2018年7月29日(日)
日限り日記

 [スマホデータ使用量]
 7月28日15:34電車の中の私にドコモから7月のデータ利用量が残り200MBで1GB(1000MB)に到達するという注意のメールが来た。
 信じられないなと思っていたら、すぐに15:35  1.32GBに到達したという連絡メールが来た。そこには6月の利用量は0.10GBと付記してあった。
 おかしい。大体毎月0.1GBから0.2GBぐらいの使用量なので、月1GB以下で契約をしている。それが一挙に10倍20倍になるのはおかしい。しかも今も絶え間なく増え続けているとは。
 家に帰ってドコモに問い合わせてみたら、最近の使用量と、アプリ別の使用量の確認の方法を教えてくれた。
 先ず7月の26,27,28日の三日間で1.25GB使用している。アプリケーションではスポーツナビだけで724MB使用していることが分かった。後のアプリはブラウザーアプリでせいぜい30MB。
 スポーツナビはプロ野球の経過と結果を知るため長く愛用している。それでなぜ急にデータ使用量が増えたのか。しかも今も毎秒増え続けているのか。
 そこではたと思い当たったのは、この二三日、贔屓のベイスターズが不振だったため心配になり、スポーツナビでストライク、ボール、アウトカウントなど一球ごとの情報を得ていたことがあったことだ。見るのは一時でもアプリを常時使用していたのかも知れない。そのアプリは昨晩のプロ野球が終わった後も使用している状態になっていたのだろうか。そして家のwi-fi通信環境から離れた後は一般通信回線を使用しているのかも。最近のスマホは、いくつかのアプリを同時に使用することが出来るから、アプリをシャットダウンし忘れたのかも知れない。
 一応そう推定をしてドすべてのアプリを閉じ、念のためスポーツナビのアプリはアンインストールした。
 使用量の多さよりも分からないままに増えているのがいやだった。その後、データ使用量は増えていないようだ。
 スマホは情報を得るために今やなくてはならない機器になっている。しかし、この有能な情報端末にも思わぬ落とし穴がある。勉強になりました。
 
 
   叫べども声は届かず老いし蝉
 
  
 
 
 
 

2018年7月26日(木)
日限り日記

 [中国古典語は難しい]
 今「論語」を原文で読んでいる。気が向けば一日2、3章読む。20篇のうち14編まで来たから512章中350章ぐらいは読んできたことになる。
 ところが、一向に古典中国語を読む力が向上しない。相変わらず語句の注釈を読み、現代中国語を読み日本語注釈を読まないと分からない。350文も読んだのに何度原文を読み返してみても、何を言っているのかさっぱり分からないときもある。
 話によると、中国語の古文は日本語の古文ほどは現代文から解離していないそうだ。でも現代の中国人は古文を読んでもさっぱり分からない人が多数である。私の中国人の先生も、大学で文学を専攻(明以降の文学が専門)した人だが論語は原文を読んだだけでは分からないという。
 何がそうさせるのか。青木五郎の「現代中国語で読む古典」のなかの説明には、古典読解上の注意点として次のようのことが挙げられている。
 
1. 語義に違いがある。「座」に「犯」という意味は現代語にはない。
2. 品種の転用がある。動詞の「射」は古典語では「弓術」という名詞にも使われる。
3. 語順が違う。現代文では文の基本構造は、動詞・目的語の順だが、古典語では目的語・動詞の順の場合も多い。
4. 文の成分の省略。古典語では簡潔な表現を尊ぶためしばしば文の成分が省略される。主語が省略されたり、省略できるものはできるだけ省略される。
5. 古典語の特有な文型がある。
6. 虚詞の用法が多い。否定の副詞として、不、弗、否、未、亡、非、微、勿、无、罔などがあるがそれが現代文のどれに対応しているか判断する必要がある。
 
 私が付け加えるとしたら、古典語は語彙が少ないから同じ語彙でも現代文に当てはめると違う意味を持つことがあるというのも難しくしている要素だ。中国語の学者の青木先生は、中国の大学で「史記」の講義を受けたときに、「史記」の原文を聞いてもほとんどノートにとれなかったとのこと。
 私にとってわずかな慰めだが、やはり言葉は難しいということであろうか。
 
