[時間つぶし]
句会の数を月に4回から2回に、中国語のレッスンを週2回から2週間に1回に変えた。これで出来た時間で、我が家の家系図と歴史を書き、句集と雑文集を編もうというのが目算である。
さてこのように定例の予定を減らすと、カレンダーの予定表に沢山の空白が出来る。その空白は自分のしたいことに使うのが主旨なのでそれで良いはずなのだが、空白にまだ慣れていない。空白があると落ち着かない。句会があれば句会の日程の他に句作りのための吟行の日程が入るし、中国語ならレッスンの日程の他に予習の日程が記入されるので、カレンダーは日程で埋め尽くされ、朝起きて今日何をすべきか考える必要がない。ところが今は、さて今日は何をしようかと考えないといけない。
毎日、家の歴史を書くのもしんどいから、余った時間をどう潰すかという問題が出て来る。これは全く予想外だった。今まで自分は忙しい人間であり、時間を潰すなどいうことは考えられない人間だと思っていた。碁将棋、麻雀は時間つぶしに過ぎないつまらないことで、自分はもう少し高級なことに時間を使っていると思っていたかも知れない。
私の会社のOB倶楽部には広い部屋があってそこを仕切って同好会が使えるようになっている。ある麻雀好きな友人は、衝立の隣で俳句会をやっている友人を捕まえて、なにか難しい顔をしてやっているなあ、と揶揄っていたが、当事者はちがうと思っていても趣味としても時間つぶしとしても両者に選ぶところはないのかも知れない。驚くほど面白い手(妙手)と、驚くほど面白い句の間に価値の違いはないのかも知れない。後に残るという違いはあるが、俳句でもその場限りで後に残さないという人もいる。
余生というのは贅沢あるいは傲慢な言い方で、これから先のことが分からない以上安易に使うべきでないという人がいる。しかし、戦争に行って戦友の死を見た人が、自分の今は余生である、と思うのは理解できるだろうし、同様に死にかけた病気をした人が今を余生と思うことも許されて良いはずだ。しかし、自分だけは余生を生きていると言っても始まらないことも確かだ。言ってみると自分で自分の人生をつまらなくしている感じがある。
残された時間をどう生きるべきか。時間つぶしで良いのか。時間つぶしでない生き方など有るのか。
老い疾し来年遠し薺粥
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