日記

 [言葉と歩く日記]
 私が大学の法学部コースに入ったとき「法学概論」の教授が講義の初めにドイツでは法学は「BrotWissenshaft」つまり「パンの学問」「食べるための学問」と言われていると言った。私も別段法律が好きで入ったわけではなかった。
 では何が好きだったのだろう。
 多和田葉子の「言葉と歩く日記」を読むと、わたしは比較言語学が一番好きなのではないかと思ってしまう。もっともこの本は多くの読者に私と同じような錯覚を抱かせる魔法の本かも知れない。よい映画を見たあと観客がしばらくの間主人公になった気分にさせられるように。
 多和田の後書きによれば彼女は「毎日湧き上がってくる数々の(言葉に関する)疑問、数々の優れた書物との対話、旅で出会った人の言葉、言葉にまつわる出来事や出来事としての言葉」に一番関心がるようだが、私も間違いなくそうである。
 
 私の場合はさしあたって漢字文化の中国語と日本語の関係に興味を集中させたが、そのほかにもすこししか勉強しなかったが英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語どの言語間同士でも関心があった。
 これを勉強し職業にすることが出来たら、一番幸せだったかも知れない。しかし学問を選択し職業を選択する十代二十代の初めはどうだっただろう。
 文学は好きだったが職業とするほどの能力はないと思っていた。言葉への関心はあったがそれほど強くなかったと思う。言葉を研究する仕事に就きたかったなどは、ビジネスマンという一つの道が終わった後の世迷い言に過ぎないと思う。
 がしかし、この本はそのように自分が言葉に深く関心があるかのように錯覚させてしまうだけの魅力的な(魔術的な)本である。
 
 小春かな本を読むとき命惜し