 
  紙魚眠る論語の難きところにて



 
 

2018年7月25日(水)
日限り日記

 [戦争調査会]
 「戦争調査会―昭和戦前史を検証する」(講師は学習院大学学長井上寿一)を聞きに行く。
 敗戦の年、幣原総理大臣は戦争の原因と実相を明らかにするため政府機関として「戦争調査会」を設置する。会は40回以上開かれたが、マッカーサーの命を受けた後の吉田総理大臣の命令によって廃止された。調査会の成果はまとまられておらず、議事録や調査資料が15巻残された。
 今日の講義は、「戦争調査会」で何が議論されたかということと、調査会の議論を踏まえて講師の考える戦争の起源、満州事変期の政治と外交、日中戦争から日米戦争へ、第二次世界戦争下の日本などが議題だった。
 いくつかの気づいた点を書いてみる。
 調査委会メンバーのなかの意見として次のようなものがあった(なかには講師の見解もある)。
 ・負けるに決まった戦争はやってはいけない―それなら勝つ戦争ならやって良いのか
・松岡外相の国際連盟脱退は、松岡のスタンドプレーではなく本国の指令だった。本国は満州での軍の動きが不退転であるのを見て、脱退させられるよりは進んで脱退した方が良いという判断をした。
・日独伊三国同盟はこれがあったからこそ、アメリカと対等に交渉が出来たという面もある。
 ・真珠湾攻撃でハワイを占領しなかったのは中途半端だった。
 ・サイパン島陥落(19444年)の時に戦争を止められなかったのか。
 ・サイパン、ガダルカナル島などを固守すべきでなく放棄すればよかったのだ。
・天皇制を残すのはアメリカは織り込み済みだったのだから「国体護持」などを降服条件にして時間を延ばすべきでなかった。
・ソ連を無条件降伏の仲介役にしたのは、ほかに中立国はなく方法がなかったからだ。
・戦時統制経済の経験があったからこそ、戦後の高度経済成長が国家的計画として進めることが出来た。
 
 特に目新しいものはないが、敗戦の年1945年に早くもこのように醒めた議論があったというのは驚きだ。調査会のメンバーが戦争責任により「公職追放」をされていない、戦時体制に手を汚していない人が選ばれたことに大きな原因があるのだろう。
 よく日本では東京裁判で戦争の総括をされたが日本人による総括はされていないといわれる。「戦争調査会」その一つの試みではあったろうが、幣原の将来に向けての教訓とするという目的はよかったが、占領下で戦争裁判が行われている状況下であり、調査会のメンバーにも偏りがあると思われるので、廃止されたのも当然という気がする。拙速でありすぎた。
 
 暑い日だったが定員50名を超える聴衆が集まったし、講義の後の質問も大勢手が上がった。つまり日本では今なお「戦争がどかと残暑のごとくかな」(長谷川櫂)なのであろう。
 私としては、1945年5月ドイツが連合国に無条件降伏をした後も日本一国で戦争を続けたが、その時のことを「戦争調査会」ではどのように議論されたのかを聞きたかったが、機会がなかった(「戦争調査会―戦争への道を検証する」(井上寿一 講談社現代文庫参照)。
 

  戦争十年戦後百年敗戦忌
 
 
 
 
 

