2016年5月31日(火)
日限り日記

 [時間つぶし]
 句会の数を月に4回から2回に、中国語のレッスンを週2回から2週間に1回に変えた。これで出来た時間で、我が家の家系図と歴史を書き、句集と雑文集を編もうというのが目算である。
 さてこのように定例の予定を減らすと、カレンダーの予定表に沢山の空白が出来る。その空白は自分のしたいことに使うのが主旨なのでそれで良いはずなのだが、空白にまだ慣れていない。空白があると落ち着かない。句会があれば句会の日程の他に句作りのための吟行の日程が入るし、中国語ならレッスンの日程の他に予習の日程が記入されるので、カレンダーは日程で埋め尽くされ、朝起きて今日何をすべきか考える必要がない。ところが今は、さて今日は何をしようかと考えないといけない。
 毎日、家の歴史を書くのもしんどいから、余った時間をどう潰すかという問題が出て来る。これは全く予想外だった。今まで自分は忙しい人間であり、時間を潰すなどいうことは考えられない人間だと思っていた。碁将棋、麻雀は時間つぶしに過ぎないつまらないことで、自分はもう少し高級なことに時間を使っていると思っていたかも知れない。
 私の会社のOB倶楽部には広い部屋があってそこを仕切って同好会が使えるようになっている。ある麻雀好きな友人は、衝立の隣で俳句会をやっている友人を捕まえて、なにか難しい顔をしてやっているなあ、と揶揄っていたが、当事者はちがうと思っていても趣味としても時間つぶしとしても両者に選ぶところはないのかも知れない。驚くほど面白い手(妙手)と、驚くほど面白い句の間に価値の違いはないのかも知れない。後に残るという違いはあるが、俳句でもその場限りで後に残さないという人もいる。
 余生というのは贅沢あるいは傲慢な言い方で、これから先のことが分からない以上安易に使うべきでないという人がいる。しかし、戦争に行って戦友の死を見た人が、自分の今は余生である、と思うのは理解できるだろうし、同様に死にかけた病気をした人が今を余生と思うことも許されて良いはずだ。しかし、自分だけは余生を生きていると言っても始まらないことも確かだ。言ってみると自分で自分の人生をつまらなくしている感じがある。
 残された時間をどう生きるべきか。時間つぶしで良いのか。時間つぶしでない生き方など有るのか。



老い(はや)し来年遠し薺粥(なずながゆ)








2016年5月29日(日)
日限り日記

[横浜ベイスターズ]
 球団幹部に不愉快な思いがあって迷ったが、結局「横浜ベイスターズ」が1949年「大洋ホエールズ」として発足して以来の創立ファンとして、今年も「横浜ベイスターズ」を応援しています。
 今年何が変わったかと言えば、去年今年とドラフト上位で取った投手が活躍していることもあるが、やはり監督が替わったのが一番大きいと思う。
 ラミレス監督が、今までの監督とも、そして他のチームの監督ともちがうことは、データに基づく采配ではないか。新聞報道に依れば彼はデータ魔で、試合のあと自宅で自らもデータを記入し、またよく分析しているという。データの記憶力も抜群だそうだ。
 投手の救援成績とか、代打の成功率が高いのは、データに基づいた上で、臨機の判断ができているからだと思う。今年はジャイアンツの高橋監督とか、タイガースの金本監督とかビッグネームが現れたが、彼らの采配を見ていると、基本的には従来の勘による采配と大差ない。ラミレスの先発選手起用、交替選手起用、取った戦略戦術は、一言で言えば合理的で納得できるものである。ファンを監督の勘による博打の世界に連れて行かず、あるいは「気合いだ」とかいう精神論の世界にも連れて行かないで、納得できる野球を楽しませてくれている。元ヤクルトの野村監督もデータ野球を標榜していたが、彼のはデータも古風で限られており、暗すぎて楽しめなかった。ラミレス監督のは明るく幅の広いデータ野球で、大分ちがうと思う。
 勝ち負け差11の借金を作ったのも彼ではあるが、それは初心者として慣れなかったまでのこととする。借金を〇にした今日、彼のデータ野球を大いに誉めておこう、今後また成績次第で毀誉褒貶ありとして。


