2017年4月29日(土)
日限り日記

 [応仁の乱]
 「応仁の乱」と言えば高校時代に学んだ日本史のなかで、もっとも分かりにくい、すっきりしない事件だった。その割には11年とかかった戦乱の年数も長く、京都がほとんど火の海になるなど被害も甚大だった。
 去年呉座勇一氏の「応仁の乱」が出版され24万部売れたという。何かこの本に売れる理由があるのだろうか。購入して読んでみた。
 応仁の乱(1467~77)は実力者細川勝元、山名宗全の対立、将軍足利義政と弟義視の対立、管領畠山家の家督争い、事実上の大和守護である興福寺の存在などが絡んで起きたと言われるが、この本は新しい資料に基づいて書かれているとは言え、従来と違った分かりやすい切り口で説明しているとは言えない。読んでみて、相変わらず分かりにくくすっきりしない。例えば長引いた一番の原因は文化人将軍義政のはっきりしない政治決断力にあったとされているが、この本を読むとそうとも思えるし仕方がなかったとも思える。
 今回、呉座勇一氏の「応仁の乱を再考する」という講座があったので出席してみた。50人の席が満席である。本を読んだ人と聞かれて半分ぐらい手を上げた。
 講座は本の内容と特段違ったことはなかったが、最後の質問の時間に、なぜこの本が売れたのですか、という質問があった。
 著者はばつが悪そうに、どこに行っても聞かれるのだが自分でも分からない。強いて言えばと言って次のように話された。
 「「応仁の乱」には織田信長のようなヒーローは誰もいない。しかし、現実はむしろそれが本当なのではないか。その真実らしさが、今の人に受けているのではないか」。
 
 

2017年4月27日(木)
日限り日記

 「日本の古典と現代」
 「古事記と日本書紀」の一日講座に出た。私はほぼ3年掛けて藤原茂樹氏の講義で「古事記」を逐条読み、その後2年掛けて遠山美津男氏の「日本書紀50講」を聞いた。今回遠山美津男氏が「古事記30講」というタイトルで「日本書紀」と対比しながら文献史学の立場から「古事記」を読み解くという講座が出来た。今日の一日講座は、その紹介である。
 30人定員の会場が満席だった。5年前はこんなことはなかったが、本当に古代史ブームにあると思う。参加者は最近定年になったというような年寄りのなかでは若い人が多い。まだまだブームは続くのではないか。
 「古事記・日本書紀」は、文学としても歴史書としても読めば読むほど面白い。講義を担当する先生方も、歴史学者、文学者、文化人類学者など多様で、それぞれに面白い切り口を持っておられる。今度の「古事記30講」は参加すべきかどうかまだ決めかねている。
 高橋睦郎句集「十年」を読む。自由詩、短歌、俳句、能や狂言の新作などに取り組んできた作者だけに、日本の古典を踏まえた俳句も多い。松尾芭蕉は前半古典主義者であったことから、日本の古典(中国の古詩も)を反映した俳句が多かったが、高橋睦郎も近来少なくなった古典主義の一端を担っているように思えた。
 良いと思った句を書きあげてみたら、100句あった。600句中の100句だから極めて多い。少し勉強してみようかと思った。
 
 

2017年4月24日(月)
日限り日記

 [「俳句の海に潜る」を読んで]
 中沢新一、小澤實の「俳句の海に潜る」を読んだ。
 結論から言うと、全く面白くなかった。
 表紙に「その人類史的可能性を問いかける、俳句論の新地平」とあり、「俳句の本質は、アニミズムなのではないか」などが話されたなどと書いてある。期待して読んだが肩すかしにあった気分だ。その原因は小澤實にある。俳人小澤實の土俵で議論しながら、思想家・人類学者中沢の話を聞くばかりなのである。「ごもっともです」「泣けてくるなあ」などの合いの手を入れるばかりで、反論はおろか自分の考えを整然と述べることもしない。これでは議論が深まらない。全体に10対1以上の割合で中沢の独演会になっている。中沢の意見は例によって一方的な教祖のご宣託のようなところがあるから、読者はこれでは到底「俳句の海に潜」った気分にさせてもらえない。
 これはどうしたことだろう。小澤と言えば「俳句のはじまる場所」などそれなりに勝れた俳論を論ずることの出来る人だと思うのだが。
 思うにそれは俳人が日常切磋琢磨をしていないお山の大将の世界にいるからではないか。先生先生と言われ、自分の考えが無批判的にまかり通る結社のなかの世界にどっぷり浸かっているものだから、俳句界の外で他流試合が出来ない。内弁慶なのである。
 そう言えば去年の夏近代文学館主宰で「夏の文学講座」が行われたが、講師は学者、評論家、小説家、詩人、戯曲作家などで、何れも実に内容のある話をしていた。もちろん俳人にも出来る人はいると思うが数はとても限られている筈だ。極端な場合、小説家は誰であっても文学の話が出来るが、俳人は自分の結社以外の人相手に説得力のある話が出来る人は少ないだろう。
 ある人は、高浜虚子が死んだ後、雨後の竹の子のように俳句結社が出来て主宰すなわち先生が沢山出来た。それが今の俳句の混迷の元である、と言っていたが、肯けるものがある。昭和二十一年フランス文学者桑原武夫は現代俳句は徒党を組み、主宰の世襲制などさえあり、表現する範囲も小さいので一級の芸術でなく第二芸術だと言ったが、しかし、それにもかかわらず俳句はますます国民のなかに根を広げている。俳句は日本人の心に響く日本特有の芸術なのである。
 確実なのは、俳句の先生が二流の芸術家であるということではないか。
 
