2018年8月31日(金)
日限り日記

[資料の整理]
 今週は書類整理に格闘とした。
 書類は、一番目の会社、二番目の会社、自費出版した本の資料、いま執筆中の家族史の資料の四つに大別される。
 一番目の会社の資料はもう25年前のものだが、プロジェクトの責任者として企業買収に当たった資料、役職の引きつぎ資料などの個人資料。二番目の会社を辞めたのはもう15年前だが、決定した重要案件の資料、進出したり撤収したりした事業に関する資料、挨拶の原稿などの個人資料。命をかけ心血を注いでいる自分がそこにいるので簡単には処分しがたい。
 2003年から2007年にかけて自費出版した本は早死にした父の回想録だが、このためヨーロッパにも出向いたので膨大な資料がある。そしていま取りかかっている家族史は原稿はほぼ完成しているのだが結構な資料数となっている。
 とりあえず一番目の会社、二番目の会社の資料は、ファイル数で120冊ぐらいあったものを、50ほどを残してあとは処分することにした。自費出版本の資料、家族史の資料はとりあえず今回は処分しない。
 資料の処分は機密漏洩防止策が必要だからは本の処分と違って簡単ではない。残された家族のことを考えれば自分でいま処分すべきなのだが、なかなかそうはいかない。自分の拠り所がなくなってしまいやしないかと思うからだ。
 とりあえず自分にはもうしばらく時間があると勝手に思って、今回はこの程度にしておこう。
 もっともなにか新しいことをやろうとすると、また資料が増えて置き場が溢れる。生きるということはそういうものかも知れないが。
 
 
  猫の骨埋めん桔梗の開く朝
  
 

2018年8月28日(火)
日限り日記

「戦争を詠む」
 朝日カルチャーセンター新宿で長谷川櫂「一億人の俳句入門」教室。
 その前にいつものようにブックファースで新刊本を確かめる。
 今日見たのは長谷川櫂の新しい句集「九月」。このところ長谷川の句集は文庫本の大きさのものが多い(「沖縄」など)。でも青磁社の出版であり、装丁は美しい。
 ほかに見たのは、「冬将軍の来た夏」「鬼殺し」(甘輝明)「海峡を渡る幽霊」(李昴)。何れも台湾の作家。いま台湾の作家が熱いと思う。見たのは翻訳本だが、やはり原書で読みたいという気持ちが湧いてきて、買うのを諦める。
 「一億人の俳句入門」教室の今日の兼題は「戦争関係」。私が出したのは
 
 庭の(ひき)にも無差別の焼夷弾
 次男坊は戦死碑となり灼けてをり

 この新宿朝日カルチャーセンターのある住友ビルにほど近い淀橋区十二社にあった祖父の家は、昭和20年4月13日の東京城北大空襲で全焼した。小学校5年生の私はその庭に蟾蜍(ひきがえる)がいたことを覚えている。

 祖父の次男坊はノモンハン事変で29歳で戦死した。祖父は悲しんで大きな慰霊碑を建てた。いま田舎に残っているのは慰霊碑だけである。私はいつもそのことが気になっている。

 戦争はまだそれぞれの人にそれぞれの傷跡を残している。今日もシベリアに抑留されていた父が彫った木匙を読んだ句があったのがそれである。戦争の苦しみは世代により差があり、分かり合えないもどかしさがある。だから戦争を詠む句会は、終わってもすっきりしない。

  昭和てふ戦争の御代かき氷   

 

2018年8月24日(金)
日限り日記

 [映画「君の膵臓を食べたい」]
 「君の膵臓を食べたい」という映画を見た。
 前に原作である小説(住野よる著)を読んだが、確か最後は主人公の桜良がクラスメートの春樹に自分が死んだ後は、恭子と仲良くなって欲しいと言い残し、春樹と恭子は一緒に桜良の家に行こうと話が付くことで終わっている。その後のことは余韻になっている。
 映画では、恭子は別のクラスメートと結婚し、その式場で春樹が恭子に、仲良くさせてくださいと言うことで終わっている。本と映画では結末が違う。
 小説ならいいが、映画では主人公の死んだ後主人公の親友と仲が良くなるというのではあからさますぎて共感が得られないということだろう。かといって映画の恭子をほかのクラスメートと結婚させるというのも不自然だと思ったが。
 まあそういう小さな問題はあるが青春物語として堪能した。
 妻はいい年をして、このような夢物語を見るなんてと笑っているが、なぜか「海街ダイアリー」とかこのようなロマンティックな物語が好きである。悲惨なもの、怖いものはいまさらもういやなのだ。青春ロマンティックものが何故好きなのか分からない。過ぎ去ったことへの憧れであろうか。
 
