[論語巻第一第一章]
有名な「論語」の巻第一学而第一第一章、すなわち「論語」の初めての一章を、1.原文、2.日本語の漢文読み、3.現代中国語訳、4.現代日本語訳の順で書いてみる。末尾に書いたのは「字数」(句読点抜き)である。
1.「子曰:学而时习之,不亦说乎? 有朋自远方来,不亦乐乎? 人不知而不愠,不亦君子乎?」(32字)
2.「子曰わく、学びて時にこれを習う。亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。(57字)
3.孔子说:“学了又时常温习和练习,不是很愉快吗? 有志同道合的从远方来,不是很令人高兴的吗? 人家不了解我,我也不怨恨、脑怒,不也是一个有德的君子吗?” (60字)
4.先生(孔子)がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね。だれか友だちが遠い所からたずねて来る、いかにも楽しいことだね。人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君子だね。」(金谷 治訳、90字)
1. 原文は、孔子の生きていた二千五百年前の文章である。それが今十分に理解できる形で残っている。
2. 原文をレ点や返り点を打つことによって、日本人は直接中国語を日本語として取り入れることが出来た。この漢文読みは、今日本人の口語にも、無意識のうちに影響を残している(「漢文脈と近代日本」(斎藤希史))。
3. 現代中国語で表すと、必要な字数は原文の約2倍になる。それだけ人間の考えを表現する方法が増加したのであろう。原文は今の中国人には、注釈なしでは理解できない人が多いといわれている。原文は、今の人間には、鍵になる言葉の束の役割を持っているといえるかも知れない。
4. 原文にしても、現代文にしても、中国語を日本語にすると約1.5倍の字数を必要とする。これは文法上、中国語が「孤立語」(単語と単語だけで結びついている)であり、日本語が「膠着語」(語と語の間に、て、に、を、は、のような助詞があり、動詞や形容詞も語尾変化をする)であるからである。日本人にすると中国語は明晰でない(時制などに)ところがあるが、中国人に言わせると、日本語は冗長である。
中国の書籍を買うと、かならず「字数」が付記されている。例えば余華の「活着(活きる)」は字数「120千」である。これは何を意味するのか。どれだけの内容をどれだけの字数で書くか、という点に関して、中国人は我々よりも強い関心があるのか、我々は試験問題であるぐらいだが。
今私に、何が一番あなたの活きるよすがを表現しているか、と問われれば、この紀元前479年、74歳で亡くなった魯国人の残した言葉「論語巻第一学而第一第一章」と答える。
夏籠や論語一章あれば足る
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