2018年7月21日(土)
日限り日記

 [深海魚]
 暑いのを押して睡眠・呼吸メディカルクリニックへ定期検診。ここの医者は当番制で今日の医者は最近代わった若い循環器科の医者。
 心臓を正しく維持する方法、こむら返りの原因対策、足のむくみがひどいので心不全になりかけではないか、というようなことを質問した。答えは、よい心臓には睡眠が大切、ご懸念の体重は大してオーバーしていない、むくみもひどくない、こむら返りはひどくなればよく効く漢方薬がある、心不全にはなっていない、ということだった。
 まあいろいろうるさいが大したことのない患者と思われているかも。案外よく出来る医者かも知れない。
 帰りは、三省堂で柚月裕子の「最後の証人」を買う。「漢倭奴国王から日本国天皇へ」(冨谷至―中国語学者)は在庫してなかった。こういう本こそ本屋で現物を見ないとうかつにはネットで買えない。
 暑いので奮発して、千疋屋でフルーツサンドウッチと季節の桃のジュースをとる。千疋屋というのは武蔵国千疋村出身の者が作った店である。彼は故郷の新鮮な桃を舟で運び日本橋に陸揚げして巨万の富を得た、というようなことを「子規と四季のくだもの」(戸石重利著)で読んだ記憶がある。
 フードセンターに「めぬけの煮付け」というのがあったので買ってみた。「めぬけ」とは硬骨魚綱スズキ目メバル科メバル属の海水魚のうち、体が赤く、大型になるものの総称。体長40~60cm以上になる。水深200~1000mの深い海に生息するため、釣り上げられたとき、水圧の急激な変化により目が飛び出すことから、「目が抜け出る」という意味でメヌケの名があるのだそうだ。骨が硬いから気をつけてと言われた。さてどんな味がするものやら。
 
 
 月光や卑浅に(めし)ひし深海魚
 
 
 
 

2018年7月17日(火)
日限り日記

 [菫ほど小さな]
 若い俳句の友人から漱石の「菫ほどな小さき人に生まれたし」を論じたものを何かご存じありませんか、というメールが来た。
 手元に結構漱石に関する本があるが、江藤淳、蓮實重彦の「夏目漱石論」は当然ながら俳句については論じていない。俳句専門の本を見てみたら、「俳人漱石」(坪内稔典)にある。これは子規、漱石、稔典の対話形式を取っていて散漫なものだが、特にこの句については子規も漱石も草花が好きだったというようなことが書いてあるだけだ。大病をした修善寺の枕もとには仲間が山から採ってきてくれた沢山の花があったそうだ。
 南伸坊「笑う漱石」にもこの句が取り上げられている。この本は漱石の句のなかから笑える28句を選び出して絵を描いているだけなのだが、ほかの句は実に愉快な絵が描いてあるがこの句の絵は私にはぴんとこない。もっとも、この句からは面白い絵は描けないのでしょうね。
 十川信介「漱石追想」のなかに「先生と私と俳句と」という俳人松根東洋城の一文が載っている。東洋城は松山中学で漱石の生徒だったようで、その時は東洋城は漱石に人を介して俳句の添削を頼んでいたようだ。東洋城は終生俳句の師と言えるのは漱石だけだったと言っているが、その後漱石は東洋城を俳句の話相手のようにしていたらしい。
 この一文のなかで東洋城は漱石の句6句に説明を加えている。そのなかに「菫ほどな・・・・」がある。
 東洋城によれば、これはさすがに漱石先生でなければ言えないとのこと。自然の一微物に対する人間の省慮と美しい同情がほの見える。人は大きな顔をしているけれども人もまた天地の間の一粟にすぎないと悟って、いっそ初めから小さいしかし穢れも迷いもない菫ほどのものに生まれきたいという人生観が根ざす(以上は要約)と東洋城はぞっこんである。中学校の偉大なる先生が偉大な小説家になった。全人格的憧れみたいなものが滲み出ている解説だ。
 一方、十川信介の「夏目漱石」は、年別に漱石の生活や考え方を書いている。この句の出来た明治30年は漱石31歳で結婚2年目。何かとストレスの多かった環境もこの句の誕生と無縁でないかも知れない。
 
 
  天の川日本に漱石横たはる
  
  
  

