2017年9月27日(水)
日限り日記

 [莫言の新作]
 中国の文芸誌「収獲」によると、莫言のノーベル文学賞後初となる小説が、9月中旬に発行される同誌の第5期に掲載されるとのこと。同賞受賞後、多くの読者がいまかいまかと彼の新作を期待したが、受賞後5年間、莫言は新作を発表しなかった。今年1月には、「今年は出さないかもしれない。まだしばらくの時間が必要」と言っていた。
 しかし、8月に入り、莫言の最新の短編小説3編が『収穫』に発表されることが分かってきた。この3編の小説の題名は『故郷人事(故郷の人とことがら)』という。
 そこでさっそく東方書店に問い合わせてみたが、東方書店ではまだこのニュースを把握していなかった。文芸雑誌「収穫」は年間6回発行されるそうで、年間契約を6で割ると一部が2000円弱だという。雑誌にしては高いしどのような小説かも分からないが待てないので注文した。どのような小説なのだろう。莫言ファンとしてはわくわくする思いで雑誌の到着を待っている。



2017年9月25日(月)
日限り日記

 [大学のクラス会句会]
 大学のクラス会句会、於青山。体調が悪かったがわずか6人の句会で欠席すると影響が大きいので頑張って出る。
 早すぎたのでお茶でも飲もうとしたが表参道は平日の2時どの店も満員。仕方なく青山のはずれのスターバックスでお茶を飲んだがまずかった。東京で一番まずい紅茶。
 句会では当番司会。披講の声がかすれずにとても良く出たのは意外だった。出せば出るのか。
 得票は標準点の5票。この句会は皆よく理解しようとしてくれるので少し難しい句も出すことにしているが、それでもあまりにも分かりにくい句は分かってもらえないということが分かった。
 例えば、「短か世の命醸(かも)して新(あら)走り」。新酒(新走り)の命は1年しかないので1年間一生懸命良い香りと味を保とうとしている、ということを言いたかったが、分からないとのこと。最近の日本酒の味は1年以上もつだろうなどと、あらぬ方向へ話が行ってしまう。
 来年の新年クラス会総会(約20名)の日程は、闘病中の者がその日を楽しみにしているというので日にちをできるだけ早めようということになった。
 しかしこの句会に出ているものは皆元気だ。来年の一月はスキーだとか海外にゴルフに行くとかの予定があるとのこと。恐れ入りました。
 帰宅時ラッシュアワーにかかるので、次回から開始時刻を早めることをお願いする。
 今日は皆と雑談する時間を省いて、早早に出て歩ける距離をタクシーで明治神宮前駅まで。副都心線は5時半まではラッシュにならないらしく、珍しく座れた。しかし菊名乗り換え横浜線ではぎゅうぎゅう詰めになり、身体が壊れそうになった。ラッシュアワーの新横浜駅の乗降は老人には命がけだ。本数を増やしてくれるようをJR東に投書しているのだが、いつもお役所に劣るすげない返事しかくれない。頑張れ横浜線。
 
 
 

2017年9月21日(木)
日限り日記

 [校閲ガール河野悦子]
 再放送で「校閲ガール河野悦子」というテレビ番組が放映されたのを、偶々目にした。とても面白くて、全編を見てしまった。
 主演の石原さとみが魅力的だったこともあるが、なぜこのように引きつけられたのだろう。
 おそらく一つは、自分が自費出版をしたときの光景がまざまざと浮かんだことが一つ、もう一つは、ひょっとすると自分は校正という仕事に向いているのかも知れないと思っていることが一つ。
 自費出版したときの校正は出版社にお願いしたのだが、副題に校正の意見が入ったのには驚いた。この副題では訴えるものがないし、内容を正しく表していない、再考してはと言われた。校正者の指摘を入れて、題名・副題を「ベルリンからの手紙ー大空襲下の技術研修」から「ベルリンからの手紙ー第二次大戦、大空襲下の一技術者」と直した。これは本当によかったと感謝している。
 あとは誤字の修正だったが、お恥ずかしいことだが広島の原爆投下の日を8月8日と書いてしまい、第二版まで見逃した。第三版で著者である私が気がついて8月6日に直した。このとき出版社から本来私のところの校正で気がつくべきでした、申し訳なかったと言われた。
 第三版まで出したが、出版社はどうしても第三版ぐらいまでは校正ミスがあると言っていた。
 もう一つの自分には校正という仕事が向いているのではないかという点。いま会社のOB会に出ると何人かの人から、ずいぶん文章を直された、と言われる。お礼を言われるのだがほんとうはうるさい上司だと思われていたかも知れない。
 
