2018年3月30日(金)
日限り日記

[猫の火葬]
 ネットで動物の火葬を見ると「我が社は河原で焼くようなことは致しません」などという文章があるので恐れをなして行きつけの動物病院に猫の火葬所を紹介してもらう。バンで亡骸を取りに来たのは作務衣を着た人で、お寺のお坊さんだとのこと。今のお寺は人だけを扱っていたのでは成り立たないのかと思った。モネ子の眠る箱に、庭に咲くすみれ、水仙、サクラソウ、ハナニラなどあるたけの花を投げ入れて見送った。
 翌日の朝、同じ人がりゅうとした服装でベンツに乗って骨壺を届けてくれた。才覚は身を助けるのか。亡くなってから49日間魂は此岸彼岸の間にいるのだから、それが済んでから埋葬してくれという話は人間の場合と同じ。猫と言えどもお寺さんに焼いてもらうというのは悪くない。
 骨壺は600グラムになっていた。それを抱くと、3.6キロの若いモネ子、1.6キロに痩せたモネ子とはまた別のモネ子がいる。
 時間が経てばモネ子が遊んだ庭に埋葬してやるつもりだったが、今は到底その気になれない。毎日朝晩抱いている有様だ。
 
 
  食断ちて迎へ待つ猫すみれ草
  
  
 

2018年3月25日(日)
日限り日記

  [老い猫の死]
  23日18時30分老い猫モネ子死亡。
  何も食べず水も飲まない一日で、居間の縁を一日かかって半周した。最後は絨毯の部屋が暑かったのか西隣の和室に出ようとした。渾身の力を振り絞って動いていく様は、西方浄土に向かっていくような感じさえした。妻が抱き上げたところ首を伸ばして何かを探すような仕草をした。それからしばらくの間生死を彷徨い、やがて事切れた。18年前の厳冬の朝、迷い込んだ庭で生後3ヶ月の身を拾ってもらって以来母親のように慕っていた妻の胸で眠った。もう少し生きて欲しかったが、モネ子は寿命一杯生き抜いた。
 この猫には良い思いでしかない。歯向かって爪を立てることもない。呼べば必ず返事をする。小型で清潔な猫だった。
 この3ヶ月はもう死期を悟ったような生き方だった。従容として死に就いたモネ子を讃えたい。
 
 
  猫の行く西方浄土初桜
  
  
  
 

2018年3月23日(金)
日限り日記

[猫の失踪劇]
 老い猫モネ子が何も食べなくなってから2日経つ。体重は益々減って1.6キロ(最高3.6キロ)になっている。前足は立つが、後ろ足はほとんど立てない。一日中昼は居間で庭を見て横になっている。その庭は彼女が生後3ヶ月で拾われてきてから18年間遊んだ庭である。
 庭に出して欲しいというので時々芝生の上に出してやる。前足で歩いたり、用を足したりするが、ほとんどは風の匂いを嗅いでいるようだ。
 ところが今日、妻がちょっと目を離した間にいなくなってしまった。
 家は柵があったり、前面道路までは1メートルの高さがあるので、四面今のモネ子には到底越えられない壁である。ところが、どんなに探しても見つからない。桜が開花して暖かくなったとはいえ日も落ちてきて晩春の寒さが降りてきた。妻は全力を振り絞って探しに探した。
 私は出先で妻からその知らせを受けて急いで家路についた。猫は誰にも見つからない場所を探して死ぬともいわれているのでモネ子はそこに向かったのであろうか。飼い主にとってはこれ以上のつらい別れはない。いずれにしても許しを得てご近所に庭を探さないといけないかも知れない。
 やがてタクシーに妻から電話が入ってモネ子が帰ってきたという。安堵してどっと疲れが出た。もちろんどこにいてどこから帰ってきたかは分からない。
 モネ子は日頃我が家を中心に半径百メートルぐらいを領域にして生活していたと思う。
 約一時間の失踪。察するにモネ子は、その領域に最後の見回りに行ったのではないか。あるいはその空間で楽しく遊ばせてもらったお礼に行ったのかも知れない。
 その夜は妻もモネ子もいつもよりぴったりくっついて眠っていた。

  猫老いぬ開花の知らせはやばやと
  
  
  
 

