中国語のエッセイ・日本語つき
(2011年)
使用智能手机的5个月中
我开始使用智能手机是今年7月,到现在已使用5个月了。感觉最好的就是个人电脑和智能手机同步的事,日程安排一方一记上另一方马上予以“登载”可以阅读。同时,因为智能手机上下载着全国的地图和时刻表,能随时随地看到必要的信息,非常方便。在电车或在医院的等候室里,通过智能手机还能读小说。之外,像词典功能、网上检索功能和听音乐功能都很方便。但我不使用它玩游戏。反正,一出家门就把它当做个人电脑来使用。
最不好的是每月的通讯费增加的事。比起利用以前的手机来,月费用平均增加了3,000日元。是不是获得了与这个增加支出相等值的网络信息呢? 我认为到现在还没有充分地利用智能手机,还得需要一年的时间来发现更有效能的使用办法。
要说日程,我是通过个人电脑和智能手机来管理的,不过,作为和妻子共通的安排,则在起居室的日历上用笔写下,这是我们互相知道的日程。
对了,11月我收到了一封信, 12月有以前工作的同事会。当天中文学校学习之后可以参加,所以我回答了出席,并写了在电脑及智能手机上。不过,起居室的日历上漏写了。
当天出门时我看了起居室的日历上日程,没看电脑、智能手机里的日程,结果没有通知而缺席了。虽然导入最新的器具,可是器具和人的接口还没有很好地联接。
不过对这个同事会来说,没有造成什么影响。以后有一天我向同事会的负责人道歉时,他说,你以前没跟我说过你可能缺席吗? 所以我当天也没在意你的缺席。
到底是谁糊涂了,我也搞不清。算了! 算了!
スマートフォンを使ってみて
スマートフォンを使い始めて5ヶ月になる。一番よい点はパソコンとスマートフォンが同期していることで、スケジュールは一方に記入するとすぐに他方で読める。また、スマートフォンに全国の地図や時刻表を入れてあるので、随時出先で必要な情報な見ることが出来るのはとても便利なことだ。電車の中や病院の待合室などで時間がるときに、小説を読めるのもいい。そのほかでは、辞書機能、検索機能、音楽再生機能など。ゲーム機として使わない僕にとっては、家から外出している時にパソコンの代わりとして使えることが便利なのだ。
一番よくない点は月々の支払い通信料が増えたことで、携帯電話の時に比べて、月平均3,000円の出費増になっている。これに見合うだけの情報を利用しているかどうかだが、今のままでは支出増に見合った利便を得ていないと思う。もしばらくどうしたら有効に使えるか工夫してみようと思う。
スケジュールといえば、私はパソコンとスマートフォンで管理しているが、家族共通のものとして居間のカレンダーに手書きで書き込んでいる。妻との間でお互いに日程を知り合った方がいいからだ。
ところで12月にある日、とあるOB会があった。私は中国語学校で勉強した後、夕方その会に出るつもりで出席の返事をしてパソコン・スマートフォンには打ち込んだが、居間のスケジュールには書き落とした。
朝カレンダーをちらと見て出かけたが、パソコン・スマートフォンを見るのを忘れた結果、無断で欠席することになってしまった。器具は導入しているが器具と人とのインターフェースが上手くいっていない。
もっともこのOB会は、その後責任者にお詫びしたところ彼が、いやこの前あなたにお会いした時に、欠席に変更すると言われた気がしたので、当日欠席されても気になりませんでしたとのこと。
狐につままれたような思いだが、この日に限って言えば、悪い話しではなかった。
看秩父夜祭
12月3日我想去秩父看夜祭,不过,从早上雨就下得很厉害,犹豫了。正午雨停了,爱人说已经较晚不去了,可是我无论如何也想去, 14点我一个人出发了。
乘横滨线到八王子站,换乘八高线到东饭能,再换乘西武线到西武秩父站,要2个半小时,16点30分到达秩父市。此时驿前已经聚集着众多的人。
我径去前往秩父神社。秩父神社有很长的历史,是非常棒的神社。据说这个夜祭也有300年的历史。从17点到18点我在院子内看到了种种的祭祀仪式。不一会儿,人们列队与神舆、神木及献给神社的神马从这个神社出发,向市中心前进。同时停在院子内着美丽装饰灯笼的神轿也出发了。我随着这个神轿慢慢地向前走。
神轿的行走靠众多人来拉。改变方向是大事, 有10个人左右的年轻力壮的男人,把粗大的木材放入到神轿下,用力转动。据说那天在全市华丽雄壮的神轿出有6台,不过,人很多我只能看到这个神轿。
据说当日聚集了26万人。城市拥挤不堪,从神社到车站平时走的话只需15分,可当天要1个小时。我决定明年再来看,晚20点我从秩父出发回家了。
秩父夜祭り
朝から秩父夜祭りに行くつもりであったが、雨がひどくて躊躇した。雨は正午に上がったが妻はもはや行きたくないというので、迷った末14時発で一人で出かけた。
横浜線で八王子まで出て、八王子からから八高線で東飯能、東飯能から西武線で西武秩父駅まで。2時間半かかり、16時30分秩父着。駅前はすでにごった返していた。
それからすぐに秩父神社に出かけた。秩父神社は、歴史もあり立派な神社だった。この夜祭りも300年の歴史があるという。17時から18時ごろまで境内にいて、いろいろなお祭りの行事を見た。御神輿、大榊、神馬などの神社行列はこの神社から出発して、市の中央へ進む。境内においてある美しく装飾された笠鉾が行列の後に出発するというのでそこで出発を待って、その後について歩いた。
笠鉾は、大勢の人の手で曳き回される。方向を変えるのは大ごとだ。10人ほどの若い男が角棒を笠鉾の下に入れて持ち上げて回す。全市で華麗で勇壮な笠鉾と屋台が6台出たそうだが、私はこの笠鉾1台しか見ることが出来なかった。
当日は26万人が集まったそうだ。町は混んでいて、神社から駅まで普段は15分だそうだが1時間近くかかるほどだった。祭は21時頃最高潮になるらしいが、来年また出直すことにして、今年は20時には秩父を発って帰途についた。
祢宜御輿神馬しんがり冬の蠅
深川旁边

在文化节那天我属于的结社在深川芭蕉纪念馆举行了俳句会,我参加了。深川这个地名我听过好多次,可实际上一次也没有去过,芭蕉纪念馆也没有去过。
在秋叶原车站乘坐东京地铁都营新宿线,坐三站就到了森下站。无需看地图,就能感觉到隅田川的气味。据说这附近,江户时代是一片芦苇生长茂盛的湿地带,现在住宅区的地面很低,几乎与隅田川同样的海拔高度。与上流的隅田川不同,眼前的河水不停地流着。在新大桥近旁的下流,小名木川和隅田川合流,小名木川也是水量丰富。
俳句天才松尾芭蕉从1680年37岁的时候开始住在这个隅田川和小名木川汇合的附近。听芭蕉纪念馆的人说,芭蕉死后这附近成为武士住宅地区。在江户幕府的末期和明治时代,土地所有者常常变迁。再加上河道和街路的位置也变化了,所以我们不能准确知道芭蕉草庵在哪儿,不过,大概在现在的芭蕉纪念馆分馆的附近。
芭蕉经过东北、北陆到岐阜大垣旅行撰写了著名的《奥之细道》,46岁时。此后又到京都、伊贺上野、奈良、大阪等地旅行,最后在大阪以享年51岁病故了。
在小名木川上还留着北斋和广重画的浮世绘的万年桥。由于当天时间紧,只是匆匆地看。我想有机会再一次慢慢地游览深川。
深川あたり
文化の日に深川の芭蕉記念館で所属している結社の句会が行われるというので、参加した。深川という地名はよく聞いているが実際に行ったことがなかったし、芭蕉記念館も行ったことがなかったからである。
秋葉原から都営地下鉄に乗って三つ目の森下駅で降りると、道路地図を見るまでもなく、隅田川の匂がするような気がした。このあたりは、江戸時代は一面葦の生い茂る湿地帯だったそうで、いまでも住宅地は土地が低く、ほとんど隅田川と同じ高さにある。上流の隅田川と違って、すぐ目の前にたっぷりと水を流している川がある。新大橋を少し下ると小名木川が隅田川に合流する。小名木川もまた、予想していた以上に水量の多い川だった。
この隅田川と小名木川が合流するあたりに、松尾芭蕉が1680年37歳の頃から住んでいた。芭蕉記念館の人の話では、芭蕉の没後このあたりは武家屋敷となり、また幕末、明治にかけて土地所有者が変遷した。川の位置も変わったし、道路も変わっているので確かな場所は言えないが、芭蕉庵があったのは今の芭蕉記念館別館のあたりでしょうとのこと。
芭蕉が東北、北陸を経て岐阜大垣までの「奥の細道」の旅に出たのは、46歳であった。その後京、伊賀上野、奈良、大阪に至る旅の途中、大阪で51歳で病没する。
小名木川には北斎や広重が浮世絵に残した萬年橋が、もちろん往事の姿ではないが、かかっている。当日はそれらを慌ただしく見て句会に参加したが、深川はもう一度ゆっくりと訪ねてみたいと思った(絵は、葛飾北斎富嶽三十六景「深川萬年橋下」より)。
急かれ散る桜紅葉や小名木川
夜晚的侵入者

这是昨天夜晚的事。两点左右在我家一层突然发出了什么大的声音。最近由于在我家附近偷盗事件不断发生,自愿参加巡逻的人一天几次巡回,所以我紧张地从床上起来了。
我悄悄地下了室内楼梯。首先关上了盥洗室的拉门。那里为了我家宠物猫莫奈的进出, 开着10厘米左右。我顺着发出的声音来到厨房,见那里正有一只比莫奈大两倍的猫吃着饵食呢。
“嗨!干什么哪?” 斥责的话使它注意到了我,打算逃跑到进来的入口盥洗室,可进不去。我持续拍手发生声音,猫就在走廊跑来跑去,跑上了二楼,又从二楼跳下跑到走廊。
妻子也起床了,她也说, “嗨!干什么哪?” 同时很喜欢猫的她对我说,“ 不要太惊吓它!” 我说,“我也不喜欢捉弄动物,不过,不惩戒它,我们不在家的时候能吃光莫奈的所有饵食,我们就不能去一个星期以上的旅行了。“
过一会儿侵入的猫不见了。找了一会儿,发现它蹲伏隐藏在窗帘后边。以前小野猫侵入的时候,妻子打算去抱它,可它却伸出指甲朝妻子扑过来,在妻子的手臂上留下了伤。不过,这次的猫明显是宠物猫,虽然身体较大却没有反抗的意思。我们轻轻地拍了拍它的头之后,打开盥洗室的门放它跑了。我没有自信它不再进入我的家。
当天骚动的时候,我家猫莫奈在妻子的床上沉沉地睡觉呢。
夜の侵入者
昨日の夜のことである。午前2時頃下の階で何やら大きな音がする。私緊張してベッドから立ち上がった。私の家の近所では、泥棒事件が後を絶たないため、ボランティアで見回りの人が日に何度か巡回しているほどだ。
私はそっと階段を下りた。まず洗面所の引き戸を閉めた。そこは飼い猫モネの出入りのために10センチほど開けてあるのだ。そうしてから音のする台所を見ると、モネの二倍ほどもある大きな猫が餌を食べているではないか。
こらっとしかりつけるとやっとこちらに気がついて、洗面所から逃げようとするがここは閉まっている。私が手を打って威し続けると、猫は廊下を行ったり来たりし、二階に上がっては二階から廊下に飛び降りたりした。そのうち妻も起きてきて、いじめてはダメよ、という。いじめはしないが、懲らしめないと我々が留守にしている時にモネの餌を食べ尽くされてしまうよ、と私。
そのうち侵入猫が見えなくなった。探してみるとカーテンの陰に隠れて観念したようにうずくまっている。以前仔猫の野良猫が侵入した時は、猫好きの妻が抱こうとしたところ歯向かって、妻の腕に傷を残したものだが、今度の侵入者は、明らかに飼い猫で身体は大きいが反抗する気力もない。こちらも気が抜けて、頭をコツンと殴った後洗面所のドアを開けて逃がしてやった。これで懲りたかどうかこちらも自信がない。
この騒動の間中、我が家の猫モネは妻のベッドの中でひっくり返って眠っていた。
山樱花种树

我参加了“季节词和岁时记的会”,这个由NPO(非营利的组织)组织的活动,其目的是希望通过传播在俳句被使用的“季节词”,增强人们对大自然的喜爱。
这个会,除了上面的活动之外, 还举办了“植100万棵山樱花”的活动。到现在已在韩国、日本新泻县的加茂市、熊本县的天草市、熊本市以及京都市种植了390棵。
此次要在东京的大田区种25棵。我参加了在田园调布“浅溪流水公园”举办的种植最后一棵树的会。苗比想像要好得多,有3米多高,好像不需要担心枯萎。据说,一般认为染井吉野樱花树的寿命是一百年左右,不过,山樱花树却是五百年。我们不能想像五百年后的社会的具体的情景,不过,对这些樱花树来说,我想可以想像它五百年后的繁茂。
当天还召开“季节词和岁时记的会”的第一届全国小中学生俳句大会,也有优秀作品的发表。据说全国投稿超过1700句。其中最优秀的作品是“天蝎座很大地随便躺卧的黍子地”。据说这是小学4年级的女孩子去爷爷住的奄美诸岛的喜界岛的时候作的句。
今年是东日本大震灾、泰国的洪水等发生严重灾害的一年,不过,我觉得在日本自然和诗兴有着明亮的将来。
山桜100万本植樹計画
私は「季語と歳時記の会」という、俳句で使われている季語を広めて、自然により親しんでもらおうというNPOに参加している。この会は、このほかに「山桜を100万本植樹しよう」という活動も行っている。いままでに韓国、新潟県加茂市、熊本県天草市、熊本市、京都市ですでに390本植樹を終えている。
今回は東京の大田区に25本植えることになり、最後の一本を田園調布の「せせらぎ公園」に植えるというので植樹会に参加した。苗は思っていたよりもしっかりとしていて、3メートルはある。これならば枯れることはないだろう。染井吉野は寿命が100年ぐらいだが、山桜は500年だそうだ。500年後というと社会がどうなっているか想像ができないが、この桜ならば500年後の想像ができそうだ。
この日は「季語と歳時記の会」による第一回の全国小中学生俳句大会も開かれて、優秀作品の発表もあった。1700句を越える応募があったそうだ。優秀作品は「さそりざが大きくねそべるきびばたけ」というものである。小学4年生の女の子がお祖父さんの住んでいる奄美諸島のきかいが島に行った時に読んだ句だそうだ。
今年は震災やらタイの洪水などで大変な1年だったが、日本の自然や詩心の行く先は明るいものがあると思った。
高尾山
11月7日,冬至的前一天,我去了高尾山。从横滨的我家到高尾山乘横滨线到八王子站,再换乘京王电车到高尾山口车站,一共要一个小时。从那里乘在日本最陡的缆车约10分种,就到了海拔470米的山地。从那里可以看到在远方的日光连山、房总半岛以及在附近的东京、横滨、相模湾等等。
在半山腰我们沿着比较平坦的参拜道路就到了药王寺庙,路旁还保留着十几棵树龄一千年以上的大杉树。听说药王寺庙的创建有700年的说法和1100年代的说法。还有从很早以前就有天狗住在高尾山的传说,因此天狗的像建立在院内,也有卖天狗面条,天狗咖喱等。
