中国語のエッセイ・日本語つき
(一个日本人用中文写的随笔)
(2015年、2016年)

20165.18

中文小说

 

到现在读完的中文小说多少呢? 下面做了一张表。一共30册左右,一年大概56册。能读完这么多的作品,不但是作品很有趣,而且多亏指导老师的适当的帮助。作者主要是现在现代中国小说旗手的莫言、余华、阎连科、铁凝,和稍微以前时代的鲁迅。

特别对莫言来说,从得到诺贝尔奖之前的作品当中,我能感到一种很强的气势力气。《丰乳肥臀》《檀香刑》《生死疲劳》《红高粱家族》等,给我留下了别人的作品所不能给我的那种强烈的印象。铁凝的《大浴女》,余华的《兄弟》也是同样。就是说这些作家生动地描画了这一百年之间中国社会的巨大动荡。也有在大陆禁止出售的作品,禁止由于性方面过度表现的《上海宝贝》和禁止由于对政治体制激烈表现的作品《为人民服务》。

读书的方法是预先我自己读,然后对老师质询不明白的地方。因为是年轻的女老师,所以我质询关于性或女人身体的记述时,她说:你特意选择我回答时感觉害羞的地方,是不是? 说实在的,我对怎么以汉字表现这样微妙的部分感兴趣,不能置之不问。这样与老师讨论也很愉快。

对于读完的小说,我都写了读后感文章,请老师修改后,登载在自己的主页上。读完这些很棒的小说,和留下的读后印象,是我老年人生的一大纪念碑。

 

完的中国小

 

的年月

作者

1

 

Q

2

2007/11

大浴女

3

2010/1

兄弟

4

2011/2

三国演(少年版)

罗汉

5

2011/3

上海宝(台湾版)

6

2011/5

丰乳肥臀

莫言

7

2011/7

浒传(少年版)

施耐奄

8

2011/9

9

2011/10

孔乙己

10

2011/11

莫言

11

2012/3

祝福

12

1012/5

莫言

13

2012/6

莫言

14

2012/6

十个词语里的中国(“鲁迅”)

15

2012/7

莫言

16

2012/8

莫言

17

2012/11

酒国

莫言

18

2013/3

高粱家族

莫言

19

2013/5

檀香刑

莫言

20

2013/8

四十一炮

莫言

21

2013/11

生死疲

莫言

22

2013/12

人民服(台湾版)

阎连

23

2014/2

第七天

24

2014/4

我与父

阎连

25

2014/6

观卖

26

2014/7

活着

27

2014/9

十三步

莫言

28

2014/12

炸裂

阎连

29

2015/2

最后的情人

残雪

 

 

 

中国語の小説

今までどのくらいの中国語小説を読んだのか、後々のために表にしてみた。30冊ぐらいで、年間平均5から6冊。ここまで読めたのは、作品が面白かったのと、指導してくれた先生のお陰である。作者では、莫言、余華、閻連科、鉄凝といった現代中国の小説の担い手のものと、魯迅のものでほとんどを占めている。

特に莫言は、ノーベル賞を取る前の作品で、勢いの感じられる作品ばかりだった。「豊乳肥臀」「檀香刑」「生死疲労」「「紅コウリャン」などは、今まで読んだどの小説にも負けない強烈な印象を私に残した。鉄凝の「大浴女」余華の「兄弟」もそうだった。それは、この百年の間の中国社会の激動を生き生きと描いているからに他ならない。大陸で発売禁止になっているものも過度な性表現で発禁になった[上海宝貝]と反体制の政治小説「人民へのサービス」がある。

読書の方法は、あらかじめ自分で読んで、分からないところを先生に質問するというやり方だった。若い女の先生だったから、性的な表現や、女の身体などの記述について質問をすると、あなたは私が答えるのに恥ずかしい思いをする部分を選んで質問するのではないか、といわれたこともあった。このような部分を漢字でどのように表現するのか興味があったことは間違いない。先生との討議も楽しかった。

読んだ本の全てについて中国語で読後感を記して添削してもらっている。単に読むだけでなく、そのときどきの印象を残したことで、これらの本は私の人生の一大記念碑になっていると言えるのである。

 

 

 

 

201511.12

祝贺七五三

 

118日星期天,我们为家里最小的外孙子祝贺七五三。当天不凑巧下小雨,我们全家人在神奈川县最旧的鹤见神社集聚了,神社内参加者很多。为祝贺七五三孩子穿的衣服有很多种类, 正式和服、西服、武者服装等等。我家五岁的外孙子,借穿短外罩和服裙子与比他大两岁的哥哥在七五三祝贺式上穿的一样。

平时,他不太喜欢与哥哥一样的衣服、吃的东西、玩具、书什么的,可是这次他希望穿跟哥哥一样的服装。在神社附属会馆内有摄影室。我们在那里拍几张照片。他一个人拍照时,平素真的淘气调皮鬼的他,一直严肃不笑。我们都努力让他笑。我没看过他这样老实的样子,可是我理解男孩子的微妙心情。

祝贺七五三方式有几种。有在家里盛装,乘车到神社,只参加祝贺仪式的人;有在神社附属的会馆借服装,在那里拍摄纪念照片,参加祝贺仪式的人等等。还有只本人和父母参加的小组,或父母双方的亲属来参加的大组等等。在集聚的亲属之间,趁着这机会,做自我介绍的人也有。对他们来说,七五三是一种增近亲属之间的亲密感的好机会吧。

我家两年前,不但爷爷、奶奶、姥爷、姥姥,而且别的亲属也参加,一共11,不过,今年因老人的健康问题,只有6个人来参加。仅仅是两年,就有如此的变化。那么下次的什么祝贺式呢? 5年后外孙女的成人式。我能不能参加? 2020年东京奥林匹克运动会无所谓,外孙女的成人式,我怎么也想参加!

参加完神社的仪式以后,我们去意大利料理店吃饭,外孙子一下子又变成了平时的淘气调皮鬼。

 

 

 

七五三

一番下の孫の七五三の祝に出た。当日あいにくの小雨の中を神奈川県で一番古いと書いている鶴見神社の会館に行くと、参列者で溢れていた。五歳の男の孫は、二歳上の兄のときと同じように、羽織袴を穿いている。

何事に付けて兄とちがうやり方を好む弟であるが、お兄ちゃんのときと同じのが良いという本人の希望とのことだった。会館内の写真室で写真を撮る。本人一人の写真撮影では、普段はやんちゃ坊主なのに、まじめくさってにこりともしない。みなで笑わせようとしたが不首尾に終わった。このあたりは微妙な男の子の気持ちで、私にも十分理解出来た。

見ていると七五三のやり方にも幾通りかある。家で正装して車で乗り付け、神社でお祝いの儀式だけに参加する人、神社付属の会館で衣装を借りて,写真まで撮る人。本人と両親だけのグループ、親戚中が集まるグループ。集まった親戚の間で,自己紹介をしている人がいたから、七五三も一つの絆固めの機会でもあるのだろう。

我が家は二年前は、両親の両親が揃い、ほかの親戚も集まったから11人が参加したが、今年は老人の体調の問題もあり、6人の集まりとなった。2年間といえども、家族の変化は絶え間がない。さてこの次家族のお祝いは何時になるのだろう。孫娘の成人式だとすると、5年後になる。これに参加出来るかどうか。2020年東京オリンピックはどうでもいいが、出来れば孫の成人式には参加したいものだ。

七五三のあとはイタリアレストランでスパゲッティを食べた。主役の本人は、たちまちいつもの腕白小僧に変身していた。

 

       七五三最後は大盛りスパゲッティ






 

 

 

201511. 7

《东周英雄传》

今年是我们夫妻结婚50周年。八月,孩子们在东京的饭店已经为我们举行了金婚祝贺宴会。这次孩子们送给我们的祝贺礼物, 妻子为高级的画笔和颜料,我则是由台湾出版的郑问创作的漫画《东周英雄传》全3卷。

  郑问是出生于台湾的漫画家,1992年《东周英雄传》在日本的周刊上连载,受到了热烈的欢迎,日本漫画家协会向他颁发了优秀奖。这次我收到的是汉语版。

这是一部以漫画的形式描写了春秋战国时代,即纪元前770年到221年之间的英雄故事。这时代的中国,群雄割据,体制崩坏,出现了众多豪杰、谋略家、思想家、翩翩美女等等。登上这本书的英雄是,齐国的桓公、孔子、西施、张仪、秦始皇帝、墨子、屈原、孙子等20多名。

就说孔子篇吧,题名是《万世师表》,一共只有32,讲述的是从鲁定公10年孔子51(西元前500)73岁逝世的22年间的故事。比起《史记》的《孔子世家》来,内容很简单。

我通过这部人物漫画不仅可以了解这时代的中国的历史,而且还可以学习汉语的故事漫画的台词。

 

 

 

東周英雄伝

今年は我々夫婦の結婚50周年に当たる。すでにこの8月、子どもたちがお祝いの宴を開いてくれたが、このたびまたいくつかの記念品を贈ってくれた。妻には彼女の趣味の絵の筆とか絵の具を、私には台湾で出版された鄭問の「東周英雄伝」全3巻だった。

鄭問は台湾に生まれた画家で、1992年「東周英雄伝」を日本の週間漫画誌に掲載し、熱烈な歓迎を受けた。日本漫画協会は彼に優秀賞を与えた。今回私が子どもたちからもらったのは、その中国語版である。

この漫画は、中国の春秋戦国時代すなわち紀元前770年から221年の間に出た英雄の物語である。この時代の中国は,体制が崩れ、群雄が割拠し、多くの豪傑、謀略家、思想家、軽快にお飛び舞う女たちが出現した。この本では、斉国の桓公、孔子、西施、張儀、秦の始皇帝、墨子、屈原、孫子など20数名の英雄が登場する。

一例では孔子篇について。題名は「万世師表(手本となる人物)」、32ページ、魯定公10年孔子51歳(紀元前500年)から73歳で死ぬまでの22年間の物語が書かれている。「史記」の「孔子世家」が精密に彼の一生を書いたのに比べれば、比べるまでもなく短い。

しかし、この人物漫画を通じて中国の歴史の一端を垣間見ることが出来るし、物語漫画の中国語の台詞を勉強出来るかも知れない。

 

 

 

 

 

201510.29

莫奈展

 

上星期我去东京上野的东京都美术馆看了莫奈展。我以前去过位于法国巴黎附近的Giverny,那里有莫奈造的庭园,还有他居住和逝去时的房屋,池上开着睡莲。我还去过巴黎Orangerie美术馆,那里有莫奈画的各种各样的很大的睡莲画儿,这些画儿都是由于法国首相Clemenceau的请求画的。还有, 1994我年去看了在东京普利司通美术馆举行的较大规模的莫奈展,当时很厚的宣传手册现在也在身边。

所以我以为关于莫奈的故事大概明白。此次因为听说,莫奈的遗族赠送到法国的马蒙丹·莫奈美术馆的杰作被展示,所以我再一次去欣赏了。作为此次招揽观众的作品“印象,日出,由于展示期间的关系,当天没展示。不过,以有名的“圣拉扎尔火车站”为首的,莫奈晚年的各种各样的“睡莲等极好的作品被展出了,我觉得去对了。

莫奈(1840-1926)从年轻时开始就以实力而被赏识,年轻时他已经拥有宽阔的庭园和房屋, 享受着富裕的生活。他39岁的时候妻子Camille去世了,不过,再婚的爱丽丝也是位贤夫人。他跟很多美术家、文学家、政治家等名流交往,到去逝的86,可以说度过较幸福的一生。

此次特别展示他去逝前最晚年画的几幅Giverny的庭园的画儿。得白内障的他描绘的垂柳、睡莲、日本式的桥等都只是用纵横粗广的笔调画的,对象的形象不太清楚。可是,一般认为这样的表现对后代的抽象画给予了很大的影响。他说,“我一直看世界显出的现象,并通过画笔表现出而已”。

另一方面,大概同时代的凡·高(1853-1890),一般认为生前只有一张画儿被卖,过着贫穷的生活。他度过晚年的Auvers-sur-Oise房间,是像阁楼一样很小的房间。

从现在留下的画儿来说,两个人的画儿都是极好的作品。哪儿分得开两个人不同的命运呢?

 

 

 

モネ展

先週東京上野で開かれているモネ展に行ってきた。私はかつて、モネが庭や池を造り、住み、そこで死んだジヴェルニーの彼の家まで行って見てきたし、フランスの首相クレマンソーの要請で画いた睡蓮が飾ってあるパリのオランジュリー美術館にも行っている。また、1994年にブリジストン美術館で比較的大規模に行われたモネ展を見に行ったときの、分厚いパンフレットも手元にある。

そのようにしてモネについては大体は分かっているつもりだが、今回はモネの遺族が作品を寄贈したフランスのマルモッタン・モネ美術館の逸品が展示されているというので行って見た。今回の目玉作品である「印象、日の出」は、展示期間の関係で見られなかったが、有名なサン・ラザール駅をはじめ、最晩年の睡蓮など何れも素晴らしい作品が出展されていて、行ってよかったと思った。

クロード・モネ(1840-1926)は若いときから実力が認められ、若くして自分の広い庭や家を持つなど裕福な生活をすることが出来た。はじめの妻カミーユを彼が39歳の時に失っているが、再婚したアリスも賢夫人だった。彼は沢山の美術家、文学者、政治家との付き合いもあり、86歳で死ぬまで比較的幸せな一生を送ることが出来たと言ってよい。

今回はとくに最晩年に彼がジヴェルニーの庭を書いた絵が多く展示されていた。白内障を病んでいた彼が画いたしだれ柳、睡蓮、日本式の橋などは、うねるような縦横の太い筆の動きで画かれていて、対象の形がはっきりしない。しかし、この表現が後の抽象画に大きな影響を与えたと言われている。彼は言っている。「自分は世界が見せてくれるものを見て、絵筆を通じてそれを表現してきたにすぎないと」と。

一方同時代のゴッホ(1853-1890)は、生前は絵は一枚しか売れなかったと言われるほど、貧乏な生活を強いられた。彼が晩年を送ったオーヴェル・シェル・オワーズの部屋は、一間の天井裏とでも言っていい小さな部屋である。

いま残された絵からいえば,どちらも素晴らしい作品であると思うこの二人を見た場合、二人を分けたのは、その人の持つ運なのだろうか。運以外に何かあるのだろうか、考えこまざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

201510.23

东京王子

 

上星期我去东京的王子参加了关于季节词的演讲会和俳句会。因为演讲会是下午开始,所以我稍微早到王子,观光了一下城市。王子以京浜东北线为界分成两个地区,东侧是市区和工厂区,西侧是旧的,有历史的地区。

线路西侧附近有飞鸟山公园、王子神社,稍微远一点儿的有王子稻荷神社。飞鸟山公园、从德川八代将军吉宗就开始种了樱花树,成了江户市民休息的公园。尽管在市的中心,但占地面积很大,绿树很多,远内的音无河也很有风趣,是非常好的公园。这个季节,盛开着十月樱花。

王子神社供的神是创造日本的伊弉诺尊和伊弉冉尊。创建的时代不太清楚,不过,据说在平安时代源义家去奥州惩罚时,在这里的神社祈祷的事的记录还残留着。在江户时代,这里被初代将军德川家康定为将军家的祈祷所,以后被历代将军精心地保护。建筑物很庄严,院内有一棵自然保护植物大的银杏树。

王子稻荷神社在相隔车站大约300米的地方。供的神是衣食住和买卖的祖先神五谷神大明神。据说建于平安时代,有很长的历史。主持认为自己是东方日本33处的稻荷神社的首领,每年在除夕的那天,根据磷火的口传, 举行狐狸的队列祭。狐狸认为是稻荷神社的警卫。

据说在稻荷神社的参拜道上, 以前并排开设着饭馆和茶馆,很热闹,不过,现在看起来只有二、三家店,而且客人较少。从那里一横跨过京浜东北线,就出现了现代的市区,有高层建筑,满座的拉面店和快餐店等等。王子是现代城市和中世纪城市互相映照的贵重的城市之一。

 

 

 

東京王子

東京の王子で歳時記の講演会と句会があったので参加した。午后からの会だったので少し早めに出て町を歩くことにした。と言っても、京浜東北線の東側は市街地と工場があって見るところは少ない。西側が旧い,歴史のある町である。

駅に近いところで西側に出ると、線路のすぐ近くに、飛鳥山公園、王子神社、駅から少し離れて王子稲荷がある。飛鳥山公園は徳川八代将軍吉宗が桜を植えたことをきっかけに、江戸市民の憩いの場となった。敷地面積も大きく、都心とは思えないほど綠が多く、音無川も風情があって、とてもよい公園だ。この季節は十月桜が咲いていた。

王子神社は御祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊。創建されたのがいつかは分からないが、平安時代源義家が奥州征伐の折り、ここで祈祷をしたという記録が残っているそうだ。江戸時代には徳川家康によって将軍家祈願所と定められ、歴代の将軍によって厚く保護されてきたとのこと。建物も荘厳で、境内には天然記念物の大きな銀杏の木があった。

