2016年6月29日(水)
日限り日記

 [「帝国議会と日本人」]
 「帝国議会と日本人-なぜ戦争を止められなかったのか」(小島英俊著、祥伝社新書)を手に入れた。まだ読んでいないが、前書きなどの中に、目を覚まされる記事があるので抜粋、要約してご紹介する。
 
 「国立国会図書館では現在、戦前の「帝国議会議事録」から戦後の「国会議事録」までデジタル化して公開している。私(著者)はこの中から大事なエッセンスのみ抽出して近現代史を新しい角度から眺めることを思いついた。
 膨大な資料の中から珠玉の議事を抽出するのは金鉱石から純金を抽出するのにも似て、かなりの力仕事だった。多分全く類書はないユニークな書であることだけは確信している。」
 著者によると、「昭和期は軍国主義が支配して論議が抑圧されていた、だから帝国議会議事録は読んでも面白くない、と思われるかも知れないが、実態は大いにことなり、躍動している論議が実に多い、議員のいわば命をかけた弁論に感動させられた」とある。
 
 私は、なぜ戦争を止められなかったかについては、保阪正康の著書、加藤陽子「それでも日本人は「戦争」を選んだ」などを読んだが、力作だとは思うが、もう一つしっくりこなかった。「太平洋戦争」観は世代によって相容れないのだとさえ思うことがある。
 執行部側の記録としては「重光葵 最高戦争指導会議記録・手記」を読んだ。しかしこれも個人の記録なので十分でなく、なぜ1945年5月にドイツが降伏したのに日本だけが戦い続けることを決意したのか、などの記録は書かれていなかった。
 この「帝国議会と日本人」を読むと、ドイツ降伏後の問題もそれなりに議会で論議されていることが分かる。戦局指導の責任者は大本営ではなく、内閣総理大臣であるべきだ、などという今から見れば、当たり前すぎて悲しい議論もあるけれども。



父すめろぎ子すめろぎ八月十五日

 
 


2016年6月27日(月)
日限り日記

[「伯爵夫人」]
 今年の三島由紀夫賞を受賞した蓮實重彦の「伯爵夫人」を読んだ。受賞の内定があったときに、なぜ自分の作を選んだのかと著者が怒ったという記事を読んだ。いやあれは、出版社と組んだ売らんがためのお芝居だという声もあったが、そのお芝居に私は引っかかったと言えるかも知れない。
 蓮實重彦は、仏文学者、東大総長で有名だが、私は唯一、彼の映画評論は信用していた。一番閉口したのは、彼の「夏目漱石論」である。裏表紙に「門人小宮豊隆や批評家江藤淳らの神話的肖像を脱し、「極めて物質的な言葉の実践家」へと捉えなおして、全く新しい漱石像を提示した」とあるのでそのつもりで読んだが、難しい理屈が語られていて、この裏表紙を越える内容を掴むことは出来なかった。
 さて「伯爵夫人」であるが、選評で高村薫は言っている、「かつて小説がこの種の美に耽溺した時代が確かにあったこと、小説とは人間の生き死にと切り離された虚無そのものでもありうることを、久々に思い出させてくれたという意味で、まさに亡霊のように現れたとは言えまいか」。
 まあ、かつてあった耽美小説と比べては、かつての小説が可哀想だ。この「伯爵夫人」は汚いポルノグラフィーにしか過ぎず、楽しい感じが全くしなかった。今更であってもこのような実験はあっても良いとは思うが、賞に値するとはとうてい思えなかった。本人が賞の決定に怒ったというのも、案外評論家として自ずから自然に出たことではなかったのか。


百年を横たはりゐる漱石忌





2016年6月26日(日)
日限り日記

 [「花はさくら木」]
 「花はさくら木」(辻原登)を読んだ。最近出版された「日本文学全集12」の「与謝蕪村」の選者は辻原登だが、なぜ自分が選ばれたかは、自分が「花はさくら木」で蕪村のことを書いたからだろうと言っている。面白そうだと思ってネットで「程度良い。本の価格1円+送料」の中古を買った。これなら電車賃を掛けて図書館に行くよりも安い。
 この本の特徴は次のようなところか。
1. 江戸の中期、十代将軍家治、116代桃園天皇という時代の出来事で、取り上げられている時代が珍しい。
2. 将軍の御側御用取次田沼意次(おきつぐ)が、定説とは違ってとても魅力的に書かれている(これは意次が著者と同じ紀州和歌山出身のためか)。
3. 秀吉の愛妾淀君の末裔、すなわち織田、豊臣の血を引く家が対馬にあり、そこにこの時代に美女が生まれ成長する(菊姫)。
4. 田沼意次は青木三保を京都に密使として派遣する。青木と菊姫は好きになる。
5. 幕府が清から唐本一万巻を購入したが、そのなかに北宋末期、徽宗皇帝治下の都開封を描いた「清明上河図」があった。
6. 幕府は「清明上河図」を清国乾隆帝に返還する。青井は返還使になる。青井と菊姫は清で暮らす。このなかに、琅玕(宝石)の話が交じり合う。
といった筋書きである。