我们想,到了药王院大概无路了要返回,不过,路标一个接一个地出向指示上攀登的目标,结果我们从药王院爬了30分左右到了高尾山山顶(海拔599.15米)。从山顶西边能看到丹泽山地和富士山。
高尾山是东京的西边屏风,登上这里的话,在东侧能看见很多城市,在西侧则可看见接连不断的深山。人们在很短的的时间内,就能融入大自然的氛围中。据说因这个缘故,一年间就有260万以上的人攀登高尾山,居世界第一。
我去的那天,尽管是平日,可还是有很多的孩子、老人、外国人上山。那天对于红叶来说还较早,有很多叶子细小的枫树,还有半个月肯定能欣赏到美丽的红叶。
第二天我在俳句会上发表天狗咖喱的俳句时,他们问我好吃吗。下次去的时候,我无论如何应该吃一碗。
高尾山
11月7日、冬至の前日、高尾山に行った。橫浜の我が家から高尾山までは横浜線で八王子まで行き、京王電車に乗り換えて高尾山口までゆく。約1時間で着く。そこからはケーブルカーで約10分、日本一急勾配のケーブルカーを降りると、もう海抜470メートルである。ここから遠くは日光連山から房総半島、近くは東京、橫浜、相模湾が一望できる。
ここから薬王院までは比較的平らな参道になっている。樹齢1000年になるという大きな杉並木の一部が残っている。薬王院の開山は700年だという説と1100年代という説があるとのこと。高尾山には昔から天狗が住んでいるという伝説があり、境内に天狗の像が建っているほか、天狗ラーメン、天狗カレーなどが売られている。
薬王院で引き返そうと思っていたが、少しづつ上の目標が書かれているのに引っ張られて、結局薬王院から30分ぐらいかけて高尾山頂(海抜599.15メートル)まで登ってしまった。ここまで来ると西の方に丹沢山地、富士山を見ることができる。
高尾山は東京の西の屏風みたいなもので、ここに登ると東側に都会地が見え、西にはかなり深い山が続く。僅かな時間で、たちまち大自然の中に入ることができるのである。このため年間260万人以上の人が訪れるそうだ。これは世界一とのことである。
私が行った日も、平日であるにもかかわらず沢山の子供、老人が山を登っていた。行った日はまだ紅葉には早かったが、細かい葉の楓がたくさんあった。あと半月も立てば美しい紅葉が見られるに違いない。
翌日の俳句会で天狗カレーを読んだ句を出したが、点は余り入らず、味の方に話題が集まって美味しかったですかと聞かれてしまった。次に行った時は必ず食べてみないといけなくなった。
立冬の厄除け天狗カレーかな
读完了鲁迅的《故乡》

我读完了鲁迅的中文版《故乡》。这是一部14页的小品文。鲁迅1919年回老家整理搬迁的东西,准备全家一起移住北京到。一般认为这个小品是以那时鲁迅回故乡时的体验而加上写成的。
我读的书里还介绍了几张照片关于鲁迅故乡绍兴的运河、往返的轻舟、鲁迅的祖先住居、鲁迅出身的周氏族人的东厢花厅、鲁迅的书房等,很有兴趣。
《故乡》中充当重要角色的是名叫闰土的男人。他的父亲是为小说里主人公的家做工的人,闰土与主人公同样的年纪,当时十多岁。他们认识的时候,主人公听闰土讲乡下的鸟、动物、西瓜等自然界的生活,完全被夺走了魂魄。他视闰土为小英雄。
他们再次相见的是三十年后他为了搬家返回故乡的时候,闰土有6个孩子,生活很贫穷。闰土的态度变成了恭敬,叫主人公“老爷”。他就知道,他们之间已经隔了一层可悲的厚障壁了。他感到被一种什么东西堵得说不出话来。他想:希望是本无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路。
在《故乡》鲁迅想说的是什么? 是“过去”和“现在”,“自己”和“别人”,“希望”和“现实”,“人的宿命”和“人的本性”吗? 鲁迅总算在这儿成功地描画了复杂的人物。我也确信在自己的心中,主人公和闰土有可憎的地方。
现在日本的大部分的初中教科书上登载着《故乡》。而据说,在中国从今年开始鲁迅的作品将从教科书中消失了。另外,写了《兄弟》《活着》的余华在近作的《十个词窠里的中国》(中国本土禁止发行)中举出“鲁迅”的词语为十个词窠之一。他说;“鲁迅”在中国的命运,中国历史的变迁和社会的动荡,可以在“鲁迅”里一叶见秋。
魯迅の「故郷」
魯迅の「故郷」を中国語で読んだ。「故郷」はたかだか14ページほどの小品である。魯迅は1919年に帰郷して家を整理し、一家を挙げて北京に移住している。この小品はその時の体験を加工したものだといわれている。私の読んだ本では、魯迅の故郷の紹興の運河、往復する軽舟、魯迅の祖居、魯迅の出た周氏の学問所、魯迅の書斎などの写真が載っており、興味深かった。
「故郷」で重要な役割を果たしているのは閏土という名前の男である。彼は小説の主人公である私の家の奉公人の息子で、主人公と同じ年であった。彼らが出会ったのは少年の頃で、そのとき彼は、閏土から田舎での鳥や動物、西瓜など自然を相手にした生活の話を聞いて、すっかり魅了されてしまう。閏土は一時彼の英雄であった。
再会したのは三十年後彼が引っ越しのため故郷に帰ったときで、閏土には6人の子供があり、生活は貧しかった。閏土はすっかりへりくだって彼を旦那様と呼ぶし、彼らはもはや、昔のようなつき合いはできなかった。彼もそれは仕方がないことだと思って、無理に昔の関係に戻そうとはしなかった。
「故郷」で魯迅が言いたいのは何であったろう。過去と現在、自分と他人、理想と現実、人間の宿命などであろうか。ここでも、魯迅は彼の小説に一貫して流れている「人間の本性」とはなにかを追求している。複雑な人間という生き物を生々しく描こうとしており、成功していると思う。私も自分の心の中に、「彼」や「閏土」の嫌らしいところがあることを確認させられた。
なお、現在日本のほとんどの中学校の教科書がこの「故郷」載せている。しかし、聞くところによると中国では今年から教科書から魯迅の作品が消えたそうだ。「兄弟」「活着」を書いた余華は近作の「十個詞彙里的中国」(中国本土では発禁本)のなかで、中国を知る十個のキーワードの一つに、「魯迅」をあげている。彼は「魯迅はいわば中国の命運である。中国の歴史変遷と社会の揺れは、「魯迅」のなかに読み取ることができる」と言っている(写真は魯迅の住んでいた家の一角)。
泰国洪水的影响
前天晚上八点十五分,我放下书本,像平时一样和爱人去散步。当天因为爱人需要把西服寄给外孙子,所以顺便去了附近的便利店。在便利店我也要汇教育讲座的费用。然后走到公园,伸伸腰腿或做做体操,再走一会儿,9点左右返回了家。
在打算继续读书时,突然花镜找不到了。首先找了桌子上,然后又找了散步时穿的衣服的口袋,哪儿都没有,我记不太清楚,散步时拿没拿眼镜。可是,我拿着手电筒在散步的路上寻找,可是没有落下的物品。我也不太清楚在便利店用没用眼镜,就再去便利店打听有没有遗忘的眼镜,回答说没人看见。
真奇怪,仅仅是45分以前的事不会混入那么复杂的地方吧。可是没有就是没有,没办法。备用眼镜的度数不合适,所以决定新做。第二天去了眼镜店问新做的话要多长时间。他回答,镜片公司的主要工厂在泰国,因为这次的洪水已经停产了,一般要五天,可现在不太清楚,大概要十天以上吧。
我从没想到泰国的洪水会给我的生活带来影响。看来,真是全球“一体化”。
タイの洪水の影響
一昨日のことである。夜八時十五分になったので、本を読むのを止めていつものように妻と散歩に出た。その日は妻が孫に洋服を送る必要があったので、近くのコンビニに立ち寄った。私もついでにコンビニである教養講座の費用を払い込んだ。あとはいつもの通り、公園に行ってストレッチや体操をやって、またしばらく歩き、9時頃家に帰った。
さて本の続きを読もうと眼鏡を探したが見あたらない。机の上にないから散歩に持って出たかなと、洋服のポケットを調べたがない。仕方なしに懐中電灯を持って散歩をしたコースをたどり、道路を調べたが落ちていない。コンビニで眼鏡を使ったかどうか、はっきりとは思い出せなかったが、コンビニに聞いてみると、忘れ物の届けはなかった。
わずか45分の間のことなのでそんなに複雑なところに紛れていないはずなのだが煙のように消えてしまった。予備の眼鏡は度が合っていないので、やむなく急いで作り替えることにした。さて納期はと聞くと、普段は5日ぐらいなのだが、今回は10日以上かかると思うとのことだった。レンズ会社の主力工場がタイにあって、洪水のために工場が操業停止に追い込まれているというのである。
タイの洪水が、こんなにも早く我が家の生活に影響して来るとは。地球の一体化が進んでいることをあらためて知らされた。
古道木曾路
旧中山道是从江户开始,经过上州路、信州路、木曾路、美浓路、近江路到达京都。全行程有67个宿驿,其中木曾路有11个宿驿。从北部到南部有奈良井宿驿、福岛宿驿、妻笼宿驿、马笼宿驿等等。
我们这个十月初,去了妻笼宿驿和马笼宿驿。在中央线南木曾车站下车,走两个小时旧中山道就到了妻笼宿。在这儿右侧后面有木曾御岳,左面可以远望木曾驹岳,中间有木曾谷和木曾川。走路时,木曾川的流水声时远时近,十分悦耳。
说起妻笼宿的话,这儿根据保留江户时代街道的方针政策下,是严禁重建的城市。因此,留存着江户时代诸侯停泊的本阵、老百姓停泊的旅馆、人们进出的官制所,还有运出木头的管制所等,非常有趣。当时木曾地方的木材对幕府是很贵重的物资。
在城市中央略微高的地方,有一棵银木犀的大树。正好开白花,散放出甜甜的香味儿。妻笼宿的晚上和早晨笼罩着木曾谷的冷气,让人感到象沁入身体的寒冷。
第二天,我们从妻笼宿到马笼宿,走了3个小时。特别是到马笼山巅为止的1千米的路,清楚地残留着旧大道的面目。路面宽度只有一、二米,人马和轿虽然通过,但只女性旅行者等一般认为无论如何也不可能。
马笼宿是建在坡道的城市,由于几次的火灾,从前排列的房屋没能保留下来。这里是明治时代的小说家岛崎藤村出生的地方。他写了很多木曾地方有关系的诗和小说。他在长篇小说《黎明前》的开头中,写到“木曾地方全部是在山中”。现在社会高速火车、高速道路、车站等发展得很快,可是,对木曾地方的大自然来说,还是非得保留从前的木曾不可。
木曾路
旧中山道は、江戸から、上州路、信州路、木曽路、美濃路、近江路を経て京都に至る。全行程で67の宿があったが、そのうち木曽路には11の宿があった。北から奈良井宿、福島宿、妻籠宿、馬篭宿などである。
私はこの十月初めに、妻籠宿、馬篭宿を訪ねた。中央線を南木曾駅で降りて、旧中山道を2時間ほど歩いて妻籠についた。右後ろに木曾御岳、左に木曽駒ヶ岳を望み、その間の木曽谷を流れる木曽川の音が、遠く近く常に聞こえていた。
妻籠は、江戸時代の町並みをそのまま残そうという方針の下に、改築を厳しく禁じている町である。そのために、大名の泊まる本陣、庶民の泊まる旅籠、人の出入りを調べる関所、木材の出入りを監視する関所など、昔のままに残っていて、非常に興味深かった。当時この地方の木材は幕府にとって大変重要な物資だった。
町の中央小高いところに、長野県の天然記念物に指定されている銀木犀の巨木があった。ちょうど白い花をつけて、甘い香りを放っていた。妻籠の朝夕は木曽谷の冷気で、身にしみるような寒さであった。
翌日は、妻籠から馬篭まで、3時間ほど歩いた。特に馬篭峠までの1キロほどの上り坂に、旧街道の面影がはっきり残っていた。道幅は3尺、1メートルほどしかない。ここを馬や御駕籠が通っていったわけだが、女性だけの旅などは到底あり得ない話だと思われた。
馬篭は坂の町で、何度かの火災にあって昔の町並みは残っていない。ここは何と言っても望郷の詩人、望郷の小説家島崎藤村の生まれた町である。藤村には親族が多く、島崎一族の息吹が今も残っている町である。藤村は、長編小説「夜明け前」で「木曽路は全て山の中である」と書いたが、名古屋からの中央線が快適な高速鉄道になり、駅の周辺には大きな発展があったとは言え、木曽の大自然に大きな変化はないし、あってはならないというべきであろう(写真は「妻籠の歴史」より)。
栗名月木曽路は全て山の中
镰仓的魅力
每个月我去镰仓参加俳句会,此外还一年去5,6次。这个故都,除了有旧幕府痕迹以外,有大小的寺院神社,有山有海。游客年轻人和老人都有。因为可做俳句的素材很多,所以当我做句感到困难的时候常常去镰仓。
最近常去的地方,除了神社佛阁以外,这里的蔬菜水果市场和鲜鱼铺也令我足留。在蔬菜水果市场上,拥有土地的农家卖自己种的蔬菜水果。店有10家左右,不过,出售同样的蔬菜却有不同的结果,这跟买卖的好坏商品的质量不同外,也有与有没有常客,对应客人的态度好不好等种种有关。
现在出售的蔬菜有茄子、胡萝卜、洋葱、马铃薯、苦瓜、红薯等,不过,好像有些已过了时节。用于观赏的漂亮的花茄子和过时的向日葵的花也有出售。大的茄子,日语说“傻瓜”,形状大是大,不过,超常的程度,颜色也坏,价格是半价。
我喜欢的鱼铺很小,不过,本地的人来买的话,店员在其眼前处理后卖,特别新鲜。上星期有秋刀鱼、刀鱼、幼鱼、鲈、鲍鱼、地科鱼等排列着。
这样新鲜的食材买到手,也是镰仓的魅力之一吧。拿着笔本在青菜水果市场和鲜鱼店,转来转去什么都不买店很害羞。可是,并不因此不能作出好的俳句。
鎌倉の魅力
鎌倉には毎月俳句会で行くほかに年に5,6回は一人で行く。この古都には、旧幕府跡があるほか、大小の寺や神社があり、山があり海がある。観光客には若い人も老人もいる。俳句の材料が多いので句作りに困ったときは鎌倉に行くことが多い。
最近よく行くところは神社仏閣の他に、ここの青果市場と鮮魚屋である。青果市場は、土地の農家が自分のところで作った野菜を売っている。出している店は10軒ぐらいだが、同じ野菜を出していても商売の結果は違う。商品の出来具合の他に、常連がついているかどうか、客の応対が上手いかどうかなどいろいろだ。口下手の店の方が売れることもあるから商売は簡単ではない。
いま(9月中旬)は、ナス、人参、玉葱、ジャガイモ、ニガウリ、サツマイモなどだが、旬を過ぎているものもある。きれいな花ナスと旬を過ぎた向日葵の花が売られていた。惚け茄子は、大きいことは大きいが、程度を越えていて、色も悪い。値段は半額だった。そこで、「同胞というべきものに惚け茄子」という句を作って句会に出したが、点は入らなかった。