 八月やマリリンモンロー忌なりける
 
 
 
 

2018年8月22日(水)
日限り日記

 [長演説]
 今回の高校野球夏の甲子園大会は大阪桐蔭の春夏連覇2回なるか、東北地方の公立農業高校金足農業の優勝成るかなど話題の多い大会だった。
 酷暑が続いて、熱中症が出やしないかと心配されたが、選手に足のけいれんなどが多かったように思うが、特に大きな問題は生じなかった。
 審判が上手だったなど良い点は沢山あったが、悪かった点の第一は、閉会式での朝日新聞社長の長い閉会の辞。
 暑くてしかも両軍熱戦に疲れ果てたなかでの演説。選手と観客にお礼を述べたから、ここで閉会の辞らしく短く終わるかと思ったらそれで終わらずにその後が実に長かった。長いことでマイナス点、さらに直前に演説をした審判委員長の講評と同じ内容を言っていることでマイナスが加重。
 開会式での近江高校のキャプテンの選手宣誓が実に簡潔で内容があっただけに、大人というのは場所をわきまえないで自分の言いたいことを言う人だと選手は思ったのではないか。閉会の辞を聞きながら整列した選手がたまらず足を動かしていた様子がテレビに映っていたから、本人はしっかり見て欲しい。次にはなるほど世間をリードするマスコミの長の演説だなと思わせる場所をわきまえた演説をして欲しいと思う。


 八月や日本に戦争甲子園


 

2018年8月20日(月)
日限り日記

[マスコミ偽善者列伝― 建て前を言いつのる人々]
 三省堂で、孫に本を買う。「くまのプーさんプー横丁にたった家」など。
 加地伸行の新刊を立ち読み。この中国学者(1936年生まれ、中国哲学者とある)が何を思ったのか「マスコミ偽善者列伝  建て前を言いつのる人々」を書いた。帯には「おかしくないか、野党とマスコミ、その時だけの絶対反対の大合唱」とある。
 私は加地の本は、「論語全訳注」「現代中国学」「漢文法基礎」などを持っている。わけても「漢文法基礎」は類書のない勝れた本であると思う。古典にしろ現代文にしろ中国語にはいい文法書がないが、この本は他の外国語の文法書に比べても遜色がない。ページを拾い読みしても十分に面白い。私にとっては無人島に持って行く一冊の本の候補だ。
 今回出した「マスコミ偽善者列伝  建て前を言いつのる人々」については加地にこのような裏技があったとは驚きだ。池上彰、小池百合子、瀬戸内寂聴、寺島実郎、浜矩子、福島瑞穂などをやり玉に挙げている。しかし立ち読みした限りでは切り口は単純で中国古典の箴言に照らしてどうかと言っているようなものだから、名前が挙がっている人も別に目くじらを立てるまでもないと思っているかも知れない。もっとも箴言に照らして、というのは理屈づけであって、本当は直感で嘘くささを見抜いているのだろうから、韜晦しているのかも知れない。
 儒学の研究者らしく、革新に厳しい切り方もようだ。孔子は封建制度下の君子を中心とした安定した体制で庶民の暮らしが良くなることを願い、そのためにはまず為政者が徳を治めなければならないと説いた。このため、毛沢東は孔子を反革命分子として批判した。
 加地は中国学者、儒教の研究者として孔子の影響を陰に陽に受けている。だからこのような自分では気がつかないかも知れないが反革命者になるのだろう。
 少し一方的なところがあるというのが立ち読みした印象だ。今日は孫にプーさんの本を買ったのでとても重くて持てなかったが、きっと買うことになるでしょうね。
  
