2018年4月28日(土)
日限り日記

 [芝生のカタバミ]
 我が家の唯一の自慢でもあるコンボルブルス(西洋ヒルガオ)が道路に向かって咲き始めた。5月から7月頃の花と思っていたが今年は早くなったようだ。
 庭には婿殿の実家からいただいたジャーマンアイリスの蕾が威勢良く立ち始めた。婿殿の実家は再建してジャーマンアイリスはなくなったから、我々のところで引き継いだ形になっている。
 今年困っているのは芝生にカタバミがはびこり始めたことだ。芝生の外では葉の形がカタバミに似たオキザリスが咲いている。オキザリスの花は実に可憐であるが、芝生の中のカタバミはとても厄介だ。とうてい手では退治しきれない。
 やむを得ずネットでカタバミに効く除草剤を買うことにした。カタバミにはMCPP液剤が効くというので100CC700円のものを2本買うことにして発注した。
 発注が終わってしばらくしてドットコム業者から注文請書が来た。それを見ていたら除草剤1本700円と、文庫本「長いお別れ」700円となっている。文庫本は以前発注しようとして途中で取りやめたものを消し忘れてこのドットコム業者あての注文書フォームに残っていたのだった。
 この文庫本はすでに本屋で買っているので不要である。ドットコム業者に電話をしたら、もう出荷済みだから宅配業者から受け取らないで受け取り拒否してくれればあとはこちらで処理する、と言われた。
 たまたま除草剤の値段と同じだったので合計1400円で良しとしてしまい、中味を確認しなかった。ネット購入のイロハのイを怠った自分のミスである。このようなことをやってしまった頭は、カタバミにやられた芝生よりも程度が悪いに違いない。これからネット社会で生きるために、しっかり頭を鍛え直すことが出来るかどうか。
 
 
   群衆のなかをかげろふ我が身かな
 
 
 
 

2018年4月23日(月)
日限り日記

 [般若心経]
 義母の四十九日の法要に般若心経の教本が配られ、僧の読経に唱和させられた。
 宗派は曹洞宗であったが、般若心経は、僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられているとのこと。
 般若心経を唱えると言うことは、サンスクリットの原文から漢文に訳したものをそのまま日本語で音読みするということである。だから唱和している者は自分がどういうことを唱えているのか全く分からない。経文をじっくり見れば漢文の返り点読みで大体は分かるが、唱えながらそんなことをする人はいない。また訓読できても意味を読み解くとなると実に難しい。
 幸い(というかかえって分かりにくくなるかも知れないが)伊藤比呂美の「読み解き般若心経」が手元にあるから、経典と経典に付いている日本語訓訳、伊藤比呂美の訳を冒頭だけならべて書いてみよう。
 (中国語経典、()は日本語唱文)
 観自在自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五薀皆空。度一切苦厄。(かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはらーみつたーじー しょうけんごーおんかいくう どーいつさいくーやく)
 (訓訳)
 観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行する時、五薀皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまう。
 (伊藤比呂美訳)
 自由自在に 世界を 観ながら 人びとともに 歩んでいこう 道をもとめていこうとする かんのんが 深い ちえに よって ものを みつめる 修業の なかで ある 考えに たどりついた。
 
 観音がたどり着いた考えとは? 伊藤訳によれば
 「私たちが良いとか悪いとか決めつけているlawみたいなものも、みなクウである。クウなものでしかない。生なんか信じてはダメ。死なんかあり得ない。きれいも汚いもないし、増えたり減ったりすることもほんとはない。「老いて死ぬ苦しみ」もない。「老いて死ぬ苦しみ」がなくなることもない。・・・・」
 
 むずかしい。唱えるしかない。しかし内容の全く分からない言葉(=音)を聞いたり唱えて有り難がるというのも不思議な文化ではある。
 
 
  逝く春や為すべきことは何もせず
 
 