魚屋の方は道路のはみ出したところにあるような小さな魚屋に好んで行くが、ここでは地元の人が買いに来ると目の前で鮮やかに捌いて売る。先週は、秋刀魚、太刀魚、ハマチ、鱸、鮑、地鰺などが並んでいた。銀色鮮やかな秋刀魚をみて、「大海を泳ぎ切りしかこの秋刀魚」と詠んだが、これも点が入らなかった。
このような新鮮な食材が手に入ることも鎌倉の魅力になっている。しかし、青物市場でも鮮魚店でも、買わないままに店先を句帳とペンを持ってうろうろしているのはとても恥ずかしい。値段をスパイしに来ていると思われないだろうか。恥ずかしいからと言って、それがいいい句が出来ない理由にはならないが。
三字经
我学习的中文学校从7月中旬到八月中旬放暑假。今年因为没有特别想去的地方,所以打算读汉文书。偶然在附近的一所外语学校的课程表中,我发现有中文的《三字经》的课,就试着参加了。
所说的《三字经》到底是什么东西呢,我完全不知道。查字典的话,才发现《三字经》好象是从中国宋代开始,做为道德教育和修身养性的启蒙书,大家爱读的读物。好象现代的中国,在幼儿园和小学教学中,也常常使用,让孩子们背诵。
从内容来说,除宋代,以后的明代的记述也有。这是后世的人加上去的。
以前,因为出于这样的定型性的启蒙书会阻碍自由的构思这样的考虑,还有陈旧,说教式的教育模式,《三字经》曾一度被人们遗忘,不受欢迎。不过,现在做为中华传统道德和教育的启蒙书,好象再次受到欢迎。
虽说这是面向孩子们的读物,不过,对外国人来说还有些难解释的内容。文字虽简洁,不过,包含着中国传统的思想,内容很深。据说对中国人来说一句话也有几种的解释。
那么我就试着列出对日本人来说比较易懂的内容,见如下。
人之初,性本善。性相近,习相远。
苟不教,性乃迁。教之道,贵以专。
昔孟母,择邻处。子不学,断机杼。
养不教,父之过。教不严,师之惰。
子不学,非所宜。幼不学,老何为。
玉不琢,不成器。人不学,不知义。
首孝悌,次见闻。知某数,识莫文。
三字経
私の通っている中国語学校は7月中旬から八月中旬まで夏休みになる。今年は特に勉強するテーマもないので本でも読もうかと思っていたが、近くのカルチャーセンターで中国語の「三字経」の講義があることを知って、参加してみた。
そのそも「三字経」とは何であるのか、全く知らなかったが、要約すると、中国の宋の時代から、道徳と教養を身につける啓蒙の書として愛読されているものらしい。現代の中国でも、幼稚園や小学校で、折に触れて暗唱させられるものらしい。
内容を見ると明以降に書かれたものもあるそうで、後世の人が書き加えていったものらしい。
一時は、このような定型的な啓蒙書は、自由な発想を阻害する古い教育方法であるという考えから、遠ざけられた時代もあったとのことだが、今はむしろ復活しているようだ。子供向けのものだが、外国人にとっては案外解釈が難しいものもある。
文章は簡潔だが、そのなかに中国の伝統的な考え方が秘められていて、奥が深い。また中国人にとってもいくつかの解釈が出来るものもあるという。
それでは日本人にとって割合分かりやすいものをいくつか下にあげてみよう。
人の初め、性もと善
性相近し、習い相遠し
いやしくも教えずんば、性すなわち遷る
教えの道は、専らを以て貴ぶ
昔孟母、隣を択びて拠り
子学ばざれば、機杼を断つ
養いて教えざるは、父の過ちなり
教えて厳ならざるは、師の惰りなり
子にあって学ばざるは、宜しき所にあらず
幼くして学ばざれば、老いて何をか為さん
玉磨かざれば、器と成らず
人学ばざれば、義を知らず
孝弟をはじめとし、次に見聞
それぞれの数を知り、それぞれの文を識る
《孔乙己》
我读完了鲁迅的中文版小说《孔乙己》。是汉语语言学校的老师作为讲解的材料采用的。我们学生先朗读,然后老师解说中文的含义。日语翻译学生自己做。因为原文很短,而且鲁迅的作品有很多日语翻译,所以没问题。
我以前读过一次日语版的《孔乙己》,这次第一次读了中文版的,还是觉得非常有趣。
孔乙己原来也读书过,但终于没有进学。他喜欢喝酒,而讨厌工作,没有钱。每次别人嘲笑他偷盗,他都辨解道“窃书不算偷”。为了显示他是读书人,他常常使用别人听不懂的“乎也哉者”之类的词语。不过他在酒店里品行却比一般短衣帮都好,一般不托欠酒钱。
结果一次被发现偷书,打了大半夜,最后打折了腿。主人公最后一次看见孔乙己是,他用手走到酒店来,温了一碗酒, 喝完再用手走回去了。
鲁迅写的小说里的人物,比如《阿Q正传》里的阿Q,无论如何也不能引起我们的同情。可是同时,我们也知道,我们每个人都或多或少地有着阿Q丑恶的一面。就是说我们没有勇气到最后把我们的丑恶的想法公开。
这个孔乙己是个自尊心强的人。我们都有自尊心,不过,由于很多事情,比如面子、生活等,不能坚守这份自尊。所以我们不能看不起他,反而把他看做为自己的替身而看得起他。
1950年,二战结束后五年, 桑原武夫发行了《文学入门》,很有畅销。其中有“世界近代小说50选”。 在这里东方的文学中被选中的只有鲁迅的《阿Q正传》。这个选择以后引起了议论,是不是西洋小说至上主义呢,不管怎么说, 反正,无论是从前还是现在鲁迅都是世界上水平最高的文学家之一。
「孔乙己」
魯迅の「「孔乙己」を原文で読んだ。中国語学校の先生が講読の材料として取り上げてくれたもので、声に出す朗読と、先生による中国語での解説が中心だった。日本語訳は、生徒が自分でするのだが、本文は極めて短いものだし、いざとなれば魯迅は沢山の日本語訳が出ているので、さして苦労はしなかった。
以前に日本語訳で読んではいたが、原文で読んでみて面白さを再確認した。
孔乙己は官僚志願だった知識人だが、働くのを嫌うので、金はない。本を盗んで見つかると、本を盗むのは物を盗みとは違うと言い張る。他の人には理解できない「乎、也、哉、者」といった古代の文章用語を話し言葉で使う。酒屋での態度はよく、つけはきちんと払う。
結局本を盗んだところも見つかって一晩中殴られて脚を折られてしまう。主人公が最後に彼をみたのは、彼が手で歩いて酒屋に来て酒を温めさせて飲み干し、手で歩いて帰っていったときだった、という筋書きである。
魯迅は、「阿Q正伝」の阿Qに代表されるように、到底我々が同情できるような人物ではないが、我々が持っている人間の醜い面を強く持っている人物を描く。
孔乙己も、我々誰もが持っている気位を浮き彫りにした人物である。我々は最後まで貫き通す勇気がなく、どこかで妥協して生きているが、孔乙己は最後まで醜い面を隠さない。
1950年に発行され当時ベストセラーになった桑原武夫の[文学入門]には、当時考えられた世界近代小説50選が載っている。ここで東洋の文学で選ばれているのは魯迅の「阿Q正伝」のみである。この選出は後に西洋小説至上主義ではないかとかいろいろ論議を呼んだが、しかし、どう言おうとも、やはり魯迅は昔も今も世界の最高の文学者の一人であることには変わりがない。
海啸痕迹
听说今年3月发生的海啸,是日本千年间没经历过的大的海啸。8月我去现场看了看。靠近到三陆海岸的铁路都坏了,还没修建好。我想当天回来,所以打算坐仙石线,尽量接近三陆海岸石卷市。
早上7点从家出发,乘坐东海道、东北新干线,10点到达了仙台。从那里坐仙石线只能到松岛海岸。以后的铁路都坏了,所以想换乘代理巴士。代理巴士从松岛海岸到石卷附近的矢本之间运行。可是因为发车时间间隔1个小时,所以往返可能要花费很多时间。于是我决定坐出租车去看看受害大的地域。结果我来到了野蒜车站,看了住宅区、学校、临时住宅以及海岸的残痕等。
听JR铁路工作人说,他们也不明白什么时候开始重建铁路,还上面决定城市重建计划之后再决定重建铁路。现在最紧急进行的是道路的重建。过去了5个多月扔有很多坏掉的、无人住居的空宅残留着。以前的村落很靠近海,再重建也很危险。另外,可供建住宅的地域也很小,决定怎么复兴也不是简单的事。我觉得复兴要很长时间。受害的人将来的生活还不清楚。
回来到盐锅市,去了寿司店吃了好吃的寿司。那里也有2米以上被海啸浸水的痕迹。在盐锅神社祈愿三陆地区的复兴,购买“万事顺利的护符”后,返回家了。
津波跡
千年に一度という今回の津波の跡を実際に見て目に焼き付けておこうと震災から5ヶ月経った8月に現地に出かけた。三陸海岸に近づく鉄道は、まだ分断されている。日帰りで行くことを考えて、仙石線でなるべく石巻に近づいてみようと計画を立てた。
朝7時に家を出て新幹線を乗り継いで仙台に10時に着く。そこから仙石線で松島海岸まで行って、代行バスに乗り換えようとしてバスの時間を調べた。代行バスは松島海岸から石巻の手前の矢本まで運行している。しかし1時間間隔なので、折り返しの時間如何では往復大変な時間がかかってしまうことが分かった。そこで奮発をしてタクシーで被害の大きかった地域を見て回ることにした。結局野蒜の駅まで行き、住宅地、学校、海岸、仮設住宅などを見た。
JRの人の話では、鉄道の再建は何時になるか分からない。町が再建されてから鉄道が再建されるということだった。今急ピッチで行われているのは、道路の再建だった。5ヶ月経っているが壊れて人の住めない住宅がまだまだたくさん残っている。今までの集落は、海に近い。かといって住宅を建てることのできる高台の地域はきわめて少ない。どのように復興するのがいいのかを決めるのも簡単ではない。まだまだ復興までには時間がかかると思った。
帰りは塩竃で、2メートル以上浸水したという寿司屋で話を聞き、美味しい寿司を食べた。塩竃神社で「うまくゆくお守り」を求めて帰った。
幼儿的脚趾
8月20日有鹤见川的焰火大会。我的老二住在横滨鹤见区,给我发短信说从她家能很清楚地看见焰火,邀请我们去玩儿。由于我当天正好参加镰仓的俳句会,所以会后买了镰仓炸肉饼和蛋糕去了老二家。
老二有2岁和1岁多的儿子。1岁零3个月的小儿子长得比较大,不过,走路还不太稳。开了门,这小外孙子摇摇晃晃地走过来迎接我们。到焰火开始前,我一直与他玩。
看他走路的样子真是有意思极了。他先是用五个脚趾抓住地面站起来,然后用脚趾抓住地面开始走。支撑整个身体的是五个脚趾。改变方向的时候,有时以一个脚趾支撑着身体转。有时只用一个小指头,那时小指头几乎成弯曲180度。真担心会不会骨折。他的五个脚趾,受到大脑的指令,可以自由转动。
如果打个比喻的话,就象蜗牛用腹脚抓住树叶和树枝一样,他的指尖像有眼睛一样,随意地运动着。
不久就到7点半,焰火开始了。我们坐在离鹤见川200米左右的5层公寓,与两外孙子一起,欣赏着绚丽的焰火。
幼児の足指
8月20日に鶴見川の花火大会があった。私の次女が、家からよく花火が見えるから来ませんか、と言ってきた。私はその日は鎌倉で句会があったので、鎌倉でコロッケと洋菓子を買って、次女の家に出かけた。
次女のところは3歳と1歳の息子が居る。1歳3ヶ月の息子は身体は大きいのだが、なかなか歩かない。どうしているかなと思ってドアを開けたら、その孫がよたよたと歩いて迎えに来た。花火が始まるまで、この下の息子としばらく遊んでみた。
歩くということは、足の指で地面を掴むと言うことである。五本の指で、地面を掴んで立ち上がり、地面を掴んで歩き出す。方向を変えるときには、足の指一本で身体を支えて回転する。時には小指一本だったりするが、その時小指はほとんど180度折れ曲がる。折れはしないかと心配になるほどだ。五本の指は、脳の指令を受けて、自在に動き回る。
たとえてみると蝸牛が腹足で木の葉や枝を掴むような、指先に目があるような動きさえする。
やがて7時半になり、花火が始まった。鶴見川から200メートルぐらいのところにあるマンションの最上階で、二人の男の孫と一緒に、しばらくの間きらびやかで美しい花火を楽しんだ。
横滨湾星队

日本中心职业棒球联盟的横滨湾星队的前身叫大洋鲸鱼队,是1950年创立的。所以,这个职业棒球队有60年的历史。这个60年之间,他们只获得了两次冠军,是1960年和1998年,而排列最低名的是21回。
试着调查最近10年的成绩的话,最高的是第三位,而最后一名的是7次。我助威的球队比较弱的是传统的,不过,最近特别弱。
这个球队原来是由一家渔业公司所有的,不过,由于渔业公司的成绩不佳,转为由一家电视公司所有。然而电视公司的经营也不好,最近又被卖出了,接手谈判的公司没卖不掉了。我们的球队最近成绩不振,这个事可能占大部分的原因。
昨天的比赛,在第一局得了8分,到中场以9比0胜了,可是最后却以10比10打成了平局。
对助威的人来说,这个球队经常令人失望,所以对昨天比赛的结果,我没感到那么吃惊。
ああ橫浜ベイスターズ
私の応援する橫浜ベイスターズの前身ができたのは、1950年であるから、この球団には60年の歴史がある。この60年の間に優勝したのは、1960年と1998年の2回で、最下位になったのは21回である。
最近10年を取ってみると、一番いい成績が第3位、最下位になったのが実に7回もある。伝統的に弱いのだが、特に最近は弱い。
ベイスターズはもともと漁業会社が所有していたが、その後テレビ会社の所有するところとなった。ところがテレビ会社の経営が思わしくないことから、最近売りに出されたが交渉がまとまらなかった。最近の成績不振は、このような経営の不安定さにも原因があるかも知れない。
さて昨日の試合だが、初回に8点を入れて途中までは9対0で勝っていたのが、追いつかれて10対10で引き分けとなった。
このチームにはいつも失望させられているので驚きはしなかった。こういうチームを応援する人は耐える力とあきらめる力(!)が鍛えられているのである。
白雨
我属于的俳句结社7月的俳句会上的即席题目是“白雨”。即席题目就是主持人在当日的俳句会会场上发表,参加者必须在30分以内完成与那个题目有关系的俳句。试着看《岁时记》(在和歌和俳句中被使用的春、夏、秋、冬的季节言词集),那里有关于“白雨”的描写,“整个天空突然阴下来,下起了激烈的雷雨,雷雨过后冷风吹起来,这样的情景。作为同样的词语有,骤雨、急雨、骤雨云、骤雨晴天、阵雨”。
据《岁时记》说,《万叶集》的时代,已经把“暮立的雨”(黄昏的时候下的雨)这样的词语作为季节词使用。俳句会上的朋友说,所谓“白雨”的词语不是来自中国的吗?“白雨”和“骤雨”之间,对我来说有稍微不同的语感。
我返回家之后查看了中几本文词典,不过,哪本词典里都没有“白雨”的词语。词典中只列出,“白”字的复合词,有“白云”表示白的颜色、有“白醋”表示透明无色的,有“白天”表示白天(中午)的,有“白费”表示没有意义的等词语。“白雨”作为语感,是看上去像白天下的白色的雨吗?