2018年7月14日(土)
日限り日記

   [エアコンの電源]
 書斎のエアコンの効きが悪くなった。熱中症になっては大変なので新調しようとした。
 エアコンの電源は、分電盤のところから独立回路でなければならないとされているのだが、この部屋だけは普通のコンセントから延長コードで接続してある。業者に見せたら、何年か前はよかったが今はこの配線ではダメだという。押し入れや天井裏を利用しての屋内配線工事を頼んだが、家電量販店のエアコン工事屋は基本的には屋外配線で、家の外を回して配線するしか出来ないとのこと。出来る人に頼んでもらうことにして工事は1週間ほど先送りになった。
 取り急ぎ配線工事のために押し入れの中を整理することにした。押し入れの中には、美術館のカタログが詰まっている。ルーブル、オルセー、ロンドンナショナルギャラリー、テイト、エルミタージュ、プラド、オランダゴッホ美術館、ニューヨークメトロポリタン美術館などのほかに、川喜田半泥子、王羲之などの個人展のカタログ、メキシコ、インド、ルクセンブルグなど訪問した先でいただいた歴史本など、何れも大きくて重い。
 処分すると場所的にはすっきりするし、今生の残り時間的にも頃合いだとは思うが、さてこの思い出の詰まっている本を処分できるだろうか。

  
  飛行する星の地球の黴煙
  
  
  
   

2018年7月11日(水)
日限り日記

 [日本古代史拙観」
 1.遠山美津男講師の「日本書紀50講」を受講した。
 「日本書紀」によれば天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨して1,792,470余年経った辛酉(かのとのとり)の年に神武天皇は帝位についた。江戸時代の研究者により、辛酉の年は西暦で紀元前660年にあたるという。
 「日本書紀」の執筆者は流暢な漢文を書くことから言って渡来人と言われているし、日本正史を書くのが目的である以上、すでに発行されていて卑弥呼の記述のある正史「魏志 倭人伝」を知らなかったはずがないと思う。執筆者はどう考えていたのか。
 卑弥呼の活躍した西暦190年から250年は「日本書紀」では第14代仲哀天皇とその后神功皇后の時代である。「日本書紀」の執筆者は、神功皇后=卑弥呼としたいと考えたのではと遠山は言っていたが、「日本書紀」のなかの神功皇后は、朝鮮半島新羅を征伐して凱旋する。魏志倭人伝の卑弥呼とは全く様相を異にする。このような違いを見れば唐皇帝が「日本書紀」を日本の正史としてとうてい認めるはずがないと考えるのは、しかし、俯瞰的に各国の歴史を見ることが出来る現代人だからかも知れない。
 
 2.安本美典の「謎の卑弥呼」を読み直してみた。
 「日本書紀」に書かれた年代が実際に西暦何年にあたるかという研究を「紀年論」といい、安本のこの本は紀年論の代表的な著書といわれている。
 これによると、歴史的に史実が明確な第31代用明天皇(585年)から、帝位の在位年数を世界の帝王の在位年数を比考して一代10年とすると、神武天皇の在位は西暦280年から300年ごろになる(欠史の天皇も実在していたとして計算する)。神武天皇から5代50年を遡ると、天照大神の時代。卑弥呼が活躍したのは、西暦190年から250年ぐらいの間であるから、天照大神はすなわち卑弥呼であると言ってよい、という論である。世界の帝王の平均在位年数を援用しているのが説得力に欠けるところか。
 
 3.在野の古代史研究家大平裕氏は意欲的に新説を発表されている。集約して言うと彼の著書は、「紀年論」と「日本韓国古代史論」といえると思う。
 氏の論点は、神話にしろ記紀にしろすべてが架空の物語ということはあり得ない、何らか史実を反映しているはずだ、というものである。具体的には、数々の論拠をもって天照大神が卑弥呼である説を打ち立て「天照大神は卑弥呼だった」「暦で読み解く古代天皇の謎」(PHP研究所)、「日本古代史」(講談社)などを著している。
 また、古代韓国は中国文明の日本への橋渡者であるが、ときには日本が韓国に対して大きな影響力を持っていた時期があったことを実地踏査などで実証し「任那から読み解く古代史」(PHP文庫)「卑弥呼以前の倭国五百年」(PHP新書)を著した。
 
4.邪馬台国については安本氏は邪馬台国九州説で大和王朝も九州に起こった。大平氏は邪馬台国も大和も近畿説。私は若井敏明の「邪馬台国の滅亡ー大和王権の征服戦争」を良しとして邪馬台国九州、大和近畿説である。

  夏蝶も(えい)の貌して飛鳥川



 

