2018年9月28日(金)
日限り日記

 [日本年金機構事務所]
 社会保険庁が日本年金機構になってから初めて事務所を訪ねた。
 目的は、自分が死んだあとの遺族年金がいくらになるか、あらかじめ妻に知っておいてもらった方が良いと思ったからである。
 「年金機構」と名前が変わって何が変わったろうか。
 いまはほとんどが予約制になっているので、予約が一週間ぐらい先にはなるが以前あった恐るべき長さの待ち時間はない。それと相談員が名乗りを上げてから名刺を渡すなどして、前にあった怖いような雰囲気はない。
 それにしても年金は難しい。いままで送られた書類は全部取ってあるし、法律を読む力は一応あるつもりだが、遺族年金の額など基本的なことさえ自分で算出できない。厚生年金のほかに厚生年金基金に入っていたりすると益々分からなくなる。
 相談員は、パソコンから表示された数字を説明してくれるだけで自分で計算するわけではない。プリントアウトされた紙にも、「差額」[下支]「加算額」などの文字があり、説明を求めても定義を言うだけで自分で計算してみてくれることはしない。度々法律改正が行われるから、人智ではフォロ-出来ないのだろう。プリントアウトされた紙面を見てシステムに間違いがないかをチェックしてくれているようだが、基本的にはシステムを信用するしかないようだ。
 知らしむべからず依らしむべし、を地で行ってるような気がした。この場合依るのはお上ではなくシステムだが。
 
  とんばうの縄張りにゐてとんぼたり
 
 
 

2018年9月25日(火)
日限り日記

  [猫の埋葬」
 猫のモネ子の骨を庭の土に埋めた。
 モネ子が死んだのは今年の3月23日である。初めの1ヶ月ぐらいは毎日骨壺を抱いてやるぐらいに悲しかった。悲しさは淋しさに変わり、その淋しい思いは変わることがない。しかし何れは土に還してあげないといけない。ということでお彼岸が良いかと言うことになり骨壺を開けた。
 狭い庭は何処にでもモネ子の足跡がある。ドウダンツツジの根元に妻が小さな穴を掘った。
 もともと小さな猫だったが、骨は軽くて少ない。頭蓋骨が一番上に乗っている。白砂のように真っ白だった。
 モネ子には良い思いでしかない。爪を立てることもない。呼べば必ず返事をする。小型で清潔な猫だった。骨もそのような特徴を持っているように思えた。
 
  
  秋彼岸軽く真白な猫の骨
  
  
 

2018年9月23日(日)
日限り日記

  「曼珠沙華」
 新宿朝日カルチャーセンター「一億人の俳句入門句会」。参加に先がけていつものルーティン。
 BRUTUSの「あんこ好き」には載っていないが新宿「追分だんご」は好きな店。ここの餡は団子は良いがおはぎはすこし水っぽい。4個買う。今日中に食べて下さいと念を押される。「あんこ好き」ではおはぎでは伊勢丹に「鈴懸」「仙太郎」があるが何れもいまの私にはちょっとヘビー
 ブックファーストで見た本は劉震雲「ネット狂詩曲」、清水由美「日本語びいき」、高田郁「花だより」など。劉震雲は「一句頂一万句」がいままでの代表作であることを知る。これはマルケスの「百年の孤独」の中国語版との訳者注があるだけあって大作である。
 語学も楽しみながら原文で読むべきか翻訳で沢山読むべきか。池澤夏樹の読書法によれば翻訳本があるものは翻訳本で読むとのこと。悩ましい。
  俳句の本ではいくつか目についた句集があったがとりあえず師匠の長谷川櫂の「九月」を買うことにしてほかはパス。
 雑誌では「俳句α秋号」を買う。師匠が平成俳句の問題について宮坂静生、対馬康子とかなりページを割いて論じているのが目に付いたので。「人類に空爆のある雑煮かな」が論じられているが、このような作ってみましたという作り方はネット俳句時代の特徴ではないかというあたりは面白かった。
 さて肝心の句会は「曼珠沙華」が兼題。「故里は駅から三里曼珠沙華」が何人かのメンバーの得票を得たが長谷川主宰の選は得られず。ただごと俳句であるとの評価。ごもっともだが、できてしまった以上捨てられなかった。常総筑波鉄道(廃線)小田駅、関東鉄道石下駅、宗道駅から2里以上離れた家に私たちは徒歩で歩いたのだった。
 