于是,我又查阅在汉诗中使用“白雨”的词,找到了下面的诗。
望湖楼醉书 苏轼
黑云翻墨未遮山 ,
白雨跳珠乱入船 。
卷地风来忽吹散,
望湖楼下水如天。
《岁时记》中登载着很多在中国被使用的言词。苏轼(号东坡,北宋的诗人(1036-1101),在中世日本也很有名。如果大胆地推测,当时的日本人就知道这是一首极好的诗,所以《岁时记》中采用“白雨”这一词语。
现代的中国人用不用“白雨”这个词,还有对“白雨”,感觉出什么样的语感,我问我的中国老师,下面是她的回答。
“白雨”是来自中国古代诗词中的词,在现在汉语中,一般已不使用了,但在特殊的场合下,一些文人还是爱用的。
白雨
私の属している俳句結社の7月の鎌倉での句会の席題は、「白雨」だった。席題は、当日その場で出される。参加者は30分以内にその題に関係する俳句を作って提出しなければならない。「白雨」というのは日頃聞き慣れない季語なので、歳時記を見てみると次のように書いてあった。「一天かき曇り、激しい雷雨になり、去ったあと冷風が吹く様。同じ言葉として、夕立、驟雨、夕立雲、夕立晴、村雨がある」。
歳時記に依れば「万葉集」のころに、「暮立の雨」という同じ意味の言葉が、季語として使われていたそうだ。句会の仲間からは、白雨というのは、中国から来た言葉ではないか。夕立という日本語と少し語感が違うのではないかという意見が出た。
家に帰ってから数冊の中国語辞典に当たってみたが、「白雨」という単語はどこの字引にもない。中国語で白の付いた熟語をみると、白雲のように白い色、白酢のように透明を現す単語、白天(昼間)のように昼を現す単語、白費(むだ使い)という無駄という意味の単語などがある。白雨は語感としては、昼間降る白い色に見える雨ということであろうか。
そこで、漢詩の中で「白雨」を使っているものを調べてみると、次のような詩があった。
望湖楼酔書
蘇軾
黒雲墨を翻して未だ山を遮らず、
白雨珠を跳して乱れて船に入る。
地を巻く風来って忽ち吹き散ず、
望湖楼下水天の如し。
(管野道明訳)
歳時記の中には中国で使われた言葉が沢山載っている。大胆に推測すれば、日本でも有名な蘇軾(北宋の詩人、号は東坡(1036~1101))のこの素晴らしい詩から、当時の日本人が「白雨」をにわか雨とみたてて歳時記に入れたのではないか。
現代の中国人が「白雨」という単語を使っているのか、「白雨」にどのような語感を感じるのか、中国語の先生に聞いてみたところ、次のような返事だった。
「白雨という言葉は、今中国では一般的には使われていない。ただ、特殊な場合に、一部の文人によって使われることはある。」
《水浒传》

我读完了中文版的《水浒传》。《水浒传》原来是以从宋代到元代的评书为基础。被文章化是在明代末期的1500年代。原文繁琐冗长,所以,与《三国演义》一样,我读的是少年版(400页,25万字)
《水浒传》是根据实事编篡的故事。时代是北宋(960~1126)末期第八代皇帝徽宗的时代。当时的社会贪官污吏横行霸道,草菅人命,无恶不作。面对乱世百姓群情激奋,起义暴动此起彼伏。
《水浒传》大致分成前后二个部分。前部讲述了108个豪杰如何惩罚恶霸,与官府作战,并逃脱官兵的追捕,最终集中在所谓易守难攻的“梁山泊”的故事。主要人物是宋江、晁盖、卢俊义、吴用、公孙胜、林冲、鲁智深、武松、杨志向、李逵、史进、燕青等,他们当中有官兵、僧侣,也有武林高手、黑道人物等。他们的遭遇经历各有不同,不过,他们共同拥有的是抑强扶弱的侠心义胆。
鲁智深力助被欺父女,砍了臭名昭著的镇关西,躲避官府的捉拿,上山做了和尚(抑强扶弱有时也有过激行为。对一些血腥场面的描述,评书的听众,为了正义而不得不闭上眼?)。这108个豪杰克服重重苦难终于聚集在一堂,自此开始了共同体生活,说是《水浒传》的正史。后半部分写了108人如何为权位开始勾心斗角而变得七零八落,听说这后半部分,是由别的作家后加进来的。我读的是梁山泊的最盛期的前部分。
《水浒传》很早就为日本人所知。据说江户时代的人,用日本式读汉文办法,读了原文。同时,出现了很多翻译本。一般认为泷泽马琴(1767~1848) 精通《水浒传》,他写的《南总里见八犬传》明显地受到了《水浒传》的影响。
水滸伝
水滸伝を中国語で読んだ。水滸伝は、宋代から元代にかけて講釈師が聴衆を前にして語った連続講話を元にしている。文章化されたのは明代末期の1500年代だと言うから、文章も古いし、長い。そこで、三国演義と同じように、少年版(400ページ、250千字)で読んだ。
水滸伝は、もともとは実際にあった事件に基づく物語である。時代は北宋(960~1126)の末期、第八代皇帝徽宗の時代。賄賂や犯罪が横行し、これに憤慨した暴動があちこちで発生した。
水滸伝は大別して前後二つに分かれる。前部は108人の豪傑がいろいろなところで、悪を暴力で懲らしめ、政府と戦い、政府の追っ手を逃れて、梁山泊という難攻不落の砦に集まるまでの話である。108人とは、宋江、晁蓋、盧俊義、呉用、公孫勝、林冲、魯智深、武松、楊志、李逵、史進、燕青などで、軍人、僧侶、武術者、山賊、ヤクザなどさまざまな前歴を持つが、共通しているのは、強きをくじき、弱きを助ける義侠心があることである。
もっとも、魯智深が苦しめられている親子を助けるために、肉屋の鄭屠をなぶり殺してしまうように、強きをくじくためにやり過ぎることが多々ある。しかし、講談の聴衆は、正義のためには多少の行き過ぎは目をつぶるのである。この108人の豪傑が幾たびかの苦楽を乗り越えて一堂に集まり、共同体として生活して行くまでが水滸伝の正史で、このあと108人がちりちりばらばらになって没落していく筋書きはいわば付け足しだという説があるが、私の読んだ本も梁山泊の最盛期で終わっている。
水滸伝は、日本には早くから入ってきた。江戸時代の人は、原文を漢文読みで読み通したという。また、優れた翻訳も現れた。滝沢馬琴(1767~1848)は水滸伝に通暁していて、彼の書いた「南総里見八犬伝」は明らかに水滸伝の影響を受けているといわれている。
中国留学生
今年的同学会和往年一样,6月在东京的小石川後乐园召开了。我提前到那儿想去看看庭园,可是在那儿现在正进行大规模的工程,能看的地方有限制。有名的水菖蒲园现在是最盛时期,不过,我觉得今年没有往年那么漂亮。也许是因为庭园的工程,没能充分的保养吧。
参加同学会的人员约40名,参加者逐年增加了。到现在才想参加的人,是因为他们觉得自己老了,想跟熟悉的同样年龄的人见面。
我为了请教如何保养自己的身体,寻找同学中的内科医生和整形外科医生,可找不到。他们今年也没参加,因为医生没有退休的年龄,所以平日的同学会可能参加不了。
回家路上,在日中友好会馆看了中国画的展览会。客人没有,只有接待员一个人。她是中国留学生,我一边请她讲解画的内容一边和她闲谈。
她是中国南部大城市出身的。在中国的大学学习到硕士课程,2年前到日本留学,现在在日本的大学攻读博士课程,学习金属工学,专业是铸造。在日本的大学,学习铸造的学生很少。她因为是公费留学来的,所以毕业后要回到中国。她闪耀着笑容的脸说,返回以后,想一定活跃努力工作,在这领域有所成就。
她说今晚有日中联欢会, 请您参加。在联欢会上日本人用汉语说话,中国人用日语说话,您肯定觉得有意思。我谢绝了。我觉得比起我8年学的汉语来,她才学了两年日语更流利。在和她约30分种的会话当中,她两次请我用日语说。
我请她看看我的主页上的汉语随笔。参加老同学的会有趣,观看中国画也有趣,不过,与现代的中国年轻人聊天儿也更有趣。
中国人留学生
一年に一度の高校のクラス会が、今年も6月に小石川後楽園で行われた。早めに行って庭園を見たが、今は大規模の工事が行われていて見られるところは限られている。有名な菖蒲園は今が盛りであったが、例年に比べて今年はあまりきれいではないと私には感じられた。工事のため十分な養生が出来なかったのだろうか。
参加人員は約40名で、年々参加者が増えてくる。今まで出なかった人も同僚と会いたくなる年齢になったというわけだ。もうしばらくするとどんどん減ることだろう。相談事があるため私がもっとも当てにしていた内科の医者と整形外科の医者は今年も参加しない。医者には定年がないので平日のクラス会には出席がむづかしいらしい。
帰りに日中友好会館の前を通ったら、中国画の展覧会をやっていたので覗いてみた。受付が一人いるだけで客がいない。彼女は中国人の留学生だったので画を説明してもらいながら雑談をした。彼女は中国の南部の大都市出身。修士課程まで中国の大学で学び、2年前に日本に留学、現在日本の大学の博士課程で金属工学を勉強中、専門は鋳造。日本の大学ではあまり人気がなく、学生が少ない。国費留学できているので卒業後は中国に戻るが、頑張ってこの分野で結果を出したいと顔を輝かせて言っていた。
今宵は日中交歓会があるから出ませんか。日本人は中国語で話をし、中国人は日本語で話をして懇親する会で、面白いですよと誘われたが、体力を考えてお断りした。30分の話の中で、日本語で話して下さいと2度いわれてしまった。会話では私の8年間の勉強よりも、彼女の2年間の方がみのりが大きそうだ。
私は、ホームページに載せている中国語のエッセイを見て下さいと伝えた。老人のクラス会も面白く、中国画も面白かったが、現代の中国の若者と話をするのがとても面白かった。
智能手机
因为想就要时期来了,我的手机换成了智能手机。对智能手机来说,到现在为止,我总觉得,画面的运转不太平稳,需要软件转换的时间等较多问题,一直没能下决心买。可是,平时出门的时候,书包中有电子词典300g、俳句《岁时记》300g、笔记本100g、手机200g,一共有1公斤左右的重量。
我们在智能手机上可以安装词典、岁时记、笔记本的机能。再加上,智能手机本身有收看新闻、导航地图等机能。也就是说,智能手机有电话、电子词典和个人电脑的三种机能。而且、最近的智能手机只有100g左右的重量。
我知道智能手机的缺点,比如智能手机上的辞典比专用电子辞典差一些,还有每月的通讯费较高。可是,优点比缺点多多了。
我是星期日去买的,想买智能手机的客人很多,溢出了店门。现在在综合电器店铺,人最多的地方就是智能手机出售处。
智能手机初始设置,都是我自己做的,没有特别的问题。在新存入的软件中,有中文输入方式“百度输入”,有手写输入法,很方便。
老实说此次的初始设置中最难的不是技术的问题,而是手艺的问题。智能手机,我们靠触摸画面来操纵,所以开始使用之前,需要贴保护膜。要“不能充进空气不能残留垃圾,漂亮地粘贴上”,对手指尖儿粗的老人来说,这是个出乎预料难的工作。我失败了,第二天我只好去docomo店, 拜托请年轻的店员贴上了。
スマートフォン
そろそろ時期が来たと思ったので、携帯電話から、スマートフォンに買い換えた。スマートフォンは、画面の動きが滑らかでないとか、アプリケーションの切り替えに時間がかかるとかの問題があって、踏み切れなかった。しかし、外出の時、カバンの中は、電子辞書300g、歳時記300g、句帳100g、携帯電話200gで1キログラムぐらいの重さになる。これは特に夏は辛い。
スマートフォンは、携帯電話、メモ帳のほかに、アプリケーションをインストールすれば歳時記、辞書にもなる。このほかに、地図の機能とかインターネットに繋げてニュースを知ることも出来るし、分からないことを素早く検索することも出来る。つまり携帯電話、電子辞書とパソコンの機能を持っている。それで重さは100g少しになってきた。
