[大岡昇平]
「歴史小説集成」(大岡昇平)を読んだ。
内容は、「将門記」「渡辺崋山」「天誅記」「姉公路暗殺」「吉村虎太郎」「高杉晋作」「竜馬殺し」ほか3篇である。発刊は2017年1月と新しいが、新しく編纂されただけで作られた小説は古い。
私は今まで好きだった作家は誰かと聞かれれば、あるときは大岡昇平だったと、躊躇なく答えることが出来る。
「俘虜記」「武蔵野夫人」「野火」「花影」「将門記」「レイテ戦記」など、どれをとっても心をときめかせて読んだものだった。晩年雑誌「文学界」に連載された「成城だより」はそれを思うとこの「日限り日記」が書けなくなるような、この作家の頭が「知の宝庫」であることを示す日記だった。
さて久しぶりに大岡を読んだのは、最近何を読んでも感激しなくなったので、小説を読む楽しさを取り戻したかったからである。
解説者によると大岡の歴史・小説の特徴は、「敗軍の兵卒」を主たる主人公にしていることだそうだ。しかし、私の感じは次のような小説の最後にある文章にあると思う。
「(吉村虎太郎は)五条で行動を起こしてしまってからは、一筋の道からも外れることは出来なかった。そして生まれたままの百姓として死んだように、私には思われる。」
「(高杉晋作は)自己の行動から利益を収めようという気は全然なかった。しかし慶応年間の長州は、慎重な陰謀によって倒幕を実現し、それまでの投資を回収する段階にいたっていた。高杉の任務は終ったといっていいので、その死むしろは時機を得た感じである。死は奇妙に、丁度いいときにやって来るものである。」
「(坂本竜馬は)十分慎重に行動していたつもりだったのだが、陰謀家にはやはり安住の地はなかった。いてもいなくても構わぬようになった時、ほんとうに殺されてしまったのである。」
人の死ぬときの死に様や死に時は、その人にふさわしい形であり時期に現れる、ということを大岡は見極めたのではないか。
ところで小説を読む楽しさを取り戻せたか。やはり問題は小説にあるのではなく、自分にあるらしいといことは分かりました、まだ断定はしたくないが。
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