「清明上河図」は故宮博物館展で見ることが出来たが開封の市民の営み、町を流れるべん河の虹橋の下を行く帆船と岸辺の喧噪が、明るく賑やかに描かれていて、強い印象が残った。この絵には真贋いろいろのものがあり、日本にもいくつかあるということから、作家の創作意欲を湧かせたのだろうか。この小説に出て来る朝鮮通信使や対馬の話は、後の同じ著者の「韃靼の馬」に繋がっていく。
 本の後書きによれば、この小説は2005年に朝日新聞に連載されたものだという。当時私は朝日新聞を取っていたが、読んだ記憶がない。私の辻原登好きはせいぜいその程度であったかと思う。
 ところで本の中に蕪村が登場する場面はごくわずかだった。先の知れている今、こんなことで本を読んで時間を潰していたら、肝心のやるべきことが出来なくなってしまう。さりとて面白いものは面白いから如何ともしがたいが。


見下ろして見る桜見上げて見る桜






2016年6月24日(金)
日限り日記

 [孔子の食事]
 「孔子(紀元前552年~479年)は(平生の食生活では)米は精白されたものほど好み、膾は細かく刻んだものほど好んだ。ご飯が異臭を発して味が変になったのや、いたんだ魚や腐った肉は食べなかった。色のわるいものは食べず、悪臭のするものは食べなかった。煮加減のよくないものは食べず、季節外れのものは食べなかった。切り方が正しくないものは食べず、ドレッシングが合わければ食べなかった。肉はいくら多く食べてもご飯の量を超さなかった。酒にはきまった分量はないが、乱れるまでは飲まない。市販の酒と干し肉は食べない(自家製でまかなう)。(魚肉に添えた臭み消しの)生姜は捨てずに食べるが、多量には食べない。食事中は口をきかず、就寝中は口をきかなかった。(「論語」郷党10-7 井波律子訳)
 中国人はこの章をよく知っていて「「論語」の八つの「不食」」と言っている。
 煮加減の良くないものは食べず、季節外れのものも食べない。切り方が正しくないものも食べず、ドレッシングが合わないと食べない。酒は度を超さない程度に飲む。孔子は、普通に食べ物にこだわりがあり、何でも食べるというような清貧とか素朴とかの人ではない。食事中や就寝中口をきかなかったとは、教訓めいた話をしなかったということ。
 紀元前五百年、今から二千五百年前のことだが、今の普通の人にも通用するような食べ物の選び方ではないか。
 孔子とか「論語」とか言うと聖人君子の話しと思われがちだが、「論語」を読むと孔子が如何に現実主義者であり、時に矛盾に満ちた悩める人であったことが分かる。
 ちなみに孔子世家(司馬遷)によれば、孔子の身長は9尺6寸(220センチ)、人は皆長人と呼んで驚嘆した


長人の頭は丘なり小鳥来る





2016年6月23日(木)
日限り日記

 [中国紀元前五百年の衣装]
 よく秦の始皇帝時代(紀元前221年)の映画やテレビを見て、あれほどきれいな衣服や食事はあり得なかったのではないか、という人がいるが次の「論語」を読んでみてください。
 まず衣服から。
 「君子は(祭祀用の衣服の色である)紺色やとき色で襟や袖口の縁取りをしない。紅い色や紫色の平服を作らない。暑いときには葛布の単衣を着るが、必ず(肌が透けて見えないよう)上衣をはおって外出する。黒い上衣には、下に黒い子羊の毛皮を着込み、白い上衣には白っぽい子鹿の毛皮を着込み、黄色い上衣には、下に狐の毛皮を着込む。平服の毛皮は丈を長くし、右袖を短くする。必ず寝間着を用い、その長さは身の丈の一倍半とする。狐や狢の毛皮を敷いて座る。喪が明けると全ての装飾を身につける。(出仕は祭祀のときに着る)帷裳以外は必ず下を広くし、上を狭く縫い込む。(吉事用の)黒い子羊の毛皮と黒い冠では、葬儀に行かない。毎月一日には、必ず朝服を着て朝廷に出仕する。ものいみのときには、必ず(湯あみ用の)浴衣を準備する。(浴衣は)木綿である。」(「論語」 郷党10-6 井波律子訳)
 孔子が活躍したのは紀元前5百年。冒頭の「君子」は孔子とする説と、一般的に広く「君子」とする説とがある。孔子だとすれば孔子はこのような服装をしていたことになる。「君子」だとすれば当時の封建社会の上層部の服装の規定を示すものである。広く行われていなかったからこそ守るべき規定として示したのかも知れないが、仮に守られなくても社会の上層部の人はこれに近い服装をしていたであろう。
 孔子は「衣服に対する規律」「食に対する規律」はけっこううるさかった。黒い上衣に黒い下着、白い上衣に白い下着などおしゃれな感じが出ている。紀元前5百年の規定である。我が国のことを考えれば、中国の歴史には唖然とするしかない。


