2016年7月30日(土)
日限り日記

[夏の文学教室」
 第53回日本近代文学館 夏の文学教室「文学の明治―時代に触れて」(読売ホール)に出席した。教室は25日から30日まで開かれているが、私が出席したのは29日だった。講師は平田オリザ「変わりゆく日本語、変わらない日本語」、佐伯一麦「小説を書きたかった男、石川啄木」、平野啓一郎「自由意思と「諦観」、鴎外文学の世界」だった。初めは初めの一時間だけ聞くつもりだったが、とても面白かったので結局全部聞いてしまった。
 面白かった理由は、講師がみな実に上手に話を進め、論点を少しも外さないと言うことが第一。第二には現役の作家だけに我がことに引き比べての話もあり、生々しい話が聞けたことだ。
 一番感動したのは平野啓一郎の話だった。私は鴎外の「高瀬舟」や「阿部一族」などを読んだときには、もっと他に道はなかったのかというどうしようもない焦燥感、欲求不満を感じて、鴎外の世界に就いていけなくなった。平野はそれこそ鴎外の世界観だという。世の中には理不尽でもどうしても逃れられないことがある。鴎外は自分の文学の基本は「諦観」である。逃れられないものは逃れられない。割り切れないものがあるのも人生で、それをそのまま書く、と言っているとのことである。しようがなかったのだと書く鴎外には、人間に対する優しさがある、と平野は言っていた。もう一度鴎外を読み直してみようかなという気持ちにさせられた。
 しかし一番驚いたのは、読売ホールの1000人は入ろうかという席がほとんど満員であったことである。しかも、若い聴衆もかなりいた。明治は遠くなかりけり、の感がした。



2016年7月27日(水)
日限り日記

 [本屋にて]
 本屋に行くと昔は、経済誌、ゴルフの雑誌、車の雑誌の棚の前で、一時間ぐらいは時間がつぶせたが最近は立ち読みする特定の雑誌のコーナーがなくなった。これも年をとって落ちた剥落のひとつだろう。
 その代わり俳句書のコーナーに立ち寄って新刊を眺める時間が増えた。これは雑誌ではないから衝動買いするにしては値段が高い。
 佐藤文香の句集「君に目があり見開かれ」は、昔の同人雑誌のガリ版刷りのような装丁である。90ページで1300円。彼女の
 
手紙則愛の時代の燕かな
は、そのような時代に育った自分には新鮮だった。燕が今よりも生き生きしていたように思い出された。でも、ほとんどの句は、なぜ詠んだのか分からない。良いと思えない。ガリ版刷りのように、仲間だけが分かって、お互いに誉め合う俳句のように思えた。仲間内で誉められるにはこのようにぼやっとした句でなければならないのだろうか。

 西出真一郎という人の句集「少年たちの四季」を読んでみた。空色の美しい装丁で2000円。

吾亦紅叱る姉から先に泣き
など叙情に溢れている。1935年生まれとあるから同年代の人だ。ほとんどの句が難しくなく共感できるものだったのはそのせいだろうか。ただ「少年たち」が、自分であり、自分を取り巻く少年で、装丁の空色のように全ての句が少年の淡い叙情に溢れている。高等学校の先生だったそうなので、やはり職業病だろうか。
 結局「飯田蛇笏全句集」を買ってしまった。文庫本だが1800円。