王子稲荷はここから約300メートル離れたところにある。御祭神は衣食住と商売の祖神である稲荷大明神。歴史は古く平安時代からこの地にあるという。東国33カ所の稲荷神社の頭領を自認しているとのこと。毎年大晦日には狐火の伝承を元に狐の行列が実施されるという。狐は稲荷神社を護っているとのこと。

稲荷神社の参拝道には,料理屋や茶屋が立ち並んでいてにぎやかだったと言うが、いまではいなり寿司を店の中で食べさせる店が二、三軒あるくらいで、しかも客は余りいない。そこから京浜東北線を横切ると、現代の町並みに一変する。そこは、高層ビルがあり、ラーメン店やファストフード店には人が充ち満ちている。王子は現代の町に隣り合わせて、中世近世の町が大切に保存されている貴重な町であった。

 

 

 

 

 

 

201510.16

吃蜂的人

昨天我去了“四季森林公园。我发现两个人凝视着开在50厘米左右高度的树枝上,大拇指大小的粉色的花,。我问他们这是什么花,他们说,这不是花,而是鸡的胸肉片。仔细地看,几只小蜂,飞到鸡肉上,吃肉。蜂的名字是黑马蜂,不刺人。

他们把那只蜂巧妙地放上手指上,在它们身体上打红青绿等的标志。他们把鸡肉撕成像米一样的小块,加上纸捻,让蜂抱着这小块鸡肉,飞走。他们一边追赶着蜂子,一边用步话机喊着,去了哪里? 去了哪儿? 我向四周看,还有两个人在山中,一共4人。

因为标志的纸捻很重,受风的影响,蜂子不容易飞,常常在树枝上和叶面上停下。要是拼命地走向山中飞的话,飞得人追踪不上。蜂子飞去了,他们再返回鸡胸肉的地方,看着记秒表,喊着“347秒”等等。据说蜂子去了蜂房,养幼虫, 4分钟以内又返回到鸡胸肉的地方时,蜂房大概在两百米以内。

我想起来了以前我通过电视看过研究者用同样的办法努力发现马蜂的蜂房。可是现在的他们,从相貌风采上,一看就明白他们不是学术研究者。我问他们为什么要发现黑马蜂的蜂房,他们害羞地回答,发现蜂房,吃幼虫。我吃惊地问怎么吃,他们回答,他们不是蜂鹰,不能直接生吃幼虫,而像做咸烹海味那样吃。

我观察一个小时,不过,他们没能发现黑马蜂的巢。他们说这只是个成年人的游玩而已,不过对蜂来说是大灾难吧。我衷心希望这些看起来很老实、很可爱的黑马蜂们能逃离狡猾的人们的手,安全地保存它们的巢房。

 

 

 

蜂を食べる人。

昨日四季の森公園に行った。そこで50センチぐらいの高さの木の枝に、親指ほどの花が咲いている木を眺めている二人連れがいたので、何の花か聞いて見た。すると花ではなく、鶏のささ身だという。よく見ると長さ1センチ位の蜂が三、四匹ささ身に食いついている。クロスズメバチで刺さないのだという。

彼らはその蜂を巧みに指に乗せて身体に赤青綠などのマークを付け、ささ身を米粒ほどちぎって、コヨリをつけてそれを蜂に抱かせた。蜂がささ身を抱いて飛び出す。彼らがそれを追いかけて、どこどこに向かったとトランシーバーで叫んでいる。見ると山の中に二人仲間がいて、合計4人ほどのチームである。

蜂はコヨリが重いのか、長くは飛ばずに枝や葉に停まってしまう。あるいはうまく山の中に飛んでいっても、人間が追跡出来なくなってしまう。彼らはまたささ身の所に戻って,ストップウオッチを見ている。3分47秒と一人が叫んだ。見ると先ほどマークした蜂がまたささ身を食べに戻ってきているのだ。3、4分だと2百メートルぐらい離れたところに巣があって、ささ身を幼虫に与えて戻ってくる計算などだそうだ。彼らはその巣を見つけようとしているのである。

いつか学術研究のためスズメバチの巣を探しているのをテレビを見たが、いわばその小型版である。彼らが学術研究のためでないことは人相風体から一目で分かるので、何のためかと聞いたところ、恥ずかしそうに、蜂の巣を捕らえて幼虫を食べるのだ、という。自分たちは蜂鷹ではないから生では食べられないので、佃煮のようにして食べるのだという。

一時間ほど様子を見ていたが、彼らはクロスズメバチの巣を見つけられなかった。まあ大人の遊びですよと言っていたが、見つけられたら蜂にとっては大災難である。私はこの可愛らしい、きまじめそうなクロスズメバチが、狡猾な人間の手を逃れて巣を護りきることを心から願った。

 

 

 

 

2015.10.9

跟孙子下棋

 

我没有儿子,可是因为我有两个外孙子,虽已过时机,但我还是体验了像培养自己儿子一样的乐趣。进入小学之前,他们主要关心的是车、恐龙和昆虫等。对玩具来说,他们希望有汽车和列车的模型等。在外边玩儿,他们喜欢捕虫子、打球踢球等。到我这儿,可以和我这个老爷一起玩儿,有时候指导他们,能保持面子。

上个星期的秋天连休, 进入小学的外孙子来到我家,拿来的是象棋盘和棋子儿,要求我跟他下象棋。看我周围的男人们大概会下象棋和围棋,比如我的弟弟、岳父、内弟,还有我的朋友。然而,我从很早,只是知道基本的规则,享受不到下围棋、象棋的乐趣。或许,我早就知道我没有这方面的才能,不喜欢输,就放弃了。

这次我接受孙子的请求,隔了好久,和他下了一次,好容易才赢了。然后在平板电脑上下载象棋的软件,让外孙子一个人玩儿。外孙子很高兴地一直玩儿,然而外孙子的母亲我的女儿,却要求我删除软件,而让我这个老爷做外孙子的下棋对象。她说跟老爷玩儿不仅是为了培养外孙子的精神,还是可以教给孩子遵守规则,尊敬对方的好机会。为此我不得不花了很长时间下棋。

虽然对手是外孙子,但是输了也不光彩,还有不能指导他更可惜。孙子回家后,我偷偷地买来了象棋入门书,不过,老人的学习哪能进步那么快呢。我的朋友说,他很希望教他的孙子下象棋,可是他的孙子完全没有兴趣,他很失望。看来人生不随心呀!

 

 

 

孫と将棋

男の子を持ったことがなかったが、こんど男の孫が出来たために思わぬ経験をさせられている。小学校に入る前は、車、恐竜、昆虫など絵本やDVD、遊ぶ道具では、ミニカー、ミニ列車の模型など。外で遊ぶには、虫取り、ボール蹴りなどで、ここまでは老人なりと言えども何とか面目を保つことが出来ていた。

上の孫が小学校に入って、この前の秋の連休に遊びに来たが、持ってきたのは将棋のコマと将棋盤だった。そしてお爺ちゃん将棋をやろうと誘われた。私の周りを見ると半分ぐらいの友人は碁や将棋を楽しんでいる。私の弟も妻の父も弟も碁将棋が好きである。ところが、私は昔から、碁将棋は基本的なルールを知っているだけで、これを楽しむことが出来なかった。多分、少しやってみて自分には全くその才能がないことを知ったからではないか。

孫の誘いに一度応じて、かろうじて勝った後は、タブレットに将棋のアプリを入れて、自分ひとりで楽しむように仕向けた。ところが孫がそのゲームに入り浸りになるものだから、孫の母親すなわち私の娘が、アプリを削除して、お爺ちゃんは自分で相手をしてやってくれと言う。じっくりと考える力や人間の間のルールを守る力を身につけさせたいのだと言う。やむなくまた相手をする羽目になった。

孫といえども負けるのは口惜しいし、やる以上は教えたい気もするので、孫が帰った後で密かに将棋入門書を買ってきたが、さてもともと才能のない老人の手習いで、どこまで上達することやら。一方、教えたいのに孫の方が一向にやる気にならないと嘆く友人も居る。人生はままならないものだ。

 

 

 

 

 

201510.2

电影《城南旧事》

 

我们现在在中文学校使用的教科书中最后一课课文的标题是《城南旧事》。《城南旧事》是林海音(1919-2001)在1960年发表的小说,1982年导演吴贻弓将其摄拍成电影。内容是以1920年,住在北京城南的一条胡同的少女林英子从6岁到9岁之间遭遇的3个故事组成的。

我还还没读过原著小说,不过被这篇课文触发看了这部电影。电影描写了上世纪二十年代的中国北京的平民生活和风景。3个故事的主人公全都是社会最低层阶级的人们,讲述了他们拼命挣扎生活的故事。不过,电影没具体地表现过分悲惨的场面,比如,登场人物惨死在火车轮下,登场人物的儿子掉进河里淹死、女儿被爸爸卖给别人的场面,只是在台词中叙说。

You-Tube播送的电影上没有字幕,要是听不懂汉语台词,就不能理解故事。正因为发生在北京的故事,所以登场人物说一口非常漂亮的标准话。这对学习中文的学生来说,可以说是最适合的电影。不过,我的听力还不够,我只依靠在教科书上写的非常简单的梗概,还有依靠能听懂的一部分台词,才能勉强地了解故内容,很遗憾。

对大多数的中国人来说,和这个时代相比,现在人们的生活水平更高了,可为何我对这个时代的中国,有同感和乡愁呢?我觉得这个时代以后特别是从八十年代开始的中国,进入了金钱主义、竞争激烈的社会,旧体制里的人们慢慢地生活,较安乐、宁静。说起衣食住吧,现在完全西洋化了,而当时胡同的餐食、服饰、人力车等的中国式的生活,肯定不方便,可是真的有中国的滋味儿,令人升起眷恋之情。

 

 

 

映画「北京の想い出」

いま中国語の学校で使っている北京語言大学出版による教科書の最後の課文の題は「城南旧事」である。「城南旧事」は林海音(1919-2001)が1960年に発表した小説であるが、1982年にによって映画化されてもいる。内容は1920年代、6歳の少女林英子が遭遇した3つの物語で構成されている。

私は小説は読まなかったが、この課文に触発されて映画を見た。1920年代の中国北京の庶民生活や風景が描かれていて、とても面白かった。3つの物語は何れも社会の低層階級の人たちが懸命に生きている物語なのだが、映画ではあまり悲惨な場面は描かれていない。登場人物が列車にひかれたり,登場人物の子供が水死したり、他人に売られたりする場面は、言葉で語られるだけである。

ユーチューブの映画には字幕が出ないから、台詞が聞き取れないと筋が終えない。しかし、北京の物語だけあって、言葉は標準語でとても聞きやすい。このように語学の勉強にもっとも適した映画なのだが、残念ながら私の聞き取り能力では、教科書に書いてあるごく短い梗概を頼りに、聞き取れたわずかな台詞と推定で筋を追うしかなかった。

大多数の中国人は、この時代よりもいまの方がずっと生活水準が高くなっているのだが、私たちが(今の中国人も)この時代の中国に、共感と郷愁を持つのはなぜだろうか。きっとそのあと、特に80年代以降の中国の金儲け主義とか競争の激しい社会に疲れてしまって、旧体制のゆっくりとした生活にある種の安らぎを覚えるのではないか。衣食住ともに,すっかり西洋化されてしまった現代よりも、不便ではあっても、胡同の住まい、中国服、人力車などの中国らしい生活に、味わいを感じ、懐かしさを覚えるのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

20159. 5

最近中文专业书店

 

隔了好久,我去东京神田神保町的中文专业书店。目标有3个。

一来,找恰当的《论语》教材,结果没找到。我认识的汉语老师,出版了《论语》的教材书,不过因为和我现在拥有的资料没有很大的差别,没买。中文的《论语》专业书很多,不过,注释越详细,教训、炫耀的味儿越大,不能继续学习。

二来,买最近被翻译成日语的北京大学出版的《中国的文明》的原本。在书店的网络上看有库存,不过,实际没有。我看了翻译本,才明白过来这本书对我过分专业,好像不能持续读。

三来,想发现最近发刊的有意思的小说。我最在意的是,得了诺贝尔奖以后,莫言有什么新作。因为获奖以后已经过去3年了,我期待他新的作品,不过,考虑莫言平时的言行,他不会那样简单地出版作品也想得到,再待一段时间吧。

现代小说家中现在最红的好像就是歌严苓。最近回中国的中国朋友做为礼物给我买来了一本歌严苓的小说。到现在我不知道她的名字,不过,书架上摆列着很多她的作品。从2004年到2008年的5年间,她是个从评论家到读者好像最受欢迎的女流作家。

书店的书架上,我发现了余华的十年首部杂文集《我们生活在巨大的差距里》。我读完了余华的《「兄弟」》、《活着》、《许三观买血记》、《第七天》和随笔《十个词汇力里的中国》。《十个词汇力里的中国》在大陆禁止出版,我读的是台湾版。此次的随笔集是在大陆出版的,还有书的封面纸带上,写着 从中国到世界,从文学到社会,以犀利的目光洞察时代的病灶,以戏谑的文笔戳穿生活的表象。这是当局的政策稍微软化了呢,还是余华稍微让步了呢?

总之如果余华或阎连科在中国国内不能活跃,我觉得中国的文艺界真的还没有开放、将来的发展也不会太大。连我都这样想,那有同样的想法的中国人应该多吧。淅淅沥沥翻阅余华的随笔,想读的心情涌上来了,买回来了一本。

 

 

 

最近の中国語専門書店

久しぶりに東京神田神保町の中国語専門書店を覗いた。目当ては3つ。一つは論語の適当な教材がないかと言うこと。これは結論から言って適当なものは見当たらなかった。以前「日中学院」で論語を習ったときの先生が、論語の教材(原文、現代中国語、日本語漢文読み、現代日本語訳、設問など)の本を出したが、いま持っている資料と大差がないので,購入しなかった。中国語の論語専門書は多いが、論語は注釈が詳しくなればなるほど、説教じみてきてしっくりこない。

二番目は、最近日本語に翻訳された北京大学出版の「中国の文明」の原書を買うこと。ネットでは在庫があることになっているのだが、実際にはなかった。ただ、翻訳を見る限り僕には少し専門書過ぎて、読む意欲がつづきそうもないものだった。

三番目は最近の小説で何かおもしろいものを見つけること。一番気になるのは、莫言がノーベル賞をもらったあと、いつ新作を出すかと言うことだ。あれから3年たっているのでもうそろそろ新作が出ても良いのではないかと思うが、莫言の日頃の言動を見る限り、そう簡単に手軽な作品を出すとも思えない。もう少し楽しみに待つとしよう。

現代小説家でいま一番ホットなのは、歌厳苓らしい。最近中国に帰った知り合いからお土産に彼女の「小姨多鶴」をもらうまでその名前も知らなかったが、本棚を見ると沢山の作品が並んでいる。2004年から2008年の5年間で一番評論家からも読者からも評判を取っている女流作家らしい。気が向いたときにいただいた本を読むことにしよう。

本棚を見たら「余華」の「巨大な格差のなかの我々の生活」という随筆集があった。私は余華の「兄弟」「活きる」「許三観売血記」「第七天」という小説や「十の語彙での中国」という随筆集を読んでいる。「十の語彙での中国」は大陸では出版を禁じられて、私の持っているのは台湾版だが、今回の随筆集でも帯に、「中国の文学から社会の病根に対して鋭い眼光で書いている」と書いてある。これが大陸で出版されたということは、当局が少し軟化したのか、余華が少し折り合っているのか。

いずれにしても余華とか閻連科が中国国内で活躍出来なくなったら,本当に中国はお終いだと僕でさえ想っているのだから,そう思っている中国人は多いはずだと思う。余華の随筆をぱらぱらと見て、読みたい気持ちが湧いてきたので、買って帰った。

 

 

 

 

 

2015.8.29

买盆牵牛花之后

 

今年我在入谷牵牛花市场买回来了一盆四色方形纸罩座灯构造的花。卖主说,他也不太明白这盆到底是什么颜色的4色花。实际上,它们开出了深紫、淡紫色、红色和白的花。可是因为是盆栽,所以和隔壁的矮树篱笆的牵牛花相比,花的气势无论如何也相形见绌。而且因为是盆栽,排水很快,这么炎热的天气,早晚必需要充分浇水,要不要马上就枯萎了。

这是某傍晚的事,我注意到在牵牛花叶上有个黑色的块儿,不过,想这是花枯萎后留下的痕迹、就放任不管它。没料到二、三日后浇水时突然看见几只小虫出现在叶表面。眨眼之间从叶背面爬到表面的虫子数增加到二百多只。仔细地看的话好象是五角形椿象的。我用喷水头猛烈地攻击,可它们拼命紧紧抱住叶子,怎么也不肯落到地面。在旁边生长的紫苏上,也有精灵蝗虫的孩子,它们也同样、既使用强的喷水也不能绝对地落下。虫类的附着力真的很厉害。

用网络试着调查的话,牵牛花上,常常附有椿象、螨虫类、蛾子的幼虫、蛞蝓等各种各样的虫类。在自然生长的植物上我们没注意到,不过,在这样盆栽的环境下,我们注意到虫类的活动很旺盛。椿象吃牵牛花的什么,吸什么?看来牵牛花的外形好象没有特别受到大的损伤。可是它们常住在嫩芽旁边、肯定给花做坏事。