 
 

2017年9月19日(火)
日限り日記

 [家の歴史]
 残務として、処分するかどうかを決めるために、家の古い資料を読んでいる。
 時間がかかるのは手紙類。
 師範学校・商業学校の教員であった祖父の教え子からの手紙が出て来る。教え子が投稿した学校新聞が同封されている。
 「私が進学した頃は第一次大戦終末近くで先生方が欠員なので、教頭の北島先生が自ら補欠授業に立たれたのでした。学校に十八史略の抄本を備え付けておかれて、その講義だったのです。それが私を漢文に引きつけた第一歩といえます」。
 祖父直筆の履歴書には、地理科の教員だったようなことが書いてあるが、事実は少し違うようだ。これを元にわが家の歴史の祖父の部を一部手直しをする。
 歴史は、家の歴史と言えども資料が残っていなければ空である。偶々残っていた手紙で歴史は作り直される。
 
 
 
 

2017年9月14日(木)
日限り日記

 [プロ野球の監督]
 プロ野球もあと15,6試合となり、終盤に差し掛かっている。
 いま不思議に思うのは、来季の監督が早々と決まっていることだ。セ・リーグだと、広島、阪神、巨人、中日は続投、ヤクルトは退陣が決まっている。いままで長い間テールエンドだったベイスターズは、去年3位となりCSを戦うことが出来た。今年はいまジャイアンツと3位を争っている。去年今年の実績からすると当然ラミレスは続投かと思われたが、今日の新聞によると南場オーナーが「最終順位確定後に決める」と言ったとのこと。今年は2位のタイガース、3位のジャイアンツとの試合が多く残されている。ラミネスに頑張ってもらうためのことだろう。
 でも、これが普通のように思う。早々と来季のことを決めるのは、決めないとほかにスカウトされてしまうというのなら分かるが、なにも5位の中日が早く決める理由はないでしょう。
 ベイスターズの南場オーナーも今年は常識的だが、2015年はおかしかった。折り返し時点で珍しく4位だったので来年も中畑監督にお願いすると早とちり気味に要請した。とたんに負けだして最後は定位置の6位になったためさすがに中畑は要請を請けられず、オーナーの発言は店ざらしにあった。それに懲りてか去年決めたのは9月20日前後である。
 2015年までのていたらくを考えると来年もラミレスというのが常識的だとは思うが、サッカーのガンバ大阪の長谷川監督の例もある。この中興の救世主とも言うべき監督を、ガンバは来季は続投させない。いままではいままで、これから新生ガンバにするという強い意思が感じられる。ベイスターズも球団にそれだけの意思があるのならそれでもいいと思うが、まあ球団の実質責任者(GM)が代わる方が先でしょう。
   
 
 

2017年9月13日(水)
日限り日記

 [里山の秋の草花]
 神奈川県四季の森公園で、NPO法人四季の森里山研究会による「里山の秋の草花」探索会に出席。月に一度あるこの会に夏場は暑く出ていなかったので久しぶり。
 目黒の自然教育園に比べると少ないが、それでもヘクソカズラ、ツリガネニンジン、ヤマホトトギス、ヒヨドリハナ、ヤブタバコ、ヤブカンゾウ、チカラシバ、シュロソウ、ツリバナ、クサギなど自然教育園では見なかった草花が自然な形で見られた。これは説明員が付いているから路傍の草も説明してくれるからだろう。
 多分日常でもいろいろな花に接しているはずだが改めて見ないと気がつかない。
 