スタジアム億光年の夏の星






2016年5月26日(木)
日限り日記

 [吉原]
 もちろん「吉原」を知る世代ではない。
 「吉原」で知っていることと言えば、映画「吉原炎上」(五社英雄監督、名取裕子主演)、1987年作だそうだから名取裕子の妖艶な花魁姿も30年前になるのか。それと直木賞を取った「吉原手引草」(松井今朝子作)。なぜ吉原一を誇った花魁は忽然と姿を消したのか、という物語だった。
 このあたりと、学生時代に見た「赤線」と言われていた「新宿三丁目」を重ね合わせて「吉原」がどんなものか推察する程度だったが、最近歌川国貞の「吉原遊郭娼家之図」を見て、考えを変えなければいけないのかなと思った。この絵は1813年の作で遊女が接客した活気に満ちた妓楼の二階が描かれている。驚いたのはその人数と、そこに働く職種。ざっと数えてみると、総数50人、うち男が15人。客とおぼしき男は10名、幇間、若い者が5名。女35名のうち見習い少女が3、4名、あとは下級遊女と花魁。大体一人の客に2,3名の女が着いている。部屋が13室。部屋にいるのが20名。廊下にいる30名は順番待ちか、描かれていない部屋に行くところか。整然としたビジネスのごときである。
 吉原は幕府の管理下で運営されていたが、独特のルールがあり洗練されていて、想像されるような無秩序な場所ではなかったのではないかとのこと。
 いま昔吉原だったと言われるところを訪ねても、全く面影を結ぶことは出来ない。本当の姿は見せようとせず、絵や小説で知る以外にないようだ。そして実はこの絵さえも本当のことを描いているかどうか分からないと言う。吉原は夢幻の世界だったと言うべ.きなのかもしれない。
 
 
 木の葉髪吉原辺に吹かれをり




 

2016年5月24日(火)
日限り日記

[木花咲爺姫社]
 同じ団地内だが家から少し離れたところに、「浅間社」がある。祭神は、木花咲爺姫命(このはなさくやひめみこと)。安政元年冨士浅間神社の御分霊を奉祀す、とある。ただし、はじめに奉祀した場所は住宅開発が進んだため、この団地の端ののりにある傾斜地に遷座したようだ。
 (やしろ)と言っても小さな(ほこら)のようなものだが、後に桜の大樹があり、入口には椿の大樹があるから、花時はとても美しい。私はほぼ毎日散歩がてらここにお詣りしているが、柏手を打つと四季それぞれに何か必ず飛び出す音がする。時に桜の木から鴉が飛び立ったり、時に祠から蜥蜴が現れたりするというように。時には四季の風が立ったりもする。
 
境内は三坪ぐらいの小さなところだが、花びらや落ち葉で足の踏み場所がないときがある。特に椿の花時はそうだ。

 私は、ボランティア活動をしていないし、しようと思っても自分の身体を操作するのが難しいときがあるぐらいで、人様の邪魔になってもお役に立てそうもない。
 ならばこの木花咲爺姫社の掃除はどうだろう。いままでこの姫様からいい俳句をいただいていないのは、何もしないからではないか、といったさもしい根性は別として。
 
 
 