2018年4月20日(金)
日限り日記

 [ホァリンかファリンか]
 日経新聞に連載中の林真理子の小説の登場人物に「花琳」という魅力的な中国人女性がいる。作者はこの人の呼び名は発音の方が綺麗なので「花琳」ではなく「ファリン」と書くことにすると言って、以降「ファリン」と書いている。
 「花琳」の発音は発音記号で書くと「hualin」だから、日本語表記では「ホァリン」ではないか。作者は間違えているのではないかと思った。家人に話して見ると、作家なのだから細かいことは関係なく自分でこの方が良いと思って選んだのよ、万が一にも投書などして恥を掻かないように、と強く注意された。
 そういえば中国に「華爲技術」という最近急速の伸びている通信機器会社がある。SIMスマホの最大手の一つである。英語の表記は「Huawei Technologies Co.Ltd.」。「華爲」は発音記号で書くと「huawei ホァウエイ」だが日本の関係会社の正式な名前は「ファーウエイ・テクノロジーズ・ジャパン」。これは企業名であるからうっかりミスと言うことはあり得ない。
 ホァよりもファーを選んだのはなぜだろう。ひびきが良いからであろうか。
 中国語の発音を習い始めの時、中国人から「日本人はfとhの発音が曖昧ではっきり区別していない。中国語のfは英語のfほど強く上歯で下唇を噛まないが、しかし必ず軽く下唇に触れることが必要」と習ったことがある。このような日本人の発音の特徴に合わせて選んだのであろうか。
 大和言葉を漢字を借りて表した「万葉仮名」も音がおおよそ合っていればよいとして漢字を選んだのではないか(「はつはるの」→「波都波留能」)。また、中国人が外国語を中国語へ当てはめた字など、面白いものが沢山ある。ハンバーガー「漢堡包(hanbaobao)」、サロン「沙龍(shalong)」、クローン「克隆(kelong)」など。
 音訳表記は、発音が近いか、意味が通っているか、かっこよいかなどで選ばれるかなり融通無碍なものというのが正解なのかも知れない。
 
 
 戸を開けて空の青さや柿若葉
 
 
 

2018年4月18日(水)
日限り日記

 [皮フ科クリニック]
 春になると冬眠っていた皮フが活動を始める。
 行きつけの近所の皮フ科クリニックの男院長(と言っても先生はひとり)はどうやら私と同じ歳らしかった。大体は「老人性の変化ですよ、私もできています」で事足りてしまう。もっとも院長の肌は歳のわりには綺麗であるが。
 院長は最近休みがちになって、その穴を埋めていたのが若い女の先生だった。大学の非常勤講師もされているせいか、説明に説得力がある。女先生の日の方が患者が多いようだった。私もそのひとりだったが。
 院長先生は3月引退した。後任の院長は穴埋めをしていた女先生である。挨拶状に、新院長である娘***をよろしくとある。姓が違うので分からなかったが親子だったのだ。思わず首をすくめてしまった、院長の説明よりもわかり良いですね、などというおべんちゃらは言っていないはずだが。
 しかしどうして皮フ科の先生は肌が綺麗なのだろう。皮フ科の場合見えるだけに営業上、論より証拠が有効なのだろう。
 
   長城の千の北窓開きけり
 
 
 
 

2018年4月15日(日)
日限り日記

 [長いお別れ]
 中島京子の「長いお別れ」を読んだ。
 主人公は校長先生をしたことのあり今はアルツハイマー型の認知症を患っている80歳台の昇平、妻の70歳台の曜子、娘三人など。
 この小説のキモは妻の曜子の次のせりふ。
 「この人が何かを忘れてしまったからといって、この人以外の何者かに変わってしまったわけではない。夫はわたしのことを忘れてしまったけれども、それが何か?」
 三人の娘も、その子供も実に温かく昇平に接する。
 アメリカでは認知症のことを「長い別れ」というとのこと。少しずつ記憶をなくしてゆっくり遠ざかってゆくからだそうだ。
 私の母は、大動脈解離だったから「突然の別れ」だったが、妻の母はアルツハイマー型認知症で昇平の10年よりも長い時間をかけての別れだった。母は自分の家で倒れたが、義母は介護施設だった。ここが一番安心できる良いところだが自分には本当は別に帰るべきところがあると思っていたようだった。自分の家に連れて行くと、ここにいるのは不安だと言った。帰るべきところは別のどこかのようだったが、そこがどこかは分からなかった。
 この小説「長いお別れ」にも介護の問題がいろいろ書かれているが、実際に見ても、介護は家族すなわち配偶者や子供に思いがけない負担をかける。
 自分がどういう別れになるかは、神様に任せるしかないが、自分のそれまでの生き方すなわち人徳にも関係ありそうだ。曜子さんに素敵な言葉を言わせたのは昇平の人徳によるだろう。そうだとすれば私はすでに手遅れのところもありそうだ。
 
