2016年9月28日(水)
日限り日記

 [ラミレス監督続投]
 一週間ぐらい前だったろうか、横浜DeNAベイスタースの南場オーナーが来期もラミレス監督で行くことを伝えて、監督から快諾を得たという記事が出ていた。その理由として「「中畑体制をスムーズに引き継ぎ、これまでのベースを生かして重要な一歩を踏み出してくれた」と評価したとあった。前監督の体制をスムーズに引継ぎ、これまでのベースを生かして、とまで言う必要があるのだろうか、不思議な理由だな、と感じたが、はたと思い当たった。
 去年ベイスターズはシーズンの途中までそこそこの成績だった(4位ぐらいだったと思う)。シーズンなかばにもかかわらずオーナーは中畑監督に来期続投を要請した。早すぎるなあ、と思ったものだが、それをきっかけにしたように、ずるずると負けが込んで最終的には指定位置の最下位になってしまった。監督4年目とあって流石に中畑監督も自ら申し出て退任で責任をとらざるを得なくなった。
 球団としても続投を要請した手前、解雇は出来ない。監督が辞退してくれてほっとしたのではなかったか。そしてリップサービスとして、中畑監督の残してくれた熱い情熱を新監督に引き継がせるなどと言ったのではないか。そして監督留任を前提にしたコーチ陣を全員留任させることにした、と思う。進藤ヘッドコーチも、二宮ファーム監督も、その他のコーチも変わっていないのだから。
 ラミレスもかねがね将来は日本のプロ野球チームの監督になるのが夢と言っていたから、中畑の体制がどうのとかは枝葉末節であり全く気にならなかっただろう。
 でも、南場さん今後は違いますよね。ラミレスの思うようなチーム編成に力を貸してやってください。ラミレスはもっともっとチームを強く出来る監督だと思いますので。



向日葵の太郎の顔と咲きにけり






2016年9月26日(月)
日限り日記

 [戦争まで]
 大浦誠士「じっくり万葉集」。品川悦一先生の講座に代わる講座で、先生の成長を期待しながら聞く講座、と位置づけていたが、このところ先生の成長が著しく、満足できる授業になってきた(生意気ですが)。
 帰りに有隣堂で加藤陽子「戦争まで」を立ち読みする。前作の「それでも日本は「戦争」を選んだ」は購入して読んだが、しっくりこなかった。いくら精緻に分析して見せてくれても実際とは異なるという印象をぬぐい去れなかった。その原因を、私は世代格差(戦争関与度格差)にあると思った。
 今回のものは、1930年から40年に到る「満州事変」「日独伊三国同盟」「日米交渉」について最新の研究成果を元に資料を解析し、歴史像を提供する。登場するのは主に外務官僚と軍部関係者である。天皇も懐疑派として登場する。
 力作であることは分かったが、整然と歴史像を提供されればされるほど、事実から離れているのではないかという前作と同じような懸念を持った。両作とも、中高校生に対しての講義をもとに書かれたものである。このことで内容が分かりやすくはあっても単純化されすぎているかも知れない。今回は購入を見送った。
 代わって購入した本。「羽羽」(正木ゆう子第五句集)、雑誌「俳句」10月号(所属結社の主宰が合評者として出ているので)、「虫の目になってみた」(海野和男)。
 夏目鏡子述「漱石の思い出」を本棚の奥から引っ張り出して読み返す。一昨日見たNHKの[漱石の妻]が面白かったので。



百年を横たわりをる漱石忌







2016年9月23日(金)
日限り日記

 [ご挨拶回り]
 昭和6年2月の母の日記には次のような文章がある。
 「学士会館で結婚式をあげた。新宿の夫の実家に泊まり、翌日は雪の中を赤坂の美髪倶楽部で髪を日本髪から洋髪に直し、それから二人で出席者の家にお礼に廻り、洗足の自分の実家に泊まる。」
 雪の中をお礼に回った出席者とは誰で何軒あったのか。移動は徒歩、それとも車か人力車であろうか。
 明治時代に東京の中学、高校、大学に通った母方の祖父の話によると、当時は学校は、1時間かかろうが2時間かかろうが全部歩いて通学したとのこと。
 昭和30年頃私は東京にある母の実家から大学に通った。祖父は時々、前日のおよばれのお礼に行ってくると言って家を出ることがあった。祖母は、なに相手様のこともあるから、玄関の名刺入れに名刺を入れてくるだけなのよ、と言っていた記憶がある。電話機はあったのだが、直接お礼を伝えるという習慣が当時までもあったらしい。
 ご挨拶回りはその時代の習慣によるだろう。移動には時間がかかって今から見れば大変であっても、ほかの人もおなじ方法で移動していたのだから大変ではない。
 明治はもちろん昭和の時代もすでにセピア色になっている。やがて現代も確実にセピア色になっていく。