 柏手を打つて醒まさん咲爺姫
 




2016年5月22日(日)
日限り日記

 [我が文机]
 枕草子に、色好みの男が朝帰りして家で文机に寄り掛かって書を読んで、面白いところは声高に読んでいるのはなかなか「趣がある」、というようなことが書いてある。文机(ふづくえ)はまた俳句でもよく詠まれる対象である。
 私の文机はどうか。メインの机とパソコンデスク。メインの机の方は、家を建てた40年ぐらい前に新横浜駅のそばにあった高島屋の工作所から、水没品を買ったものだ。いまは鶴見川の遊水池が完備しているが当時あのあたりはよく水が出た。机の天板に傷があるが使用には差し支えない。この上にWindows10のデスクトップを載せている。隣のパソコンデスクが書類置き場になっていて、パソコンよりも高く雑物が積んである。
 椅子はメインの椅子は確か5千円ぐらいでイケヤで買って自分で組み立てたもの。北欧規格のせいか座面の高さが背の高い私に合っているので買ったのだが、一応蒲団は敷いているものの木製だからお尻が痛い。パソコンデスクの前の椅子はアーロンチェアで10年前買ったときには10万円はした。
 私は身長が180センチあり、今でこそ自由に選べるが若い頃は既製服はどれも小さかった。その癖があって迷ったときは大きい方を買ってしまう。アーロンチェアを電話注文で買ったときはLは大きいです、Mがおすすめですよと店主に何度も念を押されたのだが、Lを買ってしまった。座ったとたんに、座面が大きすぎて腰がうまく収まらないことが分かった。我慢して使っているうちに腰痛が出た。
 何かの本で、書斎に物を置く一番良い方法は、スペアの椅子を用意してそこに乗せることとあったが、アーロンチェアは今は物を載せる台として使っている。大きいだけいろいろ乗せられる、回転式でもあるし。
 そして床は。今は我が家の歴史を書いているので、段ボールを10個置いて資料を一応分類して入れている。地震が起こるととっさの逃げ道がない。もっとも我が家は築40年、日本の伝統建築の掟に則り夏を凌ぎやすく、すなわち四方に大きな窓が開いている造りなので、耐震強度はないから一階から崩れるはずだ。二階の書斎にいて本棚を抑えながら揺れに任せるのが一番安全と思っているのだがうまくいくかどうか。
 枕草子の文机の雰囲気はまるでありません。清少納言に「趣のある」の「をかし」ではなくて、「おろかしい」の「をかし」と言われそうだ。
 
 
 
 名月や机の上の発禁本
 




2016年5月20日(金)
日限り日記

[牡丹の散り様]
 牡丹の原産地は中国西北部。元は薬用として利用されていたが、盛唐期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。清代以降、中国の国花であったとされることもあるが、清政府が公的に制定した記録はみられないそうだ。
 でも中国人は牡丹が好きだ。牡丹を詠んだ漢詩は多いが、杜牧の《山行》の“霜葉は二月の花よりも紅なり” の花は何かと聞くと、大体の中国人は牡丹ではないかという。玉三郎が中国で公演した昆劇「牡丹亭」は、中国では人気の出し物だ。
 ところで、今年お隣から牡丹の切り花を二輪いただいた。どちらも大輪で色は、薄いピンクと紫。八重を越えて十重二十重である。いただいてから三日ぐらいで花びらが散り始めた。硝子のテーブルの上に置いて散るに任せておいたが、その散り方がなかなか鮮やかだった。何重にも有る花びらが、一所に三日ぐらいかけてうち重なるように散る。たちまち花びらがうず高く積み上がり、元の花は、裸になってしまう。山茶花の散らばる散り方も、椿の首を落とす散り方もありだが、この牡丹の散り方はやはり花の王にふさわしく、散り際まで整った見事な散り方だと思った。
 牡丹の句では、次の二つの句が好きである。

「白牡丹といふといへども紅ほのか」(高浜虚子)
「白牡丹李白が顔に崩れけり」 (夏目漱石)
 そこで今年の散る様を詠んで
「牡丹散る十二単を脱ぐように」
と作ったが、句会では一票も入らなかった。みなこの優雅な時間をかける花の王様の散り方を知らないのではないかと訝ったが、よく知られていて当たり前すぎるのかも知れない。
 
 
 

2016年5月18日(水)
日限り日記

[語学学校のおまけ]
 今の中国語学校に通ってから14年になる。この間他の学校にも通ったが、今の学校が一番私に合っている。先生は4人だがそのうちの二人についている。お一人は日本語も上手なバイリンガル。この先生とは中国現代小説を一緒に読んでいる。中国語と日本語の表現方法の違いは、先生自身が興味を持っていて日常いろいろな例を集めているので、字面の翻訳でない生きた翻訳を教えてもらえる。もうお一人は、大学で中国近代文学を専攻しており、古典にも強い。一番良いのは日本語はほとんど出来ないので、なんとしても頑張って中国語で話さないと通じないこと。
 この学校にはおまけが二つある。一つは、作文の添削は自由ということ。よその学校で申し入れたら別料金と言われたが、ここではむしろ歓迎である。
 もう一つは、これは先生が次に授業がないなどの都合が良いときに限られるが、うまくいくと駅までの10分間一緒に話をしながら帰れるということだ。これに勝る生きた会話の勉強はない。
 昨日もこの幸運に恵まれた。話したことは、一昨日の日曜をどう過ごしたか、大学生の就職活動、昼ご飯をどこで食べるか、築地魚市場と中国人、桝添知事の政治資金の公私混同の話題など。桝添知事の弁明をどう聞いたかを聞いたとろ、まあ民主国家は説明責任というのがあるだけ良いではないか、中国では高級幹部には説明責任はないみたいだ、というものだった。桝添知事のあの説明は、分かりにくいし、言い逃れめいていてとても聞くに堪えないものだったが、そのことは別として。
 