問題もある。辞書機能で言えばやはり専用機の電子辞書に比べて引くのに手間がかかるし、月々の通信料も携帯に比べて高くなる。紛失すると沢山の個人データを他人に見られてしまうリスクがある。しかし、良い点に重きを置いて、持ってみることにした。
買いに行ったのは日曜日だったが、スマートフォンを求める客で、店は溢れていた。今総合電機ショップで一番人の多い部門はスマートフォンの売り場なのだ。
初期の設定には、大きな問題はなかった。新しく入れたソフトの中では、中国語入力の「百度輸入」が、無料ながら手書き入力法が付いていて優れている。このほかにもいろいろなアプリケーションをインストールすることによって、自分に合った情報端末として作りあげていくことが出来る。
正直言って今回初期の設定で一番難しかったのは、技術の問題でなく手先の問題、すなわち保護シートをスマートフォンの画面に張る作業だった。スマートフォンは画面にタッチして操作するから、保護シートが必要なのである。それを「空気を入れずゴミを入れず、綺麗に張ること」は、手先の太くなった老人にとって予想外に難しい作業だった。どうしても上手く行かないので、翌日ドコモの店で若い店員にお願いをして貼ってもらうはめになった。
东京电力公司的股东大会
6月28日我参加了东京电力公司的股东大会。从车站到会场的一路上,挤满了各家媒体和警察,形成了一道很长的墙,通过那道墙才能到会场。我提前一个小时到达了,可容纳约3000人的会场60%左右已经坐满了。据说由于参加大会的人太多,除此处以外还有4个分会场。结束一共约有9000人参加了这次股东大会。
大会一开始,会场内不信任主持人的怒声就飞来飞去。报告者的讲话常常被迫中断。报告事项结束后,主持人开始接大家的提问,想提问的人一齐举起手。听着这些问题,我注意到了大致可分两种意见的小组。一个是对原子能发电绝对反对的小组。这个小组每年都发出同样的主张,不过,因为今年发生了大的事故,发言更激烈了。
再一个就是,追究此次核电站事故责任的小组。他们要求大幅度削减干事的报酬、工作人员的工资、养老金。还要求应该把干事个人的资产出售,转为被害人的补偿。对这个问题,会场掌声最响,如果考虑到因核电站而被迫离开家园的避难者的辛苦和急剧下跌的股票价格,他们的要求就不太过分,可以搏得大众心里的理解。
对于今后东电公司的经营,公司经营者说,首先分析事故的原因,看国家的能源政策方针,再进行经营。当然很多股东也理解公司经营者的说明,希望公司经营业绩早点恢复,但是会场内没有一个人发表这样的意见,也没有一点儿同情的气氛。
402名股东提交撤消核电站事业的议案。但根据东电,股东投票反对票的89%,赞成票只8%。
在股东大会上, 经营者诚心诚意地进行了说明。可是,有时他们说“我们公司建设电站根据国家和学会的基准”。我觉得,即使他们说的话是事实也不能成为推托责任的理由。
大会花费了6个小时才结束。
東電の株主総会
東電の株主総会に出た。会場の最寄りの駅から会場までは、沢山の報道陣や警官で壁が出来ていて、その壁の中を通っていくのだ。一時間前に着いたが約3000名入る会場はもう60%ぐらい埋まっていた。聞くところによると会場に入りきれない人のために、そのほかに4つの会場が用意されているとのことであった。結局9000人が参加したとのことだ。
総会が始まると会場は怒声が飛び交う。初めから議長不信任の動議が出されて、進行がストップする。報告事項が終わって議長が質問を受け付けると、大勢の質問希望者が手を上げる。質問を聞いていると、大体二つのグループがあることに気がついた。一つには原子力発電絶対反対のグループである。このグループは毎年同じ主張をしているが、今年は大きな事故が起こったこともあり、発言は苛烈だった。
もう一つは、今回の原発事故の責任を追及し、役員の報酬、従業員の給与年金を大幅に削減、役員は個人資産を売却して補償に回せと迫るグループである。この質問に一番拍手が大きかったのは、原発避難者の耐え難いご苦労や今の急激な株価の下落を考えれば致し方のないことであろう。
東電の会社側は、今後の会社経営は、事故の原因を分析し、国のエネルギー政策をどうするのかという方針に従って経営を行うという考えで、この考えを理解し、早く立ち直って欲しいと考える株主もいたが、会場にはこのような意見を発言できるような雰囲気はなかった。
402名の株主が原発事業からの撤退を求める議案を提出、東電によると89%の株主が反対票を投じ、賛成票は8%だった。
株主総会で会社側は、誠意をもって説明した。しかし時々、原子力発電所は国や学会のその時の基準に従って作った、というような会社側の説明があったが、事実であったとしても言い逃れにはならないことだ。
総会は6時間かかって終わった。
今日的故乡
震灾后100日过去了的6月19日,我第一次返回了Tsukuba市的我的老家。途中到处可以看到家屋顶上蒙着蓝色防水苫布的房子。由于地震房瓦坏掉了,不过,因为除了瓦不足以外,还有工匠不足,过了100日到现在也不能开始修理。听说自己打算做应急措施到屋顶上,而中暑的人也有。
我家的房子外表上没受到大的损坏,不过,屋里的墙壁崩塌了两处。将坏掉的墙拿到外边很辛苦,可是请不到帮工,所以只好我与弟弟两个人一起干,整理了一天。建筑以后已过了110年的老家,现在到处出现了不同程度的损坏,比如窗户关闭不严。可是对房子来说,经受住了此次100年之间最大冲击的地震,还是了不起的。
另一方面,自然的植物生长好像也不等忙的人。今年老家院子里的竹子、杂草生长得特别茂盛,大的已迫近到房脚。我们平时不大干体力劳动,现在在故乡拼命地切竹、割草,足足干了5个小时,房子和院子变得有些漂亮了,干净了,我们也累坏了。切断的很沉重的竹子落下砸在脚背上,不能避开受伤了。可是,汗流浃背地劳动了一天,精神也爽快多了,很高兴。
田舎の家の今
震災後100日経った6月19日に私はつくば市にある田舎の家に初めて帰った。道中あちこちの家の屋根に,青いシートが被っていた。瓦が壊れたが、瓦が不足していたり職人が不足しているため、100日たった今も修理することが出来ないのだ。自分で応急措置をしようと屋根に上がったが,日射病になってしまったという人もいる。
我が家は外観は大きな損害は受けなかったが、家の中の壁が二カ所崩れていた。壊れた壁を外に出すのは大変なので人に頼もうとしたが人手がない。やむを得ず弟と二人で一日がかりで整理した。築後110年経った家は,あちこちで小さなゆがみが出て、窓がぴったりと閉まらなくなってしまった。やはり家にとっても今回の地震は過去一番衝撃の大きかった地震であることを窺わせた。
一方、自然の植物の生長は忙しい人間を待ってくれない。今年の竹がもうすっかり生長しているし、大きな雑草も家に迫っている。我々老人は、日頃都会の家ではやったことのない肉体労働を、5時間続けて行って、何とか綺麗になったが、疲労困憊した。切断した重い竹が足の甲に落ちてきて、避けることが出来なかったため帰りは足を引きずって帰るはめになった。日頃は腰が痛いとか首が痛いと言っている自分が嘘のように働けることが分かって、嬉しかった。
写乐展

我去东京国立博物馆看了写乐展。写乐画的画儿,除了几张画以外,大都是从全世界各地聚集一起的,非常充实。这儿也有关于写乐画法变迁的说明以及写乐以外的画家描写同样对象的作品等,很易懂且理解写乐。
东州斋写乐,1794年(宽政6年)5月初次亮相,1795年已经不发表作品了,活动仅仅10个月。他到底是什么样的人,谜很深。由于他的作品多为个性丰富,所以全世界各地喜欢他的作品的人也很多。
在此次的写乐展上,出展的180件作品中海外的美术馆保管的画为77件。这次的展览会也展览了写乐以外的浮世绘作家的作品,比如,胜川春章、葛饰北斋、喜多川歌磨、歌川丰国、歌川春英等画的浮世绘作品。根据资料介绍,包括写乐的作品一共有287件作品展出。其中海外的美术馆保管的为123件,海外国家指的是英国、法国、德国、美国、荷兰、比利时等。
听说浮世绘的价值,比起日本来,在这些国家里先高了起来。有价值的浮世绘40%以上流出到海外是不是很遗憾 ? 不过,反过来说,作品分散在海外几个国家,对宣传日本的传统艺术,应该是很好的广告。
写楽展
青葉の中の国立東京博物館で写楽展を見た。世界中の写楽を、数点を除いて一堂に集めた展覧会で、充実していた。写楽の画法の変遷や、写楽以外の画家が描いた同じ役者の作品を写楽と対比するなど、分かりやすい企画もあった。
東洲斎写楽は1794年(寛政6年)5月にデビューして1795年にはもう作品を出さなくなってしまった。活動わずか10ヶ月。そのことから。彼がいったい何者であったか謎が深い。しかし、個性豊かな作品が多いことから世界中で親しまれてきた。
今回の写楽展では、写楽以外の勝川春章、喜多川歌麿、歌川豊国、歌川春英などの描いた浮世絵も出品されている。資料に依って数えてみると出展作品287点のうち、海外の美術館に保管されているのもが123点(43%)、海外の国は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、オランダ、ベルギーなどである。写楽に限って言えば、出展作品180点のうち海外に保管されているものが77点(43%)と奇しくも同じ割合になっている。
聞くところによると、浮世絵は海外の方が日本よりも先に価値を認めたようだ。40%以上が海外に流出しているのを残念と思うかどうかだが、これらは数カ国に分散しているのだし、これらの作品は海外で立派に日本の伝統芸術の良さ知らしめていると思えば、それもいいと思うべきだろう。
在近代中国君临的女人
从5月23日到26日四天晚上我很有兴趣地看了NHK电视台连续播送的纪实片 “在近代中国君临的女人”。介绍的是从辛亥革命到现在的100年间,在战争和内乱纷多的中国活跃的四个女性。登场的是,在清朝末期君临的西太皇后(1835~1908年)、末代皇帝溥仪的妻子婉容(1906~1946年)、革命家孙文的妻子宋庆龄(1893~1981年)和中国共产党的首创者毛泽东的妻子江青(1914~1991年)四个人。
她们之间的相同之处是以妻子的身份活跃在中国的政治舞台。这些人中西太皇后发挥了自己的智慧,帮助了力量弱的丈夫、孩子及甥儿,对这个标题“君临”她是最适合的女性。据说,她的最后的言词是“不应该再让女性统治国家的政治”,她每天一定吃了很多苦吧。
江青还留存在我的记忆中。文化大革命发生的时候,日本的报纸支持这一革命的论调很多。据报道,四人帮江青、张春桥、姚文元和王洪文的行动是为继承毛泽东的思想,与旧的体制不断地争斗。所以当我看到毛泽东死的一个月内他们就被逮捕的新闻,非常吃惊。
这次看江青的片子后,觉得她经常有向上的思考。毅然辞去上海的女演员职业,去投向延安的时候,她好像已经有接近毛泽东的野心。我说不出来是欣赏她还是不欣赏她,她是一个很强的野心家。
现在我觉得,文化大革命是破坏中国的传统的错误行动。可是,如果在毛泽东死后的一个月内,四人帮与华国锋、叶剑英、李先念等人间的势力争夺赢了的话,江青也可能作为女皇帝君临中国。在这次的节目中,关于这一个月没有什么说明,很遗憾。历史经常以现在的视点来叙说,我觉得对人的褒贬也是可变的。
近代中国に君臨した女性たち
5月23日から26日まで四夜連続NHKテレビで放送された「近代中国に君臨した女たち」を興味深く見た。辛亥革命から現在までの100年間の、戦争や内乱の多かった中国で活躍をした四人の女性を取り上げた番組である。登場するのは、清朝末期に君臨した西太后(1835~1908年)、ラストエンペラー溥儀の妻婉容(1906~1946年)、革命家孫文の妻宋慶齢(1893~1981年)、中国共産党の創始者毛沢東の妻江青(1914~1991年)である。
