2019年8月29日(木)
日限り日記

 [グレート・ギャツビーⅡ」
 新宿ブックファーストで次に読みたいと思っている村田喜代子の「飛族」を眺め、野崎孝訳「グレート・ギャツビー」の解説を立ち読みした。
 それは1974年に改訳されたものに付いてる解説で、誠に内容のあるすぐれた解説だった。
 村上春樹が2006年に訳した「グレート・ギャツビー」の解説によれば、彼が翻訳した経緯は、彼がそれまでに訳出された「グレート・ギャツビー」はその翻訳の質とは別に「これは僕の考える「グレート・ギャツビー」とはちょっと(あるいはかなり)違う話みたいに思える」と思ったかららしい。村上は人生で巡り会ったもっとも重要な三冊の本は「グレート・ギャツビー」「カラマーゾフの兄弟」「ロング・グッドバイ」で、そのうち一つをあげろとなれば「グレート・ギャツビー」だそうだから、もしちょっと違うと考えたなら翻訳家の彼としては訳出したいと思うのは当然かも知れない。
 しかし、野崎孝の解説を読み、訳出された文を読んでみて、私などは別に野崎訳と村上訳にあまり差は感じなかった。
 ネットには「F.Scott Fitzgerald “The Great Gatsby”における野崎孝、村上春樹、小川高義による日本語訳比較分析」(吉岡泉美)というのがある。
 原文と訳文のごく一部を対比させて論じているが、それによると、野崎、村上の訳は大差はなく、むしろ村上の訳の3年後の2009年に出た小川高義の訳に新規性があるということである。
 確かに小川訳は字数が少ない。また原文構造を自由に変化させている。吉岡によれば野崎、村上が起点言語志向なのに対して小川は目標言語志向なのだそうだ。
 実はこの夏孫の「クリスマス・カロル」を読むのに付き合った。これが孫の父親が少年の頃読んだ訳本で訳が古く、孫がつっかえる場所は、内容ではなく訳語に今では使われないような語彙が使われているからだった。翻訳には賞味期限がある。
 しかし、村上の訳は賞味期限には関係のない個人的好みからなされたものであろう。翻訳をどう考えるかだが、私は起点言語主義である。目標言語志向なら、原文を現代文にした文を訳した「IBC対訳ライブラリー」と選ぶところがないではないか。
 ところで“The Great Gatsby”の原文について、現代文は持っているが原文は持っていない。調べてみたらkindleで無料でダウンロードが出来ることが分かったのでダウンロードした。
 ひょんなことからしばらく「グレート・ギャツビー」を英文の原文、現代文、訳文の野崎版、村上版で遊ぶことになった。今のところ私は「グレート・ギャツビー」をそんなに優れた小説とは思っていないのだから、行きがかり上である。
 
 
  ロング・アイランド・ギャツビー家の野分かな
 
 
 

2019年8月27日(火)
日限り日記

 [戦争関係の俳句]
 俳句教室。兼題は「戦争関係」。
 珍しく提出した二句とも先生の特選になった。
 Kさんも同じ二句提出二句特選である。先生はKさんを、やはり年季が入っているからかとからかった。Kさんの句に“「たづね人の時間」息をこらして聞きし冬”というのがあったからだ。
 戦争関連の句は世代によりまた個人が戦争から受けた損害により、大きく変わってくる。私の句も本当に自分の心からなる句である。
 
 黄新た戦終はりて花南瓜
 我が死まで我が家の戦後百日紅
 
 上は同じ花なのに新しい感じがしたということで、とても良い。下は自分の生きている間は戦後、令和なのではない、という意地が見えるところが良いという講評。
 
 ちなみにこの「新た」は「渭城の朝雨軽塵を潤し客舎青々柳色新たなり」(王維)を参考にしたもの。
 何人かの同学から褒められた。高点を取るとひととき友達が増えるのが句会。お茶にも誘われたがいい気になっていると発作性不整脈が起こる。こういう自制が今の人生を面白くなくしているが命あってのことなので致し方ない。