(すす)ぎの夜干しの(みつ)の吹かれをり

 




2016年6月22日(水)
日限り日記

 [一滴も怒らず]
 2003年から使っている洗濯機が水漏れするようになったので、頃やよし死ぬまでの最後の一台、と思って新調した。
 洗濯機を運んできた運送会社の人は、大男二人だった。かれらは、「注水のホースの取り付けが今までのでは不安定なので、蛇口と洗濯機のホースの間に「ニップル」を取り付けた方が良い、洗濯機メーカーもそう勧めています、有料ですが」と言った。そこで了承した。
 ニップルの取り付け、洗濯機の設置は簡単にできて、彼らは引き上げた。
 新しい洗濯機を使ってみると、ニップルのところからうっすらと水が漏れて下に滴る。設置をした大型電気店のアッセンブリーセンターに電話をすると、夜の9時頃で良ければ伺うという。
 現れたのは昼間の人とは違った大男の二人組だった。私は、ニップルの取り付け説明書を見せながら、Uパッキングは水栓本体に付けよと書いてありますよ、Uパッキングの方向に注意、と書いてありますよ、などと言った。彼らは嫌がらずに、はいはいと聞いて作業をしてくれた。水漏れは直ったように見えた。
 しかし翌日朝起きてみると同じ処から一滴、二滴と漏水している。またセンターに電話するとややあって、大型電気店の洗濯機売り場から「ニップルは交換した。ホースに問題があるようなので、洗濯機メーカーから取り寄せる」と言ってきた。私は「それは違う、明らかにニップルから漏水している」と強く言った。その結果、再度点検に来ることになった。
 妻から、作業者にはくれぐれも丁寧な言葉で話すように、万一あのような大男に手を振るわれたら大変だから、と念を押された。
 次の日、また別の大男二人組が現れた。私はいつもにまして(いつもと違ってと妻は言いそうだが)丁寧に応対した。彼らはニップルを取り替え、水栓蛇口・ニップル・ホースを力一杯揺すって見せて、別のタイプのニップルに交換しました。これで様子を見てください、と言って帰った。
 かくして三日がかりで洗濯機は無事に動くことになった。皆感じの良い大男だった。もちろん私は殴られていない。


夜濯ぎの静かに回れ洗濯機

 


2016年6月21日(火)
日限り日記

 [芭蕉百句選(「河出書房新社・日本文学全集12」より)]
 今までの芭蕉百句選は、「芭蕉秀句」(山口誓子)を以てとどめとすると思う。しかし山口選も特徴があって、それは、明らかに出典の影響のある句はとらなかった、ということである。芭蕉の句には、西行の歌や「源氏物語」、杜甫の詩など、それまでの日本や中国の文学の精髄が流れ込んでいる(長谷川櫂の同本の解説)。誓子は秀句を選ぶに際して、本歌取りの句を排除した。
 仏文学者・作家・詩人の松浦寿輝がどのような基準で選んだかは、明かではない。安東次男の「芭蕉七部集評釈」を高く評価していることは、あとがきから知ることが出来るが、百選はこれに私なりの始末を付けたと言うのみである。
 さて結果は、選が重なっている句が、27句である。芭蕉の全句1000句弱から100句(山口の場合は117句)選んで、選が重なったのが27句。多いというべきか少ないと言うべきか。
 この選についての私の感想。
 山口誓子は、「実作者の立場から言うと、表現能力がすなわち鑑賞能力である、表現能力の到り着くところまでしか鑑賞できない、その限界内で私は私の理想を芭蕉の中に読む」と言っている。
 しかし、と言うべきか、その結果と言うべきか、現実には、山口の選は松浦の選に比べて、難しい高等な句を選び、松浦は一読分かりやすい句を選ぶか、詩人芭蕉の「瞬時の身体的行為の幻視」を詠んだ句を選んでいるように私には思われる。後者の一例を挙げると、
 いなづまを手にとる闇の紙燭哉