 
上水に影を流して日傘かな




 

2016年5月16日(月)
日限り日記

[句会会場]
 今句会の会場を確保するのは大変だ。駅から近くて値段が安く、30人ぐらいが入れて、二階や三階の場合はエレベーターが付いていて(老人が多いため)、机や椅子が完備していてトイレもきれい、となると、大体は地区の文化センターや生涯学習センターなどの公共施設になる。場所を取るためには朝早く起きて電話で申し込みをしないといけないが、それでも競争になる。
 というわけで、幹事の努力にもかかわらずあちこち場所が変わる。昨日は、鎌倉市街内の場所がとれず深沢地区の深沢学習センターだった。大船駅から湘南モノレールに乗って二つ目である。
 湘南モノレールは昭和45年に開通した懸垂型のモノレールで、大船から江ノ島までを14分で走る。あまり敷地を執らないで済むが、小型の車両3台で輸送能力は高くない。一時間に8本出ているが、単線だからこれが限度なのであろう。よく揺れる。
 昨日は少し早くでて、深沢地区を吟行しようとしたが、あまり見物するような史跡はないようだった。新川という用水路沿いに桜の古木が植わっていたから、桜の季節はきれいかも知れない。
 句会では主宰から、今訳の分からない俳句が増えているのは、高度成長期に俳句の指導者が急増したからだ、という面白い話があった。何故急増したのかには触れられなかったが、ひょっとすると高浜虚子が死んだからではないか、虚子が死んだのは1959年(昭和34年)である。虚子の作り上げた俳句の枠組み、規律性をこのときとばかりに外してしまったのではないか。

 モノレール駅はみな高架になる。この駅はエレベーターはないから、頑張って上らないといけない。昨日は句会の成績がよかったので上る元気が残っていたが、そうでないと老人には見ただけでへこたれる高さだ。
 
 
 家家に橋のある町花あやめ






2016年5月14日(土)
日限り日記

 [初夏の表参道]
 大学時代のクラス会句会は各四季ごと、つまり三ヶ月一度青山にあるメンバーの事務所で開かれる。副都心線明治神宮前駅のある神宮前交差点からから表参道交差点を通って句会の場所へ。帰りも同じ道だから表参道の欅通りを往復することになる。いわばここを三ヶ月ごとに観測していることになる。
 今回も表参道に句会の二時間ほど早めに着いた。表参道はいま欅が新緑の葉を出していて、美しく蘇っている。表参道の一年は5月から始まると言ってよい。先ず千疋屋表参道店へ。ここでフルーツサンドイッチを食べながら欅通りを歩く人を眺める算段。ところが眺めのよい一階は満席で、通されたのは窓のない地下のフロアーだった。ここで二、三句初夏の俳句を作って句会の臨む目算は崩れた。
 ここに来るたびに、飛び交う多国籍言語の種類が多くなるのを感じる。一時は欧米語、やがて中国語へ、今回は東南アジア語が増えていると感じた。神宮前交差点にあるHilfiger の旗艦ショップは、一時期は中国語の人が大量に買っていてなかなか店員が捕まらないときがあったが、今回は東南アジア語の人が多かった。
 新しいビジネスなのだろうか、若者が竹下通りファッションで着飾って欅通りを背景に写真を撮っている。待ち構えていて撮るのは容姿風体から見てプロ風のカメラマンとやり手のマネージャーのようだ。今の表参道は若々しいがきちっとした服装をした人たちの街になっているが、やがてはここも、近くの竹下通のように老人には歩きにくい街になる日が来るのだろうか。
 欅通りを人波に流されながら句を探ったが、うまく見つからなかった。この若々しい、国際的な通りからいい句を見つけ出すには、たとえ見晴らしの良いカフェでフルーツサンドを食べながらねばったとしても、簡単にはできなかったろう。自分の心も若く明るくしないと、通りに負けてしまいそうだ。でも表参道が詠めてこそ、現代的な俳句が出来たと言えるのかも知れない。
 