 
 
 

2017年4月22日(土)
日限り日記

[タチツボスミレ]
 タチツボスミレが沢山咲いているというので行ってみた。高台からおりる道で初めは道の両側に小さな畑がある。いまはエンドウ豆と蚕豆が植えられている。そこから下がった道の南側、つまり雑木林の北斜面に当たるところに、沢山のタチツボスミレが咲いていた。群生していると可憐というよりは、逞しいという感じがする。
 周りには、姫踊り子草、ムラサキケマン、カラスノエンドウ、カラスノゴマ、キランソウなどが咲いているが、名前の分からない花が多い。スマホで撮るとすぐ名前を教えてくれるソフトが欲しい(すでにいくつかありました。実用的かどうかこれから調べます)。
 この道には確か芭蕉があったはずだと思ったが、確かにあった。まだほとんどが枯れた色で、なかの芯だけ緑色で衝き立っている。早咲きの藤が若い房を風になびかせていた。ここは谷戸とも言うべき低地なのだが、みな庭や道をきれいに保っていて気持ちが良い。
 家まで歩いて一周3キロぐらいだろうが、疲れてしまったので市バスに乗ってしまった。それだけなら良かったがバス停にあるセブンイレブンでお菓子を買ってしまった。
菫ほどの小さな人になる、というのは精神的にも肉体的にも到底出来ない話だ。もっとも、菫程な小さき人に生まれたし、と詠んだ夏目漱石は、家人に隠れて駄菓子を食べることが好きだったそうだから、あやかっている、というべきか。



2017年4月19日(水)
日限り日記

[年間収支など」
 しばらく休んでいる中国語学校に電話。最近の情況を聞く。先生は変わらず4人。新しい先生を募集しているが応募はないとのこと。少人数の先生が長く固定している学校だから新人先生は入りにくいのかも。個人レッスンはX先生が混んでいるが、Q先生は空いている。やはり日本語が出来ないと生徒はとっつきにくいのだろう。
 我が家の家系図は大体出来上がったが、細かい点で技術的に分からない点をソフト会社に聞いているが返事が遅れがち。
 あと主な登場人物13人の写真を準備して、原稿を、関係者に読んでもらうことを丁寧にやれば、原稿が出来たことになる。
 去年一年間の家計収支を調査。基本的に残高の増減は少なかった。海外旅行に行かなかったし、家の大型修理もなかった。入院費もある限度を超えると保険で補填してくれるので、思ったより負担が少なかった。残高を調べるのに、最近は預金残高を送ってくれない銀行が増えた。インターネットバンキングに加入して自分で調べるか、店に通帳を持っていくしかない。年寄りにはつらいこと。
 今年度年間俳句優秀賞「飯田蛇笏賞」を取ったのは、正木ゆう子「羽羽」と高橋睦郎の[十年]。「羽羽」はすでに買って読んでいたので、「十年」を求めた。正木ゆう子はシャープないい句もあるが独りよがりの妙な句も多いと思う。高橋睦郎の俳句は、古典に寄り掛かっているものも多く、難しいが独創的である。自分の目指している俳句とは違うかもしれないが、書き写して勉強をしてみようかと思う。
 
 