 
   黄新た戦終はりて花南瓜
 
 

2019年8月25日(日)
日限り日記

 [秋の風]
 私の住む団地に一軒花だけが植わっている家がある。垣根はなく道路から丸々花壇のような庭が見える。
 いつも散歩がてら庭を鑑賞する。此花咲爺姫の祠へ向かうにはこの庭を見ないわけにはいかない。
 まだ6時頃は雨戸が閉まっているのでこちらは気兼ねなく鑑賞できる。
 今朝も見ていたら突然玄関から奥さんが現れたので慌てて挨拶をした。
 主人が身体を壊しているので手入れは自分一人でやっているので大変ですと言う。
 春から初夏にかけては花がいっぱいになるが今は減っていると言っていたが、女郎花、鶏頭、姫扇、ラベンダー、ガーベラ、オキザリスなど秋の花が始まっている。もっとも季節を選ばず咲く花も多いが。
 庭に飛び石が置かれていてやはりその気になってしつらえた庭である意気込みが感じられる。
 雑草を抜き、高さをそろえ、水やりをするのが日課だそうだ。高さを整えないと伸びすぎてやがて手とがどかなくなる草があるからだそうだ。
 そう言えばいつか、斜め隣の病院の医院長宅の奥方が、高さをカットするのは反対だなどと、人様の家の庭の手入れに難癖を付けているのを聞いたことがあった、もちろん笑いながらだが。
 
 
 目にさやか空から庭へ秋の風
 
 
 
 

2019年8月23日(金)
日限り日記

 [病院に見放される]
 ついに総合病院の主治医に転院を要請された。
 私は2000年以来この病院で、突発性不整脈の治療を受けている。突発的に不整脈が発症したときに抗不整脈薬を飲むという療法である。この療法は対処療法であり不整脈の発生を根治する療法ではない。
 私は20年一貫してこの病院に患者としては掛かっているのだが、主治医は何度か交代した。新しい主治医はそのつど私に一番適した抗不整脈薬や使用方法を考えてくれた。
 今まではこの抗不整脈薬療法しかなかったが、最近ではカテーテルアブレーションやペースメーカーという外科的な療法で不整脈が根治できるようになってきた。
 それにつれて私の掛かっている病院ではこの外科的療法を不整脈治療の中心に置くようになってきた。私も勧められたが高齢なので今更心臓に手を加える外科的治療は受けたくないと断ってきた。主治医はその選択は患者の自由だが、もしこれらの外科的療法を受けずに今まで通りの抗不整脈薬で対処療法をするなら、この病院に掛かる必要はないので別の病院に転院してほしい、と言うようになってきた。
 この病院に見放されるのは釈然としない。手術という侵襲の多い方法よりも内服薬治療の方が優れている場合もあるのではないかなど言い分はあるのだが医者は聞いてくれない。
 主治医は今回は有無を言わさず紹介状を書き始めた。
 分厚い紹介状を持たされて病院を後にした。
 
 庭は今菊を待つのみ篠退治
 
 
 

2019年8月21日(水)
日限り日記

 [昭和天皇と宮内庁長官の会話記録]
 昭和天皇と田島宮内庁長官との会話記録がNHKの番組で放映された。
 今回の会話録で私の気にとまった昭和天皇の話は次の点である。
 1. 張作霖の爆殺事件(1928年)の処罰を私(昭和天皇)が曖昧にしたことが陸軍の紀綱がゆるむ始めになった。私も南京事件などのひどいことが行われていたことを戦後の戦争裁判の時に初めて知った。私も軍に利用されたと思っている。軍は当時下克上が強く上が指示しても下が従わなかった。私が指示してもその通りにはならなくなってしまった。
 2. 開戦の詔に「やむにやまれず開戦する」と書いたのは本当は戦争を回避したかったからだが、後でそう言っても言い訳だと言われた。
 3. 講和が締結されたときに退位して皇太子に譲位したい気持ちもあった(別の資料によると、皇太子が幼いため別の人に実権が移るのを恐れて出来なかった)
 4. 独立回復を祝う式典で天皇の言葉として、先の大戦に対して反省するという言葉どうしても入れたかったが、吉田内閣総理大臣に天皇の戦争責任や退位論が再燃するという理由で止めさせられた。
 5. 外国特に中立条約を破って参戦したロシアのような国のことを考えると再軍備はせざるをえないと思う。しかし昔の軍隊のような軍閥的軍隊は絶対にいやである。再軍備のため憲法改正が必要なことを吉田総理大臣に伝えようとしたが、田島に諫められた。