 
  孔子一行爽やかにやせ我慢
 

 
 

2018年8月18日(土)
日限り日記

 [選手宣誓]
 命に関わる暑さだから用のない人は外出しないようにと、何の権限があってか気象予報士が言う。そこで今年は家で甲子園の高校野球をよく見た。
 智弁和歌山との試合でこの優勝候補を破った滋賀の近江高校の監督が勝因を聞かれてあげた理由の第一に、近江高校のキャプテンが開会式で落ち着いて素晴らしい選手宣誓をしたことを挙げていたのが印象的だった。あれがとても良く出来てチームとしても力をもらった、という言葉がとてもよかった。監督は引き当てたチームのキャプテンの宣誓がうまく行くかどうか実際の試合とはべつに心配していたのであろう。私は宣誓の内容は覚えていないが、良く出来たことを我がこと以上に喜ぶ監督の気持ちが忘れがたい。
 近江高校はその後勝ち進んで今日準々決勝を戦っている。
 選手宣誓では2011年3月11日の東北大震災のあとのプロ野球の復興支援試合で東北楽天イーグルスの島主将が宣誓した文が永久に人びとに記憶されている。
 
 「(前略)地震が起きてから、眠れない夜を過ごしましたが、選手みんなで自分たちに何ができるか?自分たちは何をすべきか?を議論し、考え抜きました。
今、スポーツの域を超えた野球の真価が問われています。
見せましょう、野球の底力を。
見せましょう野球選手の底力を。
見せましょう野球ファンの底力を。
共に頑張ろう東北!
支え合おうニッポン!」
 
 伊集院静は世の中で一番阿呆なのがプロ野球選手と言っていたが、島の挨拶は其れを百八十度ひっくり返す挨拶だった。
 
  引越荷に自転車五台秋晴るる
 
 
 
 

2018年8月17日(金)
日限り日記

[ノモンハン―責任なき戦い]
「ノモンハン―責任なき戦い」(NHK)を見た。
 1939年5月、満州国の関東軍とソ連・モンゴル軍が国境を20㎞前進させるか後退させるかを争い武力衝突した。アメリカの資料館に残っている戦後行われた日本軍幹部のインタビュー録音を交えて、ノモンハン事件とその責任を探る番組である。
 この戦争の兵力は日本軍2万5千人、ソ連・モンゴル軍5万7千人で、日本軍の死傷者は2万人。日本軍は主力部隊の大半が死傷するという敗北だった。戦闘の結果としてソ連・モンゴル軍は彼らの主張する国境線を獲得した。
 司馬遼太郎はこういう馬鹿な戦争をする国は一体何だったのであろうと言い、ノモンハン戦争を書くことを諦めたという。
 私の叔父は大学卒業2年後昭和12年に徴兵されて見習士官となり昭和14年ノモンハン戦争で小隊長として29歳で戦死した。私はこのことから、ノモンハン戦争について調べたことがあるし、関係する本(「機関誌・ノモンハン」、「ノモンハン」(五味川純平)、「ノモンハンの夏」(半藤一利)、「辺境・近況」(村上春樹)なども読んだことがある。
 調べた結果もそうだが、今回のテレビ番組を見ても、職業軍人のエリート層(大本営参謀、関東軍司令官・参謀)はどうしようもなく青臭い教条主義(国境戦争は精神で頑張りぬいた方が勝ちなど)で、言論・実力の凶暴性と兵隊に対する無神経さを持っている。彼らの事後の言葉を聞くと、実に言い逃れが多く、開戦の理由は曖昧であり敗戦の責任は常に自分以外にある。制服を着て厳めしい格好をしているからしっかりした考えを持っていると思うのは間違いである。
 何が彼らをそうさせたのか。政治が軍を統制出来なかったこと、それが即昭和の大戦争時代をもたらしたのだと思う。
 現在軍人のなかには、危険な思いをする軍人であるからこそ平和を誰よりも願っているので簡単に戦争はしない、と言うひとがいるが私は疑いを持っている。軍人は放っておけば戦争の種を作って戦争するグループであると思っていた方が間違いない。東条英機陸軍大将を首相に任命して戦争を回避させようと考えたことがまことに愚かなことであったように。