彼女たちに共通しているのは、結婚をして妻という場を得て、その場を利用して活躍したという点である。その中ではやはり西太后が、力の弱い夫、子供、甥を助ける形で自分の力を発揮していったという点で、君臨というタイトルに相応しい女性だった。彼女の最後の言葉が「二度と女性に国の政治を執らせてはならない」だったのは、彼女なりに苦悩の日々を送ったと言うことだろう。
江青はまだ私の記憶に残っている。日本の新聞は文化大革命が発生した時には、それを支持する論調が多かった。四人組といわれていた江青、張春橋、姚文元、王洪文らの行動も、毛沢東の意思を継いで古い体制に立ち向かう若い活動家として紹介されることが多かった。それが毛沢東の死後1ヶ月に逮捕されたのには、非常に驚いた記憶がある。
今回江青の行動を見ると、常に上向き思考で、上海の女優業に見切りを付けて延安に向かった時には、毛沢東に取り入ろうという明らかな野心があったとも思われる。好き嫌いは別にして、なかなかやるなあと思う。
文化大革命は、やはり中国の伝統を破戒した間違った行動だったと思う。しかし、江青たちが毛沢東の死後1ヶ月の、四人組対華国鋒・葉剣英・李先念たちの勢力争いに敗れなければ、江青は女帝として君臨した可能性もないではない。今回の番組では、この1ヶ月の間に何があったかの説明がないのが残念だ。歴史は常に現在が正しいという視点で語られる。人の褒貶ほど怪しいものはないと思った。
国立近代美术馆胶片中心
上个月,我去了位于东京京桥的东京国立近代美术馆胶片中心。据说,这里保存着过去的电影胶片和资料,到今年已创立40年了。在7层的展示室里,现在是“祝胶片中心诞生一百周年特别展”,有用海报登载的日本电影史,有用资料表现的日本电影史,还有无声电影时代后期的苏维埃电影的海报的展品。
我去这里的目的是为了袋一平(人名)的调查。我知道袋一平是因为与他的女孩儿相识。根她说,父亲经常教导她,绝对别仿效别人。为此我对他有兴趣。
袋一平,1897年出生,1971年逝世。他于现在的东京外国语大学俄语系毕业后,做俄罗斯文学的翻译,并向日本介绍俄罗斯的电影。在过去的一个时期,因思想上的种种问题,1937年日本禁止了苏维埃电影的进口。袋一平在联合国占领下的1949年,公开《西伯利亚故事》后, 被警察逮捕了。
以后国家从他那儿购买了大量的资料,海报115张、剧照片2685张、苏维埃电影的梗概39册、图书28册、杂志132册等。现在这些做为很重要的资料都保管在这个胶片中心。
当日的客人只有我一个人。一层接待小姐、七层接待小姐、四层图书室接待小姐、复印担当小姐、讲解员、两个清扫人一共七人接待我一个人。而且为了复印一页资料,先要填写二张文件。我想这个中心必要是必要,可是对于如何运营需要考虑别的办法。
フィルムセンター
東京京橋にある東京国立近代美術館フィルムセンターへ行った。ここは、過去の映画フィルムを保存してある場所で、今年は創立40年になるという。7階にある展示室では、特別企画として「映画生誕百周年記念、ポスターで見る日本映画史、資料で見る日本映画史」「ポスターで見る無声映画時代後期のソビエト映画」をやっていた。
私が訪れた目的は袋一平について調べるためであった。私が袋を知ったのは、彼のお嬢さんと知り合ったからである。お嬢さんによれば、父上の指導は、絶対に人の物まねはしないこと、であったそうで、私は袋について興味を持った。
袋一平、1897年生まれ、1971年逝去。現在の東京外国語大学ロシア語科を卒業後ロシア文学の翻訳、ロシア映画の輸入紹介に当たった。一時期日本ではソビエト映画の輸入は、簡単ではなく、1937年には日本はソビエト映画の輸入を禁止した。袋個人も「シベリア物語」を公開して間もない1949年に占領下の警察によって逮捕されている。
その後国は袋から数多くの資料を購入している。ポスター115枚、スチール写真2685枚、ソビエト映画の梗概39冊、図書28冊、雑誌132冊などである。これらは全てフィルムセンターに保管されている。
当日客は小生一人。一階受付、七階受付、四階図書室受付、コピー担当、学芸部員、清掃人二名合計七名で対応。一枚コピーを取るのに、書類を二枚書かされる。必要な施設とは思うが運営にはもう一工夫が必要なのではないかと思った。
读了《丰乳肥臀》

小说的时代背景是从清朝1900年发生义和团起义,八国联军,占领了天津、北京的时候开始的。此后中国经历了1912年中华民国成立,1937年日中战争开始和结束后内乱发生,1949年中华人民共和国成立,1966年文化大革命发生,1976年毛泽东死去,1977年文皮革结束宣言,1990年代改革开放运动等重大事件。其间国家体制、政策也发生了很严峻的变化。在山东省高密县东北部的大栏市有个上官家,小说围绕上官家这一百年间展开了一部,随着时代变迁政策变化而被玩弄殆尽的家史。
1900年,主人公上官鲁氏刚满6个月。上流阶层出生的她五岁时就被裹脚了。不过,1917年缠足禁止令下来,她家境没落下嫁到铁匠上官家了。她被婆婆逼迫早点生孩子特别男孩,不过,丈夫的上官寿喜是性无能者,她不得不生了父亲不相同的8个女孩子。第9次生产终于生出了个男孩上官金童,他是这本书中的另一个主人公。
作家与时代背景一起描写上官家四辈健壮的女性的生命力。她们有进了妓院的, 当上医生的,当上区长的,成了神偷的,当上银行行长的,当市长的等等。故事的特征是,每个登场人物得到巨大的成功之后必定没落的结局。主人公上官鲁氏寿95而终时,她的女孩子已经都死去了。女性都是苦苦地煎熬,不屈地挣扎,而被妈妈和姐姐期待着的男孩子金童,最后穷困潦倒,一事无成。
作为写的一族的名作,有Martin du Gard(法国)的《蒂波一家》。《丰乳肥臀》,从构成力来看,遥远达不到,不过,描述各个的人的行动,记述各个人的发言, 记叙各个的事件时,莫言具有令人压倒的力量。我同意有人说,莫言的文学是《感觉的文学》。我觉得这种特色来自《史记》和《三国演义》等中国古典传统的写法。
我到现在为止读的小说中,《蒂波一家》是最受到铭感的小说。不过,最近几年读的小说中,《丰乳肥臀》是最有趣的小说。
「豊乳肥臀」
莫言の「豊乳肥臀」を原文で読了した。450ページ、585千字という大作である。2月末から4月初めにかけて、計画停電で電車が動かず、家で本を読むしかなかった日があったので、一心不乱に読んだ。実際、息もつかせないぐらいに面白い本だった。
小説の時代背景は1900年義和団事変が起こり、八カ国連合軍が、天津・北京を占領した頃から始まる。その後中国は、1912年中華民国成立、1937年日中戦争・終結後の内乱、1949年中華人民共和国成立、1966年文化大革命、1976年毛沢東死去、1977年文革終了宣言、1990年代改革開放政策と変化して行く。山東省高密県東北部の町にある上官家はこの百年間、国の変遷に伴う政策変更に翻弄され尽くしてきた。
1900年、主人公の上官魯氏は満6ヶ月になったばかりだった。上流階級に生まれた彼女は纏足させられるが、1917年纏足禁止令が出る。家も没落したため鍛冶屋の上官家に嫁ぐ。姑から早く子供、特に男の子を産むように迫られるが、夫の上官寿喜は性的無能力者であった。魯氏は父親の異なる8人の女の子供を産む。9人目でやっと男の子上官金童が生まれたが、彼がこの本のもう一人の主人公である。
物語は上官家4世代のたくましい女性たちの生命力を、時代背景と共に描いていく。彼女たちは、時に娼婦になり、医者になり、区長になり、泥棒になり、銀行の支店長になり、市長になる。物語の特徴は、登場人物の誰もが大きく成功した後に必ず没落することだ。主人公の上官魯氏が95歳で死んだ時には、女の子供は皆死んでいた。女性たちは皆苦心惨憺しながら頑張るが、母親や姉の期待を集めた金童は何事も成就せず、最後は貧困の中で死ぬ。
一族を描いた名作としては、ロジェ・マルタデュガールの「チボー家の人々」がある。「豊乳肥臀」は、構成力からいって遙かに及ばないが、しかし、個々の人間の行動や発言の描写や、個々の事件の記述では圧倒的な力がある。作者の莫言の文学を、感覚の文学という人がいるのはそういうことを言っているのだろう。これは、史記や三国演義など中国の古典文学の特徴を受け継いでいるのだと思う。
私は今までに読んだ小説の中では「チボー家の人々」が一番感銘を受けた小説であるが、近年読んだ小説の中では「「豊乳肥臀」が最も面白かった小説である。
母亲的味道
今年的黄金周去哪里好呢?。正在做计划时, 4月末妻子突然患感冒了。好象并发气管炎,不但高热,而且咳嗽得厉害。由于连休哪里的医院都休息,妻子除一动不动地睡在床上以外没有其它方法。
我不得不自己做家务。烧饭、去超市买菜,洗衣服、晾晒衣服、收进衣服、还有扔垃圾、准备洗澡水、洗餐具、打扫等。5天每天都做这样的家务。
从早上开始就做家务,一天的时间全部浪费在做家务上了,自己的时间完全没有了。我最讨厌的是买菜时,在收款台前排列付款。我痛感到平时对妻子不表示感谢是不对的。
可是,也有不少做家务才让我明白的事。就是,妻子每天做的菜,不过是按她自己的喜好去买,按她自己想吃的方法去做。我自己试着做的话,除了妻子特别命令以外,我买自己想吃的材料,用自己的方法做菜。比如做酱汤,我喜欢用马铃薯,而妻子喜欢用蘑菇。平时我家的酱汤里蘑菇很多。
可是我喜欢的味是从哪儿来的? 那肯定是母亲的味。我们已经结婚45年以上了,应该对妻子的味也适应了。不过,要是自己做菜的话,就自然地包含了不少母亲的味。选食材时,我的眼晴不由得去寻找孩子的时候常吃的东西,比如豆腐渣那样的东西。
病好了的妻子第一声就是下面的。“明天我必须自己去超市买东西。现在冰箱里什么都没有了,还是非我去不可哟。”
母親の味
今年の5月の連休はどこに行こうか。考えている最中の4月末に妻が風邪を引いてしまった。気管支炎を起こしているらしく高熱が続き、咳もひどかった。病院は連休に入っていたので、ベッドで寝ている以外に仕方がなかった。
私はやむなく家事をすることになった。ご飯を炊き、スーパーに行って食材を買い料理をする、洗濯をし、干して取り込む、ゴミを出す、風呂を沸かす、食器を洗い掃除をする。5日間毎日家事をした。
朝早くから家事をはじめ、一日の家事が終わると自分の時間は全てなくなっていた。家事の中で一番いやなのはスーパーのレジに並ぶことだった。私は改めて日常の妻の仕事にもっと感謝をしなければならないと思った。
しかし家事をやってみて分かったこともある。それは毎日妻は自分が食べたいと思うものを買い、自分が食べたいと思う方法で調理をしているらしいということだ。自分でやってみると、特に妻から注文がない場合は、私も自分が食べたと思うものを買っている。味噌汁を例に取れば私はジャガイモの味噌汁が好きだ。妻は茸の味噌汁が好きなので、普段は茸の味噌汁が多いのだが。
ところで、私の好きな味とはどこから来ているのだろう。結婚して四十年以上になるから当然妻の作る料理、すなわち妻の好きな味になれさせられている。しかし、まだ母親の味が残っているようだ。食材を選ぶ時に、小さい時によく食べた豆腐のおからに目が移るというのはそれだろう。
さて、病気がよくなった時の妻の第一声は、次のようなものだった。明日こそ自分でスーパーに行こう、冷蔵庫の中が空になっている、やっぱり私が行かなければだめだわ。
耐震设计