流燈や一つにはかにさかのぼる
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

何でもありの現代の俳句に対して、自然を見据え人間を見据えてこれだという俳句が7000句。




2016年7月22日(金)
日限り日記

 [精神科受診]
 生まれて初めて精神科を受診した。
 私は今、睡眠時無呼吸症候群と言われている。ほうっておくと、1時間に40回ぐらい呼吸が止まったり浅くなったりするのということが検査で分かった。間歇的に大きな鼾をかき出すあの症状です。このため夜は加圧マスクを付けて寝る。そして一ヶ月に一度は医者に診断してもらわないといけない。加圧マスクを付けると無呼吸回数が正常(5回以下)になるので、大概は、うまく機能していますと医者に言われて帰るだけなので、ついでにいろいろ質問をすることにしている。
 この病院には、呼吸器科、循環器科、精神科の医者が輪番制でやってくる。今回は精神科の医者の予約をとって、先生に尋ねた。
 「このところ夜間にトイレに起きる回数が増えて困っている。一晩3回から4回も起きてしまう。前立腺肥大なので多分そのためだと思うが、出来れば減らしたい。何か心の持ちようで起きる回数を減らせませんか、薬は飲みたくないのでそれ以外の方法で。」
 「分かりました。よくお話し下さいました。」と精神科の医者はにこやかに言った。
 「あなたにぴったりの方法があります。それはアップル社のスティーブ・ジョブスで効果を上げたことから能力開発の一つとして知られるようになった方法で、「マインドフルネス・ストレス低減法」と言われているものです。寝る前5分間やってみて下さい。
 また、分からないことや、やってみた感想を是非聞かせて下さい。」
 
 そんな方法はありませんよと言われるかと思ったが、意外や意外、面白い方法を教えてもらえた。精神科も悪くない。
 さて「マインドフルネス・ストレス低減法」はどのようにやるかは、しばらくやってみてからお話し致しましょう「折れない心の強化法」と言われるやり方が睡眠とどう関係するのか、もうひとつ分からないところはあるが。
 
 
 
 

2016年7月20日(水)
日限り日記

 [中国語古語と現代日本語]
 私は小学中学を父方の祖父と、大学時代を母方の祖父と一緒に暮らした。彼らはともに明治10年代の生まれである。彼らの言葉は、ほんの少しだが今の我々の日本語と違う。初めは何か気取っているのかと思っていたが、漱石の小説を読んで見て、両祖父の言葉は小説の主人公とほとんど同じ使い方なのを知った。つまり当時はそれが一般的な言葉だったのだろう。例を挙げると、「「あの医者はあのとき到底難しいって宣告したではないか」[今よりは大分信用があった]「このような料簡でやったことだ」「言わない人の方が剣呑だ」「御趣意がそうなら仕方がない」。また書き言葉では「思って御出(おいで)だ」「理屈っぽくなって不可(いけ)ない」「そうした方が可(よ)かろう」など。当時は「いけない」と書いたのでは、「不可」ととってもらえない恐れがあったのだろう。
 明治中期は、日本語の言文一致体が、産みの苦しみを味わっていたときである。
 
 ところで先日「論語」を習っていたら、こういう文章が出てきた。「子曰:“自行束脩以上、吾未嘗無誨焉」。この文章の中の「以上」は、現代語中国語訳では「只要・・・・・」、つまり「これだけすれば・・・・だ」と訳されている。すなわち、「干し肉の束を納めさえすれば、私はこれまで教えなかったことはない」という訳になる。このように訳しているのは、手持ちの資料では宮崎市定であり、明治時代の学者安井小太郎である。
 ところが今一番読まれている金谷治は「干し肉ひと束を持ってきたものから上は」と訳しているし、一番新しい井波律子訳は「束脩以上の謝礼をもって入門してきたものに対して」となっている。孔子はそんなに勘定高かったのだろうか。おかしな訳だ。
 ところが今の中国語では「以上」は「5歳以上10歳まで」というような使い方ばかりで、「ただこれだけすれば・・・・だ」という意味で使うことはないのだそうだ。でも日本語にはありますよね。「約束した以上、必ず実行します」というような使い方が。
 つまり中国語の古語が、現在の中国語には使われないで、現代日本語に使われているという希な、面白い例ではないか。風習では、古代中国にあったものが本場では廃れてしまって、伝来した日本にだけ残っているというようなものは沢山あるが(例えば「七夕祭り」「菊の節句」など)。
 
 