我跟我家的植物员妻子商量,她说牵牛花是一年生的草,所以暂时只能这样,花凋谢后,如果它们还在牵牛花上,我们就把它们放跑到附近的草丛中。

在我家很窄的庭园中,虫类拼命努力地打算繁殖子孙后代,草类拔掉也必定再生长。住在独门独院的话必须与自然搏斗。我两年前输给了自然的力量,卖了乡下的土地,今后也许而再次输给自然而逃住进公寓的时期就要到来了吧。

 

 

 

鉢植朝顔のその後

今年は入谷の朝顔市で、「色取り四色行灯造り」の鉢を買ってきた。何色の4色が咲くかは売り手にも分からないと言う。実際には、濃紫、薄紫、赤、白の花が咲いた。しかし鉢植えだから、お隣の生け垣にくらべると花の勢いがどうしても見劣りする。それに鉢植えは水切りが良いので、この暑さでは,朝晩必ず水をやらなければ萎れてしまう。

ある夕方のこと、何か黒い塊が出来たことに気がついたが、花の枯れた残りでもあるかと思い放っておいた。二、三日後水やりをしたら葉の裏から何匹かの虫が表に現れた。見る間にその虫は数を増して、二百匹はあるかと思われる数になった。よく見ると五角形でカメムシのようだった。散水の勢いで地面に落とされまいと必死にしがみつく。そばにある紫蘇には精霊バッタの子供がいるが、これも水やりでは絶対に落ちない。虫のしがみつく力はものすごい。

ネットで調べてみると,朝顔には,カメムシ、ダニ類、蛾の幼虫、ナメクジなど実にいろいろな虫がつくようだ。自然に生えていると気がつかないが、このように鉢だと虫が狭いところに集まるので気がつくのであろう。カメムシは朝顔の何を食べ,何を吸っているのか。とくに新芽の辺り食らいついているので、きっとさまざまな悪さをしているのだろう。

我が家の植物・動物担当の妻に相談したところ、朝顔は一年草なのでしばらくはこのままにしておいて、花が終わったら、近くの草むらに虫を逃がしてやりましょうとのこと。我が家の狭い庭でも,虫は懸命に子孫を残そうと頑張っているし、草も抜いても抜いても必ず生えてくる。地面付きの一戸建に住むと自然と闘って勝っていかなければならない。そろそろ集合住宅住まいに,逃げこまないといけない時が近いような気がする。

 

 

 

 

20157.30

2015直木奖《流》

 

暑假的一天,女儿来电话说外孙子要来我家玩,所以我从早上开始剪草坪,设置家庭塑料游泳池,预先放入水晒热。外孙子来后不久就开始玩水,我向他们打水枪,他们反击,我只是急忙地稍微躲而已,我在左腿肚子的肌肉就拉伤了,痛得走不了。这种状况除不动静养以外别的治疗都没有,为打发时间,我让妻子买来本年度获得直木奖的《流》,在床上横卧着看。

作者是东山彰良,在日本有这个姓,不过,他出生于台湾,从9岁住在日本,是台湾人。《流》的舞台是台湾、中国大陆和日本。主人公一家由于国民党和共产党的内乱,被追从大陆迁移到台湾,不过,主人公的祖父1975年被什么人杀死了。祖父住在大陆的时候,有过杀害背叛同胞的日本的间谍的中国人一家的经历。主人公从17岁到26岁之间的9年间,追赶杀害祖父的凶手,是跨越三个国家的故事。日中战争,中国内战等的时代成为故事的背景。

我在上周的随笔“海街diary中已说,现在有趣的故事在同一国内一定不成立。确实这本小说的故事跨过了国家, 既有政治的故事,又有青春的故事,特别有意思。听说这位作家最近别的小说获得了某个新人奖,所以,可以说是位新秀。

获直木奖奖后接受采访时,作家回答说:做为故乡,日本或是台湾对我来说都不合适,我的故乡肯定是家属。他又说,从长辈那儿听来的话好像是这部小说的基本。那个时代以日本中国大陆台湾作为舞台的事情很多,而看起来与那个时代有关系的小说较少。我今后期待他的作品。

 

 

 

2015年直木賞受賞作品「流」

夏休みの孫が遊びに来るというので、朝から芝生を刈って、その上に家庭用プールを設け、あらかじめ水を入れて温かい日向水にしておいた。やがて水遊びになって,孫に向けて水鉄砲を命中させたら、反撃された。慌ててほんのちょっと飛び退いただけだったが、見事に左のふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。痛くて歩行困難になる。安静にして自然治癒を待つしかないと覚悟を決めて、今年度の直木賞「流」を買ってきてもらい,ベッドで寝ころんで読んだ。

作者は東山彰良と言う日本名だが、台湾に生まれ、9才から日本に住んでいる台湾人である。舞台は,台湾、中国、日本。主人公一家は国民党・共産党の内乱で大陸を追われて台湾に移り住んだが、主人公の祖父が、1975年何者かによって殺される。祖父は大陸で同胞を裏切った日本の間諜である中国人一家を殺害した経歴を持っている。祖父殺害の下手人を追って,主人公が17才から25才までの間に三つの国で活躍する物語である。日中戦争、国民党・共産党の内乱などの時代が物語の背景になっている。

私は先日今後は面白い物語は一国内では成立しないのではないかと予言した(海街diary)が、まさにその通り国を跨いだ物語である。この時代の政治の物語としても青春物語としても読ませるものがある。作者は別の作品で新人賞を得ているとのことである。新しい小説家が現れたと言ってよいだろう。

直木賞受賞インタビューでは「日本にいても台湾にいてもしっくりこない僕の故郷は、家族なのかも知れません」と答えている。インタビューによるといろいろと長老から聞いた話がベースになっているらしい。この時代の日中台を舞台とした出来事は,面白そうなわりには小説は少ない。今後に期待したい。

 

 

 

 

20157.23

防晒霜

 

上星期孩子们的全家聚集在一起祝贺我的生日。因为大家最方便的地方是品川,所以我们预定了在品川的中华料理店。我隔了好久去品川,在品川车站下车,从港南口出来,前面林立着很多高层大楼,景色为之一变,好像到了近未来的都市。

原来品川有品川凑,江户时供给生活物资的地方,也是东海道五十三个驿站的第一宿驿。在歌川广重画的“东海道五十三个驿站”的画儿上,画着诸侯的行列和品川凑内的几艘船的白帆。第二次大战后,很长的时间作为铁路的基地被利用,不过,最近作为大规模的商务街和住宅街被重新开发。今后面向2020年的东京奥林匹克运动会, 品川越来越变化吧。

上初中3年级的外孙女也来了,她从初中一年开始进入了垒球部。这次她说高中以后也打算继续参加。现在她是一垒手,击球顺序是第3号。我们全家人运动技能都不太高,她的兴趣爱好令大家很吃惊。不过,2020年的奥林匹克运动会来说,她的年龄正好,可能力还差的远呢。当天的聚餐会由于这个话题而热闹了好久。

对这个年纪的女孩子买什么礼物送给她才好呢,我估计不到。我回家之后,突然想出来送给她防晒霜最好,马上用邮件告诉她,她说真好! 这次我猜中了外孙女的想法。

 

 

 

日焼け止めクリーム

この6月は私の誕生日なので先週子どもの家族が集まって誕生祝いをしてくれた。みなが一番便利な品川の中華料理店で行ったので、久しぶりに品川に行った。品川の駅を降りると、港南出口の前は高層ビルが林立し景色が一変していて、いわば未来都市に降り立ったような感じがした。

品川は元はと言えば品川湊のあったところで、江戸町中への物資を荷揚げするところだった。また東海道五十三次の第一の宿場でもあった。歌川広重の描く「東海道五十三次」の絵には、大名行列と品川湊に浮かぶ何艘かの船の白い帆が描かれている。第二次大戦後は長い間鉄道や輸送の基地として利用されてきたが、最近大規模なオフィス街と住宅街として再開発されてきた。これからまた2020年のオリンピックに向けたますます変貌していくのであろう。

ところで集まった親族の中の中学3年になる孫娘は、中学1年の時からソフトボール部に入っているが、高校になっても続けるつもりだという。今はファーストを守っていて打順は3番というので、運動神経の良くない者の多い親族一同は、すっかり驚いてしまった。もちろん2020年のオリンピックに出られるようなレベルにはないが。ともあれ食事会はこの話題で盛り上がった。

この年頃の女の子には何を買ってあげたら良いのか,さっぱり見当が付かない。家に帰ってからふと思いついて日焼け止めクリームを送ってあげようとメールを打ったら,すぐにこれが欲しいと具体的に製品の指定があった。今回は彼女の思っているところへピッタリ、ストライクのボールが投げられたというわけだ。

 

 

 

 

 

 

20157.17

入谷牵牛花市



 

78,我去了东京入谷的牵牛花市场。在地铁日比谷线入谷站下车走,上地面,沿着言问道路这边的路旁摆着100摊床。夹隔道对面就是牵牛花市场,在两百米左右路段之间排列着120来个牵牛花的花铺。屋顶是用芦苇粗席临时搭建的。那个中心有入谷鬼子母神社,在鬼子母神社的院子内也有牵牛花铺。据说这里的牵牛花市场有66年的历史,每年的76783天聚集着40万多人。

这里的牵牛花种类很多,4色方形纸罩座灯构造牵牛花、曜白牵牛花、桔梗样牵牛花、西洋牵牛花、葫芦、琉球牵牛花等等。一花盆的价格从2000日元到5000日元。有的花铺还写着,通过协定,各个花铺的价格都一样,这是不是违反禁止垄断法呢?我稍微有点儿担心。

牵牛花是在奈良时代作为泻药由遣唐使从中国和另外药一起劳进的。在《万叶集》中也有5首牵牛花的歌,不过,据说,这不是现在的牵牛花,而是桔梗、木槿、葫芦等等。

牵牛花变成欣赏的对象是江户时代中期以后,从那时起进行了各种各样的品种改良。那么为何在入谷有牵牛花市场呢? 据说这里的土质好像很适合牵牛花的栽培,明治时代就有十多位花匠在这里开始栽培。入谷的鬼子母神社是江户初期的1659年创立的,与牵牛花没有直接的关系,不过从入谷的地区来着就好像有关系了。

这次我花2000日元和宅配费900日元购买了一盆4色方形纸罩座灯构造的花。在俳句的世界里,吟做蓝色的牵牛花的俳句很多,所以我想买4色中的一色是蓝色的,不过,因为有蓝色的花很畅销了已经卖光了。为了养好牵牛花,阳光、绕水、挟枯萎的花都是重要的事。好! 我好好儿求我家的植物管理员妻子吧。

 

 

 

入谷の朝顔市

東京入谷の朝顔市(7678日)に行ってみた。地下鉄日比谷線入谷駅で降りて地上に上がると、すぐに言問道りの手前側に約100軒の食べ物屋の屋台が並んでいる。道を挟んで向こう側が朝顔市で、長さは2百メートルぐらいあろうか。その中に120軒ぐらいの朝顔植木屋が並んでいる。屋根は葦簀張りの臨時のものである。その中心に入谷の鬼子母神がある。鬼子母神の境内のなかにも、朝顔屋が鉢を並べている。ここの朝顔市は66年の歴史があって、毎年3日間で40万人以上の人が集まるそうだ。

朝顔の種類は沢山あるが、ここでは主に「色取り4色行灯造り」「曜白」「桔梗咲き」「西洋朝顔」「夕顔」「琉球朝顔」「団十郎」などで、値段は一鉢2000円から5000円。協定により価格は同じです、と書いてあるところもあるが、これって独占禁止法に引っかからないのだろうか、少し心配になった。

朝顔は奈良時代に遣唐使によって中国から下剤の薬としてほかの薬と共に入ってきたとのこと。万葉集にも朝顔の花を読んだ歌が5首あるが,これは今の朝顔ではなく、桔梗とか木槿、夕顔であったそうだ。

朝顔の花が観賞されるようになったのは江戸時代中期以降で、それ以来様々な品種改良が行われてきたとのこと。入谷になぜ朝顔なのかと言えば、ここの土質が朝顔栽培に合っていたらしく、明治時代に十数軒の植木屋がここで朝顔造りを始めたかららしい。一方入谷の鬼子母神のほうは、江戸初期の1659年に開基されたとのこと。朝顔とは直接の関係はないようだが、同じ入谷にあることから関係が持たれたらしい。

私はとりあえず4色行灯造りを2000円、宅配便900円で一鉢買い求めた。朝顔と言えば俳句の世界では紺色を詠んだものが多いので、4色の中の一色は紺色である鉢を望んだが、紺から先に売れてしまうので売り切れとのこと。日光、水やり、萎んだ花がらを摘むこと、が大切だとのこと。我が家の植物管理係の妻に良く頼むとしよう。






               大輪や朝顔市に団十郎

 




 

 

 

 

20157.12

 “海街日记

 

629日隔了好久去电影院看了电影。题名是“海街日记,是枝裕和导演,绫濑はるか、长泽ますみ、夏帆和广濑すず主演的。

晃眼的阳光洒向夏天的一天早上,住在镰仓的三个姐妹接到了父亲的讣告。父亲已于十五年前离婚后,离开了家。不久母亲也再婚从家出去了。在父亲的葬礼上三个姐妹见到了同父异母的初中生的妹妹。妹妹的母亲已经逝世了,所以妹妹要跟父亲三婚的妻子一起生活下去。三个姐妹让妹妹搬到镰仓的家一起住。三个姐妹各自有工作,也各自有恋人。

到了外祖母的七周年忌,好久音信不通的三个姐妹的母亲也来参加了,姐妹的心摇摆不定。特别是老大很难宽恕母亲,可是她还是最终跟母亲和好,并说再见。

这个电影不过就是这样的平凡故事,没有特别高潮的场面,但是正因为漂亮的四个姐妹的日常生活是在镰仓宁静美丽的自然环境中展开的,那种让人七上八下的场面都没有,我能以平静的心情享受电影,很高兴。

现在大概的日本电影,以较少的费用拍摄日常生活中的微妙之处,小说和电影显得都一样。历史剧电影或历史小说能写出惊心动魄的日本故事,不过,现代的电影和小说却不能在日本发现世界中的观众喜欢的有趣的故事。这个理由也许是,国家之间的交流变得普通,在一个国家内发生的故事既不是大的故事,算不上惊天动地的大故事,也达不到惊险,刺激的程度。所以做日本电影的日本人不得不采用这种日常的事情做为电影的主题。

 

 

 

映画“海街diary

629日久しぶりに映画館で映画を見た。題名は「海街diary」。是枝裕和監督、綾瀬はるか、長澤ますみ、夏帆、広瀬すず主演。

まぶしいひかりに包まれた夏の朝、鎌倉に住む三姉妹の許に届いた父の訃報。父は十五年前離婚をして家を去った。やがて母も再婚して家を出た。父の葬儀の席で三姉妹は腹違いの中学生の妹に出会う。妹の母はすでに他界しており,妹はこの先父の再々婚の妻と一緒に暮らさなければならない。三人は妹に呼びかけて鎌倉で一緒に住み始める。三人の姉妹はそれぞれ勤めを持っており、恋人らしきものも持っている。

祖母の七回忌に音信不通だった三姉妹の母が現れて、姉妹の心は揺れる。母を最も許さなかった長女は、最後は和解して別れる。

このような物語で、とくに山場になるような物語はない。鎌倉の美しい自然の中で繰り広げられる美しい四姉妹の日常を描いたものであり、それ以上のものはない。それだけにドキドキすることもなく、穏やかな気持ちで映画を楽しむことが出来た。

今の日本の映画は、少ない予算の中小さな日常の機微を描く映画が多いように思う。小説も映画も同じようなことが言える。時代劇は映画でも小説でも日本を描いても立派に物語になり得たが、現代は物語として成立させるには、日本という限られた社会の中では不可能なのかも知れない。そうなるとこの映画のように、日常の出来事を丁寧に描く道が一番手っ取り早いのかも知れない。このような映画も良いが、やはり物語として面白く、ダイナミックな映画もあって良いと思う。

 

 

 

2015.7.2

偏爱孔子

 

我开始读《论语》全篇。日本也有贝冢茂树、金谷治、宫崎市定等关于孔子和《论语》的优秀专家。可是,读原文时,中国研究者的用汉语的注释最易懂。对每章的评析来说,中国的研究者可以比较纪元前6世纪的中国和现在的中国社会或中国人。用日语学习《论语》时,却没有这些论述,当然日本研究者的视点对日本读者很有效。

读孔子论,感觉最严格的是鲁迅孔子的批判。譬如鲁迅这样写。“···凡事总须研究,才会明白。古来常吃人,我也还记得,可是不甚清楚。我翻开史一这历史没有年代,歪歪斜斜的每上都写着"道德"几个字。我横睡不着,仔看了半夜,才从字里看出字来,本都写着两个字是"吃人"!”《狂人日记》。“总而言之,孔夫子之在中国,是权势者们棒起来的,是那些权势者或想做权势者们的圣人,和一般的民众并无什么关系····”

孔子通过重视仁、义、道、德、孝等,想保持社会的(封建体制)秩序。我理解对中国民众的现实感到绝望的鲁迅,对孔子的这样的保守主义,非常反对。不过,鲁迅应该理解孔子活动的期间是2500年前的纪元前500,当时中国只不过是小的国家集体,民众的水平很低的奴隶国家。所以孔子想通过提高国家领导的意识来进行改革,让民众的社会好起来。孔子重复说,当政者应该以爱、礼、仁的心情对待民众。我想鲁迅应该对中国的历史和文化给予敬意,不过, 好象不是那样。

鲁迅的活动是在1900年,我觉得鲁迅的《阿Q正传》在世界文学中也最出色的文学巨著之一,我对鲁迅观察人的能力非常地钦佩。同时我觉得鲁迅应该敬重2500年间持续给社会带来影响的伟大的思想家、教育家孔子。

我也反对把孔子做为神来对待(孔子自己也肯定拒绝),可是,连关羽都成为了神,还有连狐狸或岩石也能成为神,这是由于老百姓的自由心,是不是?嘿,这个那个地说,我肯定是个偏爱孔子的人啊!