2017年9月10日(日)
日限り日記

 [白金台自然教育園]
 一年ぶりに目黒の自然教育園へ。ここは400~500年ほど前は豪族の館だったそうだが、その後も最近まで一般の人は入れなかったので、豊かに自然が残されている。
 10年以上毎年この季節にここを訪ねるので、この季節はどこにどの花が咲いているかが分かっている。今年は時間の関係で、路傍植物園、ひょうたん池、水生植物園まで歩き、武蔵野植物園までは行けなかった。
 この季節は、ミズヒキ、ヤブラン、イノコズチ、ヤブミョウガ、カリガネソウ、モミジガサ、チョウジソウ、ヌスビトハギ、ホウチャクソウ、ナンバンギセル、ミソハギ、ツユクサ、シロバナサクラダテ、ナガバナシロワレモコウ、ナガバナアカワレモコウ、ヘクソカズラ、ナルコユリ、ジャノヒゲ、フタリシズカ、などなどの花や実が見られる。いつも鮮やかなツユクサ、ミソハギが今年は少なかったように感じられた。
 3組ほど団体がいたが、園内は蝉の声が遠くから聞こえるほど静だった。鳥も何種類かいたが鳥は標識を付けてくれないので、何の鳥か分からない。
 園内は自然を残したまま適度に管理されているので、ほんとうに落ち着いた時間を過ごすことが出来る。
 例年は俳句を作るのに忙殺されたが、今年はもうその場では作らないと決めて自然観賞を楽しんだ。とは言え、一句でも作れば自然観察の深みが増すことは分かっているので、これは単に怠けるための口実です。
 

2017年9月8日(金)
日限り日記

 [せつない動物図鑑]
 くまざわ書店へ。ここは有隣堂や三省堂と違ってこじんまりはしているが新聞の書評が置いてあるし、書評に載っている本は置いてある。並べてある本も知的欲求を満たすような本が置いてある。そういう意思を感じさせる本屋だ。
 今日は直木賞を取った佐藤正午の「月の満ち欠け」を買いたかったが高いので(1回読むきりだから)、文庫本になった「永遠の1/2」を買う。それと「せつない動物図鑑」(ブルック・バーカー)を。内容が面白そうなので、というのもあるが、虫博士のごとき孫がいるので、こちらも少し勉強しないといけない。
 先週は「季節の民俗誌」(野本寛一)をネットの古本屋で買い、今週は「切ない動物図鑑」。机の上には以前買った「137億年の物語」の読みさしが置いてある。
 さてここまで書いてきたら「入力時間が長くなっています。少し休憩しませんか」という警告がパソコンに現れた。では休憩することにしよう。
 人間という動物は、なかなか休憩の出来ないせつない動物なのだから。



 

2017年9月6日(水)
日限り日記

 [紳士録商法]
 紳士録名簿関係業者と名乗る者から電話がかかってきた。いま掲載されている紳士録から名前を削除する為には金が要る、金を出せということらしい。何年か前に流行した詐欺というか恐喝というかその手の紳士録悪用商法である。
 私は一切関係しませんと電話を切ろうとしたら、それでは名簿に載っている長女に連絡すると言う。
 これ以上何かすると警察に連絡すると言ったら電話が切れた。
 こういう商法があることを知らなければ深入りしてしまうだろうし、知っていても不意に電話があれば驚かされる。
 思うに紳士録に載っている人間が高齢になった頃を見計らって脅かし、家族を巻き込むと言って更に脅かす新しい手口なのではないか。誠に卑劣極まりない手口を考え出すものだ。
 電話を切ったあと、腰が例によって2分間ほどこらえられないぐらい痛くなった。怒ったり緊張したりするとそのあとに襲ってくるあの痛みである。
 腰痛は避けたいが、怒りを抑えることができないこともある。もっとも、怒り・緊張と腰痛の関係を医者に問うと、そういう不思議な関係もあるのだろうなあ、などと無責任な回答しか返ってこないが。
 
 
 
 