2016年7月18日(月)
日限り日記

 [ヤマユリ観察会]
 NPO法人全国森林インストラクター神奈川会の「ヤマユリ観察会」(神奈川県立四季の森公園)に参加した。
 この公園にも600株ぐらいあるそうだが、どれも群生ではない。山の崖のようなところに個々に咲いている。林と草地の境界が好きなのだそうだ。花は大きくて茎が曲がっていて、今にも倒伏しそうである。添え木をしたくなる。そのせいだろうか、人との関わり合いの深い花なのだそうだ。
 種が蒔かれると地上に発芽するまで2年かかる。それから生育して開花するまで3年かかるので、全部で早くて5年かかる。天敵はウイルス、猪などの食害、人間の盗掘(!)とか。蟻、蝶、蛾などによって花粉が運ばれるが、大型の蛾は10キロメートルぐらい飛び回る(風にも乗って)ので、百合の遺伝子も10キロメートルぐらいに広がっているそうだ。
 花粉を一番沢山運んでくれるのは大型の蛾。蛾は夜活動するので、これを惹きつけるためにヤマユリも昼よりは夜の方がよく香るとのこと。
 ヤマユリは夏の季語だが、公園にははやくもヒヨドリ花、ミソハギなど秋の草が咲き始めていた。今日も暑かったが、8月になると俳句の世界では秋に入るのである。
 当日は新調したデジカメ(Canon PowerShot G7X MarkⅡ)を使ったが、筆を代えても弘法たらず。



百合語る手話通訳者の手の香る




2016年7月15日(金)
日限り日記

 [厭戦ムード]
 参議院議員選挙が終わったと思ったら、東京都知事選挙。自分には選挙権がないが首都の選挙だから新聞もテレビも終日このテーマで溢れている。無関心ではいられない。
 有力候補の三人の話を聞くと、表側はどの人も東京都をよくするため立候補したと言うが、裏側は自分のキャリアの終わりをここで輝かせたいという個人欲に満ち満ちている。東京都知事はそれにはうってつけの職位であるらしい。国会議員20年のキャリアが今萎もうとしているのでここでひと花咲かせたいとか、後輩が選挙で勝っているので自分もあやかって、ここでジャーナリストのキャリアの終わりを華々しく打ち上げたいとか、官僚としてのキャリアのとどめのひと旗を上げたいとか。
 自分の名は残らなくてもいい、都民の生活をよくしたいと表向きは言うだろうが、どうだろう。過去の都知事で黙々として業績を上げたひとは、ほんとに一人ぐらいしか思いつかない。
 76歳の候補者は1期4年で実績が上げられる仕事と思って立候補したのだろうが、そうだとすれば都知事の仕事を甘く見すぎてはいないか。
 国民として選ぶ権利は真面目に行使しているが、このように討論と宣伝の喧噪が長く続くと少し静かな環境にいたいと思う。選ぶ機会は多ければ多いほどよいが、今回のように不祥事(前知事の公私混同)の後始末の選挙となると、いい加減にしてという気にもなる。



くぐられて茅の輪些か汚れたる





2016年7月13日(水)
日限り日記

 [宇治拾遺物語]
 河出書房新社の「日本文学全集」から「宇治拾遺物語」と「今昔物語」を読む。この文学全集は池澤夏樹個人編集とある。池澤夏樹の本は読んだことはないが、随筆は何本か読んだ。印象は、文学者という社会評論家で、私と違った感性の持ち主だということだ。しかし、この文学全集の現代文翻訳者は、とても良い人選のように思う。
 今回の「宇治拾遺物語」の現代文への翻訳者は、町田康。すでに「絵本御伽草子-付喪神」などで好評を得ている作者だから、まああまり適役者発見ということでもないかも知れないが、この翻訳者を得て「宇治拾遺物語」は、また燦然と輝いた。原文を見ていないが原文ではこうは面白くはないかも知れない。
 原作は1213から1221年に宇治大納言源隆国が編集した説話集と言うから、鎌倉幕府時代から足利幕府時代のものである。法話あり滑稽談(たとえば瘤取り爺さん)あり、どれも極めて面白い。巻を置くあだわず、とはこのことですね。
 いや待てよ、原文でも面白いのだろうか。これより100年前の12世紀前半平安時代末期に編集されたという「今昔物語」もこの「日本文学全集」8巻にあるので自ずから読むことになったが、これも文句なしに面白い。こちらは福永武彦訳で、町田のものに比べれば大分真面目なのだがそれでも面白いのは、原文が良いからでしょう。つまり平安から鎌倉時代の人は、このような面白い物語の主人公になり、読者になりして生きていたということだ。実に楽しそうだ。
 この日本文学全集は全30巻あるから、もうしばらく楽しめそうです、原文で読むのと現代文訳で読むのとではずいぶん違うことは分かっているが、ご用とお急ぎの方は訳文でという読み方も許してもらおう。