 

 

 

孔子贔屓

「論語」を読み始めた。日本にも、貝塚茂樹、金谷治、宮崎市定などの孔子や「論語」の専門家がいて、その研究水準は高い。しかし、原文で読むには,やはり中国人の注釈が一番分かりやすい。章ごとの論評も現在の中国の社会に照らせば,という視点が分かりやすい。もちろん日本人には日本人に適した「論語」の読み方というのがあるから、これらの本も手放せないが。

「論語」と並んで孔子論を読んでいて、一番ショックを受けたのは、魯迅の孔子批判だった。たとえば魯迅はこのように言っている。「仁義道徳」という文字の間から「人を食う」という文字が浮かんでくる(狂人日記)」「・・・・つまり孔子様は中国においては権力者たちによって担ぎ上げられ,その権力者や権力者になろうという企てをもつ人たちの聖人で、一般の人には極めて縁の遠いものである」。

孔子は、仁、義、道、徳、孝などを重んじることを通じて、社会の秩序(当時は封建体制)を守ろうとした。中国民衆の現実に絶望した魯迅が、孔子のこのような保守主義に反対するのは分かるが、孔子が活躍したのは今から2500年前、紀元前500年である。当時の中国は小さな国家の集合体に過ぎず、民衆の知識水準は低かった。それ故に孔子は、為政者の意識を高めることによって、民衆の生活を改善しようと考えた。彼は繰り返し、為政者は、愛、礼、仁、の心を持って民衆に接しなければならない、と述べている。

魯迅は彼の生きた1900年代に立って、孔子の考えの是非を論じているらしい。私は魯迅の「阿Q正伝」は世界の文学の中でももっともすぐれた文学であると思っており、それを書いた魯迅の人間観察眼に大いに敬意を表するが、2500年間社会に影響を与え続けた自国の偉大な思惟家、教育者たる孔子に、魯迅は敬意を払うべきであるとも考える。

そうかといって私は孔子を神様扱いして祭り上げることには全く反対だ。孔子自身自分が悩み多い人間であると自覚し、生前弟子が孔子の考えを本にすることを拒否していた。しかしあの、関羽でさえ神様になる(関羽廟)のだし、時にはキツネでも岩でも神様になり得る。このようなことは民衆の遊び心だと言って良いのではないか。まあ、いろいろ言ってもどうやら私は人間孔子が好きなのかも知れない。

 

 

 

 

 

20156.25

中国漫画展

 

612日和往年一样,我们高中的同期会在东京小石川後乐园举办了。小石川後乐园在这个季节正是菖蒲花盛开。今年的菖蒲花比往年更漂亮,据说为了使菖蒲花开得更漂亮需要好水和阳光,不过,每年花开的状况不同,使人感到除了水、阳光以外,人难以意料的原因肯定存在。

我们每年在菖蒲花盛开的季节聚会,能鲜明地体现这一年的变化。去年一起赏观菖蒲花的同学今年没参加,要是由于他逝去或得病的原因,感觉非常悲伤和寂寞。另一方面,能来参加的人都非常精神健康,很高兴。

小石川後乐园的旁边有日中友好会馆,里面有美术馆,现在正举行着中国漫画展,我随便进去看看。这是有60幅作品的小展览,不过,对我来说,出乎预料感到很有趣。据说中国的漫画一般表示对世相的讽刺,这次展出的,有讽刺社会差距的漫画、好几台游览车围住蒙古包的漫画、有关独生子政策的漫画,还有夫妻吵架的漫画、假古董的漫画等,富有机智,我禁不住笑了起来。

也许统制越严厉越会产生这样出色的讽刺漫画吧,上有政策,下有对策,是中国的一句俗语,漫画好像就是一种这个对策的表现之一。

我问展览会的事务员,这些作品是不是都已经对大众公开? 他说是公开的,没有问题。我觉得为了维护政权,这样民意的“渲泄也是需要的。现代的日本讽刺漫画很少,是由于即使不使用讽刺形式,也可以直接批判政权的缘故吧。对社会来说,这样的自由很好,不过,自由的社会不能生产对抗的气势。

 

 

 

中国漫画展

 例年の通り小石川後楽園で高校の同期会があった。小石川後楽園はこの季節は花菖蒲が咲いている。今年は一段と見事であった。菖蒲に必要なものは水と太陽だそうだが、年によって良く咲く年と、そうでない年があるから、人智ではかりにくいものがあるのだろう。

  同じ処で集まると、去年は一緒に花菖蒲を見たが,今年は亡くなったり病気だったりで、会えないという人がいて、いっそう悲しくさびしく感じられる。その一方、参加出来る人はみなおどろくほど元気だ。

 小石川後楽園のとなりにある日中友好会館美術館で、今年は中国漫画展が行われていたので覗いてみた。60作品ほどの小さな展示だが、これが予想外に面白かった。中国の漫画は一般的に世相を表す風刺画のことを指すという。格差社会を風刺したもの、一つのモンゴルのパオをとりまく何台かの観光バス、一人っ子政策、夫婦喧嘩、偽の骨董品など、思わずうまいとうなってしまうような機知に富んだ漫画が出ていた。

 おそらく中国のような言論統制の厳しい国では、規制が厳しければ厳しいほど、このようなすぐれた風刺漫画が生まれるのであろう。上に政策あれば下に対策あり、という中国の箴言は、この場合でも生きている。

 念のため受付の人に、これは公表されたものか聞いたところ,公表されたものばかりだという。このぐらい批判させてガス抜きをさせておくことが、言論統制を続けるためには必要なのだろう。現代の日本に風刺の漫画が少ないのは、風刺しなくても自由に批判出来るからだと思う。社会としてはそれで良いのだが,風刺漫画という面では今の日本のものは物足りないのものばかりだ。

 

 

 

 

 

20156.18

西洋旋花 (Convolvulus )


 

对老人来说, 除草和剪草等修整院子的劳动很辛苦。怎样的理由不明白,今年,矮竹沿着篱笆突然长了起来,感觉麻烦。我家的庭园,自豪的东西都没有,不过,自己稍微满足的是,种有德国花菖蒲、 丁香和西洋旋花 (Convolvulus )

德国花菖蒲,是在我们老大的亲家,公公作为爱好之一栽培的。我妻子从他那儿得到了花苗便种植了,不过,几年前他去逝了,他家的花也被处理了,所以这种花只在我家茁壮地成长。盛开的季节老大一家都来我家很怀念地观赏。

丁香是40年前我们新建房屋的时候从花店买来的。原来只是高度15厘米左右的很小的苗,好几次枝条被雪压断了,不过,它仍顽强地生存,一到春天就开出紫色的漂亮的花,有时秋天再度开两三朵花。因为生命力很强,现在在庭园中心已长成1米左右高的一棵大玉样的树。

西洋旋花 (Convolvulus),一株是20年前我们在花店买后种在了篱笆下,由于阳光照射很好,不断蔓延。西洋旋花 (Convolvulus )有一年生草和多年生草,我家里的是多年生草,每年初夏便自然地开出紫色的漂亮的花。现在已沿着铁栅栏的篱笆,长成高度1米,横侧4米以上的花墙了。因为是旋花科,所以花朵每天开每天散落,在两三个月左右期间花朵每天一个接一个连续开放,我们每天必须清扫调解在道路。最盛期,沿路经过的人一定驻足赏观。为了翌年生育出精神的新芽,过了最盛期我们要大胆地修剪枝条,这很重要。西洋旋花 (Convolvulus )开花期一过,我们家的院子就一下子恢复到安静的状态。

 

 

 

コンボルブルス(西洋昼顔)

我が家の庭には、自慢するようなものはないが、自分でまあ満足しているのは、ジャーマンアイリスと姫リラ、それとコンボルブルス(西洋昼顔)である。

ジャーマンアイリスは、長女の嫁ぎ先の実家で、舅が趣味の一つとして栽培していたものである。妻がもらって植えたものだが、舅が亡くなって、家も処分したから、その株は我が家でだけ生き延びていることになる。花の季節には婿殿も来て、満足して見てくれる。

姫リラは家を建てた40年前に植木屋から買ってきたものである。元々は高さ15センチぐらいの小さな苗で、何度か雪に潰されて折れたりしたが、しぶとく生き残って春には紫のきれいな花を咲かせ、ときには返り花も咲かせてくれる。刈り込みにも強いので今や庭の中心で1メートルぐらいの珠株になっている。

コンボルブルス(西洋昼顔)も20年ほど前花屋で一株買ってきて垣根の下に植えたものだが、日当たりが良いのが良かったらしく大きく広がった。コンボルブルスには一年草と多年草があるが、我が家のものは多年草で毎年初夏に紫色の見事な花を咲かせる。昼顔科だから、一つの花は一日で散ってしまうが、次々に23ヶ月ぐらい続けて咲くから、毎日道の掃除をしなければならない。鉄柵の垣根沿いに高さが1メートル、横が4メートルぐらいになるから、最盛期には道行く人が足を止めてくれるほどだ。最盛期を過ぎると思いきって刈り込んでしまう。これが肝要らしく、翌年には元気な新芽を伸ばす。コンボルブルスが過ぎると、たちまち元の静かな平凡な庭になってしまう。

 

 

          昼顔の(まがき)に住みて三ヶ月









 

 

 

20156.11

蓝色的喜拉雅粟花

 

530日星期六天气很好,去箱根。在箱根大涌谷的火山正处喷发状态,禁止接近,可是我得箱根地区完全管理很好,所以到除了大涌谷以外的其它的地方可以说是安全的。

早上9点半从家出坐新干线到小田原,乘小田急电车到箱根温泉,坐箱根登山电车之下,再坐巴士,正午到了仙石原。比起往常来,少。在仙石原我先吃了当天早上采摘的新的笋、德活和蕨的天麸,然后去了箱根町立湿生花园。

里是1976年,以在湿原野、河、湖沼等湿地带种植花草植物中心而设立的植物园,除了200种湿地的植物以外,聚集了1500种的高山植物等。个植物园的最著名的特色是生长有蓝色的喜拉雅粟花。今天尽管知道大涌谷的火山还活动着,里就是了看粟花。

拉雅粟花最盛期好象去了,过还开着非常美的淡色的花。和一般的粟不同, 拉雅粟的种没有毒品的成分。据在世界上主要分布在尼泊、印度、不丹、甸、中国等喜拉雅周的非常限定的地域。它野生在从森林界限(32003600m)到雪冰不溶化的(50006500m)的高山地,在日本的平地栽培非常

看着蓝色的罂粟花,我联想起喜拉雅清澈湛的的天空,动极了。当天我任的向导的说明,除了喜拉雅粟花之外,还观赏各种空木花、荇菜花、花椒玫瑰、芦的平原等,我们了很愉快的3个小

 

 

 

青色ヒマラヤ罌粟(けし)

5月30日、天気が良かったので箱根に行った。箱根は大涌谷で噴煙活動が活発になっているのでそこには近づけないが、危険は良く管理されているのではないかと思って行ってみた。

9時半に家を出て新幹線で小田原まで。そこから電車を乗り継いで、宮ノ下からはバスで仙石原まで出た。さすがに人出はいつもの土曜日にくらべれば少なかった。まずは朝採りの筍、独活、蕨の天ぷらで蕎麦を食べてから、箱根町立湿生花園に入場。

ここは1976年に、湿原、川、湖沼などの湿地帯に生育している植物を集めて出来た植物園で、湿地帯の植物200種のほか、高山植物などが1500種ほど集められている。なんといってもここのうりものは、青いヒマラヤ罌粟である。今日大涌谷の噴煙活動を知りながらここに来たのも、この罌粟を見るためである。

ヒマラヤ罌粟は最盛期は過ぎたらしいが、それでも美しい空色の花を咲かせていた。青いケシは普通に見られる罌粟とは違う種類で麻薬の成分はない。世界で主に分布しているのはネパール、インド、ブータン、ミャンマー、中国などヒマラヤ周辺のごく限られた地域だそうだ。森林限界(32003600m)から雪や氷が溶けずに残る雪線(50006500m)までの間の高山帯に自生しており、日本の平地で栽培するのはとても難しいという。

ヒマラヤの空を思わせる美しい澄んだ青色で感動した。当日は選任のガイドの案内で、このほかにも、卯木、キスゲ、あさざ、山椒薔薇、蘆の原などを3時間かけて見たが、なかなか面白かった。




           片恋のはかなきヒマラヤ罌粟の青

 









 

 

 

20156. 5

电器割草机

 

电割草机的声音变得大起来了。这个机器是1990年买的,已经使用了25年了。到现在只换了两次齿轮,性能一直很好。不过,最近出了毛病,高的声音除妨害四邻的生活外,还有高速转动的8张齿轮,万一哪个折断飞散的话那不可得了要受大伤的,不能放着不管。我给制造公司打电话,不过打不通。不得已只能自己拆开,才查高音的原因。

为修理这割草机我准备了两天的时间,如果有两天,我可以做几首俳句啦,预习中文的《论语》啦,真可惜。不过我为自己辩解,过分埋头于特别的乐趣、既对身体又对精神都不太好,人生要歇口气。

拆开了我才知道机器构造很简单,不过,零件比想像得多,主要由上下两套刀刃、4个齿轮、固定轴、压缩发条、电动机、电容器、风扇、40个左右的螺丝螺母等等组成。分解查后,特别损坏的部分都没有。我觉得是4个铁制和塑料制的齿轮摩耗过大。所以细心地擦掉旧的润滑脂,涂上了新的润滑脂,反复进行试验后,重新组装好了。试运转,大的声音与分解以前完全一样。虽说这是我当初预料到的,但也大大地灰心了。

结果,白白徒劳地耗费了5个小时的时间和留下了厉害的腰痛,不过我得到了分解东西的乐趣。我从小就有对分解东西感兴趣的癖性。分解过表、自行车、收音机、母亲的缝纫机、姐姐的风琴、祖父的剃刀,其他数不过来。修好的也有,可是我觉得很少。特别感到心痛的是小学生时,毁坏了母亲的贵重的东西。

当晚,网购了新的割草机。我家的草坪最多10平方米左右。对为了1000平方米的水田,买一台耕种机的农民我笑不出来了。

 

 

 

電気芝刈り機

電気芝刈り機の音がかなり大きくなってきた。この機械は1990年に買ったものだからもう25年間使ったことになる。途中二度歯を交換したが、全く性能が変わらない優れものだった。音は近所迷惑になるほどだし、万一高速回転する刃が折れて飛び散ると大けがをするので、放って置くわけにも行かない。製造元に電話をしたが中小企業と思われるこの会社はすでに閉業していた。そこで異常音の出る原因を突き止めて、自分で簡単に手が打てるかどうかを調べてみることにした。

急いては事をし損じるので、2日間の時間を取った。2日あれば、いくつか俳句もできるだろうし、中国語の「論語」の予習も進むので、時間がもったいないとも思ったが、これには、あまり同じことに没頭するのも身体や頭によくないのではないか、という言い訳を用意した。

分解して行くと構造は簡単だが、思っていたよりも部品が多く、上刃下刃2セット、ギヤー4個、固定軸、圧縮バネ、モーター、コンデンサー、ファン、数多くのボルトナットなどから成っている。一見とくに破損した部品はない。考えられるのは4個あるギアの摩耗である。そこで入念に古いグリースを落として新しいグリースを付けて、何度かやり直して調整しながら組み立て直した。試運転。すると大きな音は全く分解以前と変わらなかった。当初に予想したこととは言え大いに落胆した。

結局、5時間ほどの時間を無駄に遣い、ひどい腰痛が残ったのが損失で、得たことはものを分解する面白さぐらいであった。実は私にはものを分解することを楽しむ癖があるようなのだ。少年時代からどのぐらいの機械を分解して壊したのか、ふと苦い記憶が蘇ってきた。時計、自転車、ラジオ、レコードプレーヤー、母のミシン、姉のオルガン、祖父のカミソリ、その他数えられない。分解して元に戻せたり修理できたものもあるが、数は少ない。とくに今でも心が痛むのは、小学生時代に母の貴重な機器を毀したことだ。機械油と食用油の違いが分からなかったからだが、それが毀したことの説明になるだろうか。