 
     陽炎や母は逝きけり老い猫も
 
 
 
 

2018年4月13日(金)
日限り日記

  [運転免許返上成らず]
   運転免許証を返上しようとした。
 運転免許を取得して55年になる。この間乗った車は、ヒルマン・ミンクスの中古から始まって、日野コンテッサ中古、コロナの中古、やっと何代目かのコロナで新車になり、カムリ、BMWが最後になった。子供の入学試験の朝エンジンがかからなかったり、不凍液を入れ忘れてエンジンを破裂させたり、トーイン(前輪の角度)の調整不良で走行中タイヤが破裂したり、車自体にもいろいろな思い出がある。
 事故は車対車の衝突事故とすれ違いざまの接触事故を起こしたが、何れも人身には関係の無いものだった。道路交通法違反では、車線変更、不法駐車で切符を切られた。今でもゾッとするのは、単身赴任の関西から東名高速に乗って帰宅運転中に何度かひどい睡魔に襲われたことである。事故を起こさなかったことが不思議なくらいだ。
 最近特に運転に不安があったわけではないが高齢者の事故の報道を聞くと、自分が起こす可能性も十分にあることが分かる。考えただけでも恐ろしいので免許を返上することにした。
 すでに「マイナンバーカード」を持っているので、身分証明のための「運転経歴証明書」をもらう必要は無いのだと思うが、将来何かに役立つかも知れないので、くれるものはもらっておこうというつもりで写真を用意して警察署に出向いた。ところがこの写真が不合格になった。3センチ*2.4センチの写真にたいして、顔の大きさ(長さ)は1.7センチでなければならないのに、2センチあるというのである。そんなことはインターネットのマニュアルには書いてない。
 以前私は良く運転免許証用の写真で不合格になった。その都度警察の隣りにある御用団体の「交通安全協会」で高いお金をかけて写真を撮り直させられた。また不合格かという思いで強く抗議したが、事務係員といえども相手は警察である。不合格は不合格のままであった。警察署の人たちには老人がなにやらわめいていると見られたでしょうね。
 かくして運転免許返納の潔い志は、今日のところは完結できなかった。
 
 
   初蝶の運転免許取りたてか  
 
 
 
 
 
 

2018年4月12日(木)
日限り日記

  [松坂大輔の話]
 文藝春秋5月号に松坂大輔のインタビューが載っている。さすがに松坂世代と言われる世代の代表的人物として、魅力のある人だということが分かる。そのなかから右肩の痛みについての記述。
「やれフォームがおかしいとか太りすぎだとか厳しい批判があるが、肩を痛めてからは痛みの出ない投げ方を探すようになってしまった」
「ぱっと目が醒めて、まず、まだ体を動かさない状態での肩の感覚を確認します。『大丈夫だな、じゃあ、次は布団をどかそう』って、ゆっくり力を入れます。パッと布団を取って痛みが出るのが怖いんですよね。・・・とにかく朝は、腕をつくとき、ものを取るとき、腕を動かすとき、すべてに慎重になりますね。無意識に何かを持ち上げるということは、絶対にしません」
 前にゴルファーの青木功も同じようなことを言っていたように思う。
 私もこのところ突発的不整脈が頻発するようになってしまった。医者に当たった感じでは、これは人間の老化の問題で医者の打つ手はごく限られているということだった。
 あとは自分で考えるしかない。いつ突発するかを分析すると、体に変化を与えたときが多い。特に朝起きるとき、夜寝るとき、おそらく体を横にしたり縦にしたりして血流に変化を与える作業が影響する。
 そこで体に急な変化を与えないようにいろいろルーティンを工夫している。朝ベッドの中での運動、着替えの下着を置く場所、着替える方法。夜はいきなり仰向けにはならないで、妻と雑談をしてリラックスしながら横むきに寝る、などなど。
 運動選手と違って生活の糧には関係が無いが、生命に関係があるのだからこちらの方が重大だとも言える。しかし松坂のインタビューを読むと、守るべきルーティンは運動選手のものよりも生ぬるいかも知れない。なかなか思うように行かないのも現実だが。
 