  ノモンハン戦場広し草の花
  
  
  
  
 

2018年8月15日(水)
日限り日記

 [湯沢メモ]
 日米開戦の前日の1941年12月7日、東条英機首相が天皇に面会したあと、部下に語った「湯沢メモ」が最近見つかった。それによれば、
 「それは全く陛下のご決意にもとづくものにして、これを決するまで陛下はすこぶる軫念(しんねん)あらせられ種々の方面より検討せられたるも一旦決したる後は悠々として何等のご動揺なく実に〇しき極みなりと」また「自分(東条)の承知おる事はすべて言上しをれり、すなわち一般情勢は勿論将来なすべき事に対しても一々言上しをれるが故に明日の行事を本日奏上せる際においてもウムウムと仰せられ何ら平生と異なるところなかりし次第なり。自分の知ってをる事はすべて陛下におかせられてはご承知あらせられる次第なり」「陛下におかせられて幾分にても対英米交渉に未練あらせらるればこれが何処かに反映して暗き影が生ずべし。これなかりし事即ち御上のご決意の結果なり」。
 東条総理は微醺を帯び「全く安心せり。かくのごとき状態なるが故にすでに勝ったということが出来る」と湯沢内務次官に必勝の信念を吐露した(「メモ」からの抜粋)。
 この「湯沢メモ」に対して、学者は東条を「陸軍エリートの限界」「情勢分析の甘さ露呈」などと評価している。
 東条に関しては誠にそうであろうが、この「湯沢メモ」通りだとすれば、昭和天皇が明白に開戦の決定に関わっているということであろう。
 東条は東京裁判の法廷で自分の戦争への関与の状況をるる述べた。しかし彼が整然と説明すればするほど、昭和天皇が開戦の決定に関わっていたことが明らかになるので、弁護士はその旨東条に注意した。忠君東条はその後発言しないようになった、と聞いたことがある。東京裁判はマッカーサーの方針に基づき、初めから天皇の戦争責任は問わないという方針であったが。
 昭和天皇は側近の木戸幸一内大臣の退位の助言を退けた。木戸は信じられなかったという。またA級戦犯が合祀された以降靖国神社への参拝を中止した。
 昭和天皇は戦前戦中は君主であり大元帥として、戦後は慈悲深い国民統合の象徴として天皇の役割を果たしきった。
天皇が戦争責任を問われなかったことは多分政治的には日本にとって良かったかもしれない。
但しあれほど開戦、戦争遂行、終戦に関与しながら責任を問われなかったということは道徳律に照らしてどうかということは残る。


   八月十五日みな善人の顔とな
   
   

2018年8月13日(月)
日限り日記

 [日本軍兵士]
 「日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実」(吉田裕)を読む。
 実際の戦闘で戦死するよりも戦病死、餓死、海没死、戦場での自死などが圧倒的多かったこと、衣服・装備が劣悪だったことなど兵士の目線に立った実例が語られている。これだけの規模の戦争を到底遂行できない非近代国家の軍隊の実情が語られていて胸が一杯になる。
 その中の実例を一つあげてみると
 
 「飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようにたった。1944年に召集され、フィリピンのルソン島で終戦を迎えた元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第三の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第三の敵について次のように説明している。
 
 「彼等は戦局かますます不利となり、食料かいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。」 山田淳一「比島派遣一軍医の奮闘記」
 山田は非人道的な日本兵の例を挙げているがそのような行動に追い込まれた彼らも被害者なのである。
 
 
  戦争一年戦禍百年敗戦忌
 
 
 
 

2018年8月11日(土)
日限り日記

 「戦争調査会、戦争の起源」
 太平洋戦争敗戦の年、幣原総理大臣は戦争の原因と実相を明らかにするため政府機関として「戦争調査会」を設置する。会は40回以上開かれたが、マッカーサーの命を受けた後の吉田総理大臣の命令によって廃止された。調査会の成果はまとまられておらず、議事録や調査資が料15巻残された。
 調査会のメンバーは戦争責任により「公職追放」をされていない、戦時体制に手の汚れていない人が選ばれた。この調査会の議論の良い点は、起こったばかりの出来事を反省している時間の新しさであり、マイナス点は本当に戦争に関わった責任ある人たちによる反省でない点であろう。
 