  この会話録は戦時の天皇としてごく自然な所感でありやはりそうだったかと思わせる内容である。この会話記録が発表されて、天皇と内閣、天皇と陸海軍の関係について曖昧であり推測の域を脱しなかったことが明確になったことで良かったと思う。
 また、昭和の大戦争を反省すべきと思われていたことが明らかになった点でも良かった。
 あれだけの戦争に関与しながら、平然と退位もせず反省もしないでは大義にもとるのではないかという批判があるからである。
 また、私の家は父がヨーロッパ出張中太平洋戦争の開戦となり帰国できず客死したこと、父の弟、母の弟が20歳代で戦死いていること、残された家族の戦後が実に苦しく長かったことにより、昭和天皇にある感慨を持っている。
 従って昭和天皇が薨去されたときに心の澱が流れる感じがしたことは覆うべくもない。
 今回の昭和天皇会話録は、天皇の歴史観の披瀝であるとともに悔悟録であると認識する。そしてなお私に残っている心の澱がまた流れるのを感じすこし気持ちが楽になった。
 
 鳴かぬ蝉靖国の樹に高くあり
 
 
 
 

2019年8月19日(月)
日限り日記

 [グレート・ギャツビー]
 この夏はずいぶんネットの買い物で失敗した。ショートパンツのサイズが小さすぎたこと、芝の肥料が少し強いもので芝が伸びすぎることなど。この「グレート・ギャツビー」の購入も失敗に当たるかも知れない。
 この夏、理由は忘れたが「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド)を読もうと思い立ってネットで野崎孝訳(600円)と村上春樹訳(1000円)を見比べているときに「英語で読むグレート・ギャツビー」(日本語訳・CD付き2000円)というのが眼に入った。
 難しいかも知れないが短編小説だし、久し振りに原文で読むのも面白いかもと考えて申し込んだ。
 ところが手許に着いてなかを見ると「本文は易しい英語で書き改めた」と書いてある。表紙には書いてないからネットで見る限りは分からない。よく見るとIBC対訳ライブラリーとの表示があり、それを調べると、コンパクトにまとめた読みやすい英文訳、とあるので抗議しても虚偽表示ではないと言われそうだ。
 易しい現代文に改めた本では中国語の「三国志演義」「水滸伝」を読んだが、結構面白かった。これらは大作の抄訳を兼ねているので「グレート・ギャツビー」とは違う。どうも一杯食わされたようで面白くない。
 というような経過はあったが、なに「グレート・ギャツビー」を研究するということでもないので、この対訳本の日本語を読み始めた、時々英文もみながら。
 
  ロングアイランドグレートネックの野分かな
  
  
  
  
 
 
 