  故里は駅から三里曼珠沙華
  
  
   

2018年9月20日(木)
日限り日記

 [現代中国小説の人気]
 「お客様に予約いただいた本が入ったので取りに来て下さい」という連絡メールが横浜市立図書館から入った。
 予約したのが2018年1月26日、メール連絡が来たのが9月19日だから8ヶ月近く待たされたことになる。
 この本は陳浩基の「13・67」の日本語訳で、予約したときには30人以上待ち人数がいたと記憶する。
 私が借りた目的は、原書で読んで分からないところを参照するためである。原書の方は2017年の12月16日から2018年2月18日まで2ヶ月かけて読んだ。読んだ直後なら記憶もクリアだが7ヶ月前に読み上げた内容も忘れかけているし、疑問点は印を付けてあるとはいえ頭に明確に残っているか少し心配だが、借りてくることにした。
 ついでに、最近翻訳が出たばかりの劉震雲「ネット狂詩曲」(原書名「吃瓜時代的児女們」)も原著の参考にするため申し込んだら、これも予約が10人いる。
 これだけ待ち人数がいるというのは驚きだ。最近中国・香港・台湾の作家が面白いという評判が行き届いているのではないか。日本の読書水準はすごいものだと思う。
  
  
  大陸の風のべとつくハンモック
  
 

2018年9月18日(火)
日限り日記

 [テレビドラマ]
 一度救急病院の世話になったことがある。その時の印象は救急救命センターで働く医者がみな若いことだった。多分不規則の時間に対応させられるにはかなり体力が要るに違いない。
 だから、連続テレビドラマの「コード・ブルー」のドクターヘリの救急の医者がみな若くても、違和感はなかった。むしろテキパキと事態に対応する様が、心地よかった。それで毎週よく看ていた。
 つい最近では「この世界の片隅に」が良かった。戦時中の広島、呉に住む家族の物語で、しんみりとした情感があった。3ヶ月続いたが次の週が待ち遠しい感じさえした。
 原作はこうの史代の漫画だそうだ。「海街ダイアリー」もそうだが、漫画の原作は大衆が見ても共感できるように筋が練られている。
 「コード・ブルー」の前は「校閲ガール、河野悦子」をよく看た。若い女性が頑張っているのを見ると実社会でも映画テレビでも応援したくなる。
 いまは「この世界の片隅に」ロス症候群。次の良い作品とどう出会えるのか。
 
  百年前の花の押し花秋の声
 
 
 
 

2018年9月15日(土)
日限り日記

 [会社OB会]
 会社のOB会に出席した。
 OB会では現役の社長がOBに向かってご要望があれば現役の役員にお聞かせください、などと言うが、なにか具体的なことを言うとだいたいはいやな顔をされてしまう。
 自分も現役の時はそうだったのでよく理解できる。OBは現役と違って情報がないから的外れな要望をする。よしんば情報があったとしても老人が若い人よりも正しい判断が出来ることはまずない。いやむしろいまの問題はそもそもOBが現役の時に作って解決を後世につけ回しにしたものではないか。
 会社の業績が良くて配当も良ければ自ずから何も厳ししいことは言わなくなるが、そうでない場合はどうしても言ってしまう、昔の自分たちのことは棚に上げて・・・・・。
 こう書いてくると政治の世界でもどの組織でも同じことが言えそうですね。
 今年の反省として来年こそは何も要望せずににこやかに出席するとしよう。まあOB会など本当はなくても良いと思うのだが、これまたどの世界にもある。「ひとに知られなくても怒らない、君子ですね」(「論語」第1章)とは行かないからかも知れない。

 
 
    葉隠れに我を誘ひし葛の花
 
  
 

2018年9月13日(木)
日限り日記

 [祖父の作った押し葉・押し花]
 師範学校の植物の教諭であった祖父が作った押し葉・押し花については前回52種を整理し、このホームページのファミリーギャラリー第五展示室「押し葉」で公開した。
 ところがその後故郷の家を整理していたらその続きが現れた。いま遅まきながら整理しているが、かなりの数になる。前回の52種を含めて163種まで整理し終わったところだがあと100種ぐらいはありそうだ。
 何れも祖父が茨城師範、岡山師範に勤めていたころ作ったものである。明治37年1904年、27,8歳の時に採取したものが多い。採取されてから110年以上経っているので、押し葉・押し花はかなり傷んでいるものもある。それを丁寧に張り直して、表に作り、写真を撮ってホームページに掲載しようとしている。
 かなり傷んでいるし色褪せてもいるので、いま本やネットで見られるような美しい草花集には及ばないが、祖父が丹精を込めて作った息吹みたいなものを押し葉・押し花は百年を経たいま発しているようにも思う。
 押し草はA4程の台紙に貼られて科に分類され新聞紙に包まれている。新聞紙は、山陽新報、神戸又新日報、国民新聞でちょうど日露戦争の最中だから勇ましい論説記事に溢れている。これを読むのも楽しみである。
 