 
 欅から()れ参道を初夏の風
 
 
 
 

2016年5月11日(水)
日限り日記

[日本の古典文学研究者]
カルチャーセンターで講義を聞く程度だから無責任な分類だが、私見では日本の古典(万葉集・古事記・日本書紀)国文学者は出身学校によってかなりはっきりした特徴がある。東大は、語法、文法、学説に強い。慶大、國學院大、学習院大は、民俗学的アプローチや歴史に強いといったように。今私が聞いている先生で分類すると、万葉集の品田悦一東大教授・大浦誠士専修大学教授(東大出)、古事記の藤原茂樹慶大教授、日本書紀の遠山美都男学習院大学講師もこの分類に入ると思う(先生方に失礼の段はお詫びいたします)。

このうち、語法、文法、解釈といった分野が、学問の進歩が一番現れやすい分野だと思う。全文漢字で表記された原文を日本語に直し解釈していくのだから、なかなか厄介だ。万葉集などは読み方が変わって歌の評価が変わったという例が沢山あるそうだし、未だに読み方が定まらない歌もあるとのことである。
注釈者として私が名前を聞いたことのあるのは、江戸時代の国学者、契沖、賀茂真淵、本居宣長、近代では斉藤茂吉、沢瀉久孝、武田祐吉、伊藤博、神野志隆光、品川悦一などである。
このうち沢瀉久孝京大教授は私が大学受験の頃、つまり今から60年以上前、古文の受験勉強をしていたころ確か受験参考書のなかで見たことのある名前である。万葉集研究の大家で、「万葉集注釈」(1957年)が代表的著書。それをみると、その精緻さは現在の研究者も足許に及んでいないのではないか。率直に言ってその後60年間、学者は何をしていたのだろうとさえ思う。

神野志隆光、品川悦一は、今現役でその気になればカルチャーセンターで授業を受けることが出来るし、私も受けた。ときどきほかの先生から、神野志先生がこのような説を立てられたとか、品川先生がこのような解釈を立てられ定説になりつつあるというような紹介を聞くのは、現代に生きる者としてうれしいことだ、例はあまり多くはないと思うが。
また、品川悦一のある本(「万葉集の発明」)のあとがきには、「頭の固い(学会の)老人どもにはとうてい分かるまいというような調子で、わざと手ざわりの荒いいい回しに訴えたり挑発的な物言いを弄したこともある」などと勇ましいことが書いてある。
このように、日本古典文学は、地味ではあっても今学んでも尽きざる面白さのある文学なのだと思う。


朴の花今様顔の国学者





2016年5月9日(月)
日限り日記

[翡翠(カワセミ)は役者]
昨日は神奈川県四季の森公園の自然観察会「新緑の里山」に出席した。新緑の季節で天気もよかったから50人ほどが参加した。主宰はNPO法人四季の森里山研究会で、説明者は5人。上を向いて園内の雑木林の木々の葉を見て歩き、下を見て、ラン科のキンラン、ササバギンラン、エビネ、シラン:キク科のハルジオン、セイヨウタンポポ:ユリ科のホウチャクソウ、アマドコロ、ナルコユリ:サトイモ科のマムシ草:アヤメ科のシャガ、アヤメなどを見て回った。

ここ四、五年できるだけ参加しているから、毎年同じような植物を見ているはずだが、年をとって覚えたものは、一年経つとほとんど忘れていることに驚く。お年寄りでも前から関心のあった方は、実によく知っておられる。説明員から離れてしまったときは、そっと物識りの人のそばに行くことにしている、物識りの人は教え好きであることが多いので。参加したきっかけは俳句を作るためだったが、今は純粋に自然を楽しむことに没頭することにしている。自然はただ見るだけで面白いから、それを利用してなどというのは邪心と言えそうだから(本当は良い句が出来ないからです)。
主宰している人は話が上手だし知識も豊富だから、学校の生物の先生が多いかと思ったら、昨日説明してくれた人は、電波の周波数関係の会社に勤めていたとのこと。あまり職業など聞かない方が良いかと思って、詮索はしていない。