黒白の家族写真へ帰省かな






2016年9月21日(水)
日限り日記

[御侍史(ごじし)]
 最近医者は患者と会っているときに、大半はパソコンに向かって字を打ち込んでいる。手書きのカルテだと絵など描いて文章の代わりにすることが出来るから患者と話しながらでも書けるが、パソコンでは文章にしないと後で見て分からないからだろう。もっとも少し刺激的なことを言うと、えっと言う顔をしてこちらを向いてくれるから、医者がパソコンを向いているのは症状に大した問題がないことの証しかもしれない。
 この前市民病院の循環器科の医者から、あなたは血小板が少ないが、今後抗凝固薬(ワーファリンのような)を飲む羽目になったときに、飲んで出血しやすくなりはしないか、今かかっている大学の血液内科の先生に聞いてきてくれませんか、と言われた。
 わかりました、と答えたそばから先生が「いや私が手紙を書きましょう」とすぐにパソコンに向き合って手紙を打ち、封筒に入れて渡してくれたので助かった。封筒には「**大学病院**先生御侍史」とあった。「御侍史」という文字は封筒にすでに印刷されていた。
 **大学病院の先生は「8万単位あれば心配要りません。私からご返事を書きますから持っていってください」とそばにいた助手(医師)にパソコンで返事を書かせた。その封筒にも、あらかじめ「御侍史」という文字が印刷されていた(おそらく様式化された手紙文の宛先にも)。
 「侍史」というのは「召使い」「秘書」という意味だそうだ。直接では恐れ多いので、あなた様の召使いのところにお手紙を出すというような相手を敬う言葉だという。
 どこから来た言葉か。中国語では侍史は秘書のことであり、手紙の脇付の一つとされているから、元が中国であることは多分間違いない(他に台鑑、釣啓という単語もあるが日本には「輸入」されなかったらしい)。しかし、聞くところによると中国では今では全く使われていないとのこと。
 このような言葉が医者仲間で使われているのは何か微笑ましい。患者が自分たちが期待しているほど尊敬してくれないので、身内同士で尊敬し合っているということか。となると、「御侍史」はお互いを先生と呼びあう学校の先生とか、代議士の間ではひょっとしたら使われているのかも知れない。



女郎花のごとく踏ん張れ男郎花

 






2016年9月16日(金)
日限り日記

 [日本語のために]
 河出書房新社日本文学全集「日本語のために」を少し読んだ。
 私も日本語の成り立ちに興味があって、中国語と日本語の関係の本を何冊か読でいる。しかしこの「日本語のために」を読んで驚愕した。祝詞、アイヌ語、琉歌、憲法、漢詩漢文、仏教の文体、キリスト教の文体などいろいろ日本語に影響を与えた文体が、紹介されている。しかし、漢詩漢文については、その扱い方に不満がある。今の日本語(口語および文章語)にかなりの影響を与えたのは「漢文脈」(漢文読み下し文)ではないか、と思えるのだがそれにあまり言及がない。
 特に驚いたのは丸谷才一の「文章論的憲法論」である。要約すると「今の憲法は翻訳調でしまりがない。しかし、今の憲法の原文が書かれたアメリカでは、散文というものが確立されていたから、意味が伝達されるように表現できる。だから今の憲法は意味は正確に表現されている」「日本語の現代の口語文は、小説を書くのには具合がいいが、それ以外の目的にはうまく適合していない」「明治憲法の方が今の憲法よりも文体としては遙かに劣る」「現代日本の共通の財産であり道具である日本の散文は、今ようやく確立しようとしかけている」。
 私のつたない力で見る限り、現代の中国語は、法律文などには適さない。時制がないし単数複数もないし、受け身構文も適当である。主語と述語の間に、いろいろな構文を入れることが出来るのでしばしば複雑な複文構造になるなどの理由で。この点では日本語に劣ると思っていたが、日本語も法律文章などの面では、英語に劣ると言うことだ。言われてみれば、思い当たる節がないでもない。
 「日本語のために」で一番感銘したのは、高橋源一郎訳「終戦の詔書」である。なるほど昭和天皇はこのようなことを考えて詔書を出されたのかと、天皇の心に大いに感銘した。しかし、原文では到底そのような天皇の思いは分からない。それを訳者は、昭和天皇は語彙を制約された人だったから、と言っている。感情や思いと、発表したことばの間には解離があると言っている。高橋はその解離を少なくして訳したと言っている。
 もし高橋の訳したように発表されたらどうだったろうか。この「詔勅」を、天皇が天皇家の高祖に対して戦に敗れたことを詫びている文章だという人がいたが、やはり基本は目前にいる国民に対する詫び状であり呼びかけであると思う。このことが分かれば、もっと多くの国民の共感と尊敬を得られたのではないか。
 ことばは大切である。