 戦争調査会で出だされた戦争の起源に関しては次のようなものがあった。
1, 明治維新に起源がある。 
維新政府は西欧帝国主義の模倣、対外膨張を志向した。
2, 日露戦争の勝利。
日本国の戦争力への自身が生じた。
3, 日本近代化意識と中国蔑視
これは主に徳富蘇峰によって論じられた。「日本人は支那与し易しという一念のために自国を失わんばかりの大きな代価をはらった。今少し日本人が支那を知り、支那を研究し、支那に向かって善処する途を得たならば、今日のごとき事態には立ち至らなかったと思う。」「日本人には大陸の経営に成功する見込みなし。支那人にとって最大の禁物は干渉政治であるから」。
4, 第一次世界大戦後の平和とデモクラシーによる国民の軍人蔑視とこういう風潮に対する軍人の反発(軍人の軍縮に対する反発)。
 5, 満州事変不拡大を実現できなかった政党政治の無力。
 6, 人口問題と資源不足という課題。
 7, 5.15、2.26事件などのテロリズム。
 
 徳富蘇峰の危惧するような日本人がどうして増えたのか。1840年阿片戦争で清国があっけなくイギリスに負けるまでは日本にとって中国はすべての点で見習うべき先生だった。明治維新の西欧化を経て1894年日清戦争に勝利した日本はかつて先生だっただけにかえって中国に対する態度が高慢になったのではないか(窪田城氏は日本人の国民性を「追随と増長」ととらえている)。
 一方、戦争前夜、近衛文麿が外遊し帰国すると欧米の対日感情を知ろうとして新聞記者が群がる。翌日には近衛公談が新聞の第一面に載る。日本のマスコミや大衆は近衛という国際通を通じてしか欧米の情報を知る方法がなかったし、それ故彼我の国力、軍事力の差について無知であった。とすれば江戸300年の鎖国も昭和戦争の起源と言えるかも知れない。
 
 
   家家の戦禍それぞれ敗戦忌
 
 
 
 

2018年8月9日(木)
日限り日記

 [町田康の講演]
 「日本近代文学館」の「夏の文学教室」の私が出席した最後は町田康の「理屈の笑い」という題の講座。
 町田康の語る内田百間の魅力とは、と言う副題が付いている。
 私は内田百間は「ノラ」もの以外に読んだことはないし興味もない。むしろ町田康に興味がある。といっても町田康も「御伽草子 付喪神」と「宇治拾遺物語」町田康訳を読んだだけである。
 しかしこの二作が、二つながら面白かった。抱腹絶倒した。
 町田はミュージシアンでもあるらしい。だから登壇したときから聴衆を惹きつける雰囲気がある。
 町田は内田については「常識がない」「文章のなかに自由があるので、読者が自由な心地になり幸せになる」と言っていた。偏屈で絶対に自分のしたいようにする。主に・酒、・特異な感覚、・金、・列車、・猫を、異常な観察描写、幻想力、記憶力、拘泥力で考え作品にするとも。そしていくつかの点で自分によく似ているとも。
 今日は町田というスターを見に行っただけ。翻訳などの規制があるものは良いが、創作では何処に連れて行かれるか計り知れない人だという予想は当たったと思う。怖くてなかなか読むことの出来ない作家ではある。
 
 
  大海へ万の灯籠原爆忌
  
  
  
 