公園中央の池に翡翠が来ていた。沢山のカメラのレンズが池の一点を向いている。すると翡翠ははぐらかすようにふらふらと手ぶらの我々の前に来て枝に止まった。やがてゆっくりと飛び立ったかと思ったら、次の瞬間は魚を銜えていた。別に枝に打ち付けるまでもなく、悠然と魚を嘴でばたつかせている。ややあっておもむろに呑み込んだ。私はカメラに収めたが、望遠の倍率が低いので、魚のばたつきまでは写っていない。
やがて翡翠は、銃砲のように突き出されたカメラの前の定位置である枯れ木に戻っていき、何もなかったようにあたりを見渡した。翡翠は人間に見られるのが好きなのではないか。


何食わぬ顔でカワセミ魚銜へ




2016年5月8日(日)
日限り日記

[山辺の道]
ここ10年ほどにわか勉強ではあるが古事記、日本書紀、万葉集を読んできた。どれも机の上の勉強であり、「萬葉の旅」というような素晴らしい写真集を見たりはしたが、やはり現地に行ってみたいと思っていたところ、よさそうな旅行の企画を見つけた。それは、「山辺の道から纏向遺跡と飛鳥へ」というツアーで、5月17日と25日に出発する。行く先は、景行天皇陵、二上山展望、大神神社、纏向遺跡、箸墓古墳、舒明天皇陵、欽明天皇陵、飛鳥散策、亀石、飛鳥寺、などなどで、初めて行くにはなかなか良い企画だと思われた。

我が家の場合、問題は老猫である。このところ若い頃の知らんぷりとは打って変わって主人にだけは人なつっこくなっている。特に妻とは毎日枕を共にする仲だ。主人の二日の外泊に堪えられるかどうか心配だが、堪えてもらうよと言い渡して旅行を申し込んだ。ところが17日発は参加人員不足で成立せず、27日は大丈夫でしょうという旅行業者の見通しもはずれて成立しなくなった。成立しないとなるとかえって行きたくなるのが心情だが、今これに代わるツアーが見つからない。多分好きな人は専門的、集中的に訪ねるので、このような総括的な旅行は流行らないのか。かといって私には個人で企画を立てるだけの現地感覚がないので、今は静かに次の機会を待つのみである。しばらくは近著のカラー版の千田稔「古代飛鳥を歩く」を眺めるとでもするか。
そのうち老猫が更に老いて、置いて行けなくなるかも知れない。いや自分の体力が行けなくなるほうが先かも知れない。


眠る亀石になる亀風薫る







2016年5月7日(土)
日限り日記

[ペンキ塗り]
我が家では大体4年か5年に一度家全体のペンキ塗りをする。それで良いかといえばもう築後40年の家はこのほかに1年に一度補修塗りをしないと錆が目立ってしまう。1年に一度の方は専門家に頼むまでもないので(お金もないので)自分でやる。
今年もやろうと思ったがどうやらペンキ屋からもらっておいた予備のペンキが底をついていた。少しいやな予感がした。白、赤、黒、黄色、青のペンキはもっているのだが、色合わせは本当に難しい。絵を嗜んでいる妻に頼みたいが、望みのないことは分かっている。

ペンキ補修の仕事は一年に一度だから、去年との体力の変化が如実に分かる。ちょうど喪服を着ると自分の体型の変化が分かるように。今年は梯子を登るのは体重が減った分楽になった気がしたが、梯子の上でふらついたり息が上がったりするのは脳や心臓が衰えたためと診断した。仕方がない、例年は一日で終わる仕事を2日かけて少しずつやろう。
ペンキ塗りで厄介なのは色合わせと後始末だが、後始末の方は折を見て安いペイントブラシを買っておいて、使い捨てするので大部楽になった。二階のベランダと外壁の鉄の部分をグレーもどきに、一階の濡れ縁を焦げ茶色に塗った。昔、庇の裏側、軒天井を塗っていてペンキが目に入ってあまりの痛さに悶絶したことがあったが、今はそのような無謀なことはしないし、完全も求めない。二日間の仕事の達成感は大きい。妻の評価もまあまあである。
しかし、気にして仔細にみれば、迷彩色をぼかしたようなグレーもどきのグラデーション仕上(まあ有り体に言えば、まだら模様)となっている。来年は専門家に任せて全部を塗り直してもらおうと決断した一日だった。