玉音放送カボチャの花もうなだれて

 







2016年9月14日(水)
日限り日記

 [文学部で読む日本国憲法]
 長谷川櫂「文学部で読む日本国憲法」を読んだ。
 著者が言葉に繊細な俳人であるし、また題名から言っても、何か特殊な読み方が書いてあるのかと思ったが、そうではなく著者によれば文学部でシェイクスピアを読むように、日本国憲法を読むのだという。なぜ日本国憲法かといえばそれが戦後の時代精神を考えるのにもっとも良い教材だからだそうだ。
 私が期待したのは、日本国憲法は英語の直訳体であり、奇怪な醜悪な文章である(三島由紀夫の説)、だから美しい日本語にするためにここはこう変えるべきである、という提言がなされていると思っていた。
 ところが実際は、著者は日本国憲法の文体を解体してみせて、こういうことを言っているのだ、実に分かりやすく書いてあるでしょう、言う。日本人は外国文化を受け入れその中から自分たちに合ったものを選んできたのだから、憲法が翻訳調であったり、リンカーンのゲティスバーグの演説を採り入れていてもかまわないと著者は言う。大切なのはその中味だと。
 この「文学部で読む」というのは、著書の本の「一億人の俳句入門」の「一億人の」に置き換えてもよさそうだ。普通の憲法学者の本にはない、日本の神話と国体の話とか、民主主義圏外の勢力、たとえばイスラム教とのあいだの言論の自由の問題をどうあつかうかなど、実に分かりやすく書かれている。もと新聞記者としての関心の触手がどんどん広がっていくのに任せて論じているところもあって、現代生活の中での生き生きとした憲法解説本になっている。
 集団安全保障のところでは「個別的自衛権の行使を「固有の自衛権」として認める解釈が常識によるものなら、集団的自衛権の行使を「固有の自衛権」として認めないのも常識です。法律の解釈は常識であるべきです。」と言っている。
 仮に集団的安全保障の相棒であるアメリカから、今のままでは日本の安全を守れない、日本も一歩踏み込んでくれと要請があったとしたら、出来ない一点張りで済むのか。政府の出している新3要件(我が国の存立が脅かされる、他に手段がない、必要最小限)は、常識的な制限条件だと思われる。「自衛権」という言葉の常識論ばかりでなく、今そこにある危機にどう対処するか。集団安全保障の項は、一歩進んだところに踏み込んで欲しかった、という感想を持った。もちろんこれは国論を二分する問題だから意見が分かれて当然であるが。


地球一周秋風すこし血なまぐさ

 



2016年9月12日(月)
日限り日記

 [鼠径ヘルニア記録]
 9月8日朝、トイレ(小)に行ったときに、右の鼠径部になにか柔らかいものが出る感じがした。
 部屋で見たら、右の方が少し膨らんでいる。調べてみるとどうやら鼠径ヘルニアらしい。子どもの病気かと思ったが筋力の落ちた年寄りにも多い病気とのこと。治療は手術しかないとのこと。面倒なことになった。ただ、他の病気があるような場合は、症状が軽ければほおって置いて良いらしいので、しばらく様子を見ることにした。
 9月9日
 膨らみが減らないので朝横浜労災病院に電話。外科の医者の都合を聞いて返事をくれることになっていたが、返事なし。4時に電話したら予約センターの人が私に連絡するのを忘れたとのこと、今から救急センターに来てくれとのことで、タクシーで出向いた。
 血液検査、CT、レントゲン検査などをやり、やはり鼠径ヘルニアでしょうとのこと。今後のことは14日外来で話をしようとのこと。
 点滴をした右の手の甲が、内出血のため赤く膨らんできた。血小板が少ない上に抗凝固薬を飲んでいる私としては、少し気になること。
 いろいろと不都合が出てきて悩ましい。一日のうち半日はこの不都合なことと格闘するが、半日は全てほったらかしにして、なるようになれと明るく生きたいものだ。
 