2017年9月5日(火)
日限り日記

 [ピアノの審査]
 8月27日日経新聞の「ピアノとスポーツ」という青柳いずみこのエッセイは面白かった。5年に一度のショパンピアノコンクールに日本人だけが優勝していない。どこを改善すれば良いのか指導者が悩むという話である。
 日本には複数のピアノ教育団体があるが「門下」意識が強く先生を変えると破門扱いされかねない。奏法も解釈も日進月歩。腱鞘炎など身体面のトラブルの解消方法も共有化されていない。審査基準も点数化しにくい。「素晴らしい」「美しい」「ショパンらしい演奏」は審査員の主観による。飛び抜けた実力者は必ず上に行くが。
 門下や学舎にとらわれずすべての垣根を取り払って自由に情報交換の出来る最近の水泳競技の指導のようにならないか、と結んでいる。
 これはほとんど俳句の場合と同じですね。
 俳句でも結社を超えて審査される賞はあるが、特に審査基準というようなものはなく審査委員の判断に任されていると思う。公開で審査される「俳句甲子園」では、審査員がABどちらがよいか判定の旗を揚げさせられる。審査員によっては実にばつの悪そうな、恥ずかしそうな顔をして旗を揚げる人がいるのは何故だろう。普段自分の結社では自分の選句が唯一絶対的に正しいと自信を持って選句しているのに。自分の審査能力を他人と比べられているのが恥ずかしいのか。まあ比べられるのは誰しも恥ずかしいことではあるが。
 
 
 

2017年9月3日(日)
日限り日記

 [萬葉花の会]
 國學院大學萬葉花の会に出席。
 会場は同大学たまプラーザキャンパスで、参加人数は400人以上とのこと。私は偶々新聞で見て初めて参加したのだが、聞くところによると今回が25回目(年1回)になるという。
 演題は「秋萩木簡と仏前唱和と」(上野誠)、「花の民俗を探るー環境民俗学の視座から」(野本寛一)、「萬葉の花ーその自然性と文学性について」(辰巳正明)という真面目なもの。講師は國學院卒業で全国の大学で活躍をされている先生方だった。辛夷(こぶし)のことを「田打ちサクラ」と呼び、辛夷の花が咲いたら水田の耕作を始めるといった「花と自然暦」の話をされた野本寛一氏の講演が特に面白かった。
 國學院大學の始まりは明治15年に設立された皇典講究所にある。活躍した人を見ると柳田国男、折口信夫が私が知っている方だが、私の高校の国語の先生が国学院出で、授業がとても面白かったので親近感がある。
 今日の先生方の話を聞いても、どの先生からも折口信夫の名前が出て来る。民俗学はもちろん古典につても鋭い考察を残し歌人でもあった折口は、國學院で学び國學院で教えたこともあり、現在の國學院大學の精神的柱になっているようだ。
 同時に國學院から世界へというスローガンもある。いつまでも折口ではない、折口から抜け出す必要を感じているのだろうか。
 キャンパスには、「萬葉の花の道」がある。万葉集に出て来る花が、出ている歌とともに見られるようになっている。それを見るだけでも楽しかった。
 


2017年9月1日(金)
日限り日記

 [最近の日課]
 すっかり秋めいてきた。
 このところの日課は、朝6時半からテレビのラジオ体操をする。猫に餌をやる。猫は流れる水を飲みたがるので庭に出して水道の蛇口から水を流してやる。猫はまた、木や草の葉から水を飲みたがるので、葉っぱに水を掛けてやる。
 週に2日古事記、日本書紀を勉強しに出かけていたが一巡したので、出かけないで家で読み直すことにしている。あと自習している論語原本は20篇のうちの13篇まで来ている。

 昨日「ほんとうの憲法ー戦後日本憲法学批判」(篠田英朗)を読んだ。戦後日本憲法学の指導的立場にあった宮沢俊義には直接講義を受けているので親近感がある。そのほかの横田喜三郎などの学者名や記事にも、見覚え聞き覚えのあるものが多い。
 戦後宮沢は、「憲法改正に関する一番根本的な争点は、終戦後の民主的政治体制を支持するかどうか」であるという立場から新憲法護憲運動の先頭に立ったが、日米開戦時には「願わくはこの大東亜戦争をしてアジアのルネッサンスの輝かしい第一頁たらしめよ」と言い、時の政府に沿った発言をしていたそうだ。
 これは初めて知ったことだ。しかし、そのようなことは今更責められないのではないか。国が戦争をした場合、自国のために時の政府と一緒になって戦うのは一般の人にとっては当たり前のことではないか。国が敗れたあとのいまの基準で過去を裁くのは、簡単ではあるし痛快であるが、フェアでないと思う(この本では裁いていないが)。
 それにしても改憲問題や憲法9条について、いまの憲法学者は昭和30年代の憲法学者の議論を超えていないのではないかと思わされた。


 日常一番頭にあるのは俳句。考えていても出来ないし、外に出かけても出来ない。出来ない尽くし。