短夜のなりたし宇治の大納言

 


2016年7月11日(月)
日限り日記

 [「論語」の勉強]
 私の前の時間に個人レッスンを受けている人は、中国語のガイドの試験に合格をした人で、これ以上の目標はないので力が落ちないために毎週一時間自由討議をしているのだそうだ。となりの部屋で聞いている限りは、中国人が会話をしているような発音だったので、大いに敬服した。
 「論語」は「雍也第六」の途中から。これまで習ってきた先生と曜日の都合が合わなくなったので新しい先生に変わった。当然ながら先生によって教え方が変わる。新しい先生は日本語が出来ないが、中国古文に詳しい。「論語」の専門家ではないが、この章は中国では人口に膾炙されている、ということをよく言われる。それは日本人の覚えている「論語」の有名な章と必ずしも一致していない。そういう日中の違いも面白いところ。
 作家でありフランス文学者でもある松浦寿輝によれば、十八世紀フランス文学・思想のテクスト、たとえばヴォルテール(1694-1778年)の著書を読むのに、今日のフランス人は大した苦労を覚えない。しかし日本の18世紀の文人(本居宣長、上田秋成など)の文章を今日の日本人が読もうとすると格段にとっつきにくい。
 今度の先生にいきなり「論語」のある章を読んでもらったら、発音は少し戸惑うところがある(今使われていない字もあるので)が、意味はすぐとれるようだ、「論語」は紀元前6世紀の文章であるにもかかわらず。
 日本語は、明治時代中期に言文一致になったが、言・文の開きがかくも大きなのはなぜなのか、と慨嘆せざるをえない。大和言葉と現代文との間に、漢文読み下し文(古文もどき)が長く幅をきかせていたことも原因ではないか。この漢文読み下し文も今の人にとってはなかなかとっつきにくい。
 私は祖父の使っていた明治中期に出版された「論語講義」(安井小太郎)を時々参考のため読むが、解説が漢文読み下し文なので、なかなか読み取りにくく閉口する。


論語読む夏鶯の朗々と

 



2016年7月8日(金)
日限り日記

 [選挙世論調査]
 この7月3日に、「読売新聞と日経新聞から委託を受けた「日経リサーチ」だが、選挙の世論調査に応じて欲しい」という電話を受けた。
 いろいろなアンケートの電話はあるが、この会社なら多分間違いはないということでアンケートに応じた。質問は5分程度で、選挙に関心があるか、投票に行くか、小選挙区選挙では誰に投票するか、比例区ではどの政党に投票するか、重視する政策は何か、支持する政党はどこか、安倍内閣を支持するか、一人区で野党統一候補を立てた考え方を支持するか、回答者の年齢などだったと思う。
 普通の質問だったから、あまり抵抗感はなかったが、小選挙区で誰に投票するかを聞かれたときには、回答したくないと思った。でも受けたのだから仕方がないと思い回答した。比例選挙区で投票する政党を聞かれたときもそうだった。回答しているうちに、日頃支持する政党と、今度の比例選挙区で投票する党とが異なっていることに、聞く側で矛盾を感じたかも知れないと思った。自分としては、自分の中でチェックアンドバランスをとっているつもりなのである。投票者の心理は複雑である。
 今回の調査の結果は、7月6日付の読売新聞、日経新聞に出ている。それに依れば調査は電話によって実施し、有権者が在住する5万9516世帯のうち、3万3312人から回答を得た(回答率56%)という点は、両社とも全く同じである。安倍内閣支持率は読売は46%と報じているが日経には記事がない。選挙区の当選者予想は、アンケートに記者の独時の取材が加味されているから、当然両社で異なる。
 私は日頃もっと小規模の千人二千人を対象とした調査で、内閣支持率が新聞社によって数パーセント(ときには十パーセント)も異なるのは、その新聞を読む読者の支持政党が異なるからだと思っていた(例えば朝日新聞は反体制の読者が多いなど)。しかし、新聞の世論調査は自分の新聞の読者ばかりでなく広く一般の人のなかから無作為で抽出されるということであれば、この考えは間違っている。
 ネットの情報によれば、朝日新聞と読売新聞で内閣支持率が大きく異なる理由はいろいろだが、一つには今回の例で言えば「読売新聞と日経新聞から委託された日経リサーチですが」ですでにスクリーニングがされるのだという。自分に合わない新聞社なら、回答を拒否する、あるいは回答をしている中で調査会社に迎合した回答をする(まさかとは思うがマークされるのはいやなので)。
 曖昧な回答に対して重ねて聞き直すかどうかも結果が異なる大きな理由だという。曖昧な回答を、自社の主張に有利なように処理することもできるからだ。新聞社によっては設問の仕方が自社の主張に合う答えが出るように誘導的にしつらえてあるものもあるという。
 そうなると、そもそも純粋に客観的な調査がこの世の中にあるのかと言うことになる。結果を読む側はそれなりの心構えをして読む必要があると言うことであろう。私が今回の調査に応じたこと(この会社なら応じても良いか)自体がすでに調査を歪めているとも言えるのだし。