 
 半日は修羅半日は大花野
 



2016年9月8日(木)
日限り日記

[マリー選手]
 全米オープンテニスのベストファアを決める準々決勝で錦織選手がイギリスのアンディ・マリー選手をフルセットの末破った。
 過去の成績は錦織の1勝7敗だったから、久しぶりの勝利だった。
 私が素晴らしいと思ったのは、勝負がついて両者が挨拶を交わす場面だった。マリーは錦織ときちんと目を合わせ、何ごとか言って錦織の肩を叩いた。とても爽やかだった。
 マリーは後で「この夏は負けてもおかしくない試合を勝ったこともあったし、こんな日もあるよ」とサバサバと話したと報道されている。
 この夏はオリンピックでいくつかのデッドヒートを見た。勝負のついた後の挨拶も沢山見たが、負けた方はなかなか負けを認めたくない雰囲気を残したままの挨拶になる。
 今日のマリーの挨拶は、それだけで私をマリーのファンにした。


さよならの輝くひとやサネカズラ






2016年9月3日(土)
日限り日記

 [同事会]
 年に一度の「同事会」が行われた。
 この会は、今から30年以上前に同じ会社の部に属していた人の集まりである。このとき大きな法律改正があり、会社がどう対応するかを論じ、結論を出していった仲間である。人が減って、今ではメンバーが6人になった。
 年齢は当時の部長から新入社員までだから30歳は違う。しかし、同じ仕事をしたので共通の話題があり、仲間意識がある。その新入社員が今会社の要職にあるので、会社の近況も聞ける。私にとっては、一番大切な会である。
 このような会をなんというのだろう。同窓会、同期会、クラス会、職場会などいろいろあるが、適当な呼び名がないように思う。中国語では「同事」という言葉があって、「同じ職場で働いている人」「同僚」という意味である。我々の会は「同事会」と呼んでいいのだろうと思う。
 場所は東京駅から歩いて3分で至近、個室、格安とインターネットでは宣伝していた。間違いはなかったが、部屋というよりは、区画ともいうべきところだった。座ってしまえば部屋も区画も変わりはない。店員は全てアジア系の人だが、日本語は流暢である。2時間時間限定で、若い人が多かったが、2時間限定というのは年寄りにも悪くない。
 我らの「同事会」はきのうもこの上なく楽しく終わった。来年もみな元気で出られれば嬉しい。



詰め合つて昔話や芋煮汁





2016年9月1日(木)
日限り日記

[永久供養]
 母の実家の墓誌の写真を撮ってきてもらった。
 この墓誌は、昭和14年に祖父(母の父)が建てたものである。墓誌には天保12年(1841)年に死んだ者から書かれている。建てた祖父まで7人。祖父以降5人。合計12人である。
 この家は平成23年に亡くなった者を最後に跡取りがいなくなった。私の叔母(母の妹)が心配していろいろ親戚にお墓を使ってもらうよう画策したがうまくいかなかった。このため叔母は、お寺にかなりの額の永代供養志納金を納めて永代供養をお願いした。
 お寺の回答は、この家の先祖の霊は他の檀家の霊と共に永代に供養するが、お墓の土地は最後の当主が無くなった日から30年経ったら寺に返してもらう、というものだった。
 親戚一同は、高額の志納金を納めたのはお墓を現状のまま残して欲しいという主旨ではないか、と叔母に聞いたが、叔母はお墓のことは私に任せなさいと言ったきり亡くなってしまった。
 お墓の問題は難しい。
 お布施は檀家の経済の許す範囲で、となっているから多寡は関係ないと言われるだろう(実際には出してくれそうな檀家に強く頼むようだが)。また、身内がお参りしない墓石が残ることにどれだけの意味があろうという見方もあろう。すでに私でさえ、墓誌を調べるのに自分で行かないで人に頼むような有様なのだ。



天保へ父祖尋ぬれば曼珠沙華