炎帝に一日仕へてペンキ塗る




2016年5月5日(木)
日限り日記

[料理の支払い]
お昼時に東京の銀座を歩く機会があった。年をとって困ることの一つに、昼飯がある。若い人の食べるような場所では、量が多くて食べきれない。最近スターバック、エクセルシオール、ドトール、ベックスなどのカフェで食事をする老人が多いのは、このせいではないか。

その日は午後2時近くなっていたが、偶々昔来たことのある店の前を通ったので入ってみた。大体20ぐらいあるテーブルにはどれも真っ白なテーブルクロースがかかっていて、客は5組ぐらいいた。妻と二人でそれぞれ一番簡単な、ジャガイモのビーフコロッケとキャベツのロール巻を頼んだ。するとスープが出てきて、しっかりした量の野菜サラダが出てきた。メインの料理は大体想定したとおりだったが、食後に紅茶が付いてきた。それを、きちんとした服装のボーイが、一品ずつ丁寧に運んでくる。ボーイの話し方も清清していていい。なにかコース料理を食べた雰囲気になった。これで二人で税込み2400円。銀座6丁目でコース料理をよい雰囲気でいただいてこの値段である。その午後は楽しい気分になった。

勘定台には先ほどのボーイ長がまわっていた。彼は私に、別々のお支払いですか、それともお二人分ご一緒で良いですかと聞いた。さて今時はそのように聞くのがマニュアルなのか。それとも我々が夫婦に見えなかったのか、金婚式はとっくに過ぎた我々が。これは喜ぶべきことだと思うことにする。


密会めく銀座通りの柳影



2016年5月3日(火)
日限り日記

[築地市場まつり]
5月3日「築地市場まつり」に行ってきた。
築地市場は昭和から平成にかけて81年を経過して、建物も老朽化し地盤も汚染されたため2016年11月から江東区に移転して「豊洲市場」として再開するとのこと。この日は市場全体が一般に開放されて美味しい海鮮物が味わえるほか、築地独特のターレーという乗り物に乗って市場の中を見ることが出来る。そのほかにタレントの出演するイベントもあるという。
実はこのことを知ったのは朝のテレビだったので、市場に着くのが午後になってしまった。貝や烏賊といった美味しい海産物を食べること、最近何時行っても列をなしては入れないある寿司屋に行くことが主な目的だった。美味しい海産物を食べることは、美味しそうな店はどこも売り切れだったし、まだ残っているところは50人100人の列だった。「大和寿司」はどうか。初めて築地場内に行った10年ぐらい前は、場内の店にしては大きめのこの店は何時でも悠々と座れたのだが、グルメ本に店の名前が出たらしく、ここ5年ぐらいは何時行ってもとうてい入れない。見たところでは中国の若い人が多いようだった。店に入れないのも困るが、一度ここで寿司を食べたばかりに、どこに行っても寿司が美味しく感じられないというのが大げさに言うと生涯の不覚である。
今日はどうか。淡い期待を持って行ったが、なんと店は、閉店していた。この場内での商売を打ち切ったような気配だった。となると私の口に残っている味の記憶はどうしてくれるのだろう。
妻はあまりの人出にあきれてしまい、場外で食料を買って帰るのはいやだという。ハンドバッグ屋にでも寄って機嫌を直してもらう(買うのではなく見て)つもりで銀座に出た。歩行者天国の銀座は初夏の香りがあった。ここは案外に海が近いので、海の匂がする。どういうわけか生後2週間ぐらいの仔猫四匹を銀座通りの真ん中で見せている老人がいて、人だかりがしていた。結局今日の収穫は、この可愛らしい四匹の仔猫を見てうっとりとしたことだった。


初夏の銀座通りをお猫様