 
  心拍を確かめてゐる春の星
 
 
 
 

2018年4月9日(月)
日限り日記

  「死んでゆく自由」
 落合恵子氏の文に気になるところがあった。
「・・・母に元気でいて欲しいと願うほど、彼女が死んでゆく自由を奪っているのではないか」
 私の周りでは最近二つの死があった。一つは義母98歳の死。一つは猫18歳の死。猫の場合は昨年暮れ死ぬ時期を悟ったように食べなくなった。そのあといろいろな餌を探して食べさせようとした。猫もこちらの努力に報いようとしてか、一口二口舐めたりしてくれる日があった。一日でも長生きして欲しいと思う飼い主の心が「死んでゆく自由を奪った」かもしれない。
 一方義母の死は、簡単には言えない。人の死は死んでゆく本人の問題であるとともに、見守る家族の心の問題でもある。
  
  けふ母を死なさむ春日上りけり   正木ゆう子
 
 という句がある。
 最近残念なのは、西部邁氏の自死である。報道によれば彼は二人の知人に自死の幇助をさせ、二人は自殺幇助罪で逮捕されているとのこと。死んでゆく自由はあるが、死にたければ自分ひとりで死ねばいい。他人を罪に巻き込むなどというのは誠に情けないことだと思う。
 4月5日の「週間文春」で立花隆が少しではあるが付き合いのあった西部邁を「思想的ひねくれ者としか評価できない」と書いている。私は西部の言うことに耳を傾けたときもあった者として、立花の評価は少し厳し過ぎると思っていたが、「死んでゆく自由」を選びながら、後輩に面倒をかける方法を選んだ彼は誠に情けない男になり下がったと思う。


   迎へ待つ老い猫に春静かなり

  
 
 

2018年4月7日(土)
日限り日記

  [土俵に女性が上がる]
 大相撲の舞鶴巡業中に挨拶に立った市長が土俵上で倒れた。心臓マッサージのため女性が数人土俵に上がったが、場内アナウンスで「女性は土俵から降りて下さい」という放送があったという事件。これはすでに日本相撲協会が人命第一のところを進行役の行司が動転してあのような場内放送をした。助けて下さった女性に感謝するとともに間違った放送にお詫びする、と謝罪文を出している。
 もう勝負のあった出来事なのだが、テレビのワイドショーでは何度も取り上げられている。間違いが分かりやすいから取り上げやすいのだろう。
 今回の事件は、土俵外の何人かの観客が「女性を土俵に上げて良いのか」と声を出したため進行をしていた行司が「動転して」放送をしたらしい。とすれば今のネット社会の世相の一つの縮図と言えないこともない。ソーシャル・ネット・サービスの世界では、全体の正否とは関係なく、部分的に正しければ声を上げることが一般的だ。人間は意見を言いたい動物だしネットでは顔が見られないから言いやすい。ネット社会ではそういう部分正義の声に満ち満ちている。ネットの外の社会でもそういう風潮になっているのではないか。周りにいる人、今回であれば伝統を守れという部分正義の声に進行役が圧倒され、人命第一の全体正義に考えが及ばなかったということだろう。
  でも全体の中で部分を考えること、それが人間の智恵ではないだろうか。救命のため心臓マッサージをしている女性に、土俵を降りてくれというのはどこかおかしい、と感じなければいけない。簡単に声を上げる方も、その声を取り上げる方も、一瞬立ち止まってその声の意味するものを見直して欲しい。さまざまな、時に無責任な意見を発しやすいSNS的社会だからこそ、人間の叡智が求められる。
 