夜、ネットで新しい電気芝刈り機を注文した。我が家の芝生はせいぜい10平方メートルぐらいのものである。1000平方メートル(1反歩)の田圃のために、耕耘機を買うことを笑うことはできない。

 

 

 

 

 

20155.29

蓝色的玫瑰

 

现在是玫瑰盛开的季节,在各地都能欣赏到各种各样盛开着的玫瑰。查网络的话, 在全国大型的玫瑰园好象超过了100处。我这几年去过首都范围内的东京日比谷公园、新宿御苑、旧古河庭园、川崎生田绿地公园、横滨山下公园、看见港的山冈公园、镰仓文学馆等等。每个玫瑰园,都能与各地独特的自然和建筑背景很好地融合在一起,给人长久深刻的印象。

今年我试着去了位于从横滨站徒步走15分的横滨市区的“横滨英国花园”,这个花园因为在大规模的住宅展示场的旁边,从外边相当难注意到,不过是真正的玫瑰园。这个季节盛开着1200种,1700棵的玫瑰。还有除了玫瑰以外的,比如石楠花、薰衣草、八仙花等3000品种的草花植物。这里的特征是色彩块板,所有的草花按花的颜色排列种植---红色、黄色、白色和蓝色等。

各种玫瑰有著名的人的名字。红色:英格丽·褒曼,黄色:天津少女,白色:戴安娜王妃,蓝色:高木夫人等的玫瑰引起了我的注意。

说是蓝色玫瑰,其实不是真的蓝色,是紫色或紫藤花的颜色。听说玫瑰这种植物原本没有蓝色的要素,而是运用了遗传学的工程,从三色堇导入蓝色的基因而达到现在的颜色。那么说来, 郁金香中蓝色的也看不见。另一方面,秋天的水草,大概是蓝色。看着自然界中呈现的颜色,令人惊叹怎样做出这样的美丽的颜色。用科学的力量产生出自然界不可能形成的颜色,是不是好事呢? 不过,如果考虑到现在看见最多的樱花种类---染井吉野也是人工交配的品种,人类探求美的心情对自然界给予的影响, 肯定还是好事。

对了再说一句,自己家涂饰的修复,是我自己搞的。不过调和白、红、黑、黄色和蓝色的油漆,配出相似的颜色,每回都失败。

 

 

 

青色の薔薇

今は薔薇の季節で各地でいろいろな薔薇が咲いている。ネットで見ると大型の薔薇園は全国で100を越えているようだ。このうち首都圏で私が行ったことがあるのは、東京日比谷公園、新宿御苑、旧古河庭園、生田緑地公園、山下公園、港の見える丘公園、鎌倉文学館などである。それぞれの薔薇園が、背景の場所とか建物とよく調和していて、長く忘れがたい。 

今年は横浜駅から徒歩15分の市街地にある「横浜イングリッシュガーデン」に行ってみた。ここは大規模な住宅展示場の脇にあるので、外からはなかなか気がつきにくいが、本格的な薔薇園である。この季節は1200種、1700株の薔薇が咲き誇っている。また、薔薇以外の植物もシャクナゲ、ラベンダー、アジサイなど、3000品種あるそうだ。ここでは色彩計画に従って赤、黄色、白、青と色別に分類して植えられているのが特徴と言えよう。

薔薇にはそれぞれ有名人の名前がついているが、赤ではイングリットバーグマン、黄色では天津乙女、白ではダイアナ妃、青ではマダム高木などと名付けられた薔薇が気を引いた。

もっとも、青色と言ってもまだ本当の青色には遠く、紫色とか藤色といった色である。そもそも薔薇には青色の要素はないようで、遺伝子学の知識を駆使して、パンジーから青の遺伝子を導入してここまで漕ぎ着けたのだそうだ。そういえばチューリップにも青色は見かけない一方、秋の水草は、大概が青色である。自然の色を見ているとどうしたらこのような美しい色が出来るのかといつも驚嘆させられる。自然界にあり得ない色を科学の力で生み出すというのは、いいことなのかどうか。自然界のことは自然界に任せれば、という考えもあるが、桜の染井吉野が、人間の交配の結果であることを思えば、人間の美への探求心が自然界に影響を与えるのも良いのかなという気もする。

ところで私は自分の家の小さな塗装補修は自分でやるが、白、赤、黒、黄色、青のペンキを調合して似通った色を出すのに毎回失敗している。

 

 

 

 

 

20155.22

神田祭

 

听说今年是神田明神社迁位四百周年庆祝的年纪,所以神社举行了比往年更大规模的祭祀。,位于现在东京大手町的神田明神社创建于天平二年(730),日本的首都是在710年从藤原京迁到平城京(现在的奈良)的,就是说,这确实是座很古老神社。

江户城扩张时的1616,德川幕府第二代将军秀忠的时候,这座社从原来的地方迁位到了现在的外神田地区。以后这座神田明神社做为“江户城市的总镇守”,德川将军和平民们经常去参拜。

迁位400年的今年,主要的仪式第一是,神田明神社祭祀的三尊---大己贵命(大国主命)、少彦名命和平将门命,分别乘坐3台神轿,500人队列肩扛,巡游到同一氏族神祭祀的108个町内,第二是,200台以上的町内会的神轿从各个町内出发到神田明神社,做“宫入

当天我在御茶水站一下车就在圣桥路上看见几台神轿巡行着,真是人山人海。我有点儿担心能不能进入神田明神社,不过,随着人流有序地流动着,随着那个流动,不知不觉到达了神田明神社。院内挤满了“宫入的神轿和观看的人们。所谓“宫入”就好象是神轿参拜神田明神社的仪式,最后一定神轿旁边的人都拍三三七拍子的手。一个町内的人数大约是200多人吧,他们动作统一,成套的号衣也干净美丽。

我以前看到的三社祭,有只有女人担的神轿,不过,今天是男女混合扛着神轿。年轻的男女们共同协力扛着很重的神轿,确实让人觉得很清爽。

像神田明神社被江户的将军和平民喜爱一样,神田祭也真的受到东京的这个地区(千代田区,中央区等)人们的喜爱。还有路上既院内的货摊子也实在是多,而周围的人非常开心热闹。在日历上现在正是立夏,与神田祭一起,夏天到了。

 

 

 

神田祭

今年は神田明神の遷座四百年奉祝の年になるので、例年以上に大規模なお祭りになると聞いたので出かけてみた。神田明神は、天平二年(730年)今の大手町に創建された。710年が平城京(今の奈良)遷都だから、730年は実に古い。

その後江戸城が拡張されるにあたって、1616年徳川二代目将軍秀忠のときに現在の外神田の地に遷座した。それ以降「江戸総鎮守」として徳川将軍や庶民たちがしばしば参拝する神社になった。遷座400年の今年の主な行事は、明神様の三柱(大己貴命(大国主命)、少彦名命、平将門命)の乗った3台の御神輿と500人の行列が氏子108町会を巡り、町内会を祓い清める、町内会の御輿200台以上が神田明神に宮入する、その他一般の参加で趣向を凝らした出し物が披露される、ということである。

最寄りの御茶ノ水駅に降りると、聖橋通りには何台かの御神輿が巡行していて、大変な人だかりだった。さてこれで神田明神まで近づけるのかと心配になったが、人の流れは適当に流れていて、その流れに乗っていたら、いつの間にか神田明神に着いた。境内は宮入の御輿を担ぐ人やお付きの町内会の人で一杯になっていたので、脇から入ってみた。宮入というのは御神輿が神田明神に参拝する儀式らしく、その方式はまちまちだが、最後は三三七拍子の一本締めになるのが多い。一町内会の人数は御輿を中心に200人ぐらいであろうか、実によく統制されている。揃いの法被もかいがいしい

昔三社祭で担ぎ手が女ばかりの御輿を見たことがあったが、ここでは男女混成である。最近は女性の体格が良いから混成でも御神輿にぶら下がっているような感じはなく、堂堂と担いでいる。若い男女が力を合わせて重い御輿を担いでいる様は実に清清しいものだ。

神田明神が江戸の殿様や庶民に愛されたように、この祭も東京の中心の地区(千代田区、中央区など)の人に本当に愛された祭になっていることを実感した。沿道や境内の屋台の数も誠に多く、人で賑わっている。暦の上では今は立夏で、神田祭とともに夏が来た感じの一日だった。

 

      三代を継いで神田の祭笛

 







 

 

 

20155.15

亲笔书写的力量

 

黄金周因为孩子们的家属来,跟外孙子玩儿是第一优先的事项。真的想去的地方,连休以后人较少的时候去,对老人、既年轻的人,都是好的事。

所以今年的连休中,我只去看了两个展览而已。一个是在江户东京博物馆开的“大关原展”,第二个是在神奈川县近代文学馆开的“谷崎润一郎展”。

对“大关原展”来说,由于读过司马辽太郎写的《关平原》和池宫彰一郎写的《岛津奔走》等战争的梗概我已经知道了,在此梗概的说明省略,而以看展示物为主。展示物主要是表示战况的屏风、画卷物、武将的图像,还有茶叶罐、铠甲盔、大刀等。不过,最有趣的是文书,比如前田利家的带有血印的呈请文、直江兼续的书、石田三成的书信、德川家康的书信、德川家康的朱印书等等。

写的内容,大致已经在历史小说等读过,不过,重新看实物的话,根据字的大小,墨的浓浅、签名的字体、花押等能感到当时书写人物的振奋心情,令人感兴趣。在中国,项羽和刘邦的战斗延々持续了4年多,而关平原却以一日决定了胜败。这也许是因为日本的国土狭,也许是因为日本人淡泊的民族性。但是,事前的谋略战好象比实际的战斗用了更长的时间。

在谷崎润一郎展上,展示着最近找到的很多书信。因为展示物不能读全文,不过,通过这些实际亲笔写的信,我们可以知道他对文学的热情、坚强的自我意识、以及对妻子、女儿和妻子的妹妹浓厚的疼爱和担心等,令人感动。谷崎展,与我预想的有些不同,来看的年轻人很多。

关平原的武将的亲笔书信也好,谷崎的亲笔书信也好,看亲笔信一定令人感动。现在已到了用键盘书写的时代,今后将以怎样的办法给下一代留下感动人心呢?

 

 

 

直筆の威力

ゴールデンウイークは子どもの家族が来てくれるので、孫に会うことを第一の優先事項にしている。本当に行きたいところは連休明けの方が、若い人にも迷惑を掛けないことになろう。

というわけで今年の連休中は、二つの展覧会に行くだけにした。一つは江戸東京博物館で開かれている「大関ヶ原展」、二つ目は神奈川県近代文学館で開かれている「谷崎潤一郎展」である。

「大関ヶ原展」は、戦の大筋は司馬遼太郎の「関ヶ原」、池宮彰一郞「島津奔る」などで承知しているので、筋書きは別として、展示物に焦点を合わせて見た。展示物は、戦況を示す屏風・絵巻物、武将の画像、茶壺、鎧兜、太刀などだが、やはり一番面白いのは、前田利家血判起請文・直江兼続状・石田三成書状・徳川家康書状・徳川家康朱印状などの書状である。

書かれている内容は、大体歴史小説などで出ているものが多いが、改めて実物を見ると、字の形大きさ、墨の様子、署名、花押などから当時の書いた人物の意気込みが感じられて、興味が尽きない。しかし前にも書いたが、中国で項羽と劉邦の戦いが延々4年ほども続いたのに比べて、関ヶ原は一日で決している。日本の国土が狭いためか、淡泊な民族性のためか。もっとも事前の調略戦は実際の戦いよりも長くかかったようだが。

一方谷崎潤一郎展は、最近見つかった沢山の手紙から、彼の作品や人となりを見直そうという展示である。展示なので全文読むことは出来ないが、彼の文学に対する熱い思い入れ、我の心は我以外に知る人はない、という強い自我意識、妻や娘、はては妻の妹に対する細やかな気遣いなどが、実際の手書きの文章によって明らかになっている。谷崎展では、予想とは異なって、若い人が大勢見に来ていた。

関ヶ原の武将の直筆といい、谷崎の直筆といい、直筆だからこそ持つ力がある。現在はキーボードでものを書く時代になったが、これから先どのような形で次世代の心を打つものを残せるだろうか。

 

 

 

 

 

20155.8

燕子花

 

琳派是在桃山时代后期,由于本阿弥光悦和俵屋宗达始创,并在江户时代由尾形光琳(1716年死)而发展的一种日本画的派系。这派系使用金银箔为画面的背景,采用大胆的构图,反复使用纸型的图形等,有很多的技术特色。该派系以花木草花为题材的作品居多,但也有以有故事情节的人物画、鸟兽画、山水画、风月画和佛教绘画为题材的作品。

今年是琳派的代表画家尾形光琳的300周年忌,所以在东京和京都等地举办各种各样的展览会。424日我去东京青山的根津美术馆看了特别展说“燕子花和红白梅”。听说,当天,天皇皇后两陛下也来这家美术馆观赏。

在那儿展出的光琳的“燕子花图屏风”和“红白梅图屏风”都是国宝。我以前,在燕子花的季节,也是在这家美术馆,看过“燕子花图屏风”,在梅花的季节,在热海的美术馆看过“红白梅图屏风”。此次是隔了好久再一次欣赏,我同样被其很美丽的画面所感动。

欣赏画儿的方法有各种各样,其中,看完实物以后再欣赏画儿的方法很有趣,可以知道画家通过实际物感觉什么、感到什么。此次在这家美术馆的庭园里,早上正开着5棵燕子花。所以我能更深层次地欣赏该画儿。

 

 

 

カキツバタ

琳派(りんぱ)は、桃山時代後期に本阿弥光悦俵屋宗達が創始し、江戸時代に尾形光琳(1716年没)によって発展した。背景に金銀箔を用いたり、大胆な構図、型紙のパターンを用いた繰り返し、たらしこみの技法などに特色が見られる。題材は花木草花多いが、物語絵を中心とする人物画や鳥獣、山水、風月に若干の仏画を扱った作品もある。

ことしは琳派の代表的な画家尾形光琳の300年忌に当たるということで、東京や京都でいろいろな展覧会が開かれている。私はそのうち、東京青山の根津美術館で開かれている特別展「燕子花と紅白梅」を見に行った。あとで知ったことだが、当日424日は、天皇皇后両陛下がこの美術館に来られたということだ。

展示されている光琳の「燕子花花図屏風」と「紅白梅屏風」はともに国宝になっている。私は以前、カキツバタの季節に、「燕子花花図屏風」をこの美術館で、「紅白梅屏風」は梅林を見に行ったあと熱海の美術館で見たことがある。今回久しぶりに見て、改めてその華やかな美しさに感銘した。

絵にはいろいろな鑑賞方法があると思うが、実物を見たあとに絵を再度見ると、画家が何を感じ取るか、何を本質として捉えるかが分かって面白い。今回は美術館の庭園で、その朝今年初めて咲いた五輪の燕子花を見ることが出来たので、絵と実物を繰り返し見ることをやってみた。これによって、絵がより深く観賞出来たように思う。同時に自分のお粗末な感受性を思い知らされもしたが。

 



                 光琳の金の宇宙や風薫る





 





 

 

20155. 1

小林一茶

 

417日我去东京新宿纪伊国屋书店大厅看了剧团“こまつ座”演出的剧名为“小林一茶的戏剧。

小林一茶1763年生于北信浓,182765岁时去世了,是江户时代末期活动的俳句诗人。他打算以俳句为生来维持生活,不过,不像他尊敬的江户时代前期的松尾芭蕉(1694年去世),他没成功。他一半在江户隅田川地区,一半在故乡北信浓,做俳句和主宰俳句会。当时,优秀的俳句人,可以用他教授的人的捐款来维持生活,可是,一茶不会处世,不能做到。

他的俳句风格独特。与芭蕉俳句的“寄物陈思、借景抒情”相比,一茶的俳句是直接抒情,是很平民性的、加油弱者的、人情味溢出的俳句。现在的俳句诗人中喜爱芭蕉俳句的人压倒性居多,不过,金子兜太,现代的代表的俳句诗人,喜爱小林一茶的俳句。

6月我们的俳句结社就要在一茶往时住过的流山市举办俳句会。我稍微读了一茶的俳句和关于他的书,可不明白的部分很多。所以,我想借这次偶尔上演的戏剧,抓住他的为人。

我隔了好久才看了在这样较小的剧场里演出的戏剧。当天尽管是平日的白天,可座位爆满,让我感到吃惊。演出的演员是年轻人,可观众可以说只有老人。最近除了超年轻人的表演和体育观战以外,平日白天观看演出的人大概是老人吧。

看了3个小时的戏剧我觉得自己的精力和体力,还很充沛,很高兴。可是,关于一茶,看完戏剧以后,还是什么都不能清楚地抓住。

 

 

 