2018年8月7日(火)
日限り日記

 「マジック・リアリズムの先駆者としての北杜夫」
 「日本近代文学館」の「夏の文学教室」作家磯崎憲一郎の講演。
 磯崎憲一郎によれば日本の小説は総じて、息詰まるような感じ、もしくは政治的であるのに対して、北杜夫の小説は、・外向きの視線、巨視的な視点・風通しがよい・描写が大袈裟で過剰・少なくない大胆さ・ウエットでなく読者に感情移入をさせない・内面的なものを突き放す、といった特徴がある。
 北杜夫の代表作は1964年に発売された「楡家の人びと」であるが、これが発売されると三島由紀夫は「戦後に書かれた最も優れた小説」と絶賛した。
 北はトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」のような小説を書きたかったそうだ。しかし手法はあくまで北杜夫のもので、青山脳病院の院長、二代目の婿医院長などの描写は、虚実入り乱れて大胆でありかつ大袈裟である。
 北の手法は後に日常にない幻想の世界を日常にあるものと融合させて描くマジック・リアリズムの旗手として登場するガルシア・マルケス、就中「百年の孤独」の手法に類似する。しかしマルケスの「百年の孤独」が出版されたのは1967年で「楡家の人びと」の方が早い。北はマジック・リアリズムの先駆者と言ってよい。
 北は国の褒章を辞退し、文学の選考委員にも就かなかったが、マンガの選考委員などはやっていた。現代の作家川上弘美も小説家で先ず思い浮かぶのは北杜夫と言っている。漱石、太宰、谷崎、三島などとは違った文学への入口があるのではないか。
 以上が磯崎の講演の要旨である。
 私はかつてロジェ・マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」、莫言「豊乳肥臀」、マルケス「百年の孤独」を読んだときにこれらに匹敵するものを日本で探すとしたら、少し及ばないが「楡家の人びと」しかないのではないか、と書いたことがる。家史小説という点からであったが、今回マジック・リアリズムという観点から磯崎に指摘されて更に満足した。
 
 
 マルケスに会いに行きたし花に鞍
 
 
 
 

2018年8月5日(日)
日限り日記

 「中島敦の文章の力と味わい」
 「日本近代文学館」の「夏の文学教室」林望教授の講演。
 資料が配られたが、これが「山月記」(中島敦全文)、「寒山拾得」(森鴎外抜粋)、「甲州紀行はがき便」(徳富蘆花抜粋)、「帰去来辞」(陶淵明 読み下し)、「源氏物語玉の小櫛」(本居宣長 抜粋)と内容の濃いものである。
 講師は「山月記」を朗読した。ついで「源氏物語玉の小櫛」を朗読した。「源氏物語玉の小櫛」はほぼ100%やまとことばであると言う。そしてこう言った。
 「漢文脈」で書かれた「山月記」は原文を見れば内容が分かるが、朗読だけでは内容が理解できない。「源氏物語玉の小櫛」は原文を見てもわかりづらいが、朗読を聞けば大体内容が分かる。これは「漢文脈」が多くの漢字を使って書かれており、五万語ある漢字は同音異義語が多いから、見れば分かるが聞いても分からないのだ。「和文脈」はもともと字がないときの文だから、聞いて分からなければ役割を果たさないからだ。
 そしてなぜだか分からないが、「漢文脈」がスピード感、悲壮感、高揚感があり男性的なのに対して、「和文脈」はスピードが遅く女性的である。谷崎潤一郎や折口信夫の文を見れば分かるだろう。だから、「和文脈」は聞いて分かるけども、朗読されないのに対して、「漢文脈」は聞いて分からないのによく朗読される。これは不思議なことだと自分は思っている。
 「漢文脈」の文章が書けるのは勉強をしたいわば特権的な人である。「山月記」は元は「人虎伝」によったものだが、翻訳ではなく中島敦の独自の発想がある。そして「漢文脈」を書く人は漢心(からごころ、中国的なものの考え方。中国の文化に心酔し、それに感化された思想を持つこと、やまとごころと対比)がある人と言える。
 以上が林先生の講義の概要である。久しぶりに内容のある一時間の講話でした。
 
ところで今私たちが使用している日本語は、夏目漱石たちが格闘して作り上げてきた日本語がさらに発展したものであり「和文脈」と「漢文脈」が入り交じった文体になっている。気がついている人は少ないが、漢心はないにしても言葉を通じて中国的な考え方は我々の考え方に影響を与えているのではないか。
 
 
  丹波竹八尾(やつお)の和紙を京団扇
 
 
 
 