2019年8月17日(土)
日限り日記

 [ラミレス言語]
 DENA横浜ベイスターズがこの時期に5連敗と窮地に立たされている。去年のリーディングヒッター宮崎が右手骨折、救援投手のパットンが自分で冷蔵庫を叩いて右手を骨折。今永、浜口、東などの先発左腕がぱっとしない。
 監督ラミレスはこの窮地を、筒香の2番三塁手、新人伊藤の5番二塁手で切り抜けようとしているが、投手陣は再建のめどがあるのか。それとも投手陣は問題ないとみているのか。
 ラミレスの采配についてはいろいろ言われている。
 筒香は不動の4番ではないか、先発ピッチャーを早く交代させすぎはしないか、ピッチャーは8番でなく9番ではないか、2年前活躍した倉本遊撃手はなぜ使わないのか。
 出身のベネゼラはスペイン語圏のはずだがなぜインタービューで英語を使うのか。必ず「トレメンダス」(優秀、卓越!)と言ってその日活躍した選手を褒めるのが決まりだが、語彙は足りているのか。選手やコーチと意思の疎通は十分なのか。
 もっとも多和田葉子の「言葉と歩く日記」によればアメリカの大学に勤めるドイツ人はドイツ人同士であっても英語でしゃべっているそうだ。ラミレスがなぜ英語でインタビューに応じるのか、理由は深いかも知れないし簡単なのかも知れない。
 しかし、これらの疑問をラミレスは一顧だにしない。去年などは3位を争い4位に落ちたが最後まで続投かどうか球団は決めてくれなかった。長い選手監督経験から、ラミレスは勝ち負けだけがすべてを決めると決めているから、右顧左眄せず自分のやりたいようにやる。ジャイアンツやカープの監督のように敗因を雄弁に語ってくれない寡黙で孤独な監督に、負けが込むとファンはやきもきいらいらするが、そんなことはラミレスにとっては関係のないこと。
 それにしても、三浦新ピッチングコーチは何をしているのか。去年よりも投手陣は不安定である。すべては監督の責任と逃げているのではないでしょうね、と八つ当たりしたくなる。

 地に天に蝉の一生鎮守森
 
 
 

2019年8月15日(木)
日限り日記

 [プロムナード]
 俳人黒田杏子が自分は俳句界に何も残さなかったけれども二人の優秀な弟子を残したと言っていたがその弟子の一人が夏井いつきだった。俳句甲子園の企画者の一人だったりして、俳人としても後継者養成者としても優れているらしい。
 夏井は今テレビの「プレバト」という芸能人の俳句を評価し添削をするという番組を人気番組にした。俳句を説明して非常に分かりやすいというので、一般の人はもちろん多くの俳句を作る人も見ているみたいだ。
 私もたまに気がついたときに見るが芸能人の俳句も素晴らしいし、夏井の講評、添削もなるほど素晴らしい。
 そのこともあってだと思うが、今回の日経新聞の「プロムナード」欄に夏井が登場して毎週一日随筆を出している。
 この随筆の分担者は半年ごとに代わるが毎回素晴らしい人揃いで、随筆のレベルも高い。私は昔からこの欄の熱心な読者であるが、人選について新聞社の人を見る目の優れていることに驚嘆していた。
 ここでの夏井の随筆のレベルはどうだろう。この評価こそ個人差があると思うが、私はいまのところ非常に落胆している。今の分担者の中でもまた過去の分担者の中でも群を抜いて平凡であり面白くない。
 随筆によれば、夏井は「プレバト」の好評により今講演者として全国を飛び回っていて、会場には入れないほどの人が集まるらしい。夏井はどうやら離婚して新しいジャーナリストの伴侶を得たらしいのだが、その彼がマネージャとして長距離の運転をしたり、航空券の手配をしたりする。それが嬉しくてたまらないらしいのだ。その話を毎週の随筆で読まされる。俳句甲子園発足の時の苦労話は自慢話に終わっている。日経の読者はもう一歩奥の考えを知りたいはずだが。
 ある小説家はこの「プロムナード」の執筆依頼を受けたときに何を書くべきか小説を書くとき以上に悩んだと書いていた。夏井にはその気構えがなかったのか、もともと「プロムナード」の随筆など読んでいなかったのか。
 日経は引き続きところを得た人材を選んでほしい。それが本人のためでもある。
 
   庭の萩枝伸びてくる残暑かな
   
   
   
   
 