小林一茶

417日東京新宿の紀伊國屋ホールで、こまつ座の「小林一茶」という劇を見た。

一茶は1763年北信濃に生まれ、182765歳で死亡した江戸時代末期に活躍した俳人である。彼は俳句で生計を立てることを夢見、尊敬する松尾芭蕉(1694年死去)のようになろうとしたがかなわなかった。彼は半生を江戸の隅田川の近くで暮らし、半生を故郷北信濃で俳句の主宰などをやって暮らした。当時優秀な俳人は俳句好きの金持ちの庇護を受けたり、金持ちの門弟の寄付献金で生活を保っていたが、一茶は遂にそのような業俳(職業俳人)にはなれなかった。

彼の俳句は独特の味がある。芭蕉の、「物に寄せて思いを述べる」「景を借りて心を述べる」といういわば万葉集以来の正統なやり方にくらべて、一茶のは直接に心を述べる俳句、庶民的であり弱者に加勢する俳句、人情味溢れる俳句ということになる。今の俳人に聞くと、江戸時代の俳人のなかではほとんどの人が芭蕉が好きだと答えているが、現代を代表する俳人の金子兜太は、一茶が好きだと答えている(俳句のある人生(文藝春秋))。

この6月私の属する結社は、一茶が住んだことのある流山市で俳句会を開くことになった。そこで少し一茶の俳句と彼についての本を読んでみたが、良く掴めない。たまたまいま舞台劇「小林一茶」(作井上ひさし)が上演されているのを知って、劇を見て彼の正体を掴んでやろうと思った次第だ。

久しぶりに中規模の劇場で劇を見たが、平日の昼間にもかかわらず満席なのには驚いた。観客はほとんどが老人である。出演者はみな若いのだが、観客は老人である。これは若いアーティストのコンサートやスポーツ観戦などを除いて、現代のごく一般的な様相ではあるが。

私も老人の一人として、まずは3時間の観劇が出来る気力体力があることをうれしく思う有様だった。一茶について何かを掴むというにはほど遠かった。

 

 

          一茶いま昼寝や紀伊國屋ホール





 

 

 

 

20154.25

日本古代史

 

现在去书店时,我们看见在书架上排列着很多日本古代历史书。原来日本人很喜欢读古代史,而最近好像喜欢读古代史的人越来越增加了。我想起了3年前,开始学《古事记》时的事。在文化中心的教室里有10个学生,老师说:10年前开了同样的讲座,当时的学生只有5个人。对我来说,10个学生很多,谢谢你们来听! 现在这讲座的学生增加到了20多人。

这次在这个文化中心开了新的讲座《日本书纪》。据说在大学日本文学科的新生中,做为专业课,希望学习《万叶集》的学生最多,接着是《古事记》,而《日本书纪》最没有人气。这次的《日本书纪》讲座定员是40个人,已经满员了。

我也参加了。参加的人,还是女性多,不过,男性占二成左右。我觉得比起以前来,听这样的文学历史讲座,男性增加了许多。俳句会也同样, 男性渐渐增加了。

根据高桥睦郎先生说,对诗歌来说,本来以女性爱好者居多。多年来,男性夺取了女性的爱好,所以现在的女性增多的现象也是当然的。

学习古代史的话,我们重新知道从国家开始以来,日本与中国和韩国的关系就非常密切。这两个国家有时候是日本的老师,有时候是竞争的对手,还有时候是作战的敌国。也就是说,这一千五百年来经常有友好关系,紧张关系和敌对关系。如果从天空看,日本海好像是三国的内海。用别的词汇说,是一衣带水之地。从地缘政治学来看,三国之间有复杂的关系也是当然的事。

现在的紧张局面也是一种历史上的一个侧面,不能完全解决,今后这样的关系还会发生的。不要太神经质,只要不开战就可以了,需要冷静的对应。

 

 

 

日本の古代史

今本屋に行ってみると、日本の古代史に関する本がずらっと並んでいる。日本人はもともと古代史が好きだが、それにしても最近はますます好きな人が増えているみたいだ。私は今から3年ぐらい前から、「万葉集」、「古事記」、「日本書紀」を読んでみようと思いついて、カルチャーセンターに通い始めた。わずか3年前だが、当時は受講生は今ほど多くなかったと思う。ある古事記のクラスでは広い教室に10名ぐらいがいたが、先生は10前に同じような講座を開いたときは、聴講者が5人ぐらいしかいなかった。10名というのは私にとってはまことにありがたい数字だ、と言われた。その「古事記」を読むクラスはいまも続いているのだが、20名ほどに増えている。

そのカルチャーセンターでは今度「日本書紀」の講座を開設した。大学の国文学科の新入生の中では、「万葉集」専攻希望者が断然多く、次は「古事記」で、「日本書紀」は一番人気がないという。ところが今回の講座の受講生は、40人定員が一杯になった。

参加してみると相変わらず女性が多いが、男も20%ぐらいはいる。歴史・文学の講座に男が増えたというのも近来の傾向だと思う。俳句の句会でも、少しずつではあるが男の割合が増えている。

もっとも高橋睦郎氏によれば、詩歌は本来女性のものだった、それを男性が長年奪っていたのが、最近ようやく女性のもとに戻ったというのだから、女性が多いのは当たり前だということになる。

さて古代史を勉強してみると、改めて日本は、中国、韓国と深い関わりがあったことが分かる。その関わり方はときに中国・韓国を先生として学び、ときに対等として競争し、ときに敵として戦う、と様々である。網野善彦氏が言うように、遙か上空から俯瞰すると日本海は、日本、韓国、中国に囲まれたいわば内海のようなものであることが分かる。三国はいわば一衣帯水の地である。このような国の間に、いろいろな問題が起こるのは地政学上やむを得ないことだろう。

現在の緊張関係も長い歴史の一側面で、完全に解決されることはあり得ず、今後も絶えず問題が発生すると思う。お互いの政府は絶対に戦争だけはしないということを守って、あとはあまり神経質にならず、冷静にことに当たるべきだと思う。

 


 
                  若菜を摘みゐる娘子に我こそは大王と呼びかくる雄略天皇

       万葉集巻一の一若菜摘む







 

 

 

 

20154.16

看醍醐寺樱花

 

43日,据天气预报,京都是从下午开始要下雨。由于现在是樱花最好的季节,无论如何也要去,所以决定去。目的地是好久就想去的京都醍醐寺,如果有时间,还想去东山地区的清水寺周边逛逛,这次是当天去当天回来的小旅游。

坐新干线到京都车站,换乘电车到了山科站,又换乘地铁向醍醐寺方向去。一到达醍醐站,眼前马上就出现了醍醐山,山脚中有醍醐寺。醍醐寺的樱花,一般认为做为寺院的樱花在日本第一,我想真的是不愧其名。奥村土牛描绘的醍醐樱不用说,另外的很多种类的樱花也竞相开放,特别美丽。据说这里有1000多棵樱花树。

重建醍醐寺的丰臣秀吉,1598420日在醍醐寺三宝院背面的山麓上召开了赏花会。在那里聚集着1300多名诸侯的侍女等,又举行了和歌会。现在还留着秀吉、秀赖、前田利家、北政所、淀君等人做的和歌。寺内展示着他们做的131首长条诗笺。我们在欣赏美丽的樱花和这些和歌时,能想像出当时华丽的情景。

举行和歌会也好,开茶道会也好,秀吉这位不是单纯的发迹乡下人,而是位出色的有感性的人吗?我觉得这样的“演出,只有独裁者可以做,而在民主主义下,在严格的民众眼下是不能推展下去的。这就是说,赏观樱花还涉及着文化、历史的背景。

接着乘坐地铁、京阪电车到了清水五条站,外边下雨了。清水寺的樱花是山樱,嫩叶已经出来了,从平台上面我们能欣赏到远景的樱花。回来时通过三年坡、二年坡向高台寺。如果不是下雨,也想去看看哲学之道、平安神宫、圆山公园等地的樱花,不过,此次由于饱享了长年想看的醍醐寺的樱花,我们满足地地返回了。

今年,我看了新宿御苑、目黑川、醍醐寺、清水寺的樱花。如果有适合的日程,还想去看位于长野县的高远城的樱花。这也许是接近老年,想看樱花的心情越强起来吧。

 

 

 

醍醐寺の桜

4月3日、天気予報によれば京都は午後から雨。しかしどうせ行くなら桜の季節にしたいと思い思い切っていくことにした。目的地は醍醐寺。あとは時間があれば清水寺周辺を見る日帰り旅行。

京都から山科に出て地下鉄で醍醐寺へ。醍醐駅に着くとすぐ目の前に醍醐山があってその麓に醍醐寺がある。醍醐寺の桜は寺の桜としては日本一だと言われているが、その名に恥じないと思った。奥村土牛の描いた醍醐桜はもちろんだが、ほかにも沢山の種類の桜が美しさを競っている。その数は千本はあるそうだ。

醍醐寺を再建した秀吉は、1598年4月20日、醍醐寺三法院の山麓で花見の会を開いたが、侍女や大名の侍女などが1300人集まったとのこと。また歌会も開かれたが、その時の秀吉、秀頼、前田利家、北政所、淀殿、女人衆などの131の短冊が残っていて展示されている。桜があって、そこに歌があればこそ、その折りの、華やかな情景を想像することが出来るというものだ。

歌会といい茶席といい、秀吉は単なる田舎者ではなく美への理解が深く、優れた感性の持ち主だったのではないか。もっともそのような振る舞いは、独裁者でなくては出来ない相談で、民主主義下では、民衆の目がうるさく突出したことは出来ない。どこの国でも歴史に残るような文化遺産は、専制国家の時代に生まれたものが多い。桜も背景の文化や歴史を知れば、味わいが増すというものだろう。

地下鉄と京阪電車を乗り継いで清水五条で外に出たら雨だった。小雨の中を清水寺へ。清水寺の桜は山桜で、若葉がすでに出ている。それを舞台の上から遠景で見る。帰りは三年坂、二年坂を通り高台寺へ。雨でなければ、哲学の道、平安神宮、円山公園などの桜も見たかったが、今回は醍醐寺を満喫したことでよしとして、帰ってきた。

今年は、新宿御苑、目黒川、醍醐寺、清水寺の桜を見たことになる。このあと日程が合えば、長野の高遠城に行くつもりだ。この世の見納めが近いという気がするのだろうか、いつもの年よりも桜を見たいという気持ちが強い。

 

          醍醐寺の秀吉となり花惜しむ








 






 

2015.4.10

学习《论语》

 

现在我开始读《论语》。关于《论语》,小学生的时候,我跟同居的祖父每天早晨朗读。此后在高中的古汉语的课上也学习过,另外3年前在日中学院听过中文老师的讲解,不过,都只不过是一部分,没有学过全篇。

从年龄来看, 接近学习中文毕业时期的现在,我决定做为学习的终点目标,读完《论语》的全篇。因为《论语》详细学习的话,学习没有限度,所以我以两年做为读完的目标,而设计学习方案。论语由20492章组成,需要1次读10章。为此以接受中国老师的指导,大声朗读原文和现代语译为重点。关于内容,我能自己学习中国和日本论语学者的见解注译。

现在我自己预习到了第6,到这里,我感觉到与以前自己对孔子的思想的理解不同,孔子的想法中也有很多他还没确立的、随机变化的、甚至是迷惑的。他不一定是仁、德、义的人。我想之所以产生误解,是因为到现在为止选读的,只有典型的儒教的精典教导章。

因此我感到我应该先知道孔子生平(纪元前479年死)。孔子论也有很多,我选的是司马迁(纪元前90年死)《史记》中的《孔子世家》篇。从年代来看,司马迁与孔子较近,还有他是“汉”决定以儒教为国教的同时代的人。为了了解孔子学他的文章最合适吧。等了解了孔子这个人,然后再回到学习《论语》,就大概了解全面吧。

因为《史记》也是古文,需要读原文和现代汉语注译。我选学习《论语》是想把它做为学习中文的最后课本。现在我感到越来越进入学汉语的深奥部分。当然也有途中投降退却的可能性。

 

 

「論語」を読む

「論語」の講読を始めた。「論語」については、かつて小学校のときに同居していた祖父から毎日素読をさせられた。その後は多分高校の漢文の授業で習ったことがあり、また3年ほど前に日中学院で講読したことがあるが、いずれも一部分を読んだだけで、全文を読んだことがない。

年齢から言って中国語の勉強を卒業する時期が近付いている今、勉強の仕上げとして「論語」の全文を読んでみることにした。「論語」の勉強は詳しくやるときりがないので、2年間で完了する、という目標を立てて、それに合わせて勉強方法を考案することにした。「論語」は20492章から成っている。2年で終わらせるには110章以上を読むことが必要である。そのためには原文、現代語訳を、中国人の先生の指導を受けながら、大きな声で読むことに重点を置き、内容については中国、日本の論語学者の説を自分で勉強する、という方式を取ることとした。

いま自分で予習を第6篇まで進めてきたが、ここまで来て感じたことは、孔子の考え方は今まで私が思っていたこととは違って、必ずしもしっかりと確立されているわけでもないし、ときには臨機応変に変化する。迷いも多く、決して礼、仁、徳、義を身につけた人間とは思われないところもある。多分今まで読んだのが、典型的な儒教の教えを示す章ばかりだったので、誤解が生まれたのだと思う。

そこで「論語」を勉強するためには、まず孔子(紀元前479年没)について知っておく必要があると感じた。孔子論もまた数多く書かれているが、とりあえず年代的にもっとも孔子に近く、また漢が儒教を国教と定めたといわれる前漢末期から後漢の同時代の人である司馬遷(紀元前90年没)の「史記」の「孔子世家」篇を読んで、それからまた「論語」に戻ることにした。

「史記」もまた古文であるので、原文と現代語訳を読む必要がある。ということで中国語から足を抜こうとして始めたが、かえってますます深みに入っていく恐れがある。もちろん途中で降参する可能性も十分にあるが。

 

 

 

 

 

20154.4

三溪园

 

32日我隔了好久去了横滨的三溪园。这里是明治初年,做缫丝·生丝贸易的横滨实业家建造成的日本庭园。聚集着京都和镰仓等的历史建筑物和与四季的自然调和的景观成为庭园的看点,现在是水仙花结束后梅花正好看的时候。

在古民房上,陈列展示着大正和昭和时代的女儿节的偶人。看着第二次世界大战以前的偶人,我禁不住感叹,它们有幸避开了空袭的灾祸,得以保存下来。

在卧龙梅的梅园前有一家叫初音茶屋的茶馆,吊着100年前庭园开设时的古锅,用柴火烧白开水,店主请我们喝了麦茶,味道清秀,别具一格。有名的作家芥川龙之介的俳句,喝了稍微的茶粉浮起的白开水,在安静的秋天里 写在标识板上。在园中央的大池里有三十只野鸭子,有名的俳句诗人高滨虚子的俳句碑立在旁边,上面写着 从野鸭子的嘴里滴答答地流涎着春天的泥”。传统俳句派的创始人虚子也是改革俳句的人。真的,我想这首刻在碑上的俳句,还有现在新鲜的气息。

在点茶的座位望塔亭,我隔了好久品尝了正宗日本式的点茶。因为忘记了茶道的礼法等,所以趁着没有人,我想再学习一遍。大概的程序是,“喝茶之前先吃点心,老师倒茶的时候向老师鞠躬行礼,把茶碗放在左手掌上,按顺时针方向稍微转一下,茶碗里的茶要分三四口喝完,然后把茶碗按反时针方向再转一下,向老师鞠躬行礼等等。

座位前有池子。我喝完茶后感觉很舒服,外面的景色也感觉更安静、更深化。

 

 

 

三渓園

3月2日、久しぶりに横浜の三渓園に行った。ここは明治初年に製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家が作り上げた日本庭園である。京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物と四季折々の自然とが調和した景観が見所となっている。いま花は水仙は終わって梅が見ごろだった。

古民家では、大正、昭和時代のお雛様が飾ってあった。戦前の雛を見ると、良くもあの長い戦争をくぐり抜けてこられたものだ、という感慨に襲われる。

臥龍梅の梅園の前には初音茶屋という茶屋があって、100年前の開園当時の古釜をつるして、薪で白湯を沸かし、麦茶ふるまっている。芥川龍之介の「ひとはかりうく香煎や白湯の秋」という句が標識に書かれていた。園中央の大池には鴨がいた。大池のほとりには高浜虚子の「鴨の嘴からたらたらと春の泥」という句碑が建っている。正岡子規からホトトギス派を継承した虚子は、伝統俳句派といわれるが、実は俳句の革新者でもあった。この句は斬新であり、今なお新鮮だと私は思った。

茶席望塔亭で久しぶりに茶席のお茶を味わった。お茶の作法などは忘れているので、人が少ないのを良いことに初めから習ってみた。そのおおよそは次の通りだ。

「お菓子を食べる、先生にお辞儀をする、茶椀を時計回りに2度回す、三口か四口で飲む、茶碗の縁を拭く、反時計回りに二度回す、茶碗を鑑賞する、先生にお辞儀をする」。

茶席の前には池がある。その景色は変わらないのだが、お茶を飲んだあとには落ち着いた気分になり、景色もいっそう静かな深いものに感じられた。




          長い長い戦争雛も戦へり

 

 

 

 

 

20153.21

读完残雪的《最后的情人》

 