 
  啓蟄の蟲に言ひたきことのあり  
 
  
  
 

2018年4月5日(木)
日限り日記

  「日本漢字学会」
 3月23日の新聞に「研究者のみならず一般人も参加し、漢字文化・漢字学について広く研究する「日本漢字学会」が29日に発足する、という記事が出ていた。漢字の発生や機能などの言語学的アプローチに加え、書道、出版・活字、教育、政策など幅広く分野横断的に論議し、漢字文化をめぐる知見を普及させることを目指すとある。
 29日京都市の京都大学で開かれる設立総会で「漢字学の未来を考える」と題するシンポジウムが開かれる。シンポジウムの出席者は、中国語学、日本語学、韓国・朝鮮哲学、ベトナム語学の各分野の研究者である。
 これは私の一番興味のある分野である。そこで早速23日インターネットで申し込んだ。ところが「もうすでに申し込みは締め切りました」というすげない表示があるのみ。新聞で情報を取っていたのでは間に合わないということか。
 またの機会を期待したい。
 
 
  花は葉に訪ねし家に別の人
  
  
 

2018年4月3日(火)
日限り日記

 「江川せせらぎ緑道」
 横浜市港北区にある「江川せせらぎ緑道」は、遊歩道が整備されていて、桜が小川を挿んで1キロメートルぐらい続く。花が散り急いでいた下には沢山のチューリップが咲いている。
 家の近くの桜の名所を聞くと鶴見川の土手とここを挙げる人が多い。山崎パンの工場から始まる散歩道を歩くと終点は大型家具店IKEAのすぐ前である。
 小川は港北区の浄水場から鶴見川に注ぐものだが、透き通った清流で、川海老やザリガニも住み着いている。
 終点のIKEAの隣の大型日曜工具店「コーナン」で壊れた電動ドライバーの代替品を買う。これからどのぐらい使うか分からないが。
 IKEAは入口から出口までいわば一方通行で延々と歩かされる。この流れは桜並木の散歩と違って苦痛以外の何ものでもない。特定のものを買うにしてもこの一方通行の流れに沿って歩かないと目的の売り場にたどり着けない。買い物が終わってさて袋はどうするのか? S,M,Lのどれを選んだら良いのか、慣れない客はただただオロオロするばかりだ。家族連れの人出が多く食事もままならない。まあ老人は行ってはいけない場所でした。
 
 
  川あれば川に傾ぎて桜かな
  
  
  
 

2018年4月1日(日)
日限り日記

  [中国語作文の先生]
 中国語を習い始めから中国人の先生に中国語作文の添削をお願いしている。作文(このホームページでは「中国語エッセイ」)の数は12年間で400文以上、添削していただいた先生は4人。
 w先生:中国の大学では歴史専攻、現在日本の大学で中国語講師
 h先生:中国の大学で法律専攻、現在中国語学校講師
 y先生:中国の大学で日本語学科卒、日本の大学で日本語専攻、現在中国語学校講
     師
l先生:中国の大学で近代文学専攻、現在中国語学校講師
  
 先生の経歴もいろいろだが、添削の方法も先生によっていろいろである。真っ赤に筆を加える方もいれば、なるべく私の中国語原文を生かそうとする方もいる。回数が増えると直された文章から先生の個性が読み取れるようになる。
 今回、たまたま私のホームページを読んでくださった方が、「日限り日記」のある日の一文を自発的に中国語に翻訳をして送って下さった。
 それを拝見すると、今までの4人の先生による翻訳補助とは全く違った、中国本場の中国語になっているように思う。多分添削であればどんなに赤字で直しても原文から離れられないという制約があるから、自由に翻訳するのとはちがうということであろう。
 外国人にとって本場の外国語を書くというのは、実は不可能なのだと改めて思った。それは別に悲観することではない。言葉というのはそんなに簡単なものではないのだから。
  
  
  亡母より亡猫恋し四月馬鹿