2017年4月17日(月)
日限り日記

 隠り国(こもりく)
 今回の飛鳥行きの旅行で時間の関係で行けなかったが、行きたかったのは初瀬の長谷寺である。
 ここは奈良時代に建てられた真言宗豊山(ぶざん)派の総本山である。豊臣秀吉に追われた門徒がここに入山した。近年は、子弟教育、僧侶の育成に力を入れており、学問寺として有名とのこと。桜井市の中心から6キロぐらいのところにある。大和川初瀬川の長い峡谷が続くことから初瀬(泊瀬)という地名があり、隠り国(こもりく)という枕詞がある。人里離れたところだったのであろう。
 今では近くに近鉄長谷寺駅があり、寺は花の寺としても有名で多くの観光客が訪れるとのこと。
 私の曾祖父は江戸末期十代であった頃7年間この寺で修行をした。明治末期の大火によって寺の記録が全て消失したため、曾祖父の留学の記録は残っていないとのことだが、一度訪ねてみたいと思っている。
 今年飛鳥を訪ねたときは花の前一週間ぐらいだったが、遙かに曾祖父を偲び、長谷寺の花の季節を想って
 
 隠り国(こもりく)の初瀬長谷寺花霞
 
 という句を作った。
 しかし昨日の句会では一票も得ることが出来ず、主宰の選にも入らなかった。
 いい句だがなあ、と思うのだが個人的な思い入れが強いかも知れない。
 自選句集300には入れたいと思う、将来作ったとしての話だが。
 


2017年4月15日(土)
日限り日記

 [スミレを見る会」
 四季の森公園で行われた「スミレを見る会」に出席。
 この公園には「タチツボスミレ」「マルバスミレ」「アオイスミレ」「ナガバノスミレサイシン」「ナガバノタチツボスミレ」「アカネスミレ」「ツボスミレ(ニョイスミレ)」「アメリカスミレサイシン」があるとのことでそれを見て回った。スミレの種類はこのほかのも沢山ある。しかも今なお新しい交配スミレが誕生しているのだそうだ。
 春になって植物も活発になっている。「ハナイカダ」「ヒトリシズカ」「ヤブレソウ」「カタクリ」「キランソウ」「エビネ」「キエビナ」「シロハナタンポポ」「ウラシマソウ」「キブシ」「ニリンソウ」「ニワトコ」「ムラサキケマン」などが見られた。
  
  一つ覚え一つ忘るる春の草




2017年4月13日(木)
日限り日記

 [儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇]
 ケント・ギルバートのこの本は10万部を突破したという。副題に「日本は儒教国家に非ず、日本人と彼らは別物です!」とある。読む前から私の考えと違うことは分かっていたが、どのようなことが書いてあるか興味があったので読んでみた。
 本の中身はここでは紹介しないが、日本は書き言葉である漢字、律令などの法制度、三国志などの大衆文学など中国からさまざまな影響を受けている。阿片戦争で清国が簡単に欧米に敗れるまでは、日本にとって中国は偉大なる先進国であった。
 韓国からは仏教、建築・陶器などの職人技術、政治テクノクラシーなど影響を受けている。日本人はこのような歴史を忘れてはならないだろう。
 日本は明治の中期までは、教育の教科書は、「論語」などの漢籍が中心だった。「論語」以外に体系的に道徳を教える教科書はなかった。いまは昭和23年に「教育勅語」が国会で公式に否定されてから、広く世界に道徳の規範を求めている。それは正しいことだが、昭和中期まで家庭や学校で行われていた儒教体系による教育が、人びとの心に沈殿していないはずがない。なぜなら孔子本人が実に魅力のある人であり、言動が人の心を打つからである。
 私も今の中国人や韓国人の考え方には辟易させられることが多い。しかし、どの国にも特徴、国民性がある。それぞれから見て良い点悪い点がある。ある国民だけが勝れていることなどはあり得ない。私の友人はこの三国の特徴を「弾圧と脱法の中国人(上に政策あれば下に対策あり)「従順と怨念の韓国人」「追随と増長の日本人」と言ったが、この日本人を大好きなアメリカ人の本によって、日本人が増長したり、贔屓の引き倒しに合わされたりしないことを望む。




2017年4月12日(水)
日限り日記

 [心房細動]
 朝5時半トイレで正常脈拍を確認したが、ベッドに入るときに胸がドキンときて心房細動になってしまった。10日に次いで2日間隔で発生は短すぎると悲観する。
 シベノール・ワソラン服薬。6時半携帯簡易心電計では正常波形。されど脈拍数110は私の通常の2倍でとても苦しい。9時半10分間眠ったら正常に。やれやれ助かった。
 パソコンのワードの具合が悪い。入力ポインターが表示されない、改行マークが表示されない、四隅のトンボが出ない。ワードで仕事(!)をしているものにとっては大変なことで気が急く。いろいろ調べて手を打って直った。やれやれ。
 心房細動もワードも元通り戻って当たり前で、戻らなければ大変なこと。この差は天と地の差。
 Xさんに句集を送って頂いたお礼状。特に良かった句を選ぶために全篇を読む。長谷川櫂先生に選句を依頼したようだが、選者が力を入れるとどうかすると選者の句に近くなってしまうこともあるが、これはれっきとしたX氏の俳句。若くして句集を出したということは足許を固めて次へ飛躍するという決意であろう。
 