1995年发生阪神大震灾时,很多旧房子坏掉了,所以创造了新的建筑办法。观察现在的房子构造,建筑业者首先用钢筋强化地面,灌入混凝土,然后用钢筋混凝土做成地基。因此发生地震时,因为房子和钢筋混凝土的地基上形成一体,好像摇晃也不会倒塌。
我在茨城县有在明治30年时祖父建成的一座房子,已经有110年以上的历史。是在自然的石头上装上柱子的很简单的构造。我认为由于此次3月11日的大地震和继续的余震,我老乡家的房子肯定受害, 会倒塌的。不过,幸亏平素没有人住,倒塌了也没有受害的人。
一个月后我弟弟去了那儿观察。路上,他看见很多家屋顶的瓦坏掉了, 地基的混凝土破碎。不过,意外的是我家没有想像的那么严重受损。屋里有个灰浆的墙皮掉下了,赤裸出用竹子组合的底子。还有几张纸拉窗倒下了。
从前的房子,比起现在的房子密封性较差。所以不能说以前的房子比现在的更强。但是,正好在弟弟观察老家房子时,发生了相当强的余震,不过,他说他没感觉到危险。反而比起他最近在东京修建的房子来,感觉老家房子的安全性更大。
耐震設計
1995年の阪神淡路大震災では、古い日本家屋がかなり壊れた。このため設計基準や建築方法が見直された。現在の個人の住居の建て方を見ていると、まず家の地面一面に鉄筋を敷いてコンクリートを流し込み、その上に鉄筋コンクリートで土台を作る。地震があっても、家は鉄筋コンクリートの土台と一体となって揺れるので壊れないという考えらしい。
ところで、私の茨城県にある田舎の家は明治30年頃に祖父が作った家で、110年以上経っている。土台は自然の石でありその上に柱が載っているという簡単な構造である。今回の3月11日の東日本大震災と、それに続く余震では、柱が土台の石からずれるなどによって、家が崩れるなどの大きな被害を受けたに違いないと思っていた。もっとも、普段は人が住んでいないので、人的な被害はない。
一ヶ月ほどして弟が点検に出かけたが、道中屋根瓦が壊れたり、土台にひびが入った家が沢山見かけられた。しかし、我が家は思ったよりも被害は少なかった。家の中の壁が二カ所ほど落ちて、竹で組んだ中の素地がむき出しになっているほかは、障子が何枚か倒れた程度だった。
昔の家は今の家に比べて厳密な気密性などが保たれていないので、どちらが強かったか比較は出来ない。ただ、弟が点検中にかなり強い余震が来たが、古家は軽く受け流している風情すらあって、危ないという感じはしなかった。むしろ彼の最近建てた東京の家よりも、安心して中にいられたそうだ。
《上海宝贝》读后感想
《上海宝贝》是以第一人称写的。情节是上海女作家25岁的CoCo和中国男朋友天天、德国男朋友马克之间的恋情。天天是她的知心人,可却是性无能。马克已经结婚,在上海工作,性欲超强。她和心爱的人天天住在一起。可是,因为天天不但没有性能力,还染上了吸毒的恶习,而马克既有雄姿又对她很体贴,她夹在两个人中间左右为难。最后小说以天天因吸毒死亡、马克返回德国,而结束了。她写这个情节为一本书,写完了。
在后记里作家说,这是一本可以说是半自传体的书。
现在这本书因描写女性手淫、同性恋和吸毒,被裁定为“腐朽堕落和受西方文化毒害”,全国禁售。
我的意见是:
·女性的手淫,这部分作家以细腻的考虑写法,写得很富于幻想,而给人一种漂亮,不卑劣、脏淫的印象。同性恋,没有具体的描写,至于在这儿写的程度,没什么问题。
·吸毒来说, CoCo对天天的态度过于宽容。天天应该停止吸毒。
·作家写的德国人马克有很漂亮的外貌、雄壮的肉体。他很聪明,在公司里有力量。他已经结婚了。CoCo说她不是被强奸,而同意做爱。好像和日本《蝴蝶夫人》一样,东洋女性有些憧憬欧洲男人呢。
·主人公的烦恼是什么? 柔和的天天和马克的雄壮的肉体诱惑之间的烦恼、做为作家,写好作品的烦恼等。最后她想明年去德国。她的烦恼不那么深,却很轻松。
·这本小说不是黄书,也不是色情文学。但是,不能说纯文学,而说是现在的通俗小说。
一位中国老师说,主人公与恋人之间的描写代表了八零后一代人的价值观。由于他们生长在没有社会动荡的八十年代,是在蜜罐里长大的一代,他们从小无忧无虑,无需忍耐,聪明自信敢干是这一代人的特点,易于接受外来文化的影响使他们成为社会骄子。
这本书描述了上海都会的风情,现在的年经人,特别是年经女性的生活和想法(从男人自由,男女同一权利,从旧的想法独立,不躲藏女性情欲而开放等),写得很好。
「上海ガール」
衛慧の「上海宝貝」を中国文で読了した。上海に住む作家である25歳の主人公CoCoと中国人のボーイフレンド天天, 上海に住むドイツ人の男友達マークの間の恋の物語である。同居している天天は、心優しいが性的能力が乏しく、麻薬にはまって抜けられない。一方マークは精力的な実業家であるが妻帯者である。CoCoは二人の間に挟まって苦しむが、やがて天天は薬物中毒で死亡し、マークは妻のいる本国に帰国することで一挙に物語は解決する。そのようないきさつを主人公は本にして書き終える、といった内容である。
後記によれば、これは衛慧の半生記を書いたものだそうだ。
現在この本は、中国で発売禁止になっているので、インターネットからダウンロードして読んでみた。中国で発売禁止になった理由は、女性の自瀆や同性愛を書いていたり、麻薬中毒者を書いていて、いわば「西洋文化に冒されている」からだそうだ。
自瀆や同性愛の記述は、規制があるためか控えめで、むしろ美しく幻想的に書いているとさえ言える。麻薬は主人公の態度が麻薬に対して少し甘いと言われても仕方がない。ドイツ人の男友達への憧れは、オペラの「蝶々夫人」もそうだが、西洋人に対する東洋人の女性の憧れさえ感じさせて、いただけない。もちろんこれは発行禁止とは関係がないようだが。
主人公の抱えている懊悩はなんだろう。男友達に板挟みになっている悩み、いい作品が書けない悩み。来年にはマークのいるドイツに行ってみようと思ったりしていて、悩みはあまり深いとは言えないようだ。
中国語の先生に依れば、主人公は、よい時代に育ったため悩みが少なく、忍耐力がなく、聡明で何でも自信を持ってやろうとする一方、外国文化に染まりやすい80年世代の典型だそうだ。
この本は、純文学なのか、ポルノなのか論争があるらしいが、衛慧はこの本をポルノ作品として書いていないことは明らかだ。セックスシーンの描き方も、ポルノのそれのように汚らしくはない。ならば純文学かと言えば、あまり上等な文学ではないだろう
この本は上海という大都会の風情や、今の中国の若い女性の生活や考え-男性からの自由、男女同権、古い考えからの脱却、女性の性の開放など-を上手く書いていると思う。文章も生き生きとしていて、著者が中国の若者に人気があるのがよく分かった。
我家的2011年3月11日14点46分
东日本大震灾发生的2011年3月11日14点46分,我正在横滨国际竞技场观览席下的健身房做着锻炼。混凝土露出的高高的顶棚不断摇晃,高高的玻璃咕咚咕咚地发出了声音。这是我从前没经验过的摇晃。健身房内没有什么支撑物可以遮挡身体,只能在地板上坐着,以外没有其它方法。我精神有些紧张,万一什么东西掉下来了,我可能一下子就没命了。
马上收到了二女儿的短信,“我家平安,姐姐来我家,不过,因为电车停运她不能返回到崎玉的家了。" 从健身房开车返回家的途中,看见许多家里人到学校去接放学的小学生。返回到家,见家里除书从书架上掉下来以外没有受到大的损害。不久去看母亲的妻子发来短信说,电车不动了,她打算在母亲的养老院住一宿。
在崎玉的孙女,回家后见无人,只好在外等候,恰巧遇到了在家附近小学老师,又返回了小学,老师让在近处住学生家长帮助照料。大女儿接受了学生家长发来的信息,得知女儿一切平安,放心了。女婿步行6个小时才回家了。所有这些联系,需要很长时间。
到那个时候,电视开始报道非常厉害的灾害。我以前有关系的公司的东北工厂平安吗?工作人员平安吗?想给公司打电话,不过,大概是很忙吧。虽说知道也不能帮手什么,也就死心了。另外还担心在受灾地的熟人的平安与否。
此次的大地震和超过估计的大海啸,加上被地震海啸引起了的核电站核泄漏发生在一起。1个月过去了,核电站虽还没恢复到安全的状态,可是在有的地方总算能听见复兴的槌声。现在樱花开放的前线正挨近东北。心不消释,不过,真期盼明亮的日子早些到来。
我が家の2011.3.11午後2時46分
東日本大震災が発生した2011年3月11日14時46分、私は横浜国際競技場のスタンドの下にあるジムでトレーニングをしていた。高い天井が揺れ、高いガラス面が音を立てた。私がかつて経験したことのないような揺れだった。身を隠すものはなにもなかったから、ただ床に座っているしか方法がなかった。もし何かが落ちてきたら、命はないものと覚悟した。
すぐに下の娘から、無事であること、姉が自分の家に来ているが、電車が動かないので埼玉の家に帰れないという携帯メールが入った。ジムから車で家に帰る途中、家の人に連れられて下校する小学生が見えた。小学生の孫娘はどうしているだろう。家に帰っても母親のいない家に入れるのだろうか。我が家に帰ると本棚から本が落ちているぐらいで大きな被害はなかった。やがて介護施設に母親を見舞いに行った妻から、電車が動かないので、施設に泊まるという連絡が入った。
孫娘は、家の近くで見回りに来た学校の先生に会うことが出来て結局小学校に戻り、先生のお世話でご近所のご家庭で面倒を見てもらうことになった。その連絡が、ご近所のお母さんから母親の携帯電話に入った。子供を引き取りために父親が6時間かけて徒歩で帰宅することになった。これらの連絡は、電話が簡単には繫がらなかったので、とても時間がかかった。
その頃になると、生々しい災害の報道がなされはじめた。私が関係していた会社の東北にある工場の従業員は無事だったろうか、工場は無事だったろうか。会社に電話をしたいのだが、多分忙しい最中だろう。知ったからと言って何の手伝いも出来ないのだからと、情報を取るのは諦めた。次いで被災地にいる他の知人の安否が心配になった。
今回の大震災は、大地震と想定を大きく越えた大津波、それに引き起こされた原子力発電の放射能洩が重なっている。あれから1ヶ月以上経って、まだ原子力発電は安全な状態になっていないが、ようやく一部に復興の槌音が聞こえるようになってきた。今桜前線が東北にかかろうとしている。心は晴れないが、明るい日々が一日も早く来ることを望みたいものだ。
桜貝大和島根のある限り 川崎展宏
忙不忙
前几天我去理发店时,理发师问我“您最近忙不忙? ”这个只不过是一种寒暄词。我回答“马马虎虎”后,反问他,“您对客人们问这个问题时,客人们怎样回答?”
他说,客人们的回答各种各样,不过,综合起来可以看出,在职工作的人,说“不忙”的人多。而另一方面,已退休的人,回答大致“很忙”。我理解了理
有个我很熟的老人平时经常说,“忙,忙死了”。他说,今天必须写一封信,很忙。他年轻的时候是个非常能干的人,可以泰然地处理很多的工作。当时的他,说“忙”好像是说没有处理能力一样,是害羞的事。我们越老,处理能力越低,所以感觉忙碌。
除上述的理由以外,一般老人,不是被命令的,而是通过自己的意思决定要做的事。为了尽早达到目标,想完成的事越多,感觉人生越短,着急的心情也越强,这也是老人感觉忙的一个理由吧。
另外,个人的差异,年龄的差异以外,国民性的差异也有。我认识的在职中国人,被问到忙不忙时, 没有例外地都回答“非常忙,忙死了”。询问忙的理由的时候,回答说像普通的日本人忙碌的程度一样忙。要是日本人,他肯定回答“马马虎虎”。这种差异是因为在人口众多的国家竞争激烈,人们不得不情绪高涨地生活呢?还是,我们日本人已过惯了安稳的日子呢?