 
 今までの調査で、あれっと思ったのは、今回有権者の最少年齢が18歳と下がったが、年齢の若い層ほど、現在の与党の支持者が多いとのこと。自分たちの頃は若い人は常に革新的である、と思われていたと思うが、今はどうもそうではないらしい。


三伏の山の上なる投票所

 
 
 
 

2016年7月6日(水)
日限り日記

 [CT(コンピューター断層撮影)]
 CTで首から足の付け根までの動脈を撮った。母や姉がともに胸部動脈瘤破裂で亡くなっているため一度検査してもらおうと思い立ったためだが、仮に動脈瘤が見つかったとしたらどうするのかを考えると、この検査はやらずもがなだったかなと、病院に行きながら考えたが、さりとて予約を取り消すのも面倒だと思って、成り行きに任せた。造影剤は打たない検査だから副作用はないはずだし、放射線を浴びるが、ほかに放射能を浴びる検査を数多くやっているわけではない。
 検査は至極簡単に終わった。検査結果は循環器科の医者から聞いたが、寝ている身体の上から撮っているのかと思ったが、身体を輪切りにしていわば頭の上から見ているような画像だった。こうなると素人には、見ても何も分からない。動脈に一部石灰化が認められるものの、瘤というものはないとのこと。肺も同時に写っていたが、一部昔の肺炎の跡のようなものがあるものの、ガンの疑いはないとのこと。
 この種の検査で何が分かるかといえば、現状は分かるにしても、将来を予測させるものは何も分からないと言った方が良いのではないか。人体は複雑で、科学で予知できるものはほんのわずかであるに過ぎない。私が一過性虚血症(TIA)になったとき、日頃いろいろ検査をしてくれているかかりつけの循環器科の医者が、「よかったですね、障害の残る梗塞だったら大変でしたよ」と心から喜んでくれたのが、印象的だった。
 それでも、一応いくつかのアドバイスは戴いた。
 ・TIAを予防するためには、水分を飲むこと、
 ・負荷のかかる筋力トレーニングは不適なこと。
 ・机の前に座って1時間ぐらいで肩こりや全身の凝りが出る(このところ急に)のは、老人は皆同じではないか。
 ・血液検査は年二回ぐらいで良いとのこと。血液をさらさらにするエリキュース錠は血液検査で効いているかどうかを調べる術がない、いわば薬の効能書きを信ずるしかないのだそうだ。出血してみてはじめて効きすぎたとこが分かるとのこと。効能はあるにしてもずいぶん原始的投薬方法だ。
 ・脈が遅い私がもし立ち眩みするなら、ペースメーカーをつける方法があるとのことだが、しばらく様子を見させてもらうことにした。


夏深しマウスで探る腹の中

 
 
 