2018年7月8日(日)
日限り日記

 [中島敦]
 今年の日本近代文学館夏の文学教室の演題に「中島敦 その文章の力と味わい」(林望)がある。受講してみようかと思い改めて中島敦の定番をいくつか読み直してみた。「李陵」、「弟子」、「名人伝」、「山月記」である。「李陵」は匈奴に囚われた漢の武将李陵の特異な一生で史実による。李陵の行動を弁護したばかりに司馬遷は宮刑すなわち去勢の刑をうけ、悲しんで史家になり「史記」を著したことでも有名である。
 「弟子」は孔子の高弟子路の話。孔子のことを中島はすでにこのときから迷いの多い人間として書いている。論語の注釈書を読んでみると、金谷治、宮崎定市、はては加治伸行に到るまでどこか孔子をあがめ奉るという態度から脱しきれていない。中国で発行されている注釈書は更にすごくて孔子を聖人に見立てているのがほとんどだ。もっともネットにでている論語注釈書には現代中国人から見た感想が書かれているものがあり新鮮だが、解釈となると検討不十分であり軽すぎる。
 孔子に遅れることわずか300年の司馬遷は、孔子の実像を一番正しく書いているだろう。彼の「史記世家」中の「孔子世家」は物語風ではあるが孔子に特別の敬意と親しみを持って書いていることが感じられる。日本語のなかではわずかに井波律子の「完訳論語」が、孔子の人間くささを出していると思う。
 それに引き換え中島敦の孔子は実に活き活きとしていて人間くさく時にオポチュニストでさえある。
 「山月記」は、性、狷介(けんかい)、自ずから恃むことのおおく、下吏となって俗悪な大官に屈するよりは詩家として名を残すことを選んだ男の物語である。やがて山に入り一匹の虎となって人を襲うようになった。
 改めて読んでみて、人間が多く考え方も多様な中国では何よりも簡潔で力強く書くことが必要だ。そのためには修辞が定型化されている漢文で書くのが一番良く、次いで中島敦のごときごつごつした漢文訓読調で書くのが良いのだと思った。
 
 山茱萸(ぐみ)の赤の飛び散る裸かな
 
   
 
 

2018年7月6日(金)
日限り日記

 [ワールドカップサッカー(2)]
 サッカー元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニは、ワールドカップ(W杯)決勝トーナメント1回戦でベルギーに2点を先行しながらも、後半ロスタイムに決められて初のベスト8入りを逃した日本について次のように語った。
 「残念だ。最後に日本は無邪気なところを見せてしまった。彼らの文化やDNAにはマリーシア(ずるがしこさ)は存在しないからだ。(カウンターを仕掛けられた時に)戦術的なファウルで(失点を)防げたが、彼らには(ファウルで止めることは)理解できないことだ」とコメント。日本人の性格では決勝点となったカウンターを止められないと主張した。
 サッカーもまた「文明の衝突」であるということだろう。
 そういう日本文明のなかのサッカーであってもわたしは高校サッカーの試合を見てからJリーグの試合を見るといつも違う競技のように感じてしまう。それは高校球児は決して汚いファールをしない、相手に怪我をさせるような、後から足を払うようなプレイをしないということだ。そしてとてもフェアの気持ちにさせられる。高校野球はプロ野球と同じカテゴリーでただ幼いだけだが、高校サッカーはプロサッカーとは違う競技でこちらの方がJリーグサッカーよりはるかに美しい。
 だから今回のあの試合のあの場面でファールをしなかったことは、そのために負けたとしても良かったのではないかとさえ思う。あの場合相手を止めるためには相当ひどいファールをしなければ止められなかったはずで、初めてサッカーをみるような日本人観客はそれを良しとしないかも知れない。そういう文明のなかの日本チームが勝ち上がればそれは本当に素晴らしいことであったのだが。
 
  蠍座(さそりざ)へ口惜しきボール蹴り上ぐる
 
 
 
 
 
 