2019年8月13日(火)
日限り日記

 [高校野球]
 異常な暑さだからできるだけ外出を控えるようにと放送で言われて、妻には評判が悪いが家に籠もっている。この時期は高校野球があるから退屈はしない。
 自分はどういう基準で応援する学校を決めているだろうか。
 出身県、住んでいる県、知り合いが理事長などをしている学校(今回はない)、公立高校、地方の学校、前評判で弱いと言われている学校、などの順か。
 基本は郷土愛と判官贔屓だが、その日のプレイで決めることもあるし、本格的なピッチャーはしばらく見てみたいので基準の中で相剋も生じる。
 今年は、バッターに送りバントの格好をさせながらバントはせず、走者に盗塁をさせるという奇襲戦法をいくつか見た。また花咲徳栄の選手がボールが身体に当たったのは自分がよけかたが悪かったからだとデッドボールを主張せずむしろ相手に詫びて(結果はボールとカウントされた)、次の球をホームランしてしまったのには驚いた。新聞はフェアプレーの結果と書いたが、甘い球を呼び込む一つの戦術でありうるかも知れない。
 サッカーは明らかに高校サッカーとJリーグサッカーとは別物である。Jリーグサッカーはユニフォームを引っ張ったり後ろから脚を掛けたり、故意にファウルをすることもしょっちゅうで、これはヨーロッパや南米のサッカーを模範にしているからだろう。だが、日本の高校サッカーはフェアーである。
 野球はプロとアマの間でプレーの汚さで差がない。サッカーの方が選手とサポーターとの距離は近いが、野球の方が後に続く少年野球の範たらんとしている。これはアメリカの大リーグのフェアプレーを模範としているからだろう。
 
 ナイターやメガホン越しなら大声で
 
 
 
 

2019年8月9日(金)
日限り日記

 [眉を開く]
 人に良い印象を与えるには「口角を上げて、笑い顔でいること」と勧められてやってみたが、口角を上げることがなかなか難しいと書いた(2019.7.20「日限り日記」)。それを読んだ知り合いが次のようなお手紙をくださった。
 
 「源氏物語の「夕顔」の巻を題材にした能に「半蔀(はしとみ)」があります。その「半蔀」のなかのワキの詞章に、「白き花のおのれ独り笑の眉を開けたるは。」という部分があります。
 むかし初めて「半蔀」を観て、「笑みの眉を開くとは」どういうことかなぁと思って検索しました。
 「眉を開く」気持ちになると自然と口角があがるとあって、試してみるとそのとおりでした。
  口角を上げただけでは必ずしも笑みの顔にはなりませんが、まず「眉を開く」気持ちになると、かならず自然と口角が上がります。筋肉がつながっているのでしょうか。
 どうぞお試しになってください。」
 
 能か、よくご存じだなあと感服して、さて鏡の前で眉を開いてみた。その自分の顔がおかしくて笑い顔になってしまって確かなことは分からないが、確かに眉を開くと口角が上がるような気がした。
 ところで昔映画「海街diary」で広瀬すずが可愛かったので、「ちはやぶる」を見た。最近では毎日朝ドラ「なつぞら」を見ている。広瀬すずの感じの良さは口角が上がっていることにあると発見した。
 
 ユーカリに深き傷痕爆心地
 
 

2019年8月6日(火)
日限り日記

 「現代詩」
 新聞に多和田葉子の現代詩が載っていた。
 
 夏の海     
 ・・・・・
 ゴミ箱あつかいされてもまだ
 そこにあり続ける海という他人に
 わざわざ会いに行った
 のに 聞きたかったことは全部
 カンパリの赤線で削除した
 腑抜けな人間
 いつかいなくなるわたしたち
 海は諦めて遠ざかっていく
 