お忙しいですか
先日床屋に行ったら、忙しいか、と聞かれた。単なる挨拶言葉であるので、まあまあと答えたが、ふと気になって床屋に聞き返してみた。あなたが、忙しいかと聞いた時、お客はどう答える人が多いですかと。
床屋の話ではこういうことだった。人さまざまだが、はっきりしていることがある。それは、まだ現役として働いている人は、忙しくないと答える人が多い。一方、定年退職した人は、大体忙しいと答える。私は床屋の答えが分かるような気がした。
私の知人でいつも忙しい忙しいと言う老人がいる。聞いてみると、今日は手紙を一通書かなくてはならないから忙しいのだという。彼は若い頃は大変有能な人で、沢山な仕事を平然とこなしているような人だった。忙しいと言うのは、処理能力がないと言っているようなもので、恥ずかしいと思うような人だった。つまり彼は老人になって一日あたりの処理能力が衰えたため忙しくなってしまったのである。
それと老人は、命じられたのではなく、自分の意思でやりたいことを決めている。先行きも短いのにやりたことが多いことから、焦る気持ちが強くなるのかも知れない。
個人差、年齢差以外に、国民性というのもあるように思う。私の知っている現役の中国人は、忙しいかと聞くと、例外なしに大変忙しい、死ぬほど忙しい、と答える。どうしてかと聞くと、まあ普通の日本人の忙しさで、日本人なら、まあまあとか、そこそこ、と答えるような忙しさであることもある。人口の多い国で競争に勝って行くためにはテンション高く生きざるを得ないのであろうか。それとも、我々が安穏に生活することを美徳としてしまったのであろうか。
热海市一日游
我熟人借给我她在热海市有的别墅,所以以这里作为据点从早上开始热海一日游。在火车站前乘坐游览巴士,买了上下自由的票。巴士沿着“锦海湾”、“药草·蔷薇花园”、“热海梅园”、“木宫神社”、“MOA美术馆”、“伊豆山神社”等旅游点行走。
“热海梅园”有450棵白梅红梅的梅树,正好极盛时期,人山人海。在来宫神社,看了被认为是树龄2000年的樟木古树。在MOA美术馆,看了只在二、三月展出的尾形光琳画的国宝“红白梅图屏风”。在这里,同时看了纪贯之亲笔写的平假名文字。
据说伊豆山神社创立的历史甚为悠久,具体的年代不太清楚。源赖朝在本神社祈祷了源家的复兴。从这儿到伊豆山海滨有继续837段的石阶。四月的例大祭,可以看见在这个石阶升降的神舆的雄姿。
热海是很古的城市,拥有众多闻名的温泉不说,值得看的地方也很多。同时,还有“药草·蔷薇花园”和“MOA美术馆“等新的旅游设施。
晚饭,去了新开的意大利菜餐馆,不过,人很多马上吃不到。因此就去了从前有名的老餐馆,这里空空荡荡的,菜单也和以前差不多。一边是尊重传统,一边是追逐潮流,看来在各个方面满足人们的要求还是很重要的。
熱海一日散歩
知人から熱海にある温泉つき別荘を借りることができたので、そこを拠点として朝から一日熱海を探索した。駅前から湯游バスに乗ると、乗り降り自由で名所を巡ることができる。錦ヶ浦、ハーブ・ローズガーデン、熱海梅園、来宮神社、MOA美術館、伊豆山神社などである。
熱海梅園はちょうど梅が真っ盛りで、450本あるという白梅紅梅の梅を見に、沢山の人が出ていた。来宮神社では樹齢2000年といわれる楠の大木を見た。MOA美術館では、2、3月だけここに展示されるという尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」を見た。ここではまた、紀貫之の直筆のひらがな文字を見た。
伊豆山神社は創立は悠久の昔となっていて具体的な年代はよく分からないそうだ。源頼朝が源家再興のことを当社に祈願したことで知られている。伊豆山浜まで続く837段の石段。4月の例大祭では、この石段を上り下りする神輿の勇姿が見られるとのこと。
古い町だけになかなかみどころの多い町であった。同時に、ハーブ・ローズガーデンやら、MOA美術館といった新しい観光施設も整えている。
夕食は、新しくできたイタリアンレストランに行ったが、平日だというのに待たないと食べられなかった。それではと、古くからある名の通ったレストランに行ったが、ここががらがらなのである。メニューの内容も、部屋の様子も昔のままであった。伝統を大切にしながら新しい内容を加えていかないと人は集まらないということを実感した一日だった(写真は、熱海梅園の垂れ梅)。
貫之のかな美しや春夕べ
光琳の屏風の梅の散りかかる
《三国演义》

我读完了中文版的《三国演义》。到现在,读过的中文小说有,鲁迅的《阿Q正传》,铁凝的《大浴女人》(27万字),余华的《兄弟》(51万字)等。《三国演义》是明朝时代罗贯中写的,不过,以后有各种各样的编辑本。读哪个好呢? 对外国人的我来说,选择很难。选版本的时候,我问了两个中国人,他们的回答是下面的。
1.原著因为是明朝时用古文写的,现在中国人也难读。我推荐你读用现在文写的版本,譬如少年版最好。
2. 《三国演义》自问世以来,便受到人们的热烈欢迎,多种版本相继涌现。所以在中国选和适的《三国演义》特别难。可是,日本人在日本书店选择《三国演义》应该比较简单,因为书店的人进口时, 想选择适合日本人的种类的。
可是,实际上试着去日本的书店的话,这儿还是有各种各样版本的《三国演义》,有用繁体字写的,用连环画式的,还有带详细的注解的等等。网络上也有很多种类,可是即使适合我,自己印刷就很麻烦。
挑选到最后剩下的是两种,第一种是,一般认为最接近原著版本的人民出版社出版的《三国演义》(全二卷,85万字)。第二种是,新疆青少年出版社出版的《三国演义》(400页,26万字)。我不能控制想早点儿通读的心情,就选了后者。
由于是少年版,较容易读,可还是有100左右个不明白的表现,现在,打算请教中国老师。《三国演义》读得很有趣,并且,我通过解决不明白的地方,还能学习中文,真是享受两个乐趣。
「三国演義」
「三国演義」を中国語で読了した。いままで、魯迅の「阿Q正伝」、鉄凝の「大浴女」(27万字)、余華の「兄弟」(51万字)を読んできた。「三国演義」は明の時代に羅貫中によって書かれたものだが、さまざまな編集本があって、読むのにどれがいいか、僕のようなものには分かりにくい。本を選ぶときに二人の中国人に相談したところ返事は次のようであった。
1.原著は明の時代に書かれた古文なので、今では中国人でも読みにくい。今の言葉で書いたもの、たとえば少年版で読むことを薦める。2.中国で「三国演義」を選ぶのは大変だ。何しろ膨大な編集本があるから。日本に入ってきているのは日本人に読みやすいものを選んで輸入しているから、選ぶのは簡単なはずだ。
しかし、実際に日本の本屋に行ってみると、いいと思うものは、繁体字であったりするので、限られてしまう。いいと思ってもネットに出ているものを印刷するのは大変だ。
最後は比較的原著に忠実だといわれる人民出版社の三国演義(全二巻85万字)にするか、新疆青少年出版社のもの(400ページ、26万字)にするか、どちらかだったが、早く通読したいという気持ちを抑えられず、後者を選んだ。
少年版だということで、読みやすくはあったがそれでも100カ所近く分からない表現があった。いま、日本語のできる中国人の先生に、分からないところを聞いている。三国演義は読んで面白い。さらに、分からない表現の説明を聞いて、中国語を勉強できるという二つの面白さを体験しているところである。
卡特来兰终于开花了
“兰花,每年开不开是最大的问题。我家,妻子很能干、Cymbidium、Dendrobium、蝴蝶兰、Paphiopedirum
等每年都开花 , 不过,卡特来兰, 因为需要比较高的温度,所以在客厅怎么也开不了花。今年我发现了一种不用温室的裁培卡特来兰类就买回来了。附有的花蕾买回来以后十天就开花了。我们期待着明年再开花。”
这是2009年2月写的文章。在那里写的卡特来兰,今年2011年2月终于开花了。到现在为止,我们培育了几株卡特来兰,不过,在客厅的卡特来兰一次花也没开过,这是第一次。
因为已经买了2年了,株也长得较大,所以比起刚买的时候开的花朵儿来,现在开的两个花朵儿大了一点儿,豪华了一点儿。现在我家客厅里开着Cymbidium、圣保罗堇、Kalanchoe、花麒麟等等,不过,还是卡特来兰是栏最美。它拥有兰的女王的美称不说,还有所有花的女王的雅气。
今年卡特来兰为何开放,妻子也完全不明白。对了,听近处的太太说,今年在她家从前也没开过的卡特来兰突然开花了。看来,今年在我家附近肯定漂浮着让卡特来兰开花的空气。
カトレアが咲いた
「蘭の最大の問題は、来年花を着けるかどうかだ。我が家では妻がなかなかの腕前で、居間でシンビジューム、デンドロビウム、胡蝶蘭、パフィオペデラムなどを毎年咲かせる。ただ、高温を好み温室が必要なカトレアだけは咲かない。今年は温室不要というカトレアを見つけたので買ってきたが果たして来年どうなるか。」
これは、2009年2月に書いた文章だが、そこに書いたカトレアが、今年2月遂に咲いた。今まで何株か育てたが、居間でカトレアが咲いたのは、初めてである。
買った時から2年経っているので、株も大きくなっている。買った時に付けていた花よりも一回り大きな花が二つさいた。今居間では、シンビジューム、セントポーリア、カランコエ、花麒麟などが咲いているが、やはりカトレアは、蘭の女王というよりは、花の女王といった雰囲気がある。
なぜ咲いたのだろうか。これは妻にも全く分からない。ところで、ご近所の奥様の話では、そのお宅でも今年今まで咲いたことのないカトレアが咲いたそうだ。そうだとすれば、今年わが家のあたりに、カトレアの花を咲かせる空気が漂ったに違いない。
《夏目漱石全集》

在朋友家的藏书中占居在中心位置的是岩波书店出版的《夏目漱石全集》。这个全集的装帧有特别的特征,从封面到封底全部是漱石自己设计的。据说,橙黄色的地儿上有的像汉字的图样,是在中国砂市居住的桥口贡送给漱石的拓本的文字。
这个封面的文字图样,一般叫“石头鼓文”,是在中国“岐阳”地方的周代的“石头鼓”上拓下来的。这个石头鼓长久埋在地下,唐朝初期被发现了。石头高一尺五寸乃至二尺,周围六七尺的臼型的。一共有十个石头,那些躯干部分刻着文字。(松冈让著《漱石老师》。对于中国文化, 漱石知识渊博,真是令人吃惊。只有他才能创造出这样的新颖立意。
现在的岩波文库,为了年轻的读者容易读,用旧字·旧假名写的作品都已经改写成现代文了。文库版的话,漱石的装帧也很少用。我现在呼己读完了在岩波文库出版的漱石著作,不过,还没感觉到满足大概是这两个缘故吧。
夏目漱石全集
私は小学校の時に父を亡くしたため、中学校、高等学校時代は父方の祖父と一緒に過ごした。祖父は明治生まれで、明治時代に教育を受けた人だったから、家は漢籍で溢れていたが、日本語の読み物は少なかった。私は学校の帰りに寄る友達の家の蔵書を、眩しい思いで見ていた。
友達の家の蔵書のなかで中心に置いてあったのは、岩波版の夏目漱石全集だった。この全集の特徴はその装丁にある。この装丁は表紙から、全て漱石が自分で考案した。オレンジの地に漢字らしき文様は中国の砂市にいた橋口貢氏が漱石に送った拓本の文字を使ったものらしい。
この表紙の文字文様は、通常「石鼓文」と言われている、中国の周の岐陽の石鼓の拓本から取られたものである。この石鼓は永く埋もれていて、唐の初めに世に現われたとある。高さ一尺五寸乃至二尺そこそこ、周り六七尺という臼型の石が都合十あり、文字はその胴に書かれているのである。(松岡譲著「漱石先生」より)。中国文化に驚くべきほど詳しい漱石ならではの着想であろう。
今の岩波文庫は、若い読者にとって読みやすいようにと、旧字・旧仮名で書かれた作品の表記の現代化が計られている。それと文庫版であるから、漱石の装丁が一部しか使われていない。文庫本で長編小説を一通り読み通したが、昔見たあの「全集」を読んだという感じがしないのはそのせいかもしれない。
新建筑规格法产生的矛盾
我住的住宅区中一直空的地方上开始修建新房子了。骨架已经搭建完了,感觉这个新房子比周围的房子大一点儿。我某日去散步的时候,见前面那家房主好像跟新房主争吵起来,双方的主张好像是这样的。
住在前面的人说:我家的每个房间到现在每天阳光都很好。可是因为您的新房子太大,有的屋子变见不到阳光了。我早就请您考虑这个问题,可是您一点儿也没有考虑,开始修建这样大的房子。要是这样,您跟近处的邻居关系就会变得不好。那样行吗?
新建房主说: 我也很想与近邻的关系处得很好。可是我家的房子是遵从法律修建的。利害对立的时候,还是只好遵从法律的规定来判断是否,不是吗?
随着时代变化,建筑规则也改变了,根据新的法律,人家可以修建比以前高度高、容量大的建筑物。这个争吵的缘故是法律的变更。在有很多房子建立的住宅区中,根据新的法律修建房子时跟邻居闹矛盾的问题时有发生。所以争吵的罪人是法律的改变。
第二天我又去散了,木匠们按预定进行着工作。今后近邻的关系会怎样,还不清楚。
建築基準法改訂
私の家のある住宅地で今まで空き地だったところに新しく家が建つことになり、工事が始まった。骨組みが出来ただけだが、周りに建っている住宅に比べて、明らかに一回り大きい。ある日散歩をしているときに、二組で何やら言い合っている場面に出会した。双方の言い分はこういうことだった。
近所の人: 今まで毎日日が当たっていた部屋に日が当たらなくなった。日当たりが悪くならないよう配慮して建てて欲しいと、前からお願いしていたではないか。このままでは近所との関係が悪くなる。お宅はそれでいいのか。
建築主; わが家は法律に従って建てている。利害が対立するときは、やはり法律の定めに従うしかないのではないか。
これは、以前の法律のもとに出来上がった住宅地に、改正された新しい法律で、高さの高い、容積の大きな建物を建てようとするときに起こった問題である。時代が変われば法律も変える必要はあるが、古い法律で安定している社会に、新しい基準を持ち込めば問題が起こる。
翌日また散歩をして見たら、大工が予定通り仕事を進めていた。これから先ご近所の関係がどうなるのか、そこまでは分からないけれども。
新年参拜
新年的首次参拜我们去了江之岛神社。从藤泽车站坐江之电电车到江之岛车站下车。从江之岛站到海岸的小道旁,出售特产的店铺和菜馆很多。有从前的旧菜馆、新兴菜馆,还有各国料理的菜馆。店前揭着的国旗是美国、英国、意大利等种种。
渡过混凝土作的弁天桥,走上参拜道路,再钻过牌楼。因为到神社的楼梯很长且陡,所以避开爬长的楼梯而乘坐自动扶梯,来到江岛神社(边津宫)。从那里再乘坐自动扶梯,参拜了江岛神社(中津宫)。然后乘电梯到江之岛展望台上,可以360度观赏景色。虽由于天空有点儿朦胧,不过,可以看见横滨陆标塔、东京副市中心、富士山的裾野、伊豆半岛、伊岛大岛、三浦半岛等等。
从这里我们又向江之岛神社(奥津宫)出发了。在道的两侧仍旧排列着一些出售特产品的店铺和菜馆,不过,因为交通太方便,住宿的旅客没有了,旅馆好象都关门了。从奥津宫,没有下山的电梯,只好象从前一样靠一步一步的走下山。在那儿建立着芭蕉的俳句碑,不过糟朽厉害,无论如何也不能读。
走下陡台阶来到 “稚儿渊"岩礁,钓鱼的人有很多。海面风平浪静,水平线看起来好象松懈着。在这里江之岛的喧嚣已经变得少了。我们到达乘船场坐船返回到弁天桥。那天我们既享受了新江之岛的气息,又重温了旧江之岛的风情。回来路上,在镰仓,买了镰仓炸肉饼和科鱼寿司回家了。
今年の初詣
今年の初詣は江ノ島神社へ。藤沢から江ノ電で江ノ島駅下車。駅から海岸までの細い道は、お土産屋と食べ物屋が多い。昔ながらの食べ物屋から、今風の食べ物屋まで、いろいろの種類の食べ物屋が出ている。店に掲げてある国旗も、アメリカ、イギリス、イタリアなどいろいろだ。
コンクリートの弁天橋を渡り、参道の鳥居をくぐる。神社までは急な長い階段なので、長い階段を避けてエスカレーターを二基乗り継いで江島神社(辺津宮)に出た。そこからまたエスカレーターに乗って、江島神社(中津宮)に詣でた。更にエレベーターで江ノ島展望台まで上り、開けた360度の景色を見た。霞がかかっていて視界が良くなかったが、橫浜ランドマークタワー、東京副都心、富士の裾野、伊豆半島、大島、三浦半島が見えた。
そこから江ノ島神社(奥津宮)に出た。両側には昔のままのお土産屋や食べ物屋が並んでいるが、旅館は交通が便利になって泊まり客がなくなったため閉鎖されたようだ。ここからは、昔と同じように足に頼っての下山になる。芭蕉の句碑が建っていたが朽ち果てていて到底読めない。
急な階段を稚児ヶ淵岩礁に降りると、釣りをやっている人が沢山いた。海は凪いでいて水平線が緩んでいるように見えた。もうそこは江ノ島の喧騒は少なくなっていた。船着場から船で弁天橋まで戻った。その日、我々は新しい江ノ島の雰囲気と、古い江ノ島の風情とを堪能した。帰りは、鎌倉に出て、鎌倉コロッケと鰺寿司を買って帰った(写真は江ノ島の展望台から橫浜、東京方面を望む)。
鳶になりたしと言ふ妻初弁天