2018年7月3日(火)
日限り日記

 [ワ-ルドカップ]
 ワールドカップロシア大会で日本がベスト8に進めなかったことは、これからいろいろ出てくると思うが、元日本代表監督のイビチャ・オシムの話がいまのところ一番説得力がある。
 「俊敏性、走力、粘り強さ、戦闘性を生かし、組織的で規律ある試合を進めれば、日本は強豪とかなり互角にやれることが分かった」
 「攻撃では相手に怖がられる若いエースが欲しい。日本になぜルカク(ベルギー)やエムバペのような足の速いFWがいないのか。5年先10年先の未来を見越した育成がうまくいっていないということだ」
 いまのJリーグの前身の日本サッカーリーグ時代にあるチームに大学のチームからものすごく足の速いFWが入ってきた。本当に速くてどんなデフェンスでもあっという間に置いて行かれた。観客は彼を見るだけでもという気持ちで見に行ったものだ。
 彼は足は速かったが球捌きは上手くなかった。味方が彼をめがけて蹴ったボールに楽々彼は追い付くのだが、やがて必ず敵に奪わてしまう。歓声がため息に変わる。
 チームはそういうことは百も承知で採って、トラップやドリブルはその後に育成しようと思ったのだと思うが、育成は失敗して彼はチームを去った。別のチームに移ったがそのチームも育てられなかった。
 でもあの速さは魅力的だった。もう50年前のこととはいえ今でもはっきりと覚えている。今でも昔のそのチームのファンが集まると彼の名前が出るほどだ。しかし一方50年間彼のように速くしかもトラップのうまい選手が日本に現れていないのも事実だ。
 19歳のエムバペのような選手は必ず日本にも出てくると思う。見出して育成できれば(オシムの言うように今までとは違った方策が必要だとは思うが)素晴らしいことになりそうだ。明るい未来が見えてきた。
 
 
 ワールドカップ記念樹オーレ山法師
 
 
 
 

2018年7月1日(日)
日限り日記

 [19世紀と日本の文明]
 朝日カルチャーセンターへ「19世紀の日本と文明」(苅部直)を聞きに行く。ちょうど「「維新革命」への道」(新潮選書)を読み終わったばかりだったので、著者のまとめを聞くつもりで。
 「「維新革命」への道」は明治維新から文明開化が始まったものではない。すでに江戸後期に日本近代化はその萌芽を迎えていたのだ、という論で、荻生徂徠、本居宣長、賴山陽、福沢諭吉などの思想家たちの考えを述べてゆく、という本である。
 なぜ彼らは明治の外的刺激を待たずに文明開化の必要性を説き始めたのであろうか。
 徂徠は先王(堯舜)による制度を原型とし、当世に見合った制度を作り統治に利用すべきことを説いた。
 本居宣長は「古」より「今」の物の方が勝れている、と言っていた。また中国を理想化する漢学者の誤りを知るには、オランダ人は便利だと言った。
 徳川時代農村においては米の増産を図り多くの商品作物の開発が進み、商品流通のネットワークが形成された。また民間の学問所が設立された。太宰春台は金銀・銭が流通する現実に鑑み、地域の特産品を地方に売ることによって財政を再建せよと説いた。
 賴山陽の歴史書は、道徳理論にとらわれずときの[勢]に立ち向かった人物たちの心理と人格を生き生きと書き、政策の得失を論じ、読者に統治の夢を託した。
 著者は本で総括していないが私なりに総括すれば、人間の持つ平等意識(世襲制への疑問、門閥への厭い)、生活向上意欲、学問所による知識、中国漢書から知り得た西洋事情、長崎のオランダ人などから知り得た西洋事情などが人びとに浸透してくるにしたがって、徳川中期から時勢は不可逆的に進んでいった、ということではないか。
 西洋事情については、物事が身分でなく公議で決まること、学校、病院、幼院などが揃っていると知り、人びとは欧米の文明に強く憧れた。
 しかし、福沢諭吉は単に西洋を文明の進んだ国として考えず、文明には、智恵と共に徳が必要と唱えた。
 
 講師は東大法学部教授で専門は日本政治思想史。すなわち丸山真男の後継であろう。聴衆は20名、カルチャーセンターには珍しい大学の講義を聞くような雰囲気があった。
 
 
 百事御一新の折柄一番茶