2018年8月3日(金)
日限り日記

 [#中島京子]
 日本近代文学館、夏の文学教室に参加した。450人収容のよみうりホールがほぼ満員。
 今年は「近代と現代の間―昭和の文学から」という題である。6日間のうち2日興味のある題目がある。
 その一つが中島京子の「#Me Tooと「女性に関する十二章」」。講師に興味があるので参加した。
 中島京子は「小さなおうち」「妻が椎茸だったころ」「長いお別れ」などが面白かったし、中国文学に造詣が深く翻訳をしているばかりでなく、作家余華などと付き合いがある。私としては今気になる作家の一人である。
 ところで題目の「#」は「ハッシュタグ」と呼び、ウエブ言葉で「について」ということらしい。つまり伊藤整の「「女性に関する十二章」について」という題目である。
 伊藤整(1905-1969)は私が学生時代に活躍をしていたエッセイストであり翻訳家である。小説も書いたようだがインテリで少し斜に構えた評論家という認識はあるが、昭和を代表する作家とは思えない人だった。「女性に関する十二章」も読んでいるが、シニカルなへそ曲がりの人のエッセイという印象がある。
 中島は、「女性に関する十二章」のなかには、「男とはこういうもの」と男を弁護する意見がありエエツと思うところもあるが、「自分さえ我慢すれば」という日本人女性の情緒は止めた方が良いと伊藤が言っているのはこの時代としては卓見だ、と評価している。
 そしてこれは、必ずしも日本の女性に限った情緒ではない。ハリウッドの女優の最近の「Me Too」運動を見ると、今のアメリカの女性でもセクシュアルハラスメントをこんなにまで我慢するのかと驚かされる、と中島は言っている。
 中島は伊藤の主張について感心しているが、伊藤が活躍をした時代つまり私が学生であった時代と今の時代で、女性は自立すべしとする主張についてそんなに大きな懸隔はないと思う。女性の自立について、実現された結果は随分進歩してはいるが。中島の時代認識について些か異議がある。
 今日は中島京子のファンとして品定めをしにいっただけだから良しとしよう。まあ今後とも中島ファンで在り続けられそうでよかった。
 
 
  炎帝に命あづけてお勉学
  
  
 
 

2018年8月1日(水)
日限り日記

 [刃物屋の爪切り]
 「日本近代文学館」の「夏の文学教室」よみうりホールに出席。
 その前に日本橋三越へ。
 神田から地下鉄で。昔姉は室町にある会社に勤めていて、私は大学生時代によく小遣いをもらいに行ったものだ。近所に都電今川橋駅があって姉は学生寮に帰る私に今川焼きを持たせてくれた。当時の様子をもう少し正確に知りたいが頼りの姉はもういない。
 三越ではスラックスとスニーカーを見る。スラックスは、綿、ワンタッグ、紺色、ウエスト88という条件で探した。ブランド店を結ぶコンシェルジュなる者がいてなるほど便利になっていると思ったが、この人はありそうなブランド店に連れて行ってくれるだけで、私の足が棒になるのは同じだった。結局条件に合うスラックスはなかった。
 スニーカーは思っていたものはなかったが次善のジェオックスのものを軽いという理由で買う。
 居間の絨毯も見たかったが時間切れ。
 刃物の木屋に行こうとしたが元の場所にない。電話で聞いたら隣のCOREDO室町ビルに移っていた。立派な複合ビルの一階で外見は断然モダンだが、一歩中に入ると木屋はやはり木屋である。店内の匂いも刃物屋の匂いだし、職人が何人かいて客に応対している。
 前に買った爪切りを直してもらい、新しいものも買った。爪切りでも木屋のものは切れ味が違う。子供の家のために同じものを買った。刃物屋に来ると別にこれと言って買う当てがあるわけではないのになぜかじっくり見たくなる。切るものと切られるものが共存する危ない場所だからか、切りたい当気持ちと切られたい気持ちが交錯する場所だからか。
 専門店で専門の人と会話をしながらものを買うと充実した気持ちになる。普段、スーパー、コンビニ、ネットで黙ってものを買っている便利ではあるが空虚な気持ちを補ってくれる。人間のこころは身勝手でわがまま。
 
 
  刃物師の(ひたい)に西日日本橋