  地震(ない)震りし胆振(いぶり)大地やエゾリンダウ
  
  
  
 
 

2018年9月9日(日)
日限り日記

 [大学の先生]
 いま大学時代の教科書やノートを処分しようとして、せめてリストでも作っておくかと思い作業を進めた。
 1年2年の教養学部時代は、概論と語学が中心になる。概論では法学概論の尾高朝雄、政治学の京極純一、経済学史の玉野井芳郎、哲学の淡野安太郎、西洋史の江口朴郎などを覚えている。
 語学の先生はさっぱり覚えていない。大学の1,2年の時に英語とフラン語が必修科目で、教科書を見るとバートランド・のラッセル「Living in an Atomic Age」やペローの物語などを読んでいるようだが、そこに書いてある先生の名前で顔がさっぱり浮かんでこない。
 先生の名前は、嶺、平岡、平野、武者小路、水野、羽柴、梅原、前田、杉山、日高など大勢の名前が書いてあるから多分毎日のように授業があったのかも知れないし、選択で取っている授業もあったのだろう。のちに高名になった先生もおられた(前田陽一先生は当時も有名だった)と思うのだが覚えていない。所詮は、教養としての語学という意識が、教える側にも教えられる側にもあったためではないか。現代の作家松浦寿輝のキャリアに大学教養学部のフランス語教授というのがあるが、特殊な才能を持った先生でも大体このような一般語学を教える仕事をされていたのではないかと思う。
 3年4年になって専門課程に入ると、さすがにほとんどの先生を思い出すことができる。憲法の宮沢俊義、民法の川島武宜、刑法の団藤重光、国際法の横田喜三郎、商法鈴木竹雄、労働法の石川吉右衛門、行政法の田中二郎、経済原論の木村健康、社会政策の大河内一男など。
 ノートをめくってみて面白いのは岡義武の政治史、日本外交史だ。ほとんど講義そのままを筆記している。よく飽きもせず書いたものだと思う。有名な名調子の先生だから書きやすかったのか。征韓論・西南戦争の項などはいまどの本で見るよりも明晰である。
 専門の学問は大部屋の講義形式でありゼミのない場合は先生に取り付く島もなかった。教養の学問にこそ面白味があり、特に語学は少人数だったからその気になれば先生といろいろ話をする機会があったのかも知れない。
 私にはそれだけの心の余裕はなかったが、なにか贅沢なもったいない時間を見過ごしたのかもという気もする。もっともいま学び直したらどうすると聞かれれば心もとないが。


  あれこれと残務残りし残暑かな
  
  
  
 

2018年9月6日(木)
日限り日記

[萬葉の花の会]
 國學院大學で開かれる「萬葉の花の会」に出席。年に一度の会で今年で20年以上になるそうだが、私は今年で3回目。今年は「ほんとうの萬葉の花」「萬葉集の謎の植物」「花の民俗を探る」といつもながら真面目な演題である。参加者はお年寄りが多いが今年も三百人以上いたと思う。
 講演のほかに、活け花の実演があったり、キャンパスに植えられている「萬葉の花」の鑑賞ツアーがあったりして、一日気楽に過ごせるのが良い。大学の主催ではなく、職員や学生のOBが主宰しているらしいが、それにしては講師陣が揃っている。
 「萬葉集」では160種余の植物が詠まれているがそのすべてが現在の何の植物に当たるかわかっているわけではない。講座「萬葉集の謎の植物」では
 
道の辺の 壱師の花の 灼然く 人皆知りぬ 我が恋妻は (萬葉集人麻呂歌集)
(みちのへの いちしのはなの いちしろく ひとみなしりぬ あがこいつまは)

の「壱師(いちし)の花」は彼岸花・曼珠沙華であろうというのが有力だが、「萬葉集」には「壱師の花」はこの一首のみであること、室町時代に出た国語辞典「温故知新書」で「曼珠沙華」がはじめて表れるまで、あの派手な「壱師の花」が一首も詠まれていないことから、「壱師の花」が彼岸花・曼珠沙華かは疑わしいという人も多いという話があった。