2017年4月11日(火)
日限り日記

 [天孫降臨神話]
 日本書紀50講が今日終了した。講義も充実していたが、講師(遠山美津男氏)が新しく出た本をタイムリーに紹介してくれたのが良かった。
 その中の一つ「日本書紀の呪縛」(吉田一彦、2016年11月発行)も力作だった。ただ一つ分からない点がある。それは次の天孫降臨の神話についてである。
 「日本書紀の神話は創作神話。天孫降臨の部分は特に。持統天皇は自分の子供の草壁皇子の即位を望んだが草壁皇子が早世したのでその子(自分の孫)軽皇子の成長を待って天皇にした(文武天皇)。私(吉田)はアマテラスは持統天皇を、アマテラスの孫ニニギノミコトは軽皇子をモデルに造形されたと思う。」(筆者要約)
 どこかで見たことのある説である。
 梅原猛の「古事記」(1980年刊)にはこのような記述がある。
 「長い日本の歴史のなかで祖母から孫への譲位が行われたのはわずかに一度、持統十年(696)だけである。古事記が書かれた15年前になる。甚だ偶然的なこの歴史的事実を、一つの歴史的法則にまで高めようとしているのである。天孫降臨を神話の中心に置いたのは当時の政治的支配者の考え方が表れている。」(筆者要約)
 アマテラスが孫(ニニギノミコト)をして葦原中つ国(日本国)を支配させたという神話を創らせた(あるいはことさら大きく書かせた)のは、持統天皇が自分から文武天皇への譲位を正当化するためだ、というのだ。このことを「日本書紀の呪縛」の筆者は自分の考えだといっているが、30年以上前に梅原猛は自分の(あるいは自分と上山春平の)考えとして述べているのである。多少の力点の違いはあるにしても。
 まさか歴史学者は哲学者の世迷い言など知らなかったと言っているのではないでしょうね。
 
 

2017年4月8日(土)
日限り日記

 [千鳥ヶ淵の桜]
 水曜日、娘と孫娘を誘い出して花見をした。
 もともとは家に来ないかと誘ったのだが、偶々桜の季節だったので食事をしがてら、花見をする計画を思いついた。
 東京駅で落ち合って、中央郵便局の前を通り、三菱UHJ銀行本店、三菱商事ビルを見て、三菱仲通りを入口からのぞき、パレスホテルに向かう。
 パレスホテルでは1階のグランドキッチンはちょうどお昼時だったので満席だったが、予約しておいたテラス席に座る。ここからはお濠が見えるだけで皇居は見えないが、お濠に皇居の花びらが浮遊してきた。
 利用しているのはほとんどがビジネスマンかビジネスウーマン。高校二年生の孫娘にはこの辺に勤めるということはこういうことかといい勉強になったかも。
 大手門から北詰橋へ皇居を通り抜けて千鳥ヶ淵へ。咲き満ちてこぼれる花びらもない満開の時だった。平日なのに歩くのさえ難しいぐらいに混み合っていた。
 それから靖国神社に詣でる。ここには、おじいちゃんの父の弟、母の弟が戦死して祀られていると説明。
 千鳥ヶ淵の桜はかつて見た満開の桜に少し劣ると思った。なぜだろう。写真で比べてみたが、撮影したカメラの性能に差があって実態比較は出来ない。こちらの期待が大きすぎて期待外れになるということか。
 

2017年4月5日(水)
日限り日記

 [猫の留守番]
 二泊三日の旅行で一番心配だったのは猫のモネである。17歳と年をとってきたので今まで大丈夫だったことが通用しないかも知れない。
 食事やトイレ砂は十分用意して、外への出入口を開けておく。気候も良いからまあ大丈夫だろうと、祈るような気持ちだった。帰りの新幹線に乗ってからは妻と二人とも一途にモネのことを思っていた。
 家に帰るといない。前に飼っていた猫は帰ると迎えに出てきたが、モネはそういうことはしない猫だからこちらで探さないといけない。餌もトイレも直近で使ったようだから近くにいるには違いないが、家の中にも庭にもいない。
 凍り付くような思いで心配していると、30分ぐらいして出入り口で音がした。二人で出迎えると、モネは今まで見たことのないような顔を細くし首を伸ばした格好で、聞いたことのない太く低い声をだしてこちらを睨んでいる。身体も薄汚れている。よくも置いてきぼりにしてくれたなという形相と声である。ここは平謝りに謝るしかなかった。
 その夜は、今まで通りベッドで妻と寝てくれたが、表向きは許してくれたようで、実は、二三日は完全に許すとはならなかった。こんなとき動物の、特に猫の心理は人間よりもはるかに繊細である。今我々の関係は、今までより少し濃厚になっている、双方とも必要以上にすり寄っている。
 