2016年7月4日(月)
日限り日記

 [初めての女帝推古天皇]
 32代崇峻天皇は贈られた猪を見て、何時かこの猪のように自分を怨んでいる者を殺したいものだと言った。それを伝え聞いて大臣(おおまえつきみ=総理大臣)蘇我馬子は一族のものを招集して天皇を誅殺することを謀った。そして東漢直駒をして天皇を殺させてしまった。
 推古天皇、幼名額田部皇女は18歳の時30代敏達天皇の皇后になった。崇峻天皇が殺されたので、群臣は前皇后の額田部皇女に皇位に着くように要請したが辞退された。しかし三度目に従われた。39歳の時である。天皇暗殺とは空前絶後の出来事だが、前天皇を謀殺した大臣馬子も群臣も後継の天皇を推挙する力があったのだから、やはり殺された天皇に何らかの落ち度があったのではないかという説が有力だという。
 これが日本で初めての女帝推古天皇である。日本書紀によれば「姿色端麗、進止軌制とある。もっともこれは「後漢書」にある美しい女性を形容する熟語と全く同じだということだ。
 日本書紀の原文は、渡来人が書いたといわれる漢文である。この八文字を当時の大和言葉に置き換えると「みかほきらぎらしく、みふるまいをさをさし」となるというのにも興味がある。
 入江曜子「古代東アジアの女帝」によれば、推古天皇は、政治は伯父である馬子に、外交・文化・宗教は甥である厩戸皇子(聖徳太子)にまかせたが、しかし真の実力をもって国内の安定につとめ、中国・朝鮮に対峙した、とある。
 入江によれば、推古天皇は後継を田村皇子(のちの舒明天皇)ときめたが、その理由は田村皇子の后、宝の能力気力が素晴らしかったからである。当時の皇后は、重要な役割を果たしていたのだ。事実、宝は後に、皇極・斉明(重祚)天皇になる。
 なお、入江が一番力を入れて書いているのは「武則天」だ。則天武后に関しては、山颯の「女帝わが名は則天武后」という歴史小説がある。フランス語で書かれているが中国人の作者によるもので、女帝則天武后の力を余すことなく書いていて、印象深かった。



熟田津に月を待ちしも女帝なり

 
 

2016年7月1日(金)
日限り日記

[道草]
 一番やらなければいけないことは、家譜、家系図の作成だ。一応20家族400人ほどの家系図は出来たので、この中から20人ぐらい拾いあげて、簡単な個人史を書いてゆく。
 「古事記」の記述は、個人の物語(旧辞)があって、歌(詩)があり、系図(帝紀)が記されるという三部構成になっている。「日本書紀」は即位前記(系図)があって個人の物語がある。さすがに歌は書けないが、これら古書のようにやりたいということだ(大風呂敷過ぎますが)。個人の記述はすでに8人分は書き上げた。残りを書き上げるのはあと一年あればよさそうだ、と目鼻が付いたら、急にやる気が失せてきて、今少し中だるみになっている。
 道草を楽しむのはやはり本を読むことになるが、中国語の本選びは、前回失敗しているので(選んだ残雪の「最後的情人」が実にくだらなかった)、本選びは慎重にならざるをえない。外国語の本選びは失敗すると時間のロスが痛い。今読み始めているのは買平凹「老生」で、これは20ページほど読んで面白さを確信した。今度は大丈夫だろう。
 完読するには、中国語の場合一冊2ヶ月前後はかかる。分からない点は印を付けておいて後で中国人に聞くか、翻訳があれば翻訳書に当たる。「老生」は最近翻訳が出たが、図書館に当たって見たら予約待ちが十一人いるという。私の読むスピードを考えると今予約するとちょうど原文を読み終わる頃に順番が来るかもしれない。
 日本語のものでは「罪の終わり」(東山彰良)など。直木賞を取った著者の「流」は文句なしに面白かったし、著者がガルシア=マルケスを尊敬しているとは、私には嬉しいことだ。マルケスの「百年の孤独」は今思ってもぞくぞくする。マルケスがコロンビアにはこの種の物語を話せる人が沢山いると言っていたように、東山彰良によれば、台湾には「流」ぐらいのホラ話を語れる人がごまんといるそうだ。
 この道草で2,3ヶ月休んで、秋から家譜にまた取りかかることにしよう、元気ならばの話だが。


綿虫やお前も道草食ひをるか