 素敵だと思ったので、多和田葉子の現代詩集「シュタイン」を買った。20編の詩が載っている。本の帯には、言葉のアミニズムここに極まれり、とある。「パピア・コルプ」(紙くず籠か)、「シュティング・ボーネン」(納豆か)、「チトローネ」(「檸檬か」、「ヘルツシュラーク」(鼓動か)という題であり、(  )書きの日本語に、(・・・か)、と「か」がついているのは、ドイツ語と日本語で必ずしも意味するものが同じでない、という意味か。
 どれも「夏の海」ほどは面白くなかった。私はやはり現代詩を良いと思う感性がないのだろうか。中国の詩などは、李白や杜甫の詩よりも北島(beidao)などの現代詩のほうがいいと思うこともあるのだが。
 詩は早々に切り上げて、同時に買った多和田の「言葉と歩く日記」を読んでいるが、これが飛び抜けて面白い。リュービ英雄の言う文学の「越境者」で日本語とドイツ語で小説を書く著者だけに、言葉に対する感性が凄い。文法に対する考察も鋭い。日本語は「考える」は必ず何を考えるか目的語を取るが、ドイツ語は目的語を取らずに「考える」が独立してある。「我思う、故に我あり」など。
 まだ読みかけなので全体について述べられない。いずれ読み終わったら紹介したいと思う。
 
 
  しはぶきも匍匐す戦没慰霊祭
 
 
 
 
 
 

2019年8月4日(日)
日限り日記

 [ネット情報]
 もう日常の品物で本当に必要なものはない。洋服など量だけは流行を問わなければ一生着られる分がある。しかしそれでは寂しいのでたまに買い増しをする。
 そういうときに役に立つのは新聞の情報で、一例を挙げれば、読売新聞の「いま風」「ごほうび」の欄。過去筆記用具やTシャツ、ショートパンツなどが紹介されていた。少し値段が張るかも知れないが、今風であるしものは確かに良い。
 でもこの前のショートパンツはひどかった。商品そのものは良いのだが、後で調べてみたら商品を紹介している人が、商品の販売店の代表者だった。「ポケット 抜群の収納力」などとありその通りだったが、関係者の紹介では良品の紹介ではなく商品の宣伝ではないか。そうと知ればそれなりに割り引いて読むのだが知らなかったからすっかり信じてしまった。
 というようなことはあるが、情報は有り難い。しかしこういうお宝商品は百貨店には置いてないし、アンテナショップも少ないから実物を見ないでネットで買うことになる。今やネットで買うリスクを恐れていては面白いものは買えない時代になってきた。
 
 
 回廊の下は風廊蟻地獄
 
 
 

2019年8月1日(木)
日限り日記

 [SNS]
 SNS入門講座が近所のコミュニティサークルで開かれたので参加してみた。2時間ずつ2日、主にLINEとインスタグラムについてで参加者は20名だったが、LINEを全くやったことのない人は4人(私もそのうちの一人)だけだった。あとはやってはいるがもっと巧く使いたいという人。
 受講者のレベルが違うのだが講義をする人の他に補助者がいて分からないとすぐに教えて貰える。
 受講してLINEとインスタグラムについてはどういうものかが分かったと思う。
 SNS(LINE,インスタグラム、facebook、ツイッターなど)は要するに自分で発信しその反応を知りたいという人に合ったやり方である。知らない人からのメッセージは受け取らないとか安全に使う方法も用意されているが、本来は情報を解放して人とのつながりを楽しむというシステムだから、他人について知りたいが自分については知られたくないという閉鎖的な人には向いていない。加入するとしたらどうしても自分を知られるし、それによってトラブルに巻き込まれたりするリスクがあるということは覚悟すべきなのである。
 私はホームページという自分の考えや情報を発信する方法を持っているが、この20年ぐらい前までは新しかった方法は持ち主がほぼ一方的に発信するだけである。またインターネットメールは利用しているがすぐ返事をしなければならない気持ちにさせられるLINEとは異なる。
 すなわち、私は20年ぐらい前に現れた新しい情報伝達システムの恩恵を受けているが、さらに双方向のやりとりの開示にまで進んだ現代の新しいシステムを利用するには、心の準備が出来ていない。もう少し勉強しないと出来ないなと感じた。
 
 (かび)の宿着信音は電子音