 
 
 

2017年4月3日(月)
日限り日記

 [飛鳥の旅第三日]
 今日は欽明天皇陵、猿石、鬼の俎・雪隠、亀石、橘寺、川原寺跡、石舞台古墳、飛鳥寺、甘樫の丘などを徒歩で歩いた。出かける前に、高松塚古墳に寄りたいと思ったが時間的に不安だったので断念。
 日本書紀の授業で言えば、豊浦寺跡、伝飛鳥板蓋宮跡に行きたかったし、酒船石も見たかったが、時間の関係で致し方なし。
 飛鳥に来てみて感じた疑問点は、なぜ(神話にしてみても)神武天皇は九州日向を発って、この地に来たのか、という点である。二番目は大和の豪族たちがなぜよそ者の神武天皇を受け入れたのかという点である。これは三日間、6人のガイドにそれぞれの私見を聞いたが、はっきり言った人は一人だけだった。それはこの地が金属原料(銅、亜鉛、朱砂の鉱石)などに恵まれていたからというものである。当時は外国特に中国の脅威を感じていたから、日本列島の中央にあってなるべく山に囲まれた内陸に本拠地を構えたかったのではないか、という私の考えと同じ人もいた。現地を見てもこれだという理由は思いつかなかった。
 古代の土地に来て、古代が一層おぼろになってきた。
 
 
 

2017年4月2日(日)
日限り日記

 [飛鳥の旅第二日]
 飛鳥の旅の第二日目は纏向遺跡、箸墓古墳、欽明天皇陵、倉橋・赤坂天王山古墳、キトラ古墳。
 纏向遺跡は纏向石塚古墳や箸墓古墳を含んだ一帯で、中心の辻地区に大型建物群のあとが発見されたところである。その建物が規模から言っておそらく卑弥呼の館であり箸墓が卑弥呼の墓であるする人は邪馬台国はこの大和で決定であると言い始めた。
 そのことの当否はともかく、この纏向遺跡が乱開発されていることに驚く。中心地区にあるアパート群は、炭鉱労働者の移住アパートだそうだ。昭和40年代九州や北海道の炭鉱が閉鎖され一方高度成長期であったためにこのようなことが起きた。アパート建設中に遺跡が多量出てきたようだが、建設を止めることは出来なかった。日本で本格的に遺跡保護の活動が始まったのは、高松塚古墳壁画発掘(1972年、昭和52年)以降とのことである。
 倉橋・赤坂天王山古墳は、宮内庁管理ではないが、崇峻天皇陵ではないかと言われているとのこと。古代古墳で唯一中の石室を見ることの出来る墓である。最近は崩れて入口が狭くなり出入りが窮屈になっているとのこと。汚れるのをいとわずにここに潜り込んだのは我々一行では10人足らず。それが全て女性であった。我が家では妻が潜り込んだ。




2017年4月1日(土)
日限り日記

 [山辺の道]
 3月28日から29,30日の2泊3日で山辺の道から飛鳥までを旅してきた。約5年かかって古事記の全文を読み日本書紀の本論を読んできたいわば卒業旅行としてである。
 第一日は午后黒塚古墳から大神(おおみわ)神社までの三輪山の麓を通る山辺の道を歩く。この道はもともとは飛鳥から奈良までの獣道のような人道だった。飛鳥時代、奈良には王仁一族が住んでいたとのこと。歩いたのはその一部分だが道は狭く起伏がある。
 第一日一番印象に深いのは、黒塚古墳と大神神社。大神神社は三輪山をご神体とし、日本最古の起源を持つ。鳥居、参道、拝殿は荘厳だが質素な感じがする。祭神は大物主命で出雲の大国主命と同一の神であり、この地方にも大きな力を持っていた。古事記によれば崇神天皇の夢の中にオホモノヌシが現れて、疫病を退治したければオオタタネコに私を祀らせろと言う。神武天皇系(崇神天皇)が他所からこの地にやってきたことをうかがわせるとされている。
 我々一行は女性18名、男性6名。山辺の道々にある万葉歌碑や道の辺の草花について女性軍の方が遙かに知識がある。しかも健脚であった。