2018年3月19日(月)
日限り日記

 [「おまじない」]
 西加奈子の「おまじない」をネットで買って読み始める。この作者の[サラバ]がおもしろかったからだが、二匹目のドジョウがいるか。
 日経の書評欄に「海峡を渡る幽霊」(李昴 台湾出版)が紹介されていた。面白そうだ。翻訳本への書評だが原書は取り寄せ可能だろう。
 今取り寄せ中なのは、閻連科の「堅硬如水」(水のごとく硬く)。閻連科の「受活」は中国へ帰る人に頼んでおいたところ持ち帰ったという連絡が来たからこれも読む候補。
 さらに「海峡を渡る幽霊」まで読み切れるか。
 面白ければ1冊2ヶ月で読めることは読めるが、こちらの体力気力がどうか。読後の感想を中国人先生と話し合うという楽しみは、私の体調によっては実現できないし。
 猫のことをホームページに載せ、今年の夏を越させたいと書いたら、今日からモネの調子が一段と悪くなった。「言挙げ」というのはこういうことか。うっかり言ってしまった言葉を取り消す「おまじない」(木部を三回コツコツと叩くーーー我が家の言い伝え)を早速やらないといけない。
 
 
 
  早々と花見の誘い大仏殿
 
 
 
 

2018年3月17日(土)
日限り日記

 [老い猫]
 去年の12月老い猫(17歳)が急に食べなくなってしまったので動物病院に連れて行った結果は、慢性腎臓炎と老化で、即効的な処置はないとのこと。獣医の話しぶりであと1,2ヶ月かなという感じがした。
 とにかく食べさせなければ死んでしまう。餌によってはこれはおやつだから一日これ以下に制限してくださいと書いてあるものもあるが、食べるものは何でも与えることにした。ところが、猫の嗜好も誠に移り気で、昨日食べたものでも今日は食べないものもあるから(同じかつお節でも銘柄で違う)、勢い用意する種類も増えてしまう。以下に書き出してみると(人間用のものもあるが)、
 まぐろ味減塩かつお節添えペレット
 猫用腎臓サポートペレット
 鰹刺身
 鰺刺身
 海苔
 煮干し
 減塩小魚
 にんべん印鰹削り節
 マルトモ印鰹削り節
 枕崎産かつお節使用ペースト
 宗田かつお節使用ペースト
 国産鰹だしスープ
 国産鰹節味ふりかけ各種
 11歳以上用まぐろのかつお節添え
 煮干しと海苔パウダー
 またたびの粉
 などなど。食べる道具も、小皿が良いときもあれば人間の手のひらが良いときもある。
 このうち一種類かせいぜい二種類ぐらいをちょっと口にしてくれただけで、飼い主は食べてくれたと一安心する。
 下の方も括約筋が衰えて粗相が増える。この処理にも時に駆けずりまわる。
 割合小型の猫で体重は最盛期でも3.6キロぐらいだった。それが2.6になり今では2.0キロになっている。こうなると抱いても骨皮筋だけが感じられるようになる。
 猫も昨日できたことが出来なくなるから不安らしいが、我々が付いているから大丈夫だと励ましている。まあ老老介護ですね。
 このようにして寒い冬を乗り切って3月も半ばになった。この猫がいることでどんなにか楽しい思いをした。孫の家にはいずれも動物がいないので、我が家に来ることは猫を抱くことだったから、この猫にも我慢してもらった。苦しまない限りどのようになっても一日でも長生きしてくれれば良いと思っている。
 おなじころ義母が老衰と戦っていた。もちろん人間の生死が最大の問題だった。しかしこの猫も立派に家族の一員であるから、その間でも忘れることはなかった。目標は、この夏をうまく越させるという遠大な計画である。
 
 
  食べくれぬ猫の小皿や春寒し
 
 
 
 

2018年3月15日(木)
日限り日記

 [かぶれ]
 今日経新聞私の履歴書は宗教学者の山折哲雄である。私は以前山折の「「ひとり」の哲学」を読んだことがある。内容は、道元、親鸞、日蓮、法然の「ひとり」を論じ、それを通じて自分の「ひとり」論を展開するものである。私は道元、親鸞などにあまり親しみを感じないばかりか時に政治的目的に宗教を利用するので、むしろ嫌っていることさえあるので、この本自体にも感銘を受けなかった。
 日経の私の履歴書は、いまのところ山折の率直でへりくだった履歴書となっている。そこで彼は「この一種のかぶれ現象は、それ以降の私の半生をつらぬいてとどまることがなかった。とりわけ海外から入ってくる「思想」なるものにいつも関心を引きつけられ、古いものを脱ぎ棄てて新しいものに飛びつく習性が身についていく」。そしてそんな知的な「かぶれ」の嘘っぽさに気がついたとき、すでに我が人生の終末期に近づいてきた、と書いている。ずいぶん思い切った反省だ。
 私にも自分の「かぶれ」について思い当たる点があるがそれはここでは書かない。もっと罪の浅い「かぶれ」について言えば、「サイン」をもらう癖である。
 高等学校の頃私たちの市に、女子ソフトボールがやってきた。プロかセミプロだったと思う。その日は文芸同人誌の編集会議のあとだったと思うが、私は二三人の仲間と一緒にソフトボールに立ち寄ってなんとノートに花形選手のサインをしてもらったのである。友人達は「お前は・・・」と言ってのけぞっていた。
 最近では書家石川九楊の書とも絵とも見える奇妙なサイン。それと長谷川櫂、辻原登、小島ゆかりの歌仙会で、辻原登の著書にしてもらったサイン。小島からは、新刊本を用意されてきたのですねと、驚かれたりしたが。
 何でこんなことをするのか、自分でも恥ずかしいし、説明が出来ない。自分を目立たせたいからであろうか、おっちょこちょいなのか。サインを大切にしているわけではないから、少なくともサインが欲しいからではない。もう二度とすまいと思うが当てにならない。
 近々正木ゆう子の講演会がある。私は彼女の句集や著書を何冊か持っている。私の癖が出ないかどうか危ないところだ。
 