 を松浦は選んでいるがその評釈は次の通りである。
 「詩人の「手」に摘み取られた稲妻は、瞬時の煌めきの後に掻き消え、後には何も残らないのだと。「テーヌの「知性論」の巻末で奇妙な悪行に耽るあの美しい手を、わたしは幾晩かけて飼い馴らすことだろう」(アンドレ・プルトン「シュルレアリズムの宣言」)。なお、俗流フロイディズムは当然、この紙燭に男根象徴(ファリックシンボル)を、稲妻に射精の隠喩を読まずにはいまい。」
 どうです。選も解説も類を見ないものでしょう。


明易や十句自選を初めから




2016年6月20日(月)
日限り日記

 [松浦寿輝訳「おくのほそ道」(日本文学全集12・河出書房新社)より]
 この文学全集は予想外の人が翻訳者になったり選者になったりして、新鮮である。編集責任者の池澤夏樹が「古事記」の現代語訳をするように。この巻では、仏文学者で小説家、詩人の松浦寿輝が芭蕉の「おくのほそ道」の現代語訳をし、芭蕉の句100句を選んで解説をする。
 「おくのほそ道」の現代語訳に当たって何より留意したのは、言葉の流れの速度である。それと注は一切付けないという方針だったと、著者はあとがきに書いている。そのことの理由で私は買うことにした。今まで何度か「奥の細道」を原文で読み始めたが完走していない。多分読んでいて情況が頭に浮かぶだけの古文解読力がないせいと、原文は簡潔すぎて注釈が必要なのだが、解説書の注釈があまりに多すぎて閉口したためだと思う。かといって今更現代語訳を読む気にはなれなかった。
 ちなみに数字で言うと、「奥の細道」の冒頭の部分「月日は百代の過客にしてから、草の戸も住替る代ぞひなの家」までは原文では360字(行内の空白を含む)に対して、訳文は700字。論語第一章「子いわく、学びて時にこれを習う・・・」の漢文読みと現代文読みが、57字対90字であることにくらべて、実際に読んだ感じでもすこし丁寧に訳している感じはする。
 今回の松浦訳は、簡単すぎもせずくどくもなく、私にはちょうど読みやすい訳だった。翻訳者の術中にはまったわけだが心地よいはまり方だった。なかに出て来る俳句の解説も、著者の独自性が出ている。少なくとも既存の俳人の似通った解説とは違った新しさがある。かくして、訳の力を借りてというか訳の面白さにも惹かれて、やっと全文読むことが出来た。
 読後感は、一言で言うと、訳文がどんなによくても、やはり原文で読まないと真の「奥の細道」を読んだことにはならないのだなあ、というものである、少なくとも日本人である私としては。
 百句選については、日を改めて論ずる。


咲き盛る花菖蒲かな垂れ盛り





2016年6月19日(日)
日限り日記

 「松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶、とくとく歌仙」(日本文学全集・河出書房新社)
 これは550ページの大著なのだが、面白くて一気に読んだ。私は俳句の本は、汗牛充棟もただならぬほど持っているが、これ一冊あれば他は不要だなと思わせるほどこの本は充実している。
 先ず長谷川櫂の「小林一茶」。長谷川は芭蕉や蕪村が古典を生かした俳句を作ったのに対して、一茶はのびのびと自由に作る、すなわち近代俳句は一茶から始まると言ってよい、と言っている。一茶の膨大な俳句から100句を選んだ実作者である著者の解説を読めば、一茶のことばかりでなく、俳句とは何か、俳句はどう詠めば良いのか、が分かる。俳句の歴史を知るとともに、俳句の実技を教える書ともなっている。
 次に辻原登の「与謝蕪村」。蕪村は長谷川によれば、「古典主義の宵の明星」ともいうべき俳人だが、小説家の辻原は折にふれて句集をひもとき画集を眺めてきた。彼の選んだ100句の解説を読むと、著者が漢詩に通暁し日本の古典にも詳しく、画家でもある蕪村の洒落たモダニスト振りが好きなことが分かる。蕪村の句は、風景描写はすぐれているが何も言っていないという人もいるが、この解説を読むと蕪村の句は比類のない一幅の芸術作品であることが分かる。
 つぎに丸谷才一、大岡信、高橋治の「とくとく歌仙」。歌仙は本来は「文台引き下ろせば即ち反古」(芭蕉)である。やっている最中が楽しいのであって、終わってみれば反古に等しい。しかし、こうして自注を読むと、良く出来た歌仙はそれなりに面白い。私はこの中では歌仙の素人であった作家の高橋治の句が、うるさ型の二人の句よりはずっとすぐれているし、面白いと思った。もっとも歌仙だから、二人の助言で大分手直しをしたようだが。
 さて、最後は松浦寿輝の「松尾芭蕉・おくのほそ道、芭蕉百句」。結論から言うと、私には「おくのほそ道」の現代語訳も、芭蕉百句の解説もとても面白かった。松浦は、仏文学者、詩人、作家であるが、俳人の解説にはない新鮮な訳と解釈が披瀝されていて、惹きつけられるように読んだ。
 仏文学者といえばかつて桑原武夫が1946年9月に俳句「第二芸術」論を打ち出して、俳人たちに衝撃を与えた。桑原は当時の俳句を西洋の近代芸術よりも劣った第二芸術であるといって批判した。これに対して俳人たちは、この西洋かぶれで日本文学知らずめが、と言って(陰で)反発した。
 松浦は、若いときに俳人安東次男の「芭蕉七部集評釈」を熟読している。そして、今は亡き傑出した批評家・詩人・俳人への心からの尊敬と感謝の念を表明すると言っている。松浦の記述を詳細に読んだが、いわば俳句を世界の詩のなかで捉えようとしているかに思える。
 松浦の芭蕉論については、日を改めて論じたい。


