[日記]
今週の読売新聞の書評欄では「前立腺歌日記」(四元康裕)が取り上げられている。評者は木琴奏者の通崎睦美で「女である私にもおちんちんがついているような錯覚に襲われる」と言っている。
実はこの本については去年の12月28日の「日限り日記」で取り上げたところ、面白そうなので買って読んだと言ってくださった方がいたが、その方も女性だった。不思議な気持ちになったが、なに私も女性の身体では自分にない部分について敬しているから普通なことかも知れない。いわんやこの四元の歌日記には、古今の和洋の詩人歌人の詩がふんだんに挿入されているからその部分は男女にかかわらず面白いのである。
これは闘病日記だが、日記と言えば先日亡くなった俳句会の大御所金子兜太の日記が近々発行されるらしい。そのことに関係されていた方からこういう話があった。「日記というのは大体は言い分けである。漱石の「こころ」はその代表的作品である。日記を書く人は注意した方が良い」。
たしか東洋の偉大な知識人李登輝元台湾総統は自分が日記をつけることをやめた理由に、言い分けになってしまうので、と言っていた。確かにそういう面もあるだろう。
しかし日記はそればかりではない。
昔阿部次郎の「三太郎の日記」という本があった。これは三太郎に託して若き阿部次郎の精神の苦悩と思索を綴ったもので、私も大いに読みふけったものだ。理想と現実、他人の評価と自己分析、驕りと挫折など日記をつけることを通してより明確に己の観察が可能となる。
日記というのは、そのときの自分を明確にする道具でしかない。言い分けしている自分がいるから日記がそうなるのであって、日記をつけるから言い分けが強くなるというわけではない。さらに、もし日記をつけなければ瞬時に消え去る日々も、日記をつけることによって同一時に別の自分を生きることさえ可能なのである。ものを書くというのは人間のすごい技である。その技を何のためにどう使うかはその人の自由である。
私は高校一年の時から日記をつけているがつけ方にはいろいろ変遷がある。別に人に読ませるものではなければ、自分勝手な使い方をして良いはずだ。
ところで金子兜太について言えば、見かけや俳句からは豪胆な人に見えるが実は細心で言い分けも多かったことが日記からうかがわれたのだろうか。だから後々言われないように日記を書く人はご注意を、ということなのかも知れない。
恋の日は若菜を摘む日詩の国
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