 
   いづこより花びら来たり西行忌

 
 
 
 

2018年3月13日(火)
日限り日記

 [俳句初学作法]
 「俳句初学作法」(後藤比奈夫)読了。
 昭和54年に出たまぼろしの名手引き書の復刻改訂版というふれこみに誘われて読んだ実践手引き書である。例えば一日5句かならず作れ、報告でなく詩情溢れる句を、吟行に出たときは歩き回るのではなく一カ所に腰を据えて、形容詞の使いかた、5年10年の人が自信がないというのは周りがちやほやしなくなったからなどという初心者向けの手引きとか辛口の指導が書いてある。ちなみに、私は俳句を始めて15年だが、この本によればまだ初心者級と言っていいようだ。
 後藤比奈夫の俳句は、自然な言葉の使い方が気に入って、句集も何冊か持っている。手元にある「夕映日記」には、今96歳だが俳句は好きだから作り続けたい、とある。介護されて吊り上げられて風呂に入る百歳の自分を詠んだ句もあったように思う。自分を第三者の目で見て詠むと言うことが俳句の得意なところだから、このような場面では力を出す。
 私と同年では、友岡子卿、大高霧海などの俳人がいる。句を見る限り、到底老境にある者の句とは思えない。俳句は、俳句をやっていない人には辛気くさい年寄りっぽい遊びだと思われがちだが、実は若さを保てる遊びであるのかも知れない。
 
 七十路は遊び盛りや大花野
 
 
 
 

2018年3月11日(日)
日限り日記

 [ある友の死]
 俳句の知り合いが亡くなった。
 私が2006年、今の俳句結社に入ったのを聞きつけた高校時代の友人が、その結社には自分の大学時代の友人がすでに入っている。結社の主宰者長谷川櫂命のような男で仲間から冷やかされている男だが、良い奴だから紹介しようと紹介されたのが亡くなった男である。
 結社の句会でよく隣り合わせになって話をした。主として自分は一人吟行をして俳句を作っている、読んだ本ではこれこれが面白かったなどの話題だった。
 彼に紹介された本は沢山あるが、なかでは「蕉門名家句選(岩波文庫上下)」が印象的だ。驚くべきことに彼はその中の句を諳んじて聞かせてくれたりした。
 句会で主宰に採られることは誰でも嬉しいことだが、彼は嬉しさを隠さなかった。決して多弁ではなかったが素直に喜びを表現することで、句会の雰囲気を明るくした。
 やがて結社の主宰が交代した。長谷川櫂命の彼は落胆したが、しばらくして新しい主宰に採られるにはどうしたら良いかを研究するようになった。やっぱり新主宰の句を手で書き写すような努力をしないとだめかなあ、などと言ったりした。彼なりに長谷川櫂ご指名の新主宰の力量を見定めたのであろうか。このことで、彼の句はさらに新しい天地に飛び出したような気がする。
 彼は自分の俳句の特徴を、物語俳句だからダメだと言っていた。自分は、仏教、日本の古典、杜甫李白などを勉強しているのでどうしてもそれが俳句に出てしまう。この臭みを無くすために一人吟行を重ねているのだと。しかし、いつか句会の席題で「鱸」がでたとき伊勢湾の清盛の舟に鱸がのっこんできた様子を鮮やかに詠んで長谷川からこの作者ならではという評価を受け、満面喜んでいたことが忘れられない。
 晩年は闘病で入退院を繰り返すようになったが、退院するとその足で吟行に出たり句会に出たりしてみなを驚かせた。晩年は俳句に賭けていた人だった。入院生活で一番こころ安らかに読めるのは虚子の句だと言っていた。近作に
 
  一茶忌や我も未来が恐ろしき
 
 というのがある。一茶の「花の陰寝まじ未来が恐ろしき」を踏まえての句であろう。病魔と戦いながらもまだまだ現世で楽しく俳句を作りたかったであろう。しかしいまはかの世で独特の大きな声で名乗りを上げて俳句を楽しんでいると信じたい。
 
 
 
 