这篇长篇小说登场人物不多。

:服装公司销售部的经理,工作了10多年了,非常喜欢读书。文森特:服装公司的老板,白头发,刚满60岁。马丽亚:乔的妻子,50,喜欢织挂毯。丽莎:文森特的妻子,乔伊那的妹妹。丹尼尔:乔·马丽亚的儿子,17,上寄宿学校,不再上学了。热尼亚:俄罗斯女人,马丽亚的朋友,40岁到53岁。后来跟丹尼尔一起行动。里根:50,南方的橡胶园农场主,和乔签了合同。里根的农场有个别名叫孤儿院”,因为农场里的大部分职工都是孤儿。埃达:亚洲女子,定居在里根的农场里,和里根夜夜交合。乔伊那:在赌城的旅馆清扫工。金夏:里根将事物都交给了他,能干的经理,优秀的管理员国籍不明白。他农场的领地的多半掌握,找好了替代他的人后就离开了。

登场人物有明确的特征,不过,故事很难懂。作家残雪在代序里自己也写道:“对于一般读者来说,也许这是一部有些奇异的小说----无视常规,放荡不羁而又过分空灵。

全部的故事不能简单地捕捉,不过,各个部分都有非常有趣的话,因希望知道话题的展开,终于通读到了最后。特别因为书名是《最后的情人》,我期待最后出现“情人,让故事一下子清楚化,不过,结果这样的人没出现,到最后也不懂。

著者到现在为止已写了数篇长篇小说,被翻译成欧洲各国语。其独特的象征主义作品的风格好象受到了国内外的关注。 对我来说,中国小说的优点是情节展开得既大又很快。可是,此次的是登场人物的梦、邪念和幻想互相缠绕的小说,好像不适合于我的爱好,而且以我的汉语水平,还不能完全理解。

 

 

 

最後の情人を読んで

この長編小説の登場人物は多くない。

ジョー:服装会社の営業部長、10年以上勤務、本を読むことが特別に好きな人物。ヴィンセント:服装会社の社長、白髪で60歳。マリア:ジョーの妻、50歳に近く、掛け絨毯を編むことが趣味。リサ:ヴィンセントの妻。ダニエル:ジョーとマリアの子供。17歳、寄宿舎に入るが学校に行かなくなった。ルニア:ロシア人、マリアの友人で年齢は40歳とも53歳とも。後にダニエルと一緒に行動する。リーガン:50歳、南方のゴムの木農園の主人。ジョーと作業服の契約をした。リーガンの農場は別名孤児院とも呼ばれている、農場の職人の大半が孤児だからだ。アイーダ:アジア人、リーガンの農場に住み着き、リーガンと夜な夜な情を結ぶ。ジョイナ:賭博市の旅館の掃除婦。チンシア:リーガンは彼に事務を任せていた。有能な経理マンであり管理者、国籍不明。彼はいつの間にか農場の大半を自分のものにして、管理は人に任せて立ち去る。

登場人物は明確な特徴を持っているが、物語の筋はむずかしい。著者の残雪自身が前書きの中で、「一般の読者にはおそらく変わった小説、常規を無視し、放縦で拘束されず、変化に富んでとらえがたい小説と思われるだろう」と述べているほどだ。

全部の筋を追うのはむずかしいが、部分部分はとても面白くて成り行きが知りたくなり、ついに最後まで読んでしまった。とくに題名から言って、誰か最後の情人が現れて、その人が筋を完結してくれるのかと思ったが、そのような人は現れず、私にとっては最後までよく分からない小説だった。

残雪はいままでに数冊の中編小説を書き、ヨーロッパ各国語に翻訳されている。彼女の独特の象徴主義的な作風が国内外の注目を浴びているようだ。 私の考えでは、中国の小説は、展開が大きくかつ速いのが良いところだ。しかし、この小説に関しては、登場人物の夢、邪念、幻想と現実が錯綜していて、今まで読んだどの中国小説とも違う。私の頭と語学能力では対処できなかったというのが本音のところだ。

 

 

 

 

 

20153.13

某家中华饭馆

 

这个春节的星期六,我在比往年更热闹的横滨中华街的关羽帝王庙附近的一家中华料理店吃了午饭。这家店是1973年开张的,已经过了40年以上的北京菜店。这家店的创业者是获得芥川奖的作家杨逸的舅舅(母亲的哥哥)。根据杨逸说, 1987年她之所以作为留学生来到日本,是因为在日本的舅舅用美术明信片等写寄的日本的消息使她无论如何希望来到日本学习。

杨逸的一家住在哈尔滨,不过,1940年左右在中国共产党军与国民党军爆发内战时,舅舅和地主的外祖父一起逃跑远渡到了台湾。舅舅结婚以后来日本,在横滨中华街开了一家点心店,以后改成饭店。他妹妹就是杨逸的母亲留在哈尔滨并结婚了。杨逸的父母一家被下方吃了苦。

由于各种原因,音信不通的状态持续了40多年,改革开放后才互相知道了彼此的状况。现在这家饭馆的经营者,是杨逸的堂兄弟姐妹。我那天跟一位经营者谈了一会儿,听说一位堂妹现在是国际关系论的学者(陈天尔大学教授)

我从杨逸那儿听说过这家饭馆,不过,到现在没有机会去。可是现在知道了被历史的流动播弄,而克服很多困难的家属的情况,非常令人感动。

当天创业者的夫人穿着漂亮的衣服,来到这家饭馆,坐在一角看了店的情况。那场面与在电影看到的上海的旧的店的主人的行动相似,非常有气氛。(参考,杨逸《好吃的中国》(文艺春秋),陈天尔《无国籍》(新潮文库))

 

 

 

ある中国料理店

春節の土曜日、私は例年以上に賑わう横浜中華街の関帝廟の近くにある中華料理店で昼飯を食べた。ここは1973年に開店したとあるから40年以上になる北京料理店である。この店の創業者は、芥川賞を取った作家楊逸さんの叔父さん(母の兄)である。楊逸さんは1987年に留学生として日本に来たが、そのときは叔父さんが日本にいて、絵はがきなどでいろいろ日本の話を聞かせてくれたので、是非行きたいと思ったと書いておられる。

楊逸さんのお母さん兄妹は、ハルピンに住んでいたが、1040年代中国では共産党軍と国民党軍による内戦が勃発し、兄は地主の父とともに逃げて台湾に渡った。結婚したあと日本に来て中華街で店を開いた。妹すなわち楊逸さんの母はハルピンに残って結婚した。楊逸さん一家も下方にあったりして大変な苦労をされた。

音信不通の状態が長く続いたあとで、お互いの状況を知ることになったのである。いまこの店は、創業者の子供すなわち楊逸さんの従姉妹によって経営されているようで、その日私はすこしだけ話をすることが出来た。その従姉妹の一人が国際関係論の学者になっておられるとのこと(陳天爾教授)。

私は楊逸さんからこの店のことを聞いていたが、いままで機会がなくて行かなかった。しかし行って見て、歴史の流れに翻弄されながらそれをくぐり抜けてこられたたくましい家族の様子を目の当たりにすることが出来て、勉強になった。当日は創業者の奥さんと思える人がきちんとした洋服を着て店に現れ、店の一角に腰を下ろして店を眺め回した。その様子は映画で見る上海の古い店の主の行動に似て、とても雰囲気があった(以上、楊逸「おいしい中国」(文藝春秋)、陳天爾「無国籍」(新潮文庫)なども参考にした)。

 

       春節の真つ赤な街を豚饅頭

 







 

 

 

20153. 6

照相机展览会

 

上星期我去了在横滨展览中心举办的CP+2015。这是照相机和照相机零件的展示说明会。我对照相机和摄影没有特别的爱好。在胶卷相机时代我有单镜头反光照相机,不过因为单反机很重,所以现在一直将一台小型数码相机就用。这次我参加的目的是想了解一下近年高级数码相机的信息。

我在港未来站一下车就看见许多去会场的人。这些业余摄影爱好者聚集一起的话,一定散发出一种独特的气氛,比如说赏观梅花、樱花、水菖蒲等的时候。宽广的会场里充满着照明明亮,音乐吵闹的气氛,各照相机公司的展区内,摆放着各类器材,并用大型屏幕说明新产品。

我首先参加了关于拍摄旅行照片的演讲会。讲师是位年轻的女性,她展览着用新的照相机在海外的美国、瑞士、德国、新西兰拍来的照片,讲这种新的相机如何出色,谈拍这样的照片时需要注意的事项等。我钦佩这样的年轻人,以这样的工作来维持生计。还有的公司使用大型屏幕,说明这种相机可以拍摄到人的肉眼看不见的细微部分,不过,那样的事需要吗? 我稍微感到疑问。产品的说明员和会场里的办理员都很年轻。可是客人以老年人居多。

听完演讲之后,我为了询问我想买的新型照相机的详的说明而排队等候。不久前面的人询问的声音进入了我的耳朵。“现在,我有这种照相机。特别不方便的地方都没有,不过我还想买一台新的照相机。我为何需要新的照相机?。我禁不住紧张了一下,因为我认为像说我自己一样。

照相机真的是不可思议的商品。不必要交换,不过想买新的,看来照相机比得上车和女性的时尚商品。为了刺激消费者的购买心,制造厂商不断开发具有新功能、新设计的商品,而商品的畅销使人们的所得增加,世间变得丰富。企业经营家的不断革新(改革)促进了经济的发展。这样,能拍摄人的肉眼看不见的细微部分的照相机还是必要的啊!

 

 

 

2015カメラ展

横浜のパシフィコ横浜で行われたCP+2015に行った。これはカメラとカメラ部品の展示説明会である。私はカメラについては特別の趣味はないし、写真も必要に応じて撮るという程度で、芸術写真を撮る趣味はない。フィルムカメラ時代は一眼レフカメラを持っていたが、一眼レフは重いので、いまではコンパクトデジタルカメラ一台で全てを済ませている。それではなぜCP+2015に行ったのかというと、もう一段上のデジタルカメラを買おうかなと思っているところへ、カメラメーカーから案内状が届いたからである。

みなとみらい駅で降りると、そこにはすでに会場に行く人が大勢いた。梅が開いたり、桜が咲いたり、菖蒲が咲いたときに必ず大勢いる、例のアマチュアカメラマンの雰囲気を持った人たちが沢山いた。会場に着くと広い会場に出展物が溢れ、カメラ会社ごとに大型スクリーンで新製品の説明がなされ、音楽が鳴り響く。

私はまず旅行写真の撮り方という講演会を30分ずつ2コマ聞いた。講師は若い女性で、新しいカメラを持って海外のニューヨーク、スイス、ドイツ、ニュージーランドなどに行って撮ってきた写真を見せて、このカメラが如何に優れているかとか、こういう写真を撮るにはどういうところに注意したら良いか、などを話す。私としては講演の内容よりも、この若者たちがこのようなことで生計を立てていられることに感心してしまった。顔を大写しにして、ほら、人の目で見えない細部まで撮れるでしょうという説明が多かったが、なにかを科学的に究明するという場合は別として、そんなことは必要なのだろうか少し釈然としなかった。会場の製品の説明員や整理に当たっている男女もみな若く、若者を見るだけでまぶしいくらいだ。しかし客は、やはり高齢者が多い。

講演会を聞いた後で、お目当ての新型カメラの説明を聞く列に並んだ。やがて前の人が聞いている声が耳に入った。「いま、このカメラを持っている。別に何処も不自由はないのだが、新しいカメラにしようと思う。私はなぜ、新しいカメラが必要なのでしょうか」。私は思わず緊張した。まるで自分が言っているように思えたからである。

カメラというのは不思議な商品だ。換える必要はないのだが買い換えたい。これに匹敵するのは車であろうか、女性のファッションだろうか。その消費者の気持ちを決定づけるために、メーカーは新機能、新デザイン商品の開発にしのぎを削り、商品が売れ人びとの所得が増え、世の中が豊かになっていく。企業関係者の不断の改革が経済を発展させるのだ。やはり、人の見えないようなものまで写るカメラは必要なようだ。

 

 

 






 

20152.26

马尔克斯的《百年孤独》

 

读完了加西亚·马尔克斯的《百年孤独》。我知道他是受过诺贝尔奖的作家,不过,具体知道他的名字是在莫言和Libi英雄的座谈会的记录上。在此莫言说,:以前我在某个杂志写过,我们应该与马尔克斯或福克纳尽量保持一段距离。那边是大的火山,而我们是冰块。接触过近,可能被溶化或者蒸发

《百年孤独》写的是迁移居住在哥伦比亚的虚构的地方Makondo,一个叫Urusura的女性一家一百年间6代人发生的故事。最后,那个家族消失了,Makondo村也消失了。

由于马尔克斯1967年写这本《百年孤独》,一般人认为想出来文学既可以这样荒诞无稽地写,又可以有趣可笑地写,文学应有的样子发生了变化。我想莫言的《丰乳肥臀》(1995),也受到很强的影响。其故事写的是山东省高密县的上官一家,特别描写上官鲁氏这个女性一生的故事。《百年孤独》和《丰乳肥臀》一样,主人公都是富有魅力的女性,故事实在富有动态、奇想天外地展开(就是说魔术现实主义)。中国的100年的历史我理解,而因为对哥伦比亚的100年我没有知识,所以有些不能理解的地方,不过, 我读这本小说时,禁不住捧腹大笑,还是以前没经历过的。

马尔克斯说,他从自己的祖母和母亲那儿听到很多民间故事,而这些成为他作品的地基。如果是这样,那么在中南美的国家里肯定隐藏很多会讲有趣故事和讲述传说的人。确实他写了很多根据民间故事的小说.

有人说乔埃斯的《尤利西斯》、普鲁斯特的《追踪消逝的时光》、陀思妥耶夫斯基的《卡拉马卓夫的兄弟》和《百年孤独》是世界文学的杰作,不过,我还想把托尔斯泰的《安娜·卡列尼娜》、Roger Martin du Gard的《蒂波一家》、鲁迅的《阿Q正传》和莫言的《丰乳肥臀》作为世界的杰作文学作品。

 

 

 

マルケス「百年の孤独」

ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ。ガルシア・マルケスがノーベル賞作家であることを知っていたが、具体的に彼の名前を知ったのは、莫言とリービ英雄との懇談会の記録だった。その中で莫言は次のように言っている。「かつて、ある雑誌にガルシア・マルケスだとかフォークナーから出来るだけ距離を置こう。あちらが大きな火山であるとしたら、我々は氷のかたまりだ。近づきすぎると解けたり、蒸発してしまうかも知れない、と書いたことがある」と。

「百年の孤独」はコロンビアのマコンドという架空の地に移り住んだウルスラという女性の一家の百年六代にわたる物語である。そして最後はその一家は消滅し、マコンドという町も消滅する。

マルケスが1967年にこの「百年の孤独」を書いたことで、小説はこんなふうに荒唐無稽に、おもしろおかしく書いても良いのだ、と皆が思い、文学のあり方が変わったと言われている。莫言の「豊乳肥臀」(1995年)は、やはりマルケスの影響を強く受けていると思う。こちらは山東省高密県の上官家の物語で、上官魯氏という女性の一生の物語である。両者ともとても魅力的な女性が主人公であること、話が誠にダイナミックな、時には奇想天外な展開をする点で共通している(両者ともに、一般にマジックリアリズムとも言われている)。中国の100年は私には良く理解が出来るのだが、コロンビアの100年は知識がないため、理解できないところも少しはあったが、小説を読んでいて一人でこんなに笑い転げたことは今までになかったことだ。

マルケスは、自分の祖母や母親から沢山の民話を聞かされて、それが作品の土台になっていると言うが、そうだとしたら、中南米の国には恐ろしく面白い物語が埋もれているということになる。事実マルケスはほかにも民話に題材を求めた面白い小説を沢山書いている。

よくジョイスの「ユリシーズ」、プルーストの「失われた時を求めて」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と「百年の孤独」を世界文学の最高傑作という人がいるが、私としてはいままで読んだ中では、トルストイの「アンナカレーニナ」、ロジェ・マルタン・デュガールの「チボー家の人びと」、魯迅の「阿Q正伝」、莫言の「豊乳肥臀」が一番印象の強い作品である。しかし、表現方法の卓抜さ、奇想天外な面白さでは、「百年の孤独」が他を圧しているかも知れない。

 

       マルケスに会ひにゆきたし花に鞍










 

 




 

 

20152.13

国民性的标语口号

 

《关于事物的看法 向西欧学习什么》(笠信太郎)1950年,日本在第二次世界大战战败的5年后出版的。著者是当时的《朝日新闻》记者,做为特派员在欧洲逗留了很长时间。这本书出版的当时,很多日本人还不能从战败后的精神虚脱状态中摆脱出来,而不能确立自己的思考准则。这本书是针对当时的日本人应该怎样产生自己的想法或看法而写的。著者把欧洲的英国、德国和法国三国的国民的想法、看法,模型化着解说的。

我当时是高中生,有认真地读过的记忆。因为内容很长在此不能全部写,这里我介绍这本书中写的两个小故事。“英国人一边走一边考虑,法国人考虑后就开始跑,而西班牙人跑了后再考虑”。其次是关于德国的。说在某地有两个门牌竖立着,在第一个门牌上写着“通向天堂的入口”。在另一个门牌上写着,怎么去天堂演讲会的入口。全部的德国人都不打算钻过最初的门,而纷纷来到了第二的门。对德国人来说,比起事物本身来,那个理由是更被重视的。