ムラサキのにほへるごとき文学集

 


2016年6月17日(金)
日限り日記

 [水に落ちた犬を打つ]
 中国語の「打落水狗」はもともとは「水に落ちた犬はもうこれ以上打つな」、弱い者いじめをするなという戒めだったが、魯迅が、向こう岸に泳いでまた歯向かってくるから、復讐されないように「徹底的に打ちのめせ」、という意味で使ったとものの本には書いてある。
 このところ連日、テレビでは桝添都知事が、マスコミや都議会で追及されている姿を映し出していた。今回の公私混同は、あまりにもせこすぎた。このような倫理観のない人に知事の仕事を任せて良いだろうか、というのは大方の共通した意見だったと思うし、私もそう思う。しかし、マスコミの質問にしても、都議会の質問にしても、同じような質問が繰り返されるのもうんざりだ。5党あれば5党とも同じような質問が出され、その都度、テレビで桝添知事の顔が大写しになる。心の動きまで読み取ろうとしているように見える。
 これが何に似ているかというと、中国の文化大革命の時の大衆による知識人つるし上げの様子に似ている。彼らは暴力を使ったが、マスコミや議会は言葉をつかう。最後は桝添知事も全面降伏となったが、そうなると謝り方が悪いということになる。謝り方は、千人いれば千人違う。この辺も文化大革命のつるし上げと変わらない。言葉によるによる集団リンチと言って良いのではないか。
 後継者は、政治家でない方が良いのではないかという理由の一つに、政治家は、厳密に見れば政治資金の使途で、公私を混同していない人はいないから、やがてまた叩かれる、というのがあった。それならば経済界からということになると、車の使い方まで問われれば社長経験者で厳密に公私混同していないと言い切れる人はいないのではないか。
 マスコミでも質問をしている記者には、質問が行きすぎていることを分かっている人もいたと思う。しかし、今相手は水に落ちている。日頃威張っている奴は痛い目に遭わせないといけない。
 つまり「打落水狗」の第三の意味は、昔威張っていて今弱っている者がいたらこのときとばかり皆と一緒になって叩いて「日頃の鬱憤を晴らせ」、という意味があるように思う。紅衛兵など十代の若者による文化大革命のつるし上げはそうだった。
 今回の騒動を見て、大衆情報化社会の政治家は(経営者も)日常活動も大写しされても恥ずかしくないという覚悟で透明な政治を行わないと、結局破綻するということが分かる。これは政治家を萎縮させるかも知れないが、民主主義とはそういうものだから仕方がない。公私峻別は後から思えば当然であることは誰にでも分かることだが、その時は流されやすい。日頃からきちんと身を律することが出来るかどうかは、その人の持つ己に厳しくするという資質と覚悟によるだろう。


花氷きのふの我の輝きて

 
 



2016年6月15日(水)
日限り日記

 [返り矢・・・・射かけた矢は、射返される]
 古事記(日本書紀にもほぼ同様の記載あり)によれば、天照大神が「豊葦原の瑞穂の国は我が御子の統治する国であるべきなのに、この国は強暴にして荒れすさぶ神どもが沢山いる、どうしたらよいか」と高天原の神々に尋ねた。こうして派遣した神はどの神も豊葦原中国(なかつくに)の大国主神にへつらって、報告もせず帰って来なかった。
 天照大神の意を受けたタカムスヒノカミは、あたらしくアメノワカヒコを派遣した。しかし彼もまた大国主命の娘と結婚し八年になるまで報告しなかった。
 そこで、雉の、名は鳴女(なきめ)を遣わした。鳴女は天から下って、アメノワカヒコの家の門にある木に止まって「なぜ八年に至るのに報告しないのか」と命じられたように言った。ワカヒコは来るに当たって天の神から賜った弓と矢を手にとってその雉を射殺した。
 するとその矢は雉の胸を突き通して天に射上がって高天原にいる天照大神とタカムスヒノカミの御所まで飛んで行った。タカムスヒノカミはその矢を手にとって、「これはアメワカヒコに授けた矢である。もし、謀反の心があってのことなれば、アメノワカヒコはこの矢による禍あれ」と言われて、その矢を手に持って矢の来た穴から突き返した。
 アメノワカヒコが、朝の寝床に寝ていたところ、矢が鳩尾(みぞおち)に命中して死んだ。これは「返り矢」の起源である。
 
 桝添知事は今まで、大学にいるときは大学当局を、自民党では自民党首脳を、舌鋒鋭く追い詰めることで自分を際立たせていた。しかしいま、返り矢を受けた。(歴史学者 遠山美津男氏のお話を参考にした)
 
 
 弓手(ゆんで)に破魔矢馬手(めて)にベビーバギーかな
 
 
 
 

2016年6月14日(火)
日限り日記


 [トレッドミル負荷心肺機能検査]
 労災病院でトレッドミル負荷心肺機能検査。このところ駅の階段を急いで上ると登り切ったところで息苦しくなってしまう、と訴えたところ医者からテストをしてみましょうと言われたもの。
 雨の中、トレーニングパンツをズボンの下に穿き、トレーニングシューズをもって出かけたが実際には裸足で走れとのこと。念のためズボンは脱いでトレーニングパンツで走ったが、これは正解だった。負荷の低いコースを選択して走ったが、この日のために付け焼き刃のトレーニングを重ねたとは言え、日頃運動をしていない我が身にとって、16分なにがしの負荷ランニングはなかなか手強かった。
 3分ごとに速度が上がって行き、そのあとで走行面に角度が付く。角度がどんどんついて行き、目標心拍数になったらお終いとなる。
 目標心拍数118と言われたが、116で疲れてギブアップした。もう一息だったのは残念だが、目標に達して心臓が壊れてしまっても誰も助けてはくれない、たとえ病院の検査室のなかであっても助けられないものは助けられない。
 目標心拍数に達するまでに足が疲れてしまう人が多いと聞いたが、足はトレーニングの成果かもってくれたが、息が続かなくなった感じだった。
 しかし、それは一般的な息苦しさであって、私が困っているあの立っていられなくなるような息苦しさは現れなかった。なにごとでも再現実験は難しい。機械でも難しいのだから心理変化が入ってくる人間の検査ではなおさらである。
 でもこのぐらいまで運動しても大丈夫なのだなと分かったせいか少し気が強くなったような気がする。
 来週今日の結果で医者が何かを言う。



ががんぼの死して余力のあるごとく







2016年6月11日(土)
日限り日記

 [クラス会]
 例年この時期は年に一度在京の高校のクラス会が開かれる。場所は小石川後楽園の涵徳亭。いつもこの時期は花菖蒲が満開になるので少し早めに出かけて俳句を作る。ことしは久しぶりにデジカメを新調したので、その具合を確かめることとしたため俳句どころではなくなった(だから俳句がだめなのですが)。例年梅雨に濡れるのだが今年は晴れだった。
 花菖蒲は相変わらず美しい。ここと明治神宮の菖蒲園、鎌倉明月院の菖蒲園、横浜四季の森公園の菖蒲園などがよく行くところだが、それぞれに特徴があって優劣は付けがたい。以前はここでクラス会が開かれる前に仲間4人と俳句を作って即席の句会をやったこともあったが、メンバーが半減してしまったので続いていない。
 クラス会は20人ほどが出席。この一年見かけがあまり変わらない人もいるが急激に老化した人もいる。さて自分はどちらに入るのだろう。
 高校を卒業したのはもう60年以上前なのだが、それでも話をするたび新しい魅力を発見できる人が何人かいる。それがクラス会の良いところだろう。
 メンバーのひとりに精神科の医師がいて、彼に話をしてもらった。彼の話では、老化が進むと自分の人格と他人の人格が区別が着かなくなる人がいるという。実は私も今その段階に入りつつあると、彼が真顔で言ったものだから、話が終わったあとでその精神科の友人と話をするときに、自分の人格が彼に盗られてやしないか、などと不思議な気持ちにさせられた。
  我々の高等学校はほとんど男子のみだったが、その市には別に女子高校があった。中学校の同級生が男子高校、女子高校に別れる。中学校の同級生同士で結婚した人がいた縁で、去年から同じ年の女子高校卒業者も呼ぶことになり、今年は女性も10人ぐらい出席した。

 そうなると、高校のクラス会というよりは中学校のクラス会になる。
 私は実は久しぶりに 二人の男友達とじっくり懇談するつもりで出かけたのだが、彼らは中学校の女のクラスメートを見つけて、気もそぞろになりこちらの話に乗ってくれない。かといってその市の中学校出身ではない私には、話すべき女友達もいない。友達と言っても、後期高齢をとっくの昔に迎えた爺婆ではあるが、だからこそ話すことがあるのだろう。
 
 
 花菖蒲今年は晴れのクラス会
 
 


 
 

2016年6月7日(火)
日限り日記

 [お客様サポートセンター]
 昔はまれだったが、今ではほとんどの会社で「お客様サポート」の専用電話窓口を置いている。その結果はどうだろう。よくなったことは、とにかく問題を受け止めてくれること。悪くなった点は、専門部署までの距離が遠くなって、少し難しくなると「お客様サポートセンター」の手に負えないにもかかわらず、何とか処理しようと思うから、反ってうまく解決できないといこと。それと会社によっては電話窓口が混み合ってなかなか繋がらないということか。
 私が今のところ一番良いと思うのは、ウイルス防御ソフトを扱っている「ノートン」の「ノートンサポート」である。この会社の電話サポーセンターは営業・契約サポートは「東京」、技術サポートは「大連」と分かれていたが、しかし、いまでは「大連」が全てのサポートをしてくれるようになったと思う(電話は東京03にダイアルする)。多分「東京」のサポートセンターはだめだったからだ。
 技術関係では、質問の要点を早く掴む、素早く解決をしてくれる、という特質があったが、営業関係でもいくつかのサービスパターンの違いや値段の説明、契約の変更など実に分かりやすく説明してくれるように変わった。
 ただ一つの欠点は中国人の日本語だから、なかには少し言葉が聞き取りにくい人もいることだ。しかし、ほとんどは問題ない。
 なぜ中国人の窓口サポートがこのように的確なのか。あとで結果のフォローアップが来るがそれから類推するに、ノートン本社(アメリカ)の応対がしっかりしていて、その手順に従うようしっかり教育がされているからではないか、と思う。つまりサポートがアメリカ式なのではないか。
 日本の会社のお客様サポートは、まだ洗練されていない。ときにウエットで丁寧でありすぎたり、ときに技術に無知でありすぎたり、窓口の人によって違いがありすぎたりしている。まあ、窓口の人に言わせれば、お客様がそのようなサービスを要求しているからだ、特に最近はおしゃべりをする老人からの電話が多くなったのでだらだらとウェットにならざるを得ない、となりそうだが。


吾輩は梅雨湿りした猫である

 
 

 
 
 
 

2016年6月5日(日)
日限り日記

 [鯛を捌く]
 ご近所から、立派な鯛を戴いてしまった。お一人住まいなので親戚から送ってきたが手に負えないという。我が家も同様だと妻が固辞したが置いていかれてしまったようだ。
 鯛は、大きさが50センチは超えていて、そのまま抱けば優勝力士の写真にでもなろうかという大きさだった。私はインターネットで捌き方をダウンロードしただけであとは妻が格闘した。格闘すること1時間、何とか三枚に下ろせた頃は、手袋をしていたにもかかわらず妻は手に生傷を負ってしまった。それから半時、如何に大変だったかを聞く役になったが、私は自分の部屋で本を読んでいたのだからこれには堪えた。
 俳句では、「鯛網」が春の、「黒鯛」が夏の季語である。どちらも、鯛をとる網を引く面白さとか、ちぬ(黒鯛)を釣る感触とかの例句が多く、鯛の取り方が季語の本意らしい。瀬戸内海で冬を過ごした黒鯛が美味しく、それも4年ものがうまいというようなことも季語の解説には書いてあるが、食の句は少ないように思う。
 以前にかりんを甘露煮にしたときは家中に甘い匂いが漂ったが、今回は家中に魚の匂いが漂った。とりあえず、第一日は昼ご飯に、頭(あら)煮を食べた。味を付けずただ炊いただけだったが、あら煮も汁もとても美味しかった。夕ご飯に食べた刺身も今まで食べたことのないような美味だった。
 実は次の日は私の誕生日だったから、妻と横浜に出て食事をする予定でいた。しかし、これだけ生の鯛があるのではゆっくり外食もしておられない。それと、どうやら外で食べるどんな料理よりも、これだけの素材があれば、家で食べる方が美味しいに決まっている。
 料理する方は大変だが、料理に関しては、美味しいと笑って言えば、妻の手数に対する不満は一瞬にして解消できることは結婚50年なかで分かっている。
 