2018年3月8日(木)
日限り日記

  [妻の母の死]
  妻の母が亡くなった。享年98歳。
  大正生まれで、頭もよかったし、絵、陶芸、習字、染め物など何をやらせても上手だった。晩年夫が独立して研究所を設立したがその事務を手伝っていた。今生まれていれば間違いなくキャリアウーマンになったであろう。
  特に絵は上手で対象を大きく捕らえるのが得意だった。このホームページで家族の作った作品を展示しているホーム・ギャラリーに「大子」という名前が書いてあるのが母の作品である。大子は「だいこ」と読ませるが、才能豊かな母を讃えて私が付けた雅号である。
  三人のこどもには多少干渉がましかったらしく、娘と競争するような気持ちがあったと妻は言っている。娘夫婦が音楽会に行ったと聞くと自分も一人で行く(夫にはその趣味はなかったので)というような負けん気なところがあった。
  夫に先立たれてからは、介護施設にはいってのんびりした生活を送っていた。こどもが毎週会いに行く。こどもはそこに定期的に集まることになる。最後まで母が家族の中心であったということである。
  死因は老衰である。何度かの危篤を切り抜ける気力体力があった。また、子供たちの励ましが、いろいろな病気を乗り越えて老衰という黄泉の国の入口に導いたと言える。
  我が家にとっては長い間中心だった大樹が静かに倒れたという感じだ。
  
  
    来年の母は百歳春の雪
  
  
  
  

2018年3月3日(土)
日限り日記

 [来年の義母]
  2月24日、新宿朝日カルチャーセンター「一億人の俳句教室」へ。
 高野フルーツで早めの昼食。いつものクラブハウス・サンドイッチではなく、もう少し量の少ないサンドイッチとデザートを。天丼を食べていた頃はとっくに昔のことになった。
 ブックファーストで、いくつかの本を見る。中島京子「かたづの」、三谷博「維新史再考」、先崎彰容「未完の西郷隆盛」、小倉紀蔵「朝鮮思想全史」。「未完の西郷隆盛」が面白そうだったが、今日は「維新史再考」を買う。苅部直の「維新革命への道」がまだ読み終わっていないというのに。同じ三谷でも、三谷太一郎の「日本の近代とは何であったか」は私には面白くなかったが三谷博はどうか。
 西郷については江藤淳が西郷に寄り添って書いた「南州残影」が印象的だが、やはり司馬遼太郎が西郷を評価しなかった影響が私には強く残っている。
 中島京子は現代中国の作家が参考になると必ず名前を挙げる小説家の一人。はじめて「妻が椎茸であったころ」を読んでその面白さにびっくりしてしまったので、代表作と言うべき「かたづの」を読もうと思った次第。面白そうだったが、しばらくはほかに読まねばならない本がある。
 一億人の俳句教室は3ヶ月に一度の句会。兼題は「春の雪」。やはり仲間の票よりも先生の選の方が気になる。で先月に引き続き長谷川櫂特選を得た。嬉しいこと。
 
  来年の母は百歳春の雪
 
 母とは今静かに余生を終わろうとしている妻の母のこと。
 
 
 

2018年3月1日(木)
日限り日記

 [「僕が殺した人と僕を殺した人」]
 今年の読売文学賞小説賞は東山彰良の「僕が殺した人と僕を殺した人」である。これを知ったとき私のこころには「よかった」という気持ちと「しまった」という気持ちが交差した。
 よかったというのは、それが「流」の作者の作品だったからである。直木賞を取った[流]は日本にも莫言やガルシア・マルケスのような物語作者の現れた予感がしたほどだった。
 そこで東山の「レボリューション」や「罪の終わり」を読んでみた。
 「罪の終わり」は「流」とは違って小惑星衝突とか、救世主誕生とか私が苦手な仮想社会の物語が多く、部分的にはゾクッとさせられるぐらい面白かったが、全体として付いていけなかった。
 「僕が殺した人と僕を殺した人」が出版されたのは知っていたが、このことから少し読むのをためらっていたのだった。「しまった」というのはやはり読んでおくべきだったという後悔である。賞が決まってから読むのは、気が抜けたビールを飲むようなところがある。貴重な時間を潰すのに安全であるが恐さに欠ける。
 気が抜けたビールではあるが、「僕が殺した人と僕を殺した人」は面白かった。同じ頃今回の芥川賞受賞作品を読んだが、これはほとんど面白くなかった。
 ただ、「流」にしても「僕が・・・」にしても舞台は台湾である。ちょうど莫言の物語の舞台山東省高密県やマルケスの舞台コロンビアのようなものだ。台湾やコロンビアの無尽蔵と言われる民話説話が物語の土台になっていて活力を生んでいる。それが作家にとってアドバンテージになっている。
 日本で育ったとはいえ東山彰良を日本の作家というのは正しくないかも知れない。やはり日本の物語作家を待望したい。
 
 
 人間(じんかん)に春蘭といふ香るもの