 活け花では、木五倍子(きぶし)の枝に、うけら、りんどう、女郎花(おみなえし)吾亦紅(われもこう)、チョウジなど秋の花を花瓶に活けた。日本に華道の流派は900以上、形を重んずる派、形に囚われない派いろいろだそうだ。俳句に似ていると思った。今日の先生は洗心流で形を重んじない流派とのこと。でも説明していることは形に他ならないと見た。
 
 花活けてたちまち立ちぬ秋の風
 
 
 

 

2018年9月4日(火)
日限り日記

 「書き言葉の力」
 この夏から秋は、手持ちの書類を整理しようとしている。
 昨日は三冊ある名刺のファイルを1冊にするために名刺を捨てることを始めた。
過去いただいた名刺を眺めると、急に当時のことが蘇ってくるが、こないときもある。政治家では山崎拓、村山達雄代議士等に会ったのは記憶にあるが、宮沢喜一首相、谷垣禎一自民党総裁にはどこで会ったのか、名刺は残っているがはっきりしない。
 自動車、電力、通信会社の社長の名刺もある。訪問したり、業界の集まりなどで名刺交換をしたもので、特に親しいというわけではない。
 名刺等一枚の紙切れを見ただけで自分の過ぎ来し方の一端を明確に見ることが出来る。自分史を書く気はないが、自分史を書くとしたらこれは有力な資料になる。書かないとしても頭の中に自分史はあるわけで、証拠書類は簡単には捨てられない。マハトラ・ガンジーの言うように、明日はないと思って生きているつもりだが、永遠に生きると思って勉強してもいる。そう簡単に過去を捨てきれないことが分かった。
 古代日本には文字がなかった。文字がなかった時代のことは遺跡や埋蔵物によるしかない。
 しかし、一字、一行に勝る遺跡、埋蔵物はない。たかが名刺、されど名刺も重要なことを物語ることができる。目標の1冊にはできませんでした。
 
 
 盆踊り遠くに聞きて手紙書く
 
 
 
 

2018年9月2日(日)
日限り日記

[社外勉強]
 日経新聞8月27日から4回ストライプインターナショナル石川社長の「こころの玉手箱」が載った。それによると事業を興してからしばらくして、大学に入学して5年かけて卒業した。更にしばらくして大学院に通った。何れも社長業をやりながらである。
そして同社の役員もスクールに通い始めたとのこと。
 創業者であるから特殊だとは思うが、私たちの現役のころ、つまりいまから30年以上前の高度成長期時代とは大分違うように思う。私たちが現役のころは新任役員教育は、P.F.ドラッカーや旭化成の中興の祖と言われていた宮崎輝流の教育が全盛だった。
 宮崎流教育とはすなわち「学生時代は英語を徹底的に勉強しろ。新入社員時代は会社の第一人者になれ。課長時代は経営者意識をもて。そして取締役になったら死にもの狂いで勉強せよ」という方式である(「取締役はこう勉強せよ」)。
 ほかに江戸幕府教学の太宗であった佐藤一斎の「重職心得箇条」なども渡された覚えがある。いずれにしろ要は、取締役になった以上、24時間自分の会社のことを考えよ、というものであった。
 それでも当時もしっかり自分の考えを持っている人もいて、定時間が終わると夜間大学で専門知識を勉強する取締役もいた。しかし、極めてまれであり、まわりからいい目では見られなかったと思う。
 石川社長の例は、社長や取締役が社外で勉強することが自分の会社の利益になる、という考えだが、当時社外勉強をしていた人は、会社の利益と言うよりは自分の利益のためであったかも知れない。自分の利益がまわりまわって会社のプラスにもなるという話には到っていなかったと思う。
 このような信念のある人は当然やる気も旺盛だからやがて会社を卒業してからは成功している人が多い。一方24時間自分の会社のことばかり考えていた人は、会社卒業後も狭い行動しかできない人が多い。それはこういう会社人間がいたからこそ会社ひいては国家の成長があったと思うしかない。
 森鴎外はじめ有能な人は長い間本業(陸軍軍医)と副業(作家)の両立に苦闘してきた。いまはこの面でも様子が変わっている。いまは人間の可能性を広げるという方向に向かっているのだと思う。

 泣き顔に似た笑い顔曼珠沙華