 
 妻がゐて大鯛一本家料理
 
 
 
 
 

2016年6月3日(金)
日限り日記

 [岩たばこ]
 鎌倉の東慶寺に行ってきた。花の寺と言われるこの寺は、いま岩たばこ、岩がらみ、花菖蒲が満開である。石楠花は過ぎ、紫陽花は咲き始めたがこれからである。
 岩たばこはこの寺の高い急な岩壁を一面に蔽っている。5世住職となった後醍醐天皇の皇女の墓が右手の高いところにあるが、その上の崖の岩たばこは、あまり人が行かないこともあって、特にみずみずしい。
 岩たばこは、葉が煙草の葉に似ていることから付けられたイワタバコ科の多年草。岩肌から10糎ぐらい花茎が立って、星形に五つに裂けた赤紫色の花はみな垂れ下がるように咲く。個々の花は可愛らしいが、群生していると堂々と見える。俳句では夏の季語になっている。
 この時期だけ本堂の裏が解放されるので、渡り廊下を辿っていくと裏には切り立つ崖が迫っている。その崖に沿って、岩がらみが一面に咲いていた。
 岩がらみはユキノシタ科の蔓状の低木で、東慶寺の岩がらみも元は一本の根だそうだ。葉は互生し長柄をもち、赤みを帯び、径5~13㎝位。花は初夏、大きい白い花弁状の萼片1枚を持つ装飾花が花序の周囲に数個ある。一見紫陽花に似ているが別の科である。
 茶室「寒雲亭」も普段は非公開だが、前庭に花菖蒲の咲くこの時期は開放されて、お茶とお菓子をいただくことが出来る。そこに座って花菖蒲という名前の生菓子をいただいた。お菓子の方は、いささか太り(じし)であったが、花菖蒲は軽やかな初夏の風に揺れていた。



 イワタバコ千の命の次々と
 




2016年6月1日(水)
日限り日記

[東周英雄伝]
 我々夫婦の結婚50周年のお祝いとして娘が買ってくれた台湾で出版された鄭問の「東周英雄伝」全3巻を読み始めた。
 鄭問は台湾に生まれた画家で、1992年「東周英雄伝」を日本の週間漫画誌に掲載し、熱烈な歓迎を受けた。日本漫画協会は彼に優秀賞を与えた。今回私がもらったのは、その中国語版(台湾版)である。
 この漫画は、中国の春秋戦国時代すなわち紀元前770年から221年の間に出た英雄の物語である。この時代の中国は,体制が崩れ、群雄が割拠し、多くの豪傑、謀略家、思想家、軽快にお飛び舞う女たちが出現した。この本では、張儀、孔子、斉国の桓公、西施、秦の始皇帝、墨子、屈原、孫子など20数名の英雄が登場する。
 一例では孔子篇について。題名は「万世師表(手本となる人物)」、32ページ。魯定公10年孔子51歳(紀元前500年)から73歳で死ぬまでの22年間の物語が書かれている。司馬遷の書いた「史記」の「孔子世家」や「論語」そのものに準拠しているものと思われるが、照合してみると台詞は必ずしも同じでない。漫画は漫画なりの吹き出しにふさわしい台詞があるようだ。日本語の漫画からも分かるように、漫画の台詞が言葉として易しいとは限らない。
 英雄のなかでは、越国「西施」の物語が可哀想で胸を打つ。西施は芭蕉が「象潟(きさかた)や雨に西施がねぶの花」と詠んだことでも有名な美女だが、命令通り敵国呉国の王を惑わし自殺させて帰国した後、郷里に帰ることはかなわず、自国越国の王を惑わしかねないとして殺されてしまう。美女であり過ぎることの悲しさである。美女であることを知っているのみで、このような物語があることは知らなかった。漫画は、短時間で鮮明に物語を語るという特質があるのかも知れない(もっとも実は西施はもともと越王の参謀范蠡(はんれい)の恋人で、二人は後々手を取り合って幸福に暮らしたという説もあるそうだ(「故事で成句をたどる楽し中国史」(井波律子))。
 大体は一人で読むのだが、勉強のために何編か中国人の先生と一緒に読んでみた。たとえば「比干」とだけ書いてあるとさてこの意味はと考えてしまうが、中国人だとこれが「封神演義」に出て来る殷代の王族の名前であることは大体知っているので、すぐ教えてもらえる。また、話し言葉としてどこで息を切ったらよいか、などは、小説を読むのとは別に大いに勉強になった。私同様漫画が嫌いな先生も、絵がきれいだし面白いわ、とのめり込んでしまった。



笑ふ松島うらむ象潟青葉雨