此后到今天为止,书店中卖了很多有关比较国民性的论著,而最近我在kindle的电子书籍中发现了一本很有趣的《历史创造的国民性》(窪田城)一书。我在这里介绍几句这本书中的刺激语言。著者通过很长时间跟各个国家的人交往,自己创造出各国的国民性 “标语口号

“创造和破坏的美国人”,镇压和逃避法律的中国人(上有政策,下有对策),顺从和怨恨的韩国人”,勤勉和战略性的德国人,“追随和助长的日本人

对我来说,这些标语口号中,著者对那个希特勒的德国太宽容了,不过,其他是相当恰当的出色的表现。标语口号往往歪曲本质。这本书根据悠久的历史的分析详细地写出了各国的标语口号。请大家看一下吧。

         

 

 

国民性のキャッチフレーズ

「ものの見方についてー 西欧になにを学ぶか」(笠信太郎)は 1950年、日本が第二次世界大戦で敗北した5年後に書かれた。著者は当時の朝日新聞記者で、ヨーロッパ滞在が長かった。この書の出版された当時、多くの日本人は敗戦後の精神的虚脱状態から脱却しきれず、よりどころとなるべき自分の考えを持ち得ないでいた。本書は当時の日本人に対し、自分の考えを作り上げるためのものの考え方、見方を提示することを目指して書かれたものである。そして、著者は、ヨーロッパのイギリス、ドイツ、フランスの三国のそれぞれのものの考え方、ものの見方をモデル化して、解説している。

当時私は高校生であったが、食い入るように読んだ記憶がある。内容は長いので書くことが出来ないが、その中で紹介されている小話を覚えているので書いてみよう。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。そしてスペイン人は走ってしまった後で考える」。つぎにドイツについて。二つの門が並んで立っていた。第一の門には「天国への入口」と書いてあった。もう一つの門には「天国に関する講演会への入口」とあった。ところが、すべてのドイツ人が最初の門をくぐろうとはせずに。この第二の門へと殺到したという。ドイツ人においては、事物そのものよりもそれに関する理屈の方が重視されるというのである。

その後沢山の国民性比較論が出たが、最近キンドルの電子書籍に面白い本「歴史が創る国民性」(窪田城著)が出たのでその中から刺激的なところを切り取って紹介する。著者が長い間の付き合いから各国の国民性に付けた「キャッチフレーズ」。

「創造と破壊のアメリカ人」、「弾圧と脱法の中国人」(上に政策あれば下に対策あり)、「従順と怨念の韓国人」、「勤勉と戦略のドイツ人」、「追随と増長の日本人」。

私としては、かのヒットラーを生んだドイツに対しては甘すぎると思うが、その他はなかなか的を射たキャッチフレーズであると思った。キャッチフレーズはそれだけでは往々にして本質を見誤る。この本にはキャッチフレーズの根拠になっている各国の長い歴史と分析がついている。大変力のこもった記述と分析であると思った。

 

 

 











 

 

20152. 6

今年也请继续读我的主页

 

新年来了。尽管我已经老了,可到了新年,还是有新鲜的感觉。特别是开始做俳句之后。新年一月俳句会特别多,不得不完全泡在新年的心境中。这个月我参加了67次的新年俳句会。

为了要做好新年的俳句,我们需要以可喜的,高兴的,乐观的心情来吟作。在现实的生活中我们知道有不少不好的事,有诱因做悲观的、自虐的俳句的因素,但是,读者若读这样的俳句的话,心情就会枯萎。因此新年的诗句还是需要快话地、开朗地吟作。当然,快话开朗的诗常常陷落于较浅薄的词句,这个也必须避开。

新年的诗中我最喜欢的是,《万叶集》最后第4516号的大伴家持的作品。“新年开始春天的今天、外边下着雪。祈愿今年世间也继续幸福。”原文是新年乃始乃波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(当时使用的是借用汉字的日文)

到了新年我有一个令我头痛,并很重要的事,就是必须为自己的主页增加一页。具体说来,我要马上做“2015年中文小品文·日语附着”的一页。增加这个页的工作相当麻烦,每年都要花较多精力。还有记忆力也年年衰弱,容易忘记去年的办法,做完不那么简单。如果失败了,到现在为止的主页就会全部消失,杞人忧天的烦恼也较严重。

去年1年中共刊登了44篇中文小品文,开始写中文小品文是2003,之后每周继续,到如今已写作了404篇。俳句呢,登载了80首新的俳句(一共有1240首俳句)。这要感谢为我修改的汉语老师、认真辅导的俳句会的主宰和阅览主页的读者。我请大家今年也继续爱读我的主页。

 

 

 

今年もどうかホームページをお読みください

この年になっても1月になると改まった気持ちになる。とくに俳句を始めてからは、1月は新年句会が多いからなおさらである。今年は6回新年句会に出た。

新年の句を良い句にするために必要なことは、めでたく詠むことだとされている。現実には良いことばかりあるとは限らないので、つい悲観的にとか自虐的に詠んでしまうのだが、そのような他人の句を読むと、気持ちがしぼんでしまう。新年詠はやはりめでたく詠む必要があると思い知らされる。めでたく詠むと、浅くなりがちなのでそうならないように注意しないといけない。

新年の句や歌で私が一番良いと思うのは、万葉集最後4516番目にある大伴家持の歌である。

“新たしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけよごと”。いやしけよごと、とはますますよいことが重なるように、という意味である。当時使われていた表記方法、いわゆる万葉仮名では、新年乃始乃波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰”と書かれており、先人の文字開発の歴史の一端を知ることが出来る。

さて新年になってさしあたって一番頭が痛いのは、自分のホームページに1ページ増やさなければならないことである。具体的には、年ごとに編集している「中国語エッセイ・日本語付き」に2015年用のページを作ることである。なにせこの作業は一年に一度しかないし、記憶力も衰えているので、去年の手順を忘れてしまい、簡単には出来上がらない。もし失敗して、いままでのホームページが全部消えてしまっては大変だと取り越し苦労もする。今年はなんとか無事に済んだが。

去年は1年間で44篇の中国語エッセイを載せることが出来た。2003年中国語エッセイを書き始めてからでは、合計404篇になった。俳句は去年は新しく80句を載せた。2003年からだと1240句になる。これも喜んで添削してくださる中国語の先生、俳句会の主宰・指導者とホームページを読んでくださる読者がいるからである。今年もどうか、引き続きわがホームページをご愛読くださるようお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

20151.31

富士山的展望

 

新年1个月我要参加6个俳句会。我认为稍微多了一些,为了参加一个俳句会我要至少准备5个俳句,有点儿来不及,不过,我的朋友中也有参加810个俳句会的人,我不能辩解。

参加了新年的俳句会后,我才知道咏作跟富士山有关的俳句很多。根据俳句诗人长谷川櫂所说,在江户时代,人们把富士山当做亲密地咏作对象,不过进入明治时代,富士山便成了大日本帝国的象征,近代以后富士山就以非常雄伟严肃的姿态而存在。

富士山无论什么时候都很美丽,四季的更替,让其具有无穷的魅力。不过,其中戴雪的正月富士特别震撼人心。我住的地方有高地,可看得清富士山。附近的公园里竖着这样一个告示牌。“自这里能展望到山岳,作为想给未来留下绿区的地域资源,。今后要致力于保全展望的环境, 在绿区遗产上被登记了

从这个公园可以眺望到正前的丹泽山地,右侧为秩父山地,丹泽山地后面就是富士山,右边还能望见很远处的在日本第二高的南阿尔卑斯山脉的北岳(3193),间之岳(3189米)。丹泽山地最高的山是蛭岳(1673米),其次塔之岳(1491)。新年元旦或者3天之间下雪、下雨,一般被认为是丰收的前兆,在俳句的季节词里以 “御降来表示,人们在新年的俳句上常常使用。一开始“御降”,秩父、丹泽的地表一夜之间就变得深浓,像自然雕刻的手艺一样。

我有些上了年纪,爬从车站到我家的坡道有点儿苦。可是,因为一爬上,就可以看见西边的富士山,北边睛空塔等首都的高楼大厦,视野很好,难以离开。因为告示牌上说,为致力于保全展望的环境,请求不建设遮挡视野的大楼等。不过,这种愿望能长久地持续不去吗?

 

 

 

富士山の展望

正月1月だけで6つの句会に参加したことになる。我ながら少し出過ぎで却っていい句ができない感じがするが、8回とか10回出ていい句を作る人もいるのだから、言い訳はできない。

正月の句会に出て思うことは、今更ながら富士山を読んだ句が多いということだ。長谷川櫂によれば、江戸時代の人は富士山に親しみをもって詠んでいるが、明治に入ると富士山は大日本帝国の象徴になった。近代以降の富士山の俳句は至ってまじめ、かつ厳粛だとのこと。

富士山は四季いつでも美しいが、中でも雪をかぶった初富士は美しい。私の住んでいる地区は少し高台にあるので、富士山がよく見える。最近公園に次のような看板が立った。「ここからの山岳展望が、将来に残したい緑区(横浜市)の地域資源として緑区遺産に登録された。これからも展望環境の維持保全に努める」。

ここの山岳展望では、真正面に丹沢山地、右側に秩父山地、丹沢山地の奥に富士山、右の遥かかなたに国内第二、第三峰の南アルプスの北岳(3193)、間ノ岳(3189)が見える。つまり国内第三位までの山を一視野に収めることができる。丹沢山地は一番高い山が蛭ヶ岳(1673)、次に塔ノ岳(1491)。新年正月の元日あるいは三箇日に降る雪、雨を豊穣の前兆として「御降り」(おさがり)といってこれも季語として俳句ではよく読まれるが、御降りが雪である場合、丹沢の山襞は一夜にして深くなり、まるで自然の彫刻のように見える。

歳を重ねて今や駅からの登りがつらく感じるときもあるが、登ってしまうと西に山岳、北にスカイタワーなどの首都の高層ビル群、東にみなとみらいやベイブリッジが見えるので、離れがたい。これからも展望環境の維持保全に努めるというのだから、視界を遮るビルなどは建たないことを願うが、果たしていつまで続くだろうか。


 

寝て起きて初富士を見て八十年

 

 

 

 

 

20151.27

读完阎连科的《炸裂志》

 

炸裂决定高价聘请作家阎连科对《炸裂志》进行重新编写,为炸裂由村到镇,由镇为城,再由城发展为市和超级都市的演变树碑立传,为那儿的英雄、人杰、人民歌功颂德。

炸裂村有很长的历史,1966年文化大革命时,以孔、朱二姓,形成炸裂两派系。孔家的老二孔明亮在自己扒火车偷货成为“万元户”后,自己成为村长。男人偷东西,女孩外出当小姐,迅速积累财富发展成为炸裂镇。

这次的炸裂村长民主选举的候选人是孔明亮和朱家的朱颖,而朱颖的人气越来越高了。孔明亮对朱颖说:“我娶你,你让我当村长,我们立马就结婚。结了婚,我主外,你主内,炸裂村就是咱们家的炸裂村。朱颖退选。以后作为炸裂的领导,孔明亮开了电线厂、水泥厂、印刷厂、纺织厂、娱乐城、按摩等。娱乐城等由他的妻子朱颖管理。

孔明亮的弟弟孔明耀退役以后,为了代替中共中央政府纠正美国和欧洲对中国的傲慢与偏见的态度,组成巨大的民间军队。有一天明亮去明耀那儿说:“明耀,哥要找你帮个忙。必须一周内在炸裂建起亚洲第一,乃至世界第二的飞机场。必须一周内在炸裂的地下建起一百公里的地铁线,不然炸裂就别想成为大都市,别想成为超级大都市。弟弟答应说:“我只希望你在庆祝炸裂升为超级大都市时,放假庆贺的三天里。在那三天里,你把你的市民借给我。

朱颖,因为丈夫明亮不回家而爱秘书的怨,派出炸裂技校培养的800位的姑娘,到京城的领导、院士、教授家当保姆,阻止投票炸裂升级为超级大都市。孔市长就回去向妻子哀求了。

炸裂被正式批复升格为又一全国的超级大都市。那天明耀在电视上一口气讲了两个小时二十分钟,他说:“请我亲爱的人民们跟我走。我们用三天时间助经济衰退的美国、欧洲一臂之力、从此他们在世界上就不再傲慢与偏见。终于明耀将自己的二哥明亮拥死在炸裂刚刚升级成超级大都市后的狂喜中。以后朱颖和明耀开车出门、遇上车祸他们也不在了。

阎连科写完《炸裂志》。可是孔家的后代的市长跟他说:“有我和炸裂在、你就别想出版这本书。

接受記者的采访阎连科说,这本小说至少和深圳有千丝万缕的联系, 深圳给他写作的启发。阎连科又说:“写炸裂志有种轻快的畅感。之前写《四书》、《丁庄梦》、《受活》、《日光流年》,都非常痛苦。

他用炸裂形容当下中国很精准,以此表达30年来中国发生的事情,包括社会和人心的现状,同时写文化大革命以后发展很快的现代中国各种各样的矛盾。可是比如:“不能白白当镇长。你要说活和法律一样,不能白当镇长呢。你要和皇帝一摸样。这样的想法我们外国人不能理解。理解中国也很难。在中国小说中,成功的人一定走向没落。这本小说也同样。

 

 

 

閻連科の「炸裂志」を読んで

この小説は、市政府が、英雄、傑物、人民を称えるために、高いお金を払って閻連科に、炸裂が村から鎮へ、鎮から市へ、市から超大都市へ変わってきた歴史を記すことを依頼したことに始まる。

炸裂は長い歴史を持っているが、1966年の文化大革命の時には孔家、朱家がその地域の二大勢力だった。孔家の二男の孔明亮は列車から貨物を盗むことで大金持ちになり、村長になった。当時は男はものを盗み、女は外で身体を売ることでお金を稼ぎ、炸裂を鎮へと発展させた。

今回の村長選挙では孔明亮と朱穎が立候補したが、朱頴のほうが優勢だった。孔明亮は朱頴に言った。「結婚しよう、私が村長になり、外は私が、内はあなたが取り仕切る。炸裂は我々両家の炸裂になる。」朱頴は候補を降りた。以後明亮は炸裂の指導者として、電線工場、セメント工場、印刷工場、紡績工場、男女娯楽場、按摩所などを作り、男女娯楽場は朱頴の管理に任せた。

明亮の弟明耀は軍隊を退役以降中国政府に代わって米国や欧州が中国に対して傲慢で偏見を持っていることを換えさせるために、巨大な民間軍隊を組織した。ある日明亮は明耀を訪問した。「助けてくれ。一週間以内に炸裂にアジア第一か世界第二の飛行場を作ること、一週間以内に、炸裂に百キロの地下鉄を作ること、そうでないと炸裂は超級大都市になれない」。弟は承知して言った。「炸裂が超級大都市になったら、三日の休暇を設け、市民を三日間だけ貸してくれ」。

 朱頴は明亮が秘書との房事に明け暮れて自分のところに帰ってこないことの仕打ちとして、炸裂の芸妓学校で育てた800人の女性を北京の指導者、学士院の会員、教授の家に保母として派遣して、炸裂が超級大都市に昇格するための投票を阻止しようとした。明亮は急遽家に帰って妻に向かって懇請した。

 炸裂が超級大都市に昇格することが正式に決まったその日、明耀はテレビで2時間20分の大演説をぶった。「人民の皆さんは私と一緒に立ち上がってくれ。三日間衰退してきた米国や欧州に力を貸して、二度と我が国をさげすまないようにしよう」。ついには明耀は自分の兄明亮を超級大都市昇格の祝いのさなかに、執務室で殺した。その後朱頴、明耀は車の事故に遭ってこの世を去った。

閻連科はこのような「炸裂志」を書き上げて、孔家のその後の市長に提出した。市長は言った。「自分と炸裂がある限り、このような本は出版させない」。

 記者のインタビューを受けて閻連科は言っている。「この本は少なくとも深圳から沢山の影響を受けている」。彼はまたこうも言っている。「前の「書」「丁庄夢」「受活」「日光流年」は書いてとてもつらかったが、「炸裂志」は軽快な昂揚感があった」。彼は“炸裂”で現在の中国を正確に書いたし、この30年来中国で何が起こったのかを社会と人の心を含めて書いた。同時に文化大革命以降の30年間発展を遂げている中国の様々な矛盾を書いた。しかしここで書いてある「鎮長の立場を無駄にしないで。鎮長になったらあなたが帝王になったのと同じなのだからやりたいように振る舞って」というような考え方は、日本人には理解できないように、外国人が中国を理解するのもなかなか簡単ではない。中国の小説では成功した人は必ず没落する。この小説も例外ではない。

 

 

 

 

 

 

20151.22

卖掉了自己的坐驾车

 

去年年末,我终于卖掉了自己的坐驾车。开始乘开车到现在已过了大约50年了,从最初的日野二手车开始,经过丰田的中型车到现在的BMW,一共更换了8台车。现在的BMW也使用了10年以上,不过行车距离很短,还开得很轻快。其车的风